シュウ・オーツ 王との契約書
色のない、薄暗い部屋だった。レースのカーテンから微塵の光が部屋に差している。それは控え目な、視界のために仕方なく入れている光に見えた。窓の近くに一人掛けのソファーがあり、女が座っている。シュウの視界から、女の横顔があった。横顔の半分が長く垂れる髪の毛に隠れている。グレーのゆったりしたワンピースに、首にはラベンダー色のストールを巻いている。女の印象は部屋と同じで、何か水で薄めたように色の薄い、特徴のないものであった。シュウが入ったことで幾らかの緊張があったのか、女は強ばったように背筋を伸ばしている。視線に困ったように顔の角度をあげ、窓の方を見ている。膝の上に本があり、ページが閉じないよう右手の親指を挟んでいる。丸テーブルに水の入ったグラスと丸眼鏡が置いてある。部屋の角に大きな本棚が一つあり、やはり色の落ちた本がびっしりと並んでいる。テーブルを挟んで女の対面に、部屋の中の調度品の中ではまだ新しく見える長椅子があった。長椅子には部屋の雰囲気にそぐわない、ピンクの座布団が置いてある。
「イザベル様、シュウ様をお連れしました!」
マリーが朗らかに言った。部屋に色が灯ったように明るい空気が流れる。
イザベルが首をゆっくりと回し、小さく頭を下げた。首にかけたロケットペンダントも小さく揺れる。窓辺に親指大の黒い石が無造作に置いてあるのが見えた。光に当てられても何も反射することなく、不気味にそこにあった。
「シュウ・オーツと申します」
「よろしく」
イザベルが、今にも消え入りそうなか細い声で言い、また視界を固定するように窓の方を見た。
それで初めての挨拶は終わりだった。イザベルがシュウの顔を見ることはなく、マリーとともにシュウは部屋を後にした。イザベルから手放しに歓迎されていないことはシュウにも理解できた。自分をイザベルの護衛兵に任命したのは、イザベルからの提案ではなくルイーズの画策なのだろうと見当をつけた。マリーは特にイザベルの様子について気にすることはなかったらしく、部屋に置いてあった長椅子について話している。
「マリーのために買ってくれたの。もっと古い椅子しかなかったんだけど、それじゃ座り心地がよくないでしょうって」
「イザベル様とマリーさんはよくお話を?」
「ええ。3時のティータイムの時とか、ディナーの後だったり。一緒にお食事することもあるわ。あの椅子は、イザベル様がわざわざ外にルイーズ様に頼んで買ってきてもらったの」
「イザベル様が買いにいくことはないのですか?」
「王族の方は大っぴらに城外に出られないの。マリーがきてからはイザベル様が城内から出たことはないわ。ルイーズ様は変装したりして出てるらしいけど。ルイーズ様は東塔の地下で変な研究してるって聞いたことある」
「変な研究?」
「マリーもよくわからないんだ。ピーターも、絶対東塔には近づいちゃだめだよって言ってた。シュウも行かないようにしてね」
「わかりました」
「これからパラスで任命式があるわ。式って言っても簡単なものだから安心してね。ジョージ様と会って、紙に名前を書くだけよ。あ、あと、万が一ジョージ様の名前を呼ぶことがあれば、ジョージ王と呼んでね」
「承知しました。ジョージ王、ですね」
マリーに連れられ、真ん中のパラスへと戻る。大広間の奥にある階段を上り、通路を真っ直ぐに抜けると、いかにもお金がかかっていますという立派な材質の、複雑な装飾の施された扉があった。
「緊張するわ。マリーはジョージ様も苦手なの」
とマリーは扉を前にして、胸に手を当てて言った。
マリーが意を決してその扉を開けると、やはり年数が経っているのか、ぎいっと軋んだ音がした。
「イザベル様の新たな護衛兵になるシュウをお連れしました」
マリーが緊張気味に、慇懃に言った。
「面を上げい」
ジョージ王の、低く威圧的な声だった。
シュウは面をあげる。広い部屋だった。右側の壁には大きな壁画があった。二段上がったところにジョージ王はいた。白髪をオールバックにした側近の男が二段下がったところにいる。左右に二人づつ、甲冑をした護衛兵が並んでいる。
ジョージ王は、煌びやかな玉座に座り、口髭を蓄え、いかにも王様であると証明するように頭には金の王冠をつけている。その煌びやかさに反して、中指にしてあるリングがシュウの目についた。そのリングについた黒い石だけが、光を受け付けていない。イザベルの部屋で見た黒い石と同じに見えた。
ジョージ王は言う。
「シュウ・オーツ。お前を我が城の護衛兵に任命する」
シュウは、頭を下げて言葉を承った。
小さな台に紙があった。ナイフが隣に置いてある。
契約書だった。親指の血判が求められていた。
シュウは冷静を装った。この契約書の文言は至って普通であった。だが、シュウは一目でその契約書に魔法が施されていることに気づいた。
ーーー血判を押せば、なんらかの魔法にかけられる
ナイフを左手に持ち、右手の親指に近づける。誰にも怪しまれないよう所作を進めながら、さらに心を静め、最小単位の魔力を親指に込める。その魔力の調整は、尋常ではないほどの繊細さであった。シュウの類稀なる魔力コントロールの才能と絶え間ぬ努力、そしてこの場にあっても揺らがない精神力がそれを可能にさせた。右手の親指をナイフで切る。血が滲む。その血液に、自身の魔力を纏わせた。この場の誰にもバレないよう微かに繊細に。そして血判を押した。
魔法の施された用紙に魔法のシールドをかけた血判を押した。これがどういう結果を生むのか、シュウには未知であった。もしかしたらその場で契約書が爆発するかもしれない。もしかしたらその場で何らかの異変が起き、シュウがかけた血液への魔法がバレるかもしれない。だが、幸いにも何も起きることがなかった。シュウはその安堵をおくびも見せず、マリーとともに儀式の礼を終え玉座をあとにした。
パラスの大広間へ歩いてくると、マリーは驚いたように言う。
「すごい汗よ、シュウ!」
マリーは咄嗟にハンカチを出した。
「え、ああ、流石に緊張しましたね」
シュウはにこりと笑った。ここにきて、シュウの安堵は汗として一気に吹き出していた。命のやり取りがそこにあった。
「ジョージ王と対面だものね。みんな緊張するわ。もちろんマリーもよ」
とマリーは心配の表情をシュウに向けた。
もちろんシュウの安堵の汗は、ジョージ王との対面が原因ではなく契約書の魔法が原因であったが、流石にマリーの勘違いを否定することはなく
「ありがとうございます」
とマリーの優しさのままにハンカチを受け取った。
汗を拭きながら、西塔へと戻りながら、シュウにいくつかの疑問があった。その疑問は城の警備を任された数年前からあるものであった。城の兵が少なすぎる。門兵もいるが、せいぜい10数人が持ち回りである。城の中には護衛兵がいるのみ。反乱を起こされたらひとたまりもないように見える。護衛兵たちは契約書によって縛られているのか、それに王族の三人に凄まじい魔法があるのか。あの三人の王族の権力の背景が、力の背景が見つからない。歴史も曖昧で、血統も曖昧で、力も曖昧で。
ーーーあの黒い石
ジョージ王とイザベルはあの異様な石を持っていた。
そこで、シュウの推測は終わった。塔の窓から夕日が差している。窓の外には、雪がちらついていた。




