外伝 キリオスとの戦い
ローブを被った女がゆっくりと歩いてくる。黒い髪の毛は艶やかに伸び、黒目の大きな蠱惑的な目は、赤く充血している。怪しげに色っぽくもにたりと笑い、フードを取る。赤い瘴気がすうっと立つ。
「アーズ」
セバスはその女の姿に小さく名前をこぼした。激しい怒りが心に渦巻く。
「久しぶりだねえ。故郷に背を向けて逃げたお前」
とにたりと笑うアーズの後ろには、茶色いローブの小柄な老人、ダンがいた。召喚士の男だ、とセバスの記憶にあった。
「早くしろ、アーズ」
キリオスが苛立った声で言った。
「珍しくキリオスが不機嫌ぞ、ダン」
「茶化すなアーズ。キリオスに力を上げろ」
ダンが言うと
「ほいほい」
とアーズはその美貌とは似つかわしくない口調で返し、キリオスに手を向ける。キリオスの体から赤い瘴気が薄く発生する。
セバスはすぐにキリオスと距離をとった。ダマスケナの海岸での戦いが頭に残っていた。赤い瘴気を纏ったキリオスは、凄まじい力を得る。
「おりゃあああああああ!」
繊細さもない、荒々しく激しいキリオスの斬撃がセバスを襲う。
セバスのすぐ背後から、ベルタが唱える。
『ブラスフェミー』
大きな盾が5つ並んで現れると、セバスを守る。その全てが割られるが、セバスまでは斬撃が届かない。土煙が激しく舞う。セバスとベルタは森の方まで下がり、木に隠れ様子を伺う。
キリオスが地下階段の前で立っている。アーズとダンがいなくなっている。
「くそ、どうする。盾ももう残り少ない」
ベルタが唇を噛んだ。
キリオスは、溢れるパワーのぶつけどころを探しているように大斧を荒々しく振る。斬撃に森の一画がはげる。なぜかキリオスの様子には怒りが、苛立ちが感じられた。
ーーーどうすれば
目の前の怪物を前にして、セバスに打開の策はなかった。
ベルタとセバスの背後でがさりと音がすると、軍服の男が現れた。
「ランス、無事だったか」
ベルタが男に声をかけた。ディオールを慕う、寡黙な兵士ランスであった。キリオスの斬撃を避け、なんとか生き残っていた。ランスには聴覚強化の魔法がある。ランスは言う。
「ベルタさま、ガルイーガ、東に30メートル、2体はいます」
「ガルイーガか。ランス、ついてこい。セバス、合図を待って斬りかかれ」
ベルタはそう言い残し、ランスと共にガルイーガのいる東へ向かった。
セバスはただただベルタの言葉を信じた。それに縋るほかなかった。
キリオスが再び大斧を振り下ろす。
「逃げてんじゃねえ、どこにいやがる!」
キリオスはやはり苛立っていた。
その時、東の森がざわついた。
「そこかああああ!」
キリオスの斬撃が飛ぶ。森が禿げる。そこに、一体のガルイーガが斬撃に倒れている。残りの一体がいない。
セバスはベルタの魔法を思い出す。死体を操る魔法。
ーーー心を落ち着かせろ。風を尊び、感じるんだ。
森が騒ついた。ベルタに操られたガルイーガの死体が、キリオスに突進していく。キリオスはガルイーガを荒々しく斬り下ろす。
ーーー風は、そこにある。
セバスは唱える。
『風哮』
セバスの鋭い風が一直線にキリオスに向かう。今までにないほど鋭く、冷たい風であった。はっとキリオスは、大斧を盾のようにして前に出す。大斧が風に弾かれると、キリオスの腕が上がる。セバスは瞬時に距離を詰める。キリオスが大斧をなんとか戻し、セバスの剣を受ける。セバスは止まらない。距離を空けると大斧を振り回される。細かく、鋭く、小さく、何千何万何百万回と振った剣を突き出し、斬り下げ、斬り上げる。
「くそっ」
とキリオスが後ろに下がる。
距離を開けまいとセバスはさらに踏み込む。剣は届かずとも、切先から伸びた風がキリオスに小さくはあるが傷をつける。
ーーー届け、あと少しで、カリサの仇が、そこに。
セバスに冷静さが消え、欲がでた。いや、セバス自身がその幾数もの斬り合い、命のやり取りに耐えきれなくなったのかもしれない。セバスの剣が大振りになる。
キリオスは大斧を凄まじいパワーで振り上げ、セバスの剣を払い上げた。セバスはかろうじて剣を残すが、その圧に後ろに下がる。キリオスと距離ができる。
ーーーしまった。斬撃がくる
セバスは身構える。しかしどうしようもないことはわかっていた。アーズのパワーを得たキリオスの斬撃を防ぐ手立てが、セバスにはないからだ。だが、不思議にも斬撃は飛んでこない。キリオスは大斧を両手で持ち、セバスを見ていた。それまでキリオスの体より生じていた赤い瘴気が消えていた。じっと、キリオスはセバスを見ている。セバスの肌に突き刺さるそれは
ーーー殺気、いや
ただセバスには、目の前にいる男が、仇が、とてつもなく集中していることはわかった。空気が伝染する。不思議な空間だった。目の前の男に対して、怒りも憎しみもあるのに。だが、男の見ている高みが、セバス自身に高揚を与える。心臓から両腕へ、臍の下、陰部、内腿、ふくらはぎ、そして足先へ、真っ赤な熱が全身に回ると、全身の毛穴がぶわりと開き、そう毛立つ。一度ではない。何度も何度も、それが繰り返される。
ーーー抑えろ
極限の集中。視界が異常にクリアだ。やたらと遠くの街の声が聞こえる。皮膚に触れるそれは、一々の風だ。その風が、微かに動いた。
キリオスが鋭く大斧を振り下げた。
セバスはその動きを予測していたように、斬撃を右に避けた。肌に触れる風が微弱に動く。キリオスの斬撃がさらに飛んでくる。それも予測していたように、セバスは避ける。冷静に、静かに、高揚を抑えながら、風に触れながら、キリオスとの距離を詰める。セバスはさらに踏み込む。
キリオスは大斧を素早く戻すと、距離を詰めてくるセバスに振り下ろす。
セバスの目に、キリオスの体があった。顔があった。カリサの首を切り落とした、仇。軸足となる左足が、限界を超える。筋繊維がぶちりとちぎれるような感覚がある。それまでなんとか冷静を保っていたセバスが吠えた。自身の力を超えていた。痛みも恐怖もなくなった。怒りが、それらの動きを可能にさせた。踏み込みながらに、剣を振りながらに、体を傷つけながらに、やはり怒りのままに吠えた。抑えていた高揚が爆発する。キリオスの斬り下げをかわすと、憎しみのままに斬った。
キリオスは、ぐふっと血を吐き出すと、大地に伏した。
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俺が一番だ。ハマナスではそうだった。セリーナ。俺が唯一恐れた女。アーズの力を借りても勝てなかった。頬傷がうずく。両の頬傷。片方は新しい。たった3年だ。たった3年で、虫けらだった男が。お前なんかに負ける俺じゃねえ。くそが。いつから漠然とした力に満足するようになった。違うだろう。強さの根拠は俺でなくちゃならねえんだ。俺は、俺の力だけで俺の力を証明して見せる。
俺が、一番だ。
俺が、一番なんだ。




