シュウ・オーツ 実家にて
『魔の森』それは樹海の途中にある沼地の奥のことを言う。ルイとの散歩の翌日、シュウは再び一人で『魔の森』の入口とも言える沼地へ来ていた。分厚いグレーの雲が上空に鎮座している。薄簿の光が裸木の影を濁った沼の水面に写している。シュウが歩を進めるたびに、色のない落ち葉が乾いた音を立てた。足を止めると、音がなくなった。ここにくるのは、ルイと子供の頃に来て以来だった。昔、この沼の奥にある洞窟のようなところに二人で秘密基地を作ったことがあった。ノエルにバレて二人してこっぴどく怒られたことを思い出す。沼の沿いを歩いていく。水は茶色く黒く濁り、水面には枯葉や枝が固って浮いている。道のようなものはなく、下草が鬱蒼と広がっている。踏み分けながら進んでいくと、沼地を少し超えたところに、岩の剥き出しになった洞窟の入り口があった。カエルの口のように穴が空いている。シュウはやや屈みながら入っていく。洞窟内はやや湿気ている。なだらかな傾斜になっている。足元に気をつけながら、進んでいく。地上から入る光が薄くなる。シュウはランタンに火を付け、所々に突起した岩を避けながら下へと進んでいく。幾らか平坦になり、ぽっかりとおよそ一部屋分ほどの空間が現れた。まるで誰かの部屋のように修正が施されたような、人工的な空間にも見えた。実際に、その空間の隅には机のような板と古びた椅子があった。シュウの中に懐かしい記憶が蘇る。15年以上前に、ルイとここを秘密基地にして遊んでいたのだった。だが、シュウとルイが初めてこの空間を見つけた時から、机のような板とボロボロの椅子はすでに存在していた。つまり彼らより先にここを秘密基地にしていたものがいたと二人は結論づけた。その子供の頃の胸の高揚は、シュウの中にいまだに新鮮に残っている。30も近い歳になり、改めてこの空間の岩肌や地面を見ると、明らかに魔法が使われている。滑らかに削り取られた岩、地面は平になっており、布の切れ端が幾らか落ちている。ただの子供の秘密基地としてでなく、隠れ家のようにこの空間に一定期間滞在していたものがいたのだと思わせる。シュウは子供の頃に戻ったように、はるか昔にこの場所で誰が何をしていたのかを想像するが、そんなことをしている時ではなかった。
ーーーここは使える
そう結論づけると、郷愁を振り払うようにさっと洞窟を後にした。
その日の午後、シュウは兄ダレン・オーツとその家族とともに教会へと訪れていた。
ダレンはすでにオーツ家を継いでおり、今年で40歳になる。シュウとは12も歳が離れていた。子供が二人おり、妻は慎みやかで控えめな上品な人だった。
聖女ミルニアの像が教会の中央にあった。粛々と、ミルニア像の前で一族は祈りを捧げる。聖女ミルニア、豊穣の神であり、山の神であり、川の神であり、あらゆる神の側面を持つ。大人たちが熱心に祈りを捧げる中、幼い頃シュウは、そんな聖女ミルニアに対してなんでも屋だな、と斜めに思っていた。今もその当時の気持ちが残っているのか、特に敬虔な気持ちがあるわけではない。ファミリー・ツリー的にミルニア教会に入っており、儀式的に教会へ通うことがあるというだけであった。それは兄ダレン・オーツも同じに見えた。淡々と義務的に、月に一度のペースで家族を連れて教会へ行く。普段祈りを捧げるわけでもなく、子供たちに何かを説くこともなく、継ぎ接ぎだらけのでっち上げたような聖書を持っているわけでもない。
歳が離れているせいもあってか、いや、ダレンの物静かな性格がその大きな原因だろうが、兄弟間の会話はほとんどなかった。ダレンは、小さい頃から知っている良家の女と結婚し、父の死と共にトワイトの名家オーツ家の後を継いだ。すでに兄弟の両親は亡くなっているが、ダレンが粛々と喪主を勤めあげた。
ーーー兄は与えられた責務を淡々とこなす
だから兄が嫌いということはない。自分とは似ていないなと思っていただけだった。自分が軍へ行くと行った時も、反対する家族もいたが、兄はなんの意見も言わなかった。そもそも興味が薄いのか、というより、流れるままに自分のすべきことをしている、そんな兄に見えた。今回、シュウが王族の護衛兵になったことを告げた時も「そうか」と一言言ったのみであった。
シュウのトワイトでの最後の夜だった。現在は兄が継いでいる実家で、兄家族とともにディナーを食べた。大きな会話はない。子供たち(シュウにとっての甥と姪)も静かに行儀良くご飯を食べている。甥と姪は、シュウにとってもかわいい存在だった。内地でのお土産はついつい二人のために出費してしまう。両親に似て大人しくて行儀の良い子供達で、シュウにとって特別な存在だった。
静かにディナーが終わると、子供たちと奥さんが食器を片付け始める。シュウとダレンの両親は召使いを雇っていたが、今はもう雇っていない。家計が厳しいというわけでもないが、シュウやダレンの子供時代と違い、子供たちにはできるだけ自分のことをさせているように見えた。その教育方針には、あまり本音や本心のようなものを見せない兄ダレンの、教育哲学めいたものが感じられてシュウは当初小さな驚きを感じた。
静かに終わったディナーだったが、シュウには心地の良いものであった。甥っ子と姪っ子は成長しており、兄一家は変わらず、穏やかな幸せな家庭に見えた。
翌日は早い時間にトワイトを出なければいけなかった。日が上り始める前に、シュウは起床し支度をし始めた。キッチンに灯りがついているのに気がついた。
ーーーお義姉さんが何か用意してくれているのかもしれない
とシュウは察した。
支度を終え、だだっ広い玄関へと向かった。
手提げ袋を持った義姉と、ダレン・オーツが立っていた。
「兄さん」
シュウは驚いて少し立ち止まった。
「シュウさん、道中にどうぞ」
とやはり慎みやかに、義姉は手提げ袋をシュウに渡した。まだ温かみのあるサンドウィッチだった。シュウの心に温かいものが流れてくる。
「ありがとう、お義姉さん」
とシュウは礼を言った。
ダレン・オーツは、やはり粛々と立っていた。
「行ってくるよ」
シュウが言うと、兄ダレンは小さく頷いた。ダレンは、やはり寝起きでもあったのか、目元がまだしばしばしている。シュウはダレンを見て、自然と表情がほころんだ。
ーーー兄は、やはり責任のままに、久しぶりに顔を見せた弟の見送りをしたのかもしれない
だけど、その見送りに、シュウは嬉しくなってしまったものは仕方がなかった。30年近く兄弟をしているが、いまだに兄という人がわかったりわからなかったりする。それが面白いなとも思うし、人間の、兄の魅力だなとも思った。
シュウは実家を出た。冷たい風が吹いていた。トワイトに冬が近づいていた。




