ジョージ・キエロ
朝同じ時間に起きて、コーヒーを飲む。それは何十年何百年と変わらない習慣だった。執事がいつも同じ時間にコーヒーを入れてくれる。今日に限って、定刻を過ぎても執事のノーブルが来ない。それはあり得ないことであった。特にノーブルが執事になってから、この半世紀一度も遅れたことがなかった。苛立ちや怒りがあるわけではない。ただ、少し気になった。心配になった。人を心配するという感情が自分にあるんだなと、ジョージ王は自分でも驚いた。それはやはり、ノーブルだからである。ジョージ王は、ナイフを腰に差し立ち上がった。
何ヶ月ぶりかにパラスへと続く回廊を歩く。ジョージ王の小さな焦燥をよそに、窓から差す春の日差しはキラキラと眩しい。その景色に、美しいなと感じた。なにかを美しいと感じるのは久しぶりのことであった。朝、定刻にノーブルが来ないという変化が、自分に情緒というものを、時間の有限さをもたらしたのかもしれない。どこかで、自分の中で春の日差しを見るのが最期かもしれないという予感があったからかもしれない。どちらにせよ、同じ春の日差しといえど自分が見た過去の「春の日差し」と今見ている春の日差しは全て同じではない。日の角度、気温、湿度、窓の反射、ほこりの量、自分の視力、体調、感情、つまり一期一会なのだ。今見ている景色全てが。そうしてようやく情が生まれる。回廊を歩くその一瞬一瞬に、その景色に。そして過去を歩いた。大広間につながる大扉に到着するまでの、たった1分ほどの散歩だった。およそ800年生きた回想がそこにあった。自分の正確な年齢も覚えていない。800年を経て、生まれて初めて一期一会を感じたこの瞬間に、ようやく思った。俺は悪い人間だな。悪いことばかりしてきた。人を傷つけたことばかりだった。そこまで思考し、ジョージ王の広角が小さく上がった。久しぶりに使われた表情筋は、頬をピクピクと痙攣させた。「ククククク」と声を噛み殺し、腹を抑えた。
一々気にしても仕方がない。もうみんな死んだんだ。時間が過ぎて終わったこと。意味の有無すらすでに無くなっている。800年の時間が過ぎた。もう意味はない。
大広間の扉が目の前にあった。ジョージ王は、ついさっきの、窓から差す春の日の景色を思い出していた。扉を目の前にして、今歩いた道を振り返ろうかと思った。だが、振り返らなかった。例えば今振り返って、そこにある景色に感動したところでーーーー感動したから、それで何が残る。反動の虚しさがあるだけだろう。一期一会を感じることはできても、その一瞬を大切にする意味は、ジョージ王には見出せなかった。
ーーー生きすぎたのだろう
そして大広間の扉を開いた。
終わりへの郷愁はなかった。郷愁は最も意味がないものだった。いや、意味のなさに優劣をつけることすら、意味はなかった。
ノーブルが倒れていた。
その予感はあった。別に理由があったわけではない。ただの虫の知らせのようなもの。倒れているノーブルを見て、心配と、そして安堵があった。安堵の方が大きかったかもしれない。何かがようやく終わるだろう安堵。ただ、ノーブルに対する心配は必ずあった。その心配と安堵の分量の違いは、やはり自身の性であった。どこまで行っても、結局自分本位であった。
ノーブルにはまだ息があった。ジョージ王の気配に、ノーブルの目が微かに開く。
ジョージ王は、黒い石をポケットから取り出した。
「飲むか?」
それがなんなのかは、ノーブルも理解していることは承知である。
ノーブルは、なんとか首を振った。ジョージ王にはそれが、精一杯の抵抗に見えた。
「そうか」とジョージ王は言い、腰に差したナイフを手に取り、ノーブルの胸を一息に刺した。
一瞬の苦悶の表情、そしてゴフッと血を吐き出し、ノーブルは逝った。
その瞬間、ジョージ王の体の中にいた何かが蠢き出す。
コツコツと足音があった。ルイーズが階段を降りてくる。
「飲めばまだ生きながらえたかもしれないのに」
とルイーズは言った。
「人ならずよ。お前にはわかるまい」
とジョージ王は、体内で蠢いている何かに苦しみながら、胸を押さえ言った。
「ジョージ・キエロ。あの戦争を生き延び、一介の商人だったお前が国まで持ったんだ。そんな奴が普通のやつなわけがない。なかったんだがな」
とルイーズは、死んだノーブルを見ながらさらに言葉を紡ぐ。
「ノーブルはお前の子だったか」
と冷たく言い放った。
半世紀ほど前のことだった。珍しく女商人が城内にものを売りに来た。ジョージ王は、何百年も昔の子供の頃を思い出した。商人だった母親や、周りの快活な女たちを。そして、女商人と何度かの情夜を持った。その後女商人がどうなったかは知らなかった。それで終わるはずだった。ノーブルが成人し、城内で働き始めたのは全くの偶然であった。ノーブルが城内で働き始めて数年後、なんとなくあの時できた子供だと感じ取った。自分を愛せず、他人とも生きられず、何かを諦めたように生きるノーブルを。
そして今ノーブルが死んだ。ジョージ王にとっての、最期の生きる意味は無くなった。愛ではなく罪であった、とジョージ王は思っている。『「罪」だったと感じている自分』、こそがジョージ王が持っていたノーブルへの『罪』だった。自分という人間の本質と性であった。ノーブルの胸をナイフで突き刺し、そう気づいたとき、そしてその『罪』に対して自らに悲しみを覚えたとき、ジョージ王の身体の中にいた黒い虫が蠢き始めた。ある魔法により大きく肥大した黒い虫。黒い虫は、ジョージ王の体内に居場所を無くしたように居心地が悪くなったように走り出し、とうとう内臓を突き破り、腹を突き破り外へと出た。ジョージ王はうめき声と共にその場に倒れた。ジョーシ・キエロ。800年と幾らかの長い命だった。




