外伝 国の終焉 私の、プリランテ
リーフからの船団は3度に渡りプリランテまでやってきた。プリランテからも船を何度も往来させた。初めは故郷を捨てきれなかったものたちも、減りゆく人々と度重なるモンスター襲来に、その多くがリーフへ渡った。モンスターたちは、国の深部まではせめてこず、何か威嚇するような素振りを見せ撤退していった。兵はその度に消耗していった。ボルトゥ王の国の終焉を告げる宣言もあり、国に残ったのは死に場所をここと決めたわずかな老人のみであった。
ベルタは、久方ぶりに家へ帰った。ベッドの柔らかさを再認識し、眠った。
明け方、パチリと目が覚めた。まだ早いな、と窓から差す薄い日に思った。天井の隅に、蜘蛛の巣が不気味に張り付いていた。小虫が糸に絡みついて動けなくなっている。
ーーーもう少し、眠ろう
瞼を光が刺激する。
再び目を覚ます。差し込む朝の光が増えている。天井の隅はいまだにほの暗く、影になっている。円網の蜘蛛の巣が、部屋の全てを見下ろすようにやはりあった。
「くそっ」
苛立つように言うと、ベルタは蜘蛛の巣を箒で払った。
朝支度を終え、家をでた。
雨季が終わり、本格的な夏が始まるまでの短い季節。日射もまだ柔らかで、涼しい風が小さく吹いている。すうっと鼻から大きく空気を吸う。どこか懐かしい匂いのするこの時期が、ベルタは大好きだった。
街は閑散としていた。まだ人が残っていた温もりはある。だからこそ、寂しさが募った。
老夫婦がいた。国に残った数少ないものだ。軒先で人型の藁に火をつけている。
「おや、今日はインボルクの日かい」
「あらベルタ様。インボルクの日を忘れるとはあなたらしい。この日を迎えられたこと、感謝しています」
ベルタの心が苦しくなった。二人は分かっている。国が今日にでも滅びることを。
「すまない、本当に」
ベルタは頭を下げた。
「頭を上げてください。プリランテは死んでいません。リーフへ行ったものたちが、必ず再興してくれるでしょう」
「時に、そうだな、私があの魔法を使うことになっても、許してくれるか?」
ベルタは気まずそうに訊ねた。
老夫婦は笑った。
「ええ、もちろん。懐かしいですね、子供のあなたが国を壊しかけた。すぐに緘口令が敷かれましたが。あなたはいつも私たち上の世代に、伝統にはむかってきた方だ。モンスターにこの国を奪われるくらいなら、プリランテ最大の魔法使い、ベルタ様の意地を見せてやってほしい」
「そうか。ありがとう。薬は、持っているな」
「はい」
「すまない」
「いいんですよ、あなたらしくない」
老夫婦はにこりと笑った。
魔法士官室でベルタは一人ぼんやりとしていた。リーフに国民を逃がし終えた。残った業務も特にない。
扉が開くと、シーノが現れた。
「王がお呼びだ」
ベルタは気怠げに立ち上がった。
王宮の庭、その中央に干からびた噴水があった。
ベルタとシーノは、その隣に立ついくつかの影に足を止めた。
ベルタは冷たく言い放つ。
「イサーク、お前」
イサークが、アーズとダンの隣で微笑を浮かべ立っている。
「すみません、ベルタさん、シーノさん」
ベルタとシーノに大きな驚きはなかった。カロス6世とディオールの死後、もっと混乱を来すかと思ったが、あまりにもスムーズにことが運んだ。それは終わりに向けてであるが。誰かに後ろで操られているような、そんな気持ち悪さを二人は持っていた。良くも悪くも二人はその流れに乗ったところがあった。全ては国民を逃すためであった。
「イサークに感謝するんだな。今日まで待ってやったんだ」
アーズが言い放った。
「ボルトゥは死んだのか?」
シーノが、静かに訊ねた。
「ええ」
「なぜ、お前が」
シーノが再度イサークに訊ねた。そこに怒りはなく、ただイサークの行動の背景を知りたいという思いが強く感じられた。
「喧嘩の多い家庭で育ちましてね。誰も怒らせたくなかった。だけどそうも言ってられなくなる。だから、一番怒らせてはいけない人を怒らせないようにしてきた。ただの八方美人の嘘つきですよ」
悲しみも怒りもない。しかし最後には、寂しげに言う。
「自分を、守りたかっただけです」
ただイサークには、自己への愛のみがあったはずであった。だが、その寂しげな物言いにどこか自責を感じられたのは、自身でも気づいていないイサークの揺らぎであった。
遠くで咆哮が聞こえた。ガルイーガか、ペンダクルスか。
破壊の音が街の方々で聞こえる。
「ふん。くだらんやつだ。ベルタ、わしはいくぞ」
「薬は持ったか、シーノ」
「ああ。最後くらい、家に帰らせてくれ」
背中を向けるシーノに、ベルタは言う。
「お疲れさん」
「おお、お疲れ」
いつもの仕事帰りのように、シーノは去っていった。
シーノが去ると、ダンが髪の毛をぷつりと二本抜き、地面に手を伏した。
大きなガルイーガだった。原種か、とベルタは思った。もう一つ、その隣に小さな影があった。
「セリーナか」
ぽつりとベルタは言葉を落とした。四半世紀前、その絶大な力でハマナスの侵攻を止めたダマスケナの強力な魔法の使い手。ベルタが認めた数少ない魔法の使い手だった。赤い瘴気を帯び、目に色はない。
「少し時間がかかったが、回復してよかったわい」
とダンはセリーナを見て言った。
「国の終わりです。薬を飲んでください、ベルタさん」
イサークは、哀れむように言った。薬は、残った国民全てに配布されている。苦しまず死に至ことができる。
その時、老婆が突如ベルタの隣に現れた。
ベルタは、飽きれたようにその老婆に言う。
「なんだ。また説教か、爺婆。あの魔法を使うぞ」
「今日ぐらいは許してやろう」
「あんたの許しなんていらないよ。先祖の魂だなんて言う奴もいるがね、私はね、あんたも幻覚の一種だと思っている」
「ふん、不敬ものめ」
と老婆は小さく笑い、すうっと消えた。
「ははははは」
ベルタは笑った。腹の底から笑った。
「何がおかしい。キリオスを殺したお前は、必ず殺すぞ」
とアーズはベルタを睨んだ。
「後顧の憂いがなくなった。イサーク、うまくやってくれたね。ありがとう」
「あなたの魔法では、もう何もできますまい」
イサークの言葉にはどこか憐れみがあった。しかしベルタはニタリと笑った。
「イサーク、若いな。私は大魔法使い、ベルタ様だよ」
雨季の後の、本格的な夏の手前の、この時期がやっぱりベルタは大好きだった。どこか懐かしい匂いをベルタは大きく吸い込んだ。日は柔らかい。風は程よく冷たい。しかし、体は高揚しているのである。夏への期待に心が沸いているのである。あの頃に戻ったように、ベルタは血肉を沸き上がらせる。
「さあ、最後の祭と行こうじゃないか!」
ベルタは嬉々として叫ぶと、全ての力を解放し、唱えた。
『メメント・モリ』
プリランテの国の四方にある共同墓地で、大きな音が上る。王宮の外れにある霊廟地下墓室でも、大きな音がした。
ベルタの魔法により、プリランテの全ての死者たちが、墓より這い出て現れる。ただプリランテの敵を倒すという意思のみが、そこに込められていた。
破壊が破壊を飲み込む。
どこからか火の手が上がる。瓦礫が崩れる音。人の悲鳴はない。
原種のガルイーガがベルタに突進してくる。
ベルタは、避けることはせず、ただ空を見上げた。
最期の景色を探すように。
プリランテの大きな空は、ずっとそこにあった。
ーーー大好きな、プリランテ。私の、プリランテ。




