アーズ渦中②老人の家出
半月だった。
アタッシュケースを引きずる老人が一人。
老人は立ち止まり、土色のハットをとるとその少なくなった髪の毛を優しく撫で再びハットを被った。ハットの陰からその半月を見上げる。境界線のぼやけた、半月を。
勇者組合が動き出している。そりゃそうだ、こちらがわの動きが派手すぎた。俺が諌めても、あれ以降俺の言うことは通らなくなった。あいつの死以降。しかし、我ながら無防備にトンドまで来たなと思う。勇者組合に顔もバレているだろう。立派なお尋ね者だ。アタッシュケースに入った衣服を思う。どこへ行く。行き先も決めていたわけではない。出てきたのは突発的であったか。突発的。昔から時折そんなことがあった。普段は慎重な方なんだがな。自分の性格の分析か。自らの人生の回顧か。人生を思う、か。そんなこと、今までしたことがなかった。未来の終わりが見えてきたからか。人に合わず、人からはぐれ、人と違うと思っていたが、俺も人だったんだと今更に思う。あの赤い髪の子供を見たからか。赤い髪の毛。すれ違う人のことなど、髪の毛の色が珍しかろうとも昔は気にかけたことすら、一瞥すらせず通り過ぎていた。なんでだろうな。記憶のカケラか、神の悪戯か、無駄な一瞥がもたらしたのは追憶と、その追憶という現象から発生する未知の感情への新鮮か。歳のせいだ。だが、この新鮮な余韻を持てるのは歳のおかげか。なんだろうな、うるさくて、うるさくて、だが酔いしれる。過去に酔うなど、俺もおしまいだな。過去を想うなど。いつだ。そうだ、やはりあの赤い髪の毛が追憶に誘う。赤い髪。人からはぐれ、アーズと出会い、南へ向かい、プリランテ、ダマスケナ、ハマナス。キリオスと出会い。人に、生に、死に、なんの感情も持っていないはずだった。死は現象であり、生もまた同意義だろう、という不確定ながらも、自らの中でそれが答えだった。だからこそ生に、死に何を想うことはなかった。自らの欲はある。知りたい、やってみたい、それをしていればよかった。キリオスが死んだ時も、そうであるはずだった。ただ現象としての死があるだけなんだ。なんら感情の入れる余地はない。そうであるはずだった。キリオスが死に、アーズが混乱した。アーズは人でないモンスターだ。何百年前から生きているモンスター。人と相いれなかった人。俺も似たようなもんだ。キリオスもそうだった。人を超えた力を持ったもの。思えばあいつも、人に興味がなかった。強さのみを求め、死を恐れず、生はただ自らのためにある。そんな三匹が集まった時、俺はどこかで仲間と思ってしまっていたのか。なぜトンドを歩こうと思った。昔一度来ただけの街。深い思い入れがあるわけでもない。だが、覚えている。あのチンケな街が、こうも発展するとはな。覚えているんだ。その時の若かりし自分。何をしていた。周りに誰がいた。その記憶があるだけで、こうも浸れるとはな。こりゃ麻薬だ。ははは、俺も人間だ。さて、アーズはどうだ。キリオスが死んで、あいつはどうなった。ここにきて俺は何を恐れる。なぜあいつに従う。なぜあいつの元へ戻る。それは。
老人は再びハットを取ると、半月をやはり見上げた。空と月と、その境界線は、やはりぼやけていた。真っ直ぐではなく、あやふやに。
ぷつりと髪の毛を抜いた。地面にそれを置くと、力をこめる。すると、そこに一つ目の大きな口の生き物が現れた。
「デメガマクチよ、お前も老いたな」
老人が言うと、その大きな口の生き物は不思議そうに老人を見た。
「さて、と」
その大きな口に吸い込まれると、老人はトンド市から消えた。
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「戻ってきたのか」
そこに絶世の美女がいた。赤い瘴気を薄く放った、美女。大きな黒目は吸い込まれるほどに蠱惑的で、誰もが振り返り、その魔法はさらに多くのものを操る。
老人は答える。
「トンドへ行っていた。とても変わっていたよ」
「どうでもいい。で、勇者組合の動きは?」
老人の頭に、トンド市ですれ違った赤い髪の毛の女がよぎった。老人は美女の質問に答える。
「トンドでは何も」
「そうか」
「アーズ」
「なんだ」
老人は、その絶世の美女、アーズをハットの陰から見た。一時の感傷が大きくなる。冷徹な、なんら温かみのないその美女を見て、老人は思う。そこにいるのは人型モンスターアーズであった。キリオスの生きていたときのアーズはもういない。キリオスの生がアーズを人にして、そしてキリオスの死がアーズを本物のモンスターにした。
「なんだ?」
「いや、なんでもない。少し部屋に戻るよ」
と老人はアタッシュケースを引きずり部屋に戻ろうとする。
アーズが、やや声うわずり引き止める。
「ダン」
老人、ダンは立ち止まる。アーズは言葉を紡ぐ。
「お前は、戻ってこないかと」
ダンは、振り返らずに小さく笑って答える。
「難しいもんだなあ、人ってのは」
とダンは部屋に戻っていく。アタッシュケースはすでに必要なく。




