倒潰
「消失ってどういうことですッ」
昂の治療の主治医を執った医師は篠原総合病院でナースセンターに電話がかかった受話器に向かって声を荒らげていた。
「あれは重要機密になる代物だとそちらがおっしゃっていたではありませんかッ」
受話器の向こうから申し訳なさそうなすっかり弱った声が漏れる。
「はい。おっしゃる通りでございます。なのでこちらとしても充分なセキュリティを施して管理していたのですが…」
「消失って事はつまり人為的に盗まれたとゆう事ですよね」
医師は言い訳を聞きたくない為話の舵をとった。
「ええ。」
「内部の人間とゆう事になりますか。弱ったなぁ」
「はい。ですが、にしても妙なんですよ」
今更何を言い出すかと医師は思い、少し呆れ気味に尋ねる。
「何がです」
「消失と言ったじゃないですか」
「ええ」
「ほんとにそのまんまなんです」
「え?」
「ですから姿形がキレイさっぱり消えたんです。つまり盗られた証拠が無いんです」
「何?」
医師は少しばかり興味が湧いた。受話器の向こうの声は続ける。
「計1000は超える台数の防犯カメラをチェックしましたが、怪しい人物はおろか犯行推定時刻には人っ子一人誰も映ってないんです。ええ。続いてセキュリティシステム。これも何も動作せず。残すところは肝心の保管場所。機密情報なのでどんなものかは言えないのですがこれにも一回でも開けられた形跡がないのです」
「完全犯罪.......とゆうことですか」
「けどそんなことありえないのですよ!人間には!絶対!」
声の主がいきなり大きく張り上げた。
「では本当に消失したと」
「としか考えられません」
2人共しばらく通話越しに沈黙し、その後医師が口を開く。
「分かりました。とりあえずこちらの方でも関係者の方に連絡。そして一応警察に。今度は捜索のプロに頼んでみましょう。」
「はい。了解です。いやぁ困った」
余程悔しいのか、残念なのか物憂げな捨て台詞が聞こえ通話が終了した。様子を見ていた看護婦が心配そうに下から顔を覗き込んで尋ねた。
「先生。大丈夫ですか。ずいぶんお気を乱していらっしゃってましたが」
「いいや。大丈夫だ」
医師は受話器を話しかけた看護婦に少し乱暴に渡してすぐさまナースセンターから逃げるようにせっせと出ていった。
「畜生」
(これは昂の退院後すぐの話である。)
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アメズィストの海の波打ち際にいつの間にか立っていた。
砂浜はところどころ照り輝き、鉱石のようなそれでも砂粒程であるつぶつぶが散乱していた。
廃れ果てた海の家。すっかりその機能を成していないビーチパラソルの骨組みの先端に烏がコゥアーコゥアーと人はおろかとんびもカモメも存在しない海岸に虚しく声を響かせる。
残響が爪先まで響く感覚だ。
俺に響く音は烏と波しかない。
空虚な世界。俺の僕の世界。落ち着く世界。
そんな世界の美しくてdragしてくれそうな壮大な海の上に立っているお前は誰だ。殺すぞ。
「すぐに分かる」
もう聞きあきたんだその台詞は。殺すぞ。
「オレはお前と同じさ」
どこが同じなんだ。殺すぞ。
「同じさ。権利を持ったんだ。オレはもうそれをどう使うか決めた。お前はどうするんだ」
俺に権利なぞ無い。さっさとここから出ていけ。殺すぞ。
「待っているよ。べエル・シェバで」
どこだよそこ。殺すぞ。
殺すぞ。
殺すぞ。
殺すぞ。
殺す殺す殺す殺す.......
目が覚めた。
閉塞的な部屋のカーテンから申し訳ないほどの光が差し込み、放ったままの教材や散らかった筆記用具を照らす。ベッドで自分を包み込むように布団を被って寝たので淡い光の筋さえも眩しく思った。
昂はベッドからトドのようにのそっと重く身体を起こし、枕元に置いておいたオレンジ色で縁どられたデジタル時計を手に取り現在の時間を確認する。
七時半。
もう起きてる時間だった。この時間になってくると母が慌ただしく昂を起こしに来るのだが今日は珍しく来なかった。母も寝坊したらしい。
昂は眠い目を擦り、大きなあくびをしながら、肩を脱力させてドアノブに体重をのせるようにドアを開け、リビングのある1階へと向かった。階段は廊下に続いて、その廊下は玄関、リビング、トイレ、風呂場へと続いていたので玄関に黒い革靴が1足きちんとかかとを揃えてあったのが目に入った。
帰ってきたんだ。
リビングのスライド式のドアの磨りガラスの向こうから明かりがあった。
(なんて挨拶すればいいかな)
久方ぶりの父親で何を話すか分からなくなりすぎて、とうとう挨拶の仕方まで不安になってしまった。どんな顔しているか予想できなかった。俺の底についてしまった成績を知ってどんな顔するか予想できなかった。
行き詰まってドアの前で直立して、取っ手にかけた手をずらすのをためらったが、今更責められてもしょうがないと思い、少しばかり覚悟して恐る恐るドアを開けた。
この間新調したばかりのカーペットの上で父と母が向かい合って立っていた。俺の事を話しているのかと昂は思い、とりあえず「おはよう」はしとこうとその場に向かった時、
母が倒れた
父はそれでも立っていた。手に血のついた包丁を握ったまま。
昂は身体が硬直し、呼吸を忘れた。
ちょうど半年前、ヘッドフォンを買った。
近くの電気屋が閉店セールってんで主婦がこぞって家電に押し寄せる中、ヘッドフォンを買った。
ちょうど半年前、音を買った。
今まで経験してきたどの音よりもより脳に響く黄色い音
限界まで上げてしまえば外の音はもう聞こえない赤い音
注意して聴いてみると埋もれたパーカッションやベースの旋律がはっきり聞こえる親切な青い音
これらを買った。
ちょうど半年前、世界を買った。
誰にも干渉されない、気づかれない、狭くて美しい、気分が良くなる世界。幻想郷。
時と場合、音に合わせて景色を変える世界。
どうだいすごいだろう。
ボクの世界だよ。誰もいないよ。
今、ヘッドフォンに傷が入ってきた。
そろそろ壊そうか。