アーズ渦中 ダン、感情のままに。
ミューリは肩を怒らせ「こいつが、アーズ様を!」と剣を持ち倒れている兵士を見下げた。兵士はまだ息があるようだった。
「よ、よせ、もう良い」
「ですが、アーズ様!」
「ツケが、きたんじゃ」
と兵士のそばに落ちた、自身の血に染まる細身の剣を見ながらアーズは言った。
静かな村がそこにあった。どんよりと雲が、霧が大気にあった。ダンはチラと上が気になった。霞がかった白い大気に、黒い影があった。その影は、何かこちらの様子を伺うように旋回するとさらに上空に昇り雲へと隠れた。
ーーーあの鳥は
知ったるその影に、ダンはため息をつくがしかしどう対処のしようもなかった。とにかくアーズの希望を優先させるべく、ヤシャとミューリとともにアーズをキリオスの棺のある家へと連れて行った。
村の外れにある寂しい家だった。前までやってくると、息荒くもアーズが言う。
「ダン、はあはあ、ヤシャとミューリを先に、逃がせ」
「アーズ様、なぜ」
「ミューリ、落ち着け。わらわも、はあ、すぐに向かう。ダン、はようせい」
ダンはアーズに言われ、デメガマグチを召喚する。「アーズ様!」と未練がましく残ろうとするミューリをヤシャが尻をけるようになんとかデメガマグチに吸い込ませた。ヤシャは、自分がデメガマグチに入る前にダンとアーズを見た。無言で、何か言葉を待っているようだった。
アーズが口を開く。
「ミューリを、頼んだぞ、ヤシャ」
ヤシャはこくりと頷きデメガマグチの中へと入っていった。
「よかったのか、これで」
ダンはアーズの肩を支えながら、訊ねた。
「あの二人は、どうもだめだ」
アーズ自身にもわかっていない感情だろう。キリオスへの思いとは質の違う、しかし同意義の情が二人に芽生えてしまっていた。それはアーズにとって、ヤシャとミューリといる時には一個人になれないアーズにとって、足枷でもあった。だからこそここで離れたのだろうとダンは思った。
部屋はいくらか朝の気配が強くなっていた。しっとりと白い光が窓から差している。棺を開くと、キリオスの死体がそこにあった。その死体からは赤い瘴気が微弱に生じている。プリランテでその死体を回収してからと言うもの、腐らないようにアーズが毎夜魔力を注ぎ込んでいたのだが、それも限界が近いように見えた。
アーズが、棺のそばに座り込みキリオスを見つめる。キリオスの頬に触れる。その冷たい頬に。
ダンはアーズの背中の傷をありありと見た。深い傷だった。血は止まらずに流れ、アーズの肩呼吸が見てとれた。デメガマグチでの空間移動は、それ相応の体力を使う。アーズ自身、すでにその移動に耐えきれないであろうことを察しているようであった。ダンは、キリオスとアーズ、二人の時間を取るべく部屋を去ろうとした。すると、その背中にアーズが声をかける。
「ダン、そばにいてくれ」
弱々しい声であった。
ダンは、踵を返しアーズの隣に座った。
アーズはキリオスの頬をなで、手を握り、しかしとうとう座っていることさえできなくなりついには床に横たわった。
「い、痛いな、苦しいな」
アーズがやはり息荒く弱音を吐いた。
ダンはその左手を握った。自然に、だろうか。いや、柄にないことをするのに少しの勇気を振り絞ったように思う。だが、アーズのために手を握るのが良いと思った。
アーズは、弱くはあるがダンの手を握り返した。そして
「ありがとう」
弱々しくも、アーズはなんとか言葉を振り絞った。
ーーーありがとう
長い付き合いになるが、アーズから言われたのは初めてだった。何をどうすることもできず、心が締め付けられる。ただダンは、手を握ってよかったと思った。
どこかで鳥が鳴いた。アーズはすでに話すことはできなくなり、目は閉じられ、下顎がぎこちなく動き呼吸するのが精一杯のように見えた。意識があるのかないのか、すでにわからなかった。ダンはただただ手を握り続けた。
窓から差す光に霞がなくなっていた。部屋の隅までその光が行き届いた頃、すうっと、アーズが息を吐いた。そして次の瞬間には、全身から力が抜けたように口を開けたままになった。ダンはそこでようやく、握っていた冷たくなった左手を丁寧にアーズの腹の上に置いた。
そこに、二体の死体があった。大きな男と、小さな女の。死体だ。よく見知った、死体だ。命はただの現象だ。魂はあるのかないのか、そんな不可知なことは俺の取り扱う事柄ではない。そんなことはどうでもいい。いずれは死ぬ。俺自身、今までにも多くの命を奪ってきただろう。ただの現象だ。この感情もそう。ただの現象だ。感情のままに、現象のままに、今在るそれらを受け止めるしかあるまい。ダンは、そう諦めると思った。
ーーー悲しいねえ、寂しいねえ
大きな感情の発露が下手くそな、というより大きな感情の発露をほとんど経験したことのないダンは、ぎこちなくにたりと笑った。普通の人のような涙は出なかった。そのぎこちない気色の悪い笑顔が、ダンにとっての行き場のなくなった大きな感情の、発露だった。立ち上がる気持ちが沸かなかった。めんどくさい、ただそれだけの理由で座っていた。冷たくなったアーズと、棺の中のキリオスと。窓に背を向けて座るダンの影が二人に伸びていた。




