シュウ・オーツ 別れ
最後の休みの日だった。シュウはトワイトから内地へと戻っていた。キャトルの裏路地にある古びた建物の一室へと入っていく。
シュウが来ることを予期していたように、ノエルは扉のそばで待っていた。シュウよりは低いが、ノエルは男の平均身長よりも高い。そして体つきも軍で鍛えている男たちに負けず劣らずのものがあった。ノエルの変わらぬ無事な姿に、シュウは心の中で安堵した。
型式ばったあいさつもなく、ノエルがシュウの問いを予想していたように言う。
「シュウさま、幾らか集まっております」
「そうか」
とシュウは部屋に入っていく。埃っぽく、日当たりの悪い部屋だった。その隅に、テーブルが一つあった。テーブルの上に古びた本や冊子が山積みになっている。ノエルが各地から集めた、キエロ連邦の歴史が書かれた書物である。
「大変だっただろう。よく集めたな」
シュウのねぎらいの言葉に、ノエルは反応しない。無言のままに、無表情ではあるが眉がピクリと動いた。これは戸惑っている時のノエルだった。シュウは、言葉を発した後で、それは普通の労いの言葉に聞こえるかもしれないが、なんとなくいつもより他人行儀なことを言ってしまったなと思った。久しぶりに会ったからか、ノエルの前で緊張している自分がいた。それは自分にとってもノエルにとっても良くない気がした。気を取り直し、いつものようを勤めて言う。
「この本を『魔の森』の奥にある洞窟に運んでくれ」
ノエルは口を閉じたまま、右に目線をやった。長い付き合いのシュウにはわかる。この仕草は、何かを思い出すために記憶を辿っている時のノエルである。答えに行き着いたのか、目線を戻しノエルは言う。
「あの洞窟ですね」
「そうだ。昔俺とルイが秘密基地を作っていたあれだ」
「承知いたしました」
ノエルが小さく頭を下げて言った。
「本を運び終えたらそのままトワイトの兄のところに戻れ。兄には伝えてある」
シュウはいつものように、淡々と言った。
ノエルの動きが止まる。
シュウが12歳ぐらいの時から、初等学校を卒業したぐらいの時から、ノエルがシュウに疑問を呈する、質問するということは無くなっていた。そのノエルが、何かを問いただしたい気持ちが溢れてしまい、シュウを見た。しかしそれも一瞬のことで、すぐにノエルはただただ「わかりました」と答え視線を下げた。シュウはノエルの質問を察知し、答えた。
「俺は城内に住む。王族の護衛兵として任命された。戻れるのはいつかわからない」
ーーーいつかわからない
それは永遠の可能性があることを含めて、シュウは言った。
ノエルは視線をあげ、上目遣いで、恭しくもシュウの目を見た。
(「大丈夫ですか?」「城内に危険はないのですか?」「国の秘密を暴いて、命は狙われないのですか?」「私ができることは、何かないのですか?」)ノエルの泳ぐ目は、いくつも語っていた。言わずとも、言えずとも、長い付き合いだからシュウにはわかる。ノエルがシュウに対して心配の言葉をかけることも、初等学校を卒業した時あたりから無くなった。ノエルとシュウは、ノエルが一つ年上である。小さい頃は一緒に遊ぶこともあったし、時にノエルがシュウを叱ることもあった。笑いあうこともあった。シュウが初等学校を卒業したあたりから、それはシュウの両親の方針かもしれないし、ノエル自身が決めたことかもしれないが、ノエルのシュウに対する態度は徐々に変化していった。シュウに質問することも、心配の言葉をかけることも無くなった。それらはノエルにとって烏滸がましい言動であった。ノエルが大きな感情を見せることもなくなり、シュウには全てに置いて従順するのみであった。だが、やはり長い付き合いのシュウにはわかる。ノエルはその役割に真剣なために、周りからは冷たさも感じられるマシーンのように思われがちだが、本当は感情豊かな女であった。目がよく泳ぐし、視線も移ろいやすい。本人は気づいていないかもしれないが、喜んでいる時は口元がニヤニヤしているし、怒っている時は目が釣り上がって眉間に皺が寄っている。軍の寮に入るまでは、ノエルがシュウの炊事をすることが常であったが、特に初めてのメニューを出すときのノエルは、無言でシュウの食べる様子を見ていた。シュウはいつも決まって「美味しいな、これは」と答えた。ノエルは何も言わず、ただ口元だけはニヤつくのだった。シュウはいつも、そんなノエルに可憐さを感じていたが、あえてノエルの表情に漏れ出す感情について言及することはなかった。それは自分だけのノエルでもあったし、言及しないことがノエルと自分との関係性における線引きでもあった。
今、目が泳いでいるノエルはやはり愛らしく、抱きしめたくなる衝動に駆られた。それを抑え、ノエルに言う。
「心配するな。危険のない任務だ」
シュウの言葉に、ノエルは小さく息を吐いた。その小さく吐かれた息は、安堵の息にも聞こえなくもなかった。
ーーー「心配するな。危険のない任務だ」
ノエルがシュウのこの言葉に本当に安堵したのかどうか、本当のところをシュウは知るよしもなかった。ノエルの小さく吐いた息は、もしかしたら安堵した様子をシュウに見せたかっただけかもしれない。ノエルという人間は、表に感情が漏れ出るところもあるが、『シュウの従者』という自身の役割に忠実なところもある。シュウの従者として、主人であるシュウが満足するよう安堵のサインをその小さな息に込めたのかもしれなかった。はっきりとしない、ともすれば欺瞞めいたものとも取られかねないこのやりとりは、二人の関係性を象徴していた。それは、互いが互いを思いやる故の二人の線引きであった。
シュウとノエルはいつものように淡々と別れた。
シュウは独り賑やかなキャトルの街を歩いた。ノエルに伝えていないことが一つあった。兄ダレン・オーツに頼んでいることがそれであった。トワイトに戻ったノエルを兄の養子にして、どこぞの良い男を見繕って縁組させてくれないかと頼んだのである。シュウには、今までノエルを縛り付けてしまっていた自覚があった。自らの野望のためにも、自分が結婚をすることは考えられなかった。
ーーー王族の護衛兵となる
シュウは、普通の幸せを、ノエルとの未練を断ち切らなくてはならなかった。これでノエルと会うのは最後かもしれなかった。もし生きて戻れたとしても、またノエルと会えたとしても、そこに今までの関係性は無くなっているだろう。
キャトルの空は高く、晴れ晴れと。冷たい風は止まることなく突き抜けていく。向こうには灰色の城があり、さらに向こうにはどうにもできないほど大きな独立峰『マザー』が白白とあった。
シュウは空を見ながら歩いた。
生来からさっぱりとした、気っ風の良い性格のシュウであるが、唯一の執着の対象が小さい時からもっとも身近にあり、それはしかし手中にあるようで、手中に収めてはいけない人であった。それは自分が自分たるために、手中に収めてはいけなかった。強く理性を働かせる必要があった。あえての感情の表出があるとすれば、最後まで誇り高き自らでいることで、ノエルにカッコつけたかった。それが、ノエルとの別れという選択肢であった。




