アーズ渦中 レイの涙
『キノウケフトハオモワザリシヲ』
レイが唱えると、その身体より青白い光が生じる。四方に散っていた小さな光が柱となり、その青白い光がそれらを結ぶように、カリュを、ロゼを、カイを、アルテを守ように四角い壁を作っていた。壁の中にいたペンダグルスと兵士たちは、そこに存在するのが許されないように壁の外に弾かれた。
ルルは、外側からその壁に触れる。触れた手がばちりと跳ね返される。
「これは」
ルルの反応を見て、アーズは苛立ちを抑えるように下唇を噛みながら、踵を返した。
アーズたちの背中が小さくなるのを見て、レイはその体から青白い光を放ちながらも仰向けに倒れた。雨はすでに上がっていた。暗闇に雲が轟々と動いていた。大いなる空を隠すように。葉擦れに森がざわついた。葉々についた雨粒が散る。青白い光の壁は、その雨粒を中に通した。仰向けにいるレイの頬に、その雨粒がいくらか落ちた。雨と、戦闘の汗と、地面についた背中は泥だらけで。身体は冷え切っていた。それでもその頬に落ちた雨粒に、その感触に、レイは感慨を覚えた。
泣いていた。あの時の私。エルフの森をでた、あの時の私。
レイの記憶に、グラスの声があった。
「おいいくぞ、泣き虫!」
エルフの森を出たことはおろか、エルフ以外の種族を見たのもグラスとグラスの姉、ダナが初めてだった。二人がエルフの森を訪れた理由は、レイには見当も付かなかった。エルフの長老たちとダナが話しているのを遠くで見ているだけだった。グラスもまた話の蚊帳の外で、暇だったのかやたらとレイにちょっかいをかけてきた。エルフにはグラスと同じ年頃の子供はレイの他にいなかった。グラスは、レイにちょっかいを出しては姉のダナに叱られていた。それでもグラスの使う魔法はレイをワクワクさせた。火に風に水に、グラスはいろんな魔法を使ってはレイを驚かせた。グラスにとってはエルフの森は楽しかったらしい。グラスはレイの手を引っ張り、森の奥に連れていくよう催促した。
レイが今まで怖くて行かなかったところまで、二人で行った。レイにとってはいつもの森であるはずだった。いつもの、ただの何の変哲もない湖が、滝が、森が、そこを歩くことが、ただ座って上を見上げることが、一人で行っても退屈だった場所も、一人だと退屈だったことも、グラスと一緒だとそこに色が齎された。屈託のないそのグラスの笑顔に、木が大きいだの大きな虫がいるだの、何が面白いのかレイにはわからなかったが、それだけで素っ頓狂な声をあげるグラスに、レイは嬉しくなった。
グラスとダナの数日の滞在を経て、長老たちはレイに言った。
「レイ、お主はダナ殿とグラス殿と森を出るのだ」
レイは怖くなった。森を出る。大きな空を、大きな太陽を見たいと思っていた。それなのに、森を出ると言われると怖くなった。外は未知だった。長老もいない。人間がたくさん。しかしレイは長老たちにその不安を言い出せずに、とうとう森を出る時がきた。
ダナとグラスが旅支度を終え、レイを待っていた。レイは、長老たちに見送られ出発するはずだった。しかしレイの足が直前にして動かなくなった。怖かった。寂しかった。森のみんなと離れることが。膝をつき、わんわんと泣いた。長老たちもまた、涙を流しオロオロとするばかりだった。レイは、我慢していたものを放出するようにたくさん泣いた。長老の一人が、レイの頭を撫でた。少ししてレイは眠った。目を覚ますと、いつものエルフの家だった。安堵が押し寄せる。安寧と、安心と。だけど、なんだろうこのもやもやは。もう、会えなくなるのかな、もう、行ってしまったのかな。明日から、また同じ日が続くのかな。
レイは急いで家を出た。グラスたちが泊まっていた家に行くが誰もいない。膝をつき、レイは涙を流した。もう、行ってしまったんだ。
「おいいくぞ、泣き虫!」
グラスの声に、パッとレイは振り返った。
グラスは光だった。紛れもない、レイにとっての太陽がそこにいた。
グラスと森を出て、勇者となり、パーティを組んでいろんな場所へ行った。旅の全てが楽しかったわけではない。楽しい、辛い、苦しい、嬉しい、悲しい、あらゆる感情が思い出に昇華されると、そのどれもにグラスがいたことを思う。
ーーーグラスとの時間が、幸せだったんだ。
ありがとう。
届かない言葉に、レイは涙を流した。ツーと頬についた雨粒と混ざると、地面に流れ落ちた。涙は止まらなかった。ずっと、ずっと。
雲がやはり轟々と唸っていた。その雲に、隙間ができた。まん丸い月が雲から覗いた。月光があたりを照らす。
夜の終わりを告げるように、東の空が白んできた。
レイの身体はすでにそこになかった。それでもなお、光の壁はずっと残っていた。アルテを、ロゼを、カリュを、カイを守るように。




