シュウ・オーツ ーールイ、大いに語り気持ち良くなる
シュウはトワイトの外れにある小高い丘を登っていく。赤煉瓦調の古い屋敷がポツンと見えてくる。上空には澄み切った秋の空が高くある。いくらか冷たくなった空気を鼻から吸った。少しの肌寒さが心地よかった。
いつものように、シュウは勝手に屋敷の敷地内に入っていく。
「おいルイ、いるか」
シュウの声があたりに響いた。
30秒もせずに、寝ぼけた様子のルイが窓から顔を出した。ルナのお葬式で少し話すことはあったが、双方忙しくじっくりと話すのは約一年ぶりであった。久しぶりのルイの間抜けづらに、シュウは自然と腹の底から笑いが溢れた。
「なにを笑ってんだ、シュウ」
「散歩に行くぞ。早く出てこい」
シュウの言葉に、ルイはやれやれと頭を掻きながら窓を閉めた。
オルソン家の屋敷から、トワイトの市内へと戻っていく。途中で右に折れるとポトイ川が見えてくる。ビルシュヘつながるポトイ大橋を横目に、手前で左に曲がる。樹海と呼ばれる森の端を歩く。木々になる葉々は赤や黄色に、頑固にも緑のままのものもあり、しかし渾然一体と景色をなしている。シュウとルイ、互いに確認しあわずとも、自然とそのルートを行った。二人のいつもの散歩道であった。
「家庭教師の方はどうだった?」
シュウは、あっけらかんと訊ねた。昨年の夏、お世話になった上官ファロンの娘の家庭教師をルイに頼んだのであった。ファロンは3年前に亡くなっており、未亡人であるファロン夫人が誰か良い家庭教師はいないかとシュウに尋ねたことがきっかけであった。もちろん都合よく暇なのがルイだけだったのもあるが、ルイがものを教えるのが上手なのを知っていたし、何よりも家に引きこもっていたルイにとって外にでるきっかけになるとも思った。
ルイに頼んだはいいが、その後すぐシュウは軍の仕事が忙しくなり、詳しいことは聞けていなかった。
「まあ、とりあえず俺の役目は終わったよ」
とルイはどこか遠い目をして言った。シュウは、ルイの様子から何か達観したような、以前には見られなかったような変化を感じた。
「ほう」
とシュウは改めてルイを見て「何か変化があったか、ルイ」と訊ねた。
「変化、なあ」とルイは堰き止めていたものを吐き出すように、ファロン夫人との一連の出来事を語った。
シュウは、すべてを聞き、そして笑った。
「笑うなシュウ!」
「いやあ、すまんすまん、そんなことになっていたとは」
つまり、ルイはファロン夫人と情事に至り、その魅力に魅せられ恋に落ちたが、夫人の勤め先の上司ーーーしかもその上司には子供も奥さんもいるーーーに夫人を寝取られたのである。
「俺が夫人宅を紹介しておいて申し訳なかったな。俺の上官だった旦那さんが生きておられる時は、本当に品のある、旦那さんに一途な奥様だったのだがな。まさかそんな人だったとは」
「いや、夫人もそういう時期だったんだろう。美人で純粋で、魅力的な人だったよ。男に頼って今まで生きてきた人だったから、より頼れる人をほっしたんだろう。本能の問題だ。そして俺ではその合格点に至らず、死んだ旦那さんは夫人のその本能を満たせるだけの人角の人物だったんだろう。ある意味仕方のないことだったのかもしれない」
「なんだ、あまり怒っている様子もないな」
「さあな。わからん。時々ふと思い出して苛立ちのようなものが起きる時もあるし、情欲や執着心のようなものが湧き上がることもあるし、ある種達観したような、仕方がなかったよなと思うこともある。一つの夫人への憐みさえもある」
「憐み?」
「つまり、こうだよシュウくん。夫人はそれなりの容姿に生まれてきて、男にちやほやされ、男に甘やかされて生きてきたんだろう。自分の中で、自分の人生の中で、男を落としてきたこと、男にモテてきたこと、それが彼女の人生の武器であり誇りだったんだ。旦那が急に死んでしまい、年齢も若くない歳になった。娘も一人いる。昔みたいに男がホイホイよってくるわけでもない。不安感とその寂しさは凄まじいものだっただろう。別の頼りになる男を探すほかない。手近に現れた寂しさを紛らわす男が俺で、頼りになる安心感のある男が上司の男だったのさ。小さな頃から甘やかしてきた男たちにも原因があるし、歳を経てそういう不安感に付け込んで狙う悪い男がいるのも事実だよ。まあでも、夫人にとっては人生の罠が幼少期からあったような気もするな」
「罠?」
「そうだよ。容姿が良ければ、特に女の子はスポイルされるだろう。父親も、同級の男たちも、年上の男たちも。重い荷物を持つのも、お金を払ってくれるのも、いろんなプランを考えてくれるのも、いろんな契約も何もかも、全て男がやってきたんだ。幼少期の時点で、その人の人生を決めてしまうような罠がそこにあったように思うね」
「それは偏見すぎるだろう。美人でも、しっかりした人はたくさんいるぞ」
「全員とは言わないよ。そんな罠をものともしない強い人もいるし、そんな罠があると知って、容姿がいいからって甘やかさない親もたくさんいる。だけど、ある種の気質を持った人が、そういう境遇にいたれば、こうなってしまうというだけさ。そして夫人は、そういう種の、そういう境遇の人間だったのかなと思うって話だ」
とまたも遠い目でルイは言った。
そんなルイを見て、シュウは笑った。
「何を笑ってやがる!」
「気持ちいいマスターベーションだったか?」
「ああ、吐き出せてよかったよ!つまるところ、寝取られて、情けない男だよ俺は!」
ルイの言葉に、シュウは腹のそこから笑った。
「ははははは、いやあ面白いなルイは。まあまた恋をすればいいさ。女なんてたくさんいる」
「恋なんてのは今の俺にとってまた二の次の話さ。俺は、アルテとアルトの叔父さんで、母さんの息子で、それが大切なものなんだ。本当に大切なものがわかった気がする。それだけでいいよ」
とルイの表情は、どこか穏やかであった。
シュウは、ルイのその様子と、最近は昔のように引きこもらずに仕事に出ていることに、ルイになんらかの変化を見た。
「成長したんじゃないかルイ。色々経験して」
「成長なんてしていないよ。堕落、が近いか。経験的堕落というのが近いのか。露呈の方が近いか。そうだな。露呈したんだよ自分という人間の醜悪さが。それまでの自分は、そんな人間ではないと思っていた。だけど自分の持つ弱い部分に打ち勝てずに自身の醜悪さが露呈した。これを堕落というなら堕落だな。あの時、あの瞬間、俺は夫人の娘のことなんて考えていなかった。娘は夫人との時間を欲していた。俺は娘の願望を知りながら、情欲のままに夫人と時間を過ごした。娘の夫人との時間を奪ったんだ。夫人に集る上司や、悪い男たちと同じだったのさ。色々経験して、と言ったな。俺はこの経験を正当化しない。なんでも経験したからと正当化していいわけじゃない。「経験した」ってのは都合のいい言葉だなと思う。だけど都合よく使ってなんでも経験したからと正当化してたら知らぬ間に堕ちていくんじゃないか。それを続ければ、何度も繰り返していれば、緩やかに堕落していく。そして本当に大切な人、ものがいなくなったときなくなった時に、離れてしまった時にようやく気づくんだ。自分はすでに地上の光を見上げることしかできない、穴の底に堕ちていたことに。本当に大切な人やものを蔑ろにして、いなくなった、なくなった時にその大切さに気づくというのは、対象への傲慢であり甘えだ。本当に大切にしなければいけない人を、ものを、ちゃんと認識して、意識して大切にする。それが為されるべき、堕落しない方法だ。もし自身の悪の露呈により一度堕落してしまったのなら、その堕落を「経験した」という言葉によって正当化しないこと。そして本当に大切なものが何かを認知すること。それがそれ以上堕落しないために意識的におこうなうべきことだ」
「とにかく堕落しちゃいけないんだな」
「いや、突き抜けて堕落したのならそれでいいのかもしれない。それを堕落というのもまた違うのかもしれない。だけど、少なくとも俺はそういう人間にはもうなりたくないというだけだ。だから俺にとっては堕落だ。つまり、あれだ」
「なんだ」
「もう恋はしない」
「どんな結論なんだよそれは!」
「うるさい!いいんだこれで!」
「ルイ、お前のことだ、また一年後には違うこと言ってるだろう」
「恒常が大事なことにも気がついた。シュウ、お前はその点素晴らしいと思うよ。確たる芯があり、小さい頃から恒常的であるように見える」
「ルイに比べたら、みんな恒常的さ。お前が異常なだけだ」
森の静けさも忘れ、二人はわいわいと話した。気づけばどんよりとした沼のそばまで来ていた。沼のあたりは『魔の森』と呼ばれ、誰も近づかない。いつものようにその手前で折り返し、トワイトへと戻って行った。




