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俺は勇者じゃない。  作者: joblessman
220/259

ルイ・オルソン11  

 キャトルへ着いたルイは、ファロン家からそう遠くない場所に部屋を借りた。


「前に付き合っていた男がこの間、うちまできてね。扉をどんどんと叩いたの。もう夜だったのに。アリナも怯えてしまって、とても怖かったわ」


 夜が深くなっていた。ルイの借りている一室で、グラスを片手にファロン夫人は言った。


「そんな、大丈夫だったんですか?」


「ええ、怖かったけどなんとか帰ってもらって。アリナも怖がってしまって。私はいいんですけど、アリナのトラウマになってしまってはかわいそうでしょう」


「そうですね。あまりにひどいとアリナさんが男性恐怖症になるかもしれません」


「その時オルソンさんがいたら、どんなに頼れるだろうって思いましたの」


 ふふ、とファロン夫人は上目遣いで微笑い、ルイの手を握った。


「必ず、僕が助けます」


 言いながらに、酔いしれながらに、ルイの心に陰が落ちていた。それは欺瞞的にでも振り落としたいものであった。


「ア、アリナさんは、今日も家に独りでいるんですか?」


 当然そうだろうとは思っていながらも、ルイは訊ねた。


「ええ、でも男には家にはこないでと言ってありますし、アリナには誰がきても出ないよう言ってありますし、大丈夫ですよ」


「そうですか、良かった」とルイは安堵の表情を作った。その心の陰を隠すように。


「オルソンさん、優しいのね。あの子、オルソンさんのこと大好きよ」


「僕は精神年齢が低いから、普通の大人の男よりも話しやすいんでしょう」


「私は悪い人間よね。いつもあの子を独りにしてね」


 夫人は俯き、声は弱々しかった。夫人の言葉に嘘はなかった。夫人は本当に、その瞬間、そう思っていた。夫人の言葉は、ルイの心にも棘をさした。こうして、ルイ自身もまた、アリナからファロン夫人を奪っている。だけど、それよりも目の前にいる夫人を抱きしめたい衝動が強かった。


「そんなことはないですよ。子育てしながらお仕事も頑張っているし」


「夫も死んで、ストーカーのようなことをされて、私、いつも神様にお祈りしてますの。もしかしたら、神様がオル

ソンさんを連れてきてくださったのかもしれないですね」


 ファロン夫人の紅潮した顔がルイに顔を近くあった。息が近かった。夫人が口から言葉を、息を漏らすたびに、ルイに昂りが起きた。すでにルイの我慢の限界は超え、世界はなくなり夫人に没入するのであった。

 情事を終えると、ファロン家への夜の路を歩いた。手を握り合い、体を密着させて。


「あの子がいなければ、一緒に住めるのに」


 夫人は言葉をこぼした。


「そんなこと言ってはいけないよファロンさん。アリナさんはすごくいい子だ」


「わかってるわ。あの子がいないと、私はどうしようもなくなってしまう。けど時折思ってしまうのよ。やっぱり私って悪い女ね」


「みんなしんどい時だってある。ファロンさんは子育てに仕事に、とっても頑張ってると思う」


「ありがとう、オルソンさん」とファロン夫人はぎゅっと手を握りながらも、「明日も仕事だわ」と気だるそうに言

った。そして仕事の話をし始めた。事務員の仕事をしており、愚痴は止まらない。


「上司の小太りのおっさんが何度も誘ってくるの。本当に迷惑で」


「へえ」と相槌を打ちながらも、ルイは耳を傾けた。


「この間ご飯に行った時も、手をつなぎたい、なんて言い出して」


「え!?」


 ルイは思わず夫人を見た。

 夫人は何か誤魔化すように「いや、仕事ではお世話になってるし、あまりにしつこいから一回だけ行ったの。手も繋いでないし、何もしてないのよ。お腹の出たおじさんよ、なんでもないわ」

 と早口で言った。


「一回行くと、次も、ってなるんじゃないかな」


「一回きりって言ってあるから大丈夫。オルソンさん、妬いてるの?」


「え、ええ、まあ」


「私、食事までは行くことは結構あるの。でもそこからはとても固いのよ」


 とやはり上目遣いで微笑み、ルイに顔を近づけた。人気のない夜道、ルイはファロン夫人の思うままに、夫人の唇に自身の唇を重ねた。そうして話は変わり、ファロン家に着くと二人は別れた。

 ルイの中で真剣に、将来のことを考えた。まだお金に余裕はあるが、じきに尽きるだろう。キャトルで仕事を見つけ、ファロン夫人と結婚し、彼女とともに生活を送る。甘美で盲目的で曖昧なその妄想に、高揚のままに確信を持ち、仕事探しを始めた。キャトルの求人は多かった。すぐに面接の日取りを決め、心は高らかだった。


 面接を数日後に控え、ルイはアリナの家庭教師へときていた。アリナは相変わらずルイとファロン夫人の関係には気づいていなかった。


「今日の夜、じいじとばあばと出かけるんだ」


 アリナは興奮を隠しきれないように表情を綻ばせて言った。


「どこへ行くんだい?」


「イルミネーション見に行く。中央ストリートで今やってるんだ。昔ママとパパと行った。服何着ていこうかな」


 アリナの父は3年前に軍の事故で亡くなっている。ファロン夫人と、そして旦那さんの思い出が、ルイの心を小さく締め付けた。


「じいじとばあばはビルシュからわざわざ来てくれてるんだっけ?優しいね」


「うん。優しい。パパの小さい時の写真持ってきてって言っから、今日持ってきてくれる」


 アリナは本当にパパのことが好きだった。それは亡くなってしまったからではなく、亡くなる前から素敵な父親だったらしい。ファロン夫人も、しばしば亡き夫をした。とても素敵な人であろうことがうかがえたし、夫人が本当に愛していたこともわかった。夫人から亡き夫の話が出るたびに、ルイはなんとか「いい人だったんですね」と理解と共感を取り繕った。


「今日はじいじとばあばとホテルで泊まるんだ。すっごいお肉が出るんだって」


 ルイは、反射的に訊ねる。


「ママも泊まるのかい?」


「ううん。ママは泊まらないよ。そんな高いところ、お金出してもらうの申し訳ないって」


「そうなんだ」


 とルイは欲情を隠しながら答えた。

 勉強が終わり、ファロン家を出る。しかし夫人から何の誘いもなく、「ではまたお願いします」と夫人の態度はそっけなく、どこか他人行儀であった。帰り道、ルイの心は強く傷ついていた。何か機嫌を損ねてしまうようなことをしてしまったのだろうか。一々のファロン夫人との会話を思い出す。二日前にも夜二人で過ごしたところだった。その時はあんな態度ではなかったのに。いや、あの時のあの返答が、あの言葉が夫人を苛立たしてしまったのだろうか、などと、妄想のままに自身の心を消耗させる。すぐにでも戻って、夫人と会話をしたかった。モヤモヤは延々と続いた。解消されるはずがなく、布団に横になりながら、天井があった。天井は何も言わない。モヤモヤと苦しい。夫人が訪ねてくるかもしれないと家を出ずにいたが、ついに夜になった。ご飯も食べる気力がなかった。夫人は今、何をしているのだろう。寂しがり屋で、一人で過ごしているとは思えなかった。友達と遊んでいるのだろうか?それともーーー


 時計を見た。夜の11時が近い。

 ルイは部屋を出た。胸の音が聞こえるほどに心拍数が上がっていた。手が震えている。だけど止まることはできなかった。早足で歩いた。

 角からファロン家を覗いた。リビングの灯りが着いている。


ーーー遊びに出かけていない


 少しの安堵がルイにあった。だが、まだ焦燥は激しくあった。家の庭にこっそり忍び込んだ。


ーーー声

 ルイは絶望した。ファロン夫人の声が、何を話しているかわからないが、声が聞こえた。誰かといる。誰だ。友達か。女であってくれ。誰がーーーー

 庭の茂みに隠れながらも、カーテンの隙間から覗き見た。

 ルイはすぐさま庭を逃げるように出た。

 早足で路地を行く。激しい心拍数。なぜか笑いが出た。心臓が痙攣しているようだった。

 ファロン夫人よりも年上だろう。大柄でお腹が出た男が、下衆いた目で夫人を見ていた。夫人もまた、下衆いた目で男を見ていた。それはあの甘美な夜、ルイに向けられていた視線と同じものだった。ルイは部屋に戻り、布団にくるまると、そのまま眠りについた。


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