アーズ 渦中 羊、涙す。
丸々と太った月を見上げることはせず、羊はひたすらにむしゃむしゃと草を食べている。
「オーダムグラスは、むしゃむしゃうまいな・・・ん?」
とはたと羊は大きな物音に頭を上げる。食べることに夢中になり過ぎて、かなり近くに来るまで戦闘が起きていることに気づかなかった。羊は、食事の邪魔だなとうざったくその諸々を見た。見覚えのある姿に目を止める。
ーーーあの女は、さっき会った捨てたものではない若者。そういえば先日にもたまたま会った。何かと縁があるな
などと呑気に思っていると、大きなガルイーガが女に突進していくのが見えた。
ーーー流石の私でもこの距離では助けられぬ
羊は、一抹の悲しさのようなものを感じた。
その時、男が現れると、ガルイーガの突進から女を庇うように女にタックルした。男はガルイーガの突進を背中に受け、大きな傷を負う。女が泣き叫びながら男にヒールを施している。月明かりが雲に隠れ、いくらかある松明の火が薄く暗く伸びるのみである。
羊は、その光景に、その男女に、自身を回顧した。愛か。私もそれに惑わされ、そして終わらない未明に彷徨わんとしたことがあった。最期の時間も欲しかろう。などと思いを募らせながら、二人に近づいていく。その間、周りのものたちは突如現れた羊に、そしてなぜかその羊から醸し出される強者の圧に押され、動きを止める。ガルイーガもまた、羊がただの羊ではないと鼻息荒くするのみであった。
羊は二人のそばまでやってくると、目を瞑り魔法をこめた。
羊の気まぐれで、その男女には一瞬の未明が与えられた。それは本当に一瞬の。そしてかけがえのない。
羊もまた二人の未明に入り、ぼんやりと二人の姿を見ていた。男女の愛、か。などと何か懐かしむように、しかし儚く終わるであろう二人を見ていた。
「私のために、死なないで」
女の最後の言葉に、男が、それまでは優しく微笑んでいた男が、女の前では強くあろうと、悪くいえば取り繕っていた男が、ぼろぼろと涙を流し始めた。
羊は思う。これは愛。愛だろう。いや、私も愛した。人を愛し、それに苦しんだ。だが、この二人のそれはそんな愛とは違う。ここにあるのはそんな欲望に塗れたものではない。母が子を見つめるような、それに近いような気もするが、違うような気もする。双方向に向かうそれは、二人の間にあるあれは、あの感情は、思いは、なんだ。ただ愛という言葉に託すには、私が持っていたものとは性質が、というより次元が違いすぎる。
情、共感、感情の同調、いや、それだけではない。それをさらに超えた。
慈しみ、慈悲、なんだ。
自己犠牲すら欲望にも感じられるほどの、純然たる献身。違う。自らの生の目的を他者へ依存している?他者への依存か。いや、そうなのかもしれない、が、なんだ、それだけという単純なものではない。純粋にして複雑な、無欲にして欲物な。出会い、経験と過去を経てその愛は膨張し、研ぎ澄まされ、そして無垢へと脱皮した。愛の成長の果て、その結晶。自我から生まれ、自我を超えた対象への悟り。愛という欲望があったからこそ生まれ、欲望を膨らませるという過程を必要とし、そして果てに欲望を超えた何か。欲から逃れるためにただ傍観者として生きてきた私には到底行き着くことのできない、その果て。
白い光が二人を包んだ。世界は草原に戻る。
羊は、涙を流していた。




