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日向と星へ  作者: 色傘そめる
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「この指先が、どうしても貴方を覚えている」



 頬を雨粒が打ち続けていた。拭うのも億劫になるほど、雨を降らしている雲を見上げる。重苦しい灰色に包まれており、今日は日の光りを見ることは出来ないのだろうと思う。ぐっしょりと濡れた紺色の戦闘服が、不快なほど肌に張り付いている。市民の避難誘導もあらかた終わりに近づき、日向悠生は目の回る忙しさからようやく開放されそうだった。だが楽観視はまだ出来ない。依然クリーチャーと征軍の戦闘は続いており、午後十二時のクリーチャー発見から二時間が経とうとしていた。

 この地域においては、去年の十二月から実に四ヶ月ぶりのクリーチャー襲来。日向は巳荻が率いる第六班の一員として、自衛隊の支援活動を行っている。

 前回、予想外とはいえ学生部隊主導で殲滅活動に至った為か、学生部隊全体で浮ついた空気が立ち込めていた。自分達の出番は無いのかと。開戦時にはまだ落ち着いたものだったが、戦闘が長引くにつれ、自分達なら出来るという未熟者特有の万能感で高揚していく。それと同時に、非戦闘クラスの救護班に回っている者たちの不安感も顕になっていた。

 早く終わって欲しい。日向の率直な思いとしてはこうだ。それは、救護班に星名ほのかが参加しているため負担をかけたくないためだ。初めての任務で、馴れない事に疲労も溜まり易いだろう。彼女は芯が強いことも知っているが、クリーチャーに襲われて興奮状態の怪我人と相対するは少々痛ましい。過保護かもしれないが、星名に出来る事ならば救護班以外の事務系の職についていて欲しかったと願ってやまない。

 彼女にも何か思うところがあるのだろうか。気になった日向は、なぜ救護班を志願したのかと問いかけたことがあった。すると彼女は、以前に日向に助けられたことの恩返しをしたいため、戦う事が苦手な自分にも何か出来ないかと考え、非戦クラスとして現場に立つことのできる救護班に志願したらしい。

 彼女らしいといえば彼女らしいが、日向は珍しく彼女の意見に真っ向から反対した。「危ないところに立たすわけにはいかないだろ」「どうして? 私、日向くんの事を思って」「俺のことはいいって。安全でいてくれるのが一番なんだから」「よくないよ! それに他の子達は危なくてもいいの? みんな頑張ってるのに」二人の意見は未だに平行線を辿り、日向はしばらく口を利いて貰えていない。

 少し強情すぎただろうかと日向は反省していた。確かに救護班は現場に立ち危険要素は上がるが、直接的な被害というものはあまり無い。要は自分が守ればいいのだ。それを言えなかったのは、己の力量に対する自信の無さの現われかと思い悄然とする。彼女を大切だと思うなら、彼女が自ら選択した結果を認め、涵養するための土台となる事を選ぶべきではないだろうか。

 ノイズと共に送信される戦況報告に思考を中断させる。観測班からの連絡によれば、この付近で征軍が一体のクリーチャーと交戦中らしい。

「随分、長引いてるよね」

 誰とも言わず巳荻が呟く。普段降ろしている髪を纏め上げ、張り詰めた表情で警戒区域を睨んでいる。高揚していく他の戦闘クラスのメンバーとは違い、何かに追い詰められているようにも見えた。

「ちょっと、思ったんだけどさ……」同じ班の柏原がおずおずと切り出す。「あいつら、こっちに向かってないか?」

 まさか、と思う。クリーチャーが確固たる目的の元、進軍するなど聞いたことがない。奴らは身近にいる人間を狙い、また異能者がいればそちらを優先的に狙うだけだ。どうやらクリーチャーにとっては、異能者のほうが普通の人間よりも美味いらしい。それならば、一般人ではなく散開している征軍を追うのが先だろう。

「気がついた? そうなのよね。全体的に戦線がこちら側に移動していってる。別に征軍が押されているわけじゃないけど、ここから一番遠い東側までこっちに来てる」

 顎に指を当て、視線をこちらに向けた巳荻が言う。その言葉で、開戦当時の戦況と現在の戦況を頭の地図に照らし合わせる。確かに、全体的に見れば日向たちがいる西側にクリーチャーが集中してきているように思う。不可解な戦線の移動を続けるクリーチャーへ疑問が募る。

「こっちに何かあるって言うのか? クリーチャーに人を食う以外の目的なんてないだろ?」

 日向の疑問に答えられる者はいなかった。戦線が動いているといっても、偶然で片付けられる範囲にも取れる。この話題は終わりとばかりに各自が黙り込んだ時、巳荻だけが日向に近づき他の誰かに聞かせないような小声をかけた。

「ねえ、もし本当にさ、クリーチャーに何らかの意図があって、こっちに向かっていたとしたら、どう思う?」

「どう思う、って何だよ。考えすぎじゃないのか?」

 言い切りはしたが、不安は隠せない。巳荻がここまで気にしているのだ。そこには何かしらの意思があるはずだ。

「仮定の話よ。普段とは違う動きをするクリーチャー。それは今、こちらに前進しているように見える。つまり何かの目的がある」

「やっぱり、こっちに何かあるって言うのかよ。でも、クリーチャーが狙いそうなものなんて人間以外に思いつかないし、これまでも何かを狙ったようなことなんて無いだろ」

「そうだけどさ、これまでと今を比べて何か違うことってあるじゃない。今回ウチらの救護班の中にさ、ほのかが居るでしょ?」

「そうだけど……まさか」

「意図があるのは、クリーチャーに限らないってこと。あいつ等を操っている人間が居たとしたら、説明もつくんじゃない?」

「またベラドンナかよ」

「確証も無いし、今回ほのかが居るって事をあいつらが知っててクリーチャーを呼び出したとも思えないしね。居るかどうかも分からない目標のため、こんな大掛かりな事はしないと思う。仮にクリーチャーの襲来で学生部隊を引っ張り出すことが目的だったとしても、ほのかの護衛の数が減るわけじゃないしね」

 クリーチャーの襲撃でこちらの目を盗み星名を攫う、というのはありえない話ではない。だが今回は、その星名も戦線に加わっている。今星名を狙ったとしても、間を置かずに征軍と学生部隊が動くことも出来るだろう。だからこそ、クリーチャーをこちらに誘導し、動きが取り辛いようにしているのかもしれない。

「だとしても、俺たちは俺たちのやらなきゃいけない事をやるしか無いんだよな」

「まあそうなんだけど、一応考えられることは考えておかないとね。……ん、なんか動きがあったみたい」

 雑音交じりに観測班から連絡が入る。どうやら、この付近で交戦中の征軍が一般人を保護したらしい。クリーチャーと距離を保っているものの、依然戦闘は継続しなくてはならない状況に陥っている。征軍の救護隊を待つより、近場に居る学生部隊に一般人の引取りを頼みたいとの事だった。巳荻が通信機のスイッチを入れ了解の旨を伝える。

「さあ、お仕事お仕事。ちゃっちゃと行って助けてくるわよ」

 行動するのは巳荻率いる学生部隊第六班の四名。すぐさま車輌に乗り込み現場へと向かう。保護された住人は三名で、どれも子供ばかりだという。負傷者は無し。征軍は相対する一体のクリーチャーから後退しつつ、合流地点へ向かっていると言う。他のクリーチャーとは距離が離れているため、比較的安全な作戦だ。

 視界も雨に煙る悪天候の中、学生部隊の小型トラックが警戒区域の街を走る。がたつくサスペンションのトラックに揺られながら、日向は星名のことばかりを考えていた。もし巳荻の予感が的中しており、ベラドンナが星名を狙うとしたら、もう頃合ではないだろうか。征軍ではカバーしきれないほどクリーチャーがこちら側までやってきている。今まで何度もこうしたことはあったが、状況がそれまでとは違う。向かってきているのは一体のクリーチャーだけではない。これより先、学生部隊のいる後方まで戦線が移動していくかもしれない。もしベラドンナが狙うとしたら、征軍が陣形を立て直す間際だろう。

 後部座席の窓から、ゴーストタウンとなった街並みを眺める。あたりには自動車が止めており、街並みに見える灯りは点いたままだ。頬杖を着きながら視線を横に移すと、柏原が標準装備の槍を握り締め青い顔で俯いている。

「何だよ、緊張してんのか? 藤原に言いつけんぞ」

「うるせえな。別にいいだろ」

「どうせ大したこと無いって。子供を避難させるだけだろ。その物騒なもん車の外に付けときゃよかったのに」

 柏原には悪いと思いつつも、自分より余裕の無い人間を目の当たりにすると不思議と落ち着けてしまう。この戦闘が早めに終わり、恋人に会いたいと思っているのは日向だけではない。こんなところにも星名との接点を見出そうとしていることに苦笑し、帰ったら星名に救護班での活躍でも聞かせて貰おうと考えた。

「その辺にしといてやれって日向。お前だって緊張してんだろ?」

 車を運転していた時宮がミラー越しに目線を向ける。

「そういやお前、今度は途中退場無しだぜ? 一応は兵装持ちのお前に期待してんだからよ」

「嫌味かよクソ。実地訓練の勝敗数、いつかひっくり返してやるから楽しみにしてろよ時宮」

「ひっくり返せなかったら星名に言いつけんぞ」

「柏原テメぇ……」

「あーあー、いいよな彼女持ちどもは。俺も誰かに言いつけられてー」

「ハイハイ、お喋りはそこまで。そろそろ着くころよ」

「俺を言いつけてくれー」

「時宮うるさい、って先生に報告しておくから安心して」

 苦い顔をした時宮が車を減速させる。合流地点であるスーパーの前に着き、車を降りた巳荻が観測班に連絡を入れる。続いて日向と柏原も車を降り周囲を見渡す。雨音よりも、ワイパーラバーのガラスを擦る音の方が大きく聞こえるくらいに雨足は引いている様だ。

 観測班からの報告によれば、一般人を保護した征軍はクリーチャーに追いつかれ戦闘を再開したそうだ。征軍部隊のうちの一人が、子供達を連れて合流地点へ来るとのことだった。

 時宮が二つ目のガムを噛み終わる頃だろうか、道路の先に人影が見えた。数は大人一人と子供三人。報告どおり、征軍が一般人を保護してこちらまで移動してきている。

「おーい、出すぞー。掴まれー」

 ここからでは少々距離がある。こちらから車で迎えに行った方が早いだろう。エンジンを吹かす音と、時宮の言葉に振り返る。

「離れてッ! 時宮!」

 急に叫んだ巳荻の視線を辿る。車の真上、そこに、仄暗い染みが広がっていた。中空で泡を吹くように肥大していく染みが位相を捲り上げ、ボトリと影を生んだ。間一髪のところ時宮が車から躍り出る。生まれた影は車のボンネットに落ち、産声代わりの破砕音を響かせた。徐々に影が輪郭を持ち、クリーチャーの姿が現れる。

 その姿は直立する昆虫とでも言えばいいのか。体長は四メートルほどの、甲虫のように覆われた外郭。鈍重を思わせる体躯。左右非対称の数の口器を蠢かせ、細長い蟷螂のような腕が持ち上がる。腕の数は八本あり、長さは三メートルほどに及ぶ。

 既に異核兵装を実体化させていた日向と巳荻が切り込むために走り、後に柏原が続く。一番クリーチャーの近くに居た時宮は車から逃げ出す直前、据え付けていた槍を取っていたようで真っ先に突きを放つ。クリーチャーはボンネットの上から後方へ跳躍し、道路へ降り立った。

『学生部隊第六班の戦闘行為を確認。ポイントB31G54。敵クリーチャー、一、出現』

 異核兵装の能力を使用した観測班から無線が入る。現状、近場に居る征軍の増援は期待できない。学生部隊の増援が出されることが決定した。

 クリーチャーが日向に向け動き出し、細長い腕を鎌のように振るう。剣を盾に凌ぐ。日向の剣よりも数倍細い腕は、しかしクリーチャーの怪力によって脅威を生む。一本の腕の攻撃に動きを止められた日向に、残りの腕が振り乱される。腕を弾き、日向は踏み込んだ。迫り来る腕を避け、受け流し、クリーチャーの懐へ直進する。

 同時に、車を飛び越え移動していた時宮がクリーチャーの背後から迫る。クリーチャーは身体を開き、四本の腕で時宮を迎え入れた。深追いはせず、クリーチャーの攻撃範囲ギリギリの場所で槍を振るう。クリーチャーが日向に向け移動をするが、挟み込む形を維持。

 全力で剣を振るう日向だが、細い腕一本で容易く止められる。

 そこへ、巳荻が躍り出た。一閃、その軌道にあるクリーチャーの腕が三本まとめて宙を舞う。巳荻の能力である刀身の物質透過を利用した切断。物体に重なる状態で刀を実体化させれば、異核兵装を除く、いかなる物質も内側から破壊される。

「討てッ!!」

 腕を切断され、絶叫を上げるクリーチャーの腹部に概念投与を施した剣で切りつける。クリーチャーが後方へ跳躍し、剣は掠めただけだった。回り込んだ柏原が吶喊。腕が切り取られたクリーチャーの右側から責め、時宮が逆側、巳荻が正面へと続く。討たれた余波か、若干クリーチャーの動きが鈍り、好機と踏んだ柏原が踏み込む。

「待って!!」

 巳荻の指示に柏原が踏みとどまる。同時に、クリーチャーの腕が再生し、柏原を襲う。槍で二本の腕を受け止めるが、残る二本に身体を裂かれていた。損傷は軽微、左側の三本が時宮を襲い、残る一本が巳荻に向けられる。クリーチャーの右を抜けるように日向が断行。柏原を襲っていた腕が全て日向に向けられた。四本全て受け流す自信は無い。一本毎の角度と速度から安全地帯を導き出し、跳躍。振るわれる腕に対し、剣を盾に、身体を倒し、腕の間を抜ける。着地と同時に返された腕が日向を襲うが、突き出された槍が阻止する。

「猫かお前は」

「かもな。なんか最近、狭い場所ばっか通ってる気がする」

 柏原に走りながら答える。正面では巳荻が腕を切り落としているが、瞬時に再生しているようだ。しかし、これで後ろは取った。柏原がクリーチャーの後方へスライドすればよかったが、彼が攻撃を受けたことを補填する速効性を欲した。

 タイミングを合わせ、四方向から攻撃を仕掛ける。背後から迫る日向だが、視界の端に迫る物体を捕らえる。クリーチャーはこちらを向いてもいない。当然、腕が襲ってくるような角度ではない。身を屈め、突如として襲ってきた物体を避ける。

 横を見ると、クリーチャーの鎌のような腕が、道路から三本生えていた。巳荻に切り落とされた腕だろうが、切り落とされた腕の根元まで復元されていた。根を張り、こちらを手招くように蠢く。

「相手しなきゃいいだけだろうが、間抜け!」

 だが、これで巳荻の切断というアドバンテージが薄くなる。繰り返し腕を落とそうが、地面に散らばる罠が増えるだけだ。狙うべきは本体。しかし、クリーチャーは日向と巳荻を警戒しだしたようで、長い腕に進行を阻まれる。

「―――え?」

 その時、日向の目に信じられないものが映った。柏原を挟んだ先に、三人の子供がこちらへ向けて走ってきていた。

「何やってんだッ!」

 日向の声に反応した柏原も子供達を確認する。クリーチャーの耐久力を鑑みれば瞬殺は不可。人命を優先。子供達の方向へ走り出した柏原をフォローするため、三人がクリーチャーの注意を引く。力を錬る時間は無い。先ほどと同様、速攻で概念投与を施し腕を斬り付ける。怯んだ隙に時宮が踏み込み、腕を数本引き付け、隙を見つけた巳荻がクリーチャーの本体へ斬りかかった。刀身の根元近くまでクリーチャーの身体に差し込み、透過と実体化を瞬時に繰り返し斬り伏せる。返す刃で切りつけようとする巳荻だが、クリーチャーの猛攻によって防がれた。

 腕を振り回し、絶叫と共に暴れるクリーチャーから距離を置く。傷口から煙を上げ修復を開始しているようだが、胴体は腕ほどの再生能力は無いように見える。経験則からクリーチャーの体力を二割近く奪えた手応えがあった。四人揃っている時よりも時間はかかりそうだが、子供を逃がす間は場を凌げそうに―――。

『学生部隊第六班は至急退却してください! 繰り返します! 至急退却してください!』

 観測班から突然入った無線に、何が起こったのか分からなかった。絶叫にも似た指示に訝しむ日向とは逆に、状況を吟味するよりも先に行動を起こす巳荻と時宮は柏原の後を追いかけ、子供達の救出に向かった。考えるべきだったのだ。なぜ、子供を保護した征軍が居なくなっているのかを。そんなことすら意識の外に置いてしまった状況に歯噛みする。恐らくは、新手の出現。

 殿となり、後方のクリーチャーへ意識を向けつつ疾駆する。三人から遅れ走り出した日向だが、突如寒気に襲われ立ち止まり、辺りを急ぎ見渡す。

 何かが居る。

 肌を刺すような、突如として張り詰めた空気。なぜこの存在に気がつかなかったと言うほどの、濃密な重圧感が襲う。呼んではいけない。見てはいけないものがどこかに居る。体内を暴れまわる焦燥と不快感に、その場に居た全員の足が止まった。一気に体温が下がり、指先から力が抜ける。雑居ビルの群れが、まるで正体不明の影に恐れるように窓を振動させていた。不気味なほどの静けさの中、子供の助けを呼ぶ声と雨音が耳朶を打つ。未だ叫ぶように退却命令を出す観測班の声も、言葉としての認識を拒絶するように意識が向かない。

 そして、"それ"は現れた。

 子供達の目の前まで移動していた柏原の上空から、人型の影が急下降。コンクリートを砕く衝撃と、子供の悲鳴が響かせる幕開け。新たなクリーチャーの強襲。

 体長は二メートルほどのスリムな人型。爬虫類のような斑模様をした肌が、見るものの嫌悪感を呼び起こし、線の細い骨格の上に膨れ上がった筋肉が静かに脈動している。滑らかでいて力強さを感じさせる尾が、威嚇しているのか強かに道路を打ち付けていた。そして、骨格が出張った蜥蜴のような頭部が、柏原の頭を丸呑みし、巳荻と時宮を汚濁した眼で射抜いていた。

 肩を押さえつけられ、馬乗りになられ、頭を呑まれた柏原の手足が無作為に暴れる。比較的クリーチャーにしては小柄な体格であるが、鋼の如く強靭な力で柏原の脱出を許さない。爬虫類型クリーチャーの顎が獰猛に租借を繰り返す度、絶叫と鮮血が漏れ出した。

 早急に同僚を助けなくてはならない。その怪異に剣を突き立て、猛りを、怒りを叩き付けなくては。だがしかし、小雨に流される朱を、学生部隊の三人はただ見つめることしか出来なかった。動く事は許されない。捕食の時間を妨げるものは、いかなるものでも破滅の道を歩むであろうと、射抜くような視線が示していた。

 次第に弱くなっていく柏原の抵抗と、ますます荒々しさを増す鋭牙。無意味に抗い続けていた柏原の腕が、糸が切れたように地面へ。クリーチャーの顎からようやく開放された柏原の頭部は上半分が消失し、残る部位も皮が削げ落ちていた。

「うわああああああ!!」

 蛮声と共に恐怖を反転、衝動を放ち襲い掛かる怖気を振り払うため疾走。剣を握り締め『力場』の管を接続・異能を圧入・収斂された概念で己の指ごと塗りつぶす。討て、討て、討て、討て! クリーチャーの視線が日向を捉え、嗜虐に満ちたよう口角が吊りあがった。

「やめてッ日向!」

 突如クリーチャーの姿が掻き消え、呆然とする。後ろから巳荻の腕が伸び、日向の戦闘服を横へ引っ張る。傾いた視界に映るのは、右半分を埋め尽くす狂気と、頭部内でのゼラチン質を握りつぶした感覚の散布。倒れこみ絶叫を上げる。吹き出る血潮が、即座に衣服を染め上げた。常識を超えた速度に、巳荻の助けが無ければ死んでいたという恐怖も思考から飛ぶ。こんなヤツは知らない。見た事が無い。常にクリーチャーは脅威だが、立ち向かえないことなど無かった。ただ、そこにいるだけで恐怖を感じる重圧など、日向達は知らない。

「嘘……嘘でしょ。なんなのよコイツ。ねえ、なんなのよ」

 うわ言の様に呟く巳荻の腕が震えていた。左半分だけになった、視界の滲む先、クリーチャーが手に持った肉片を口に落とし飲み込んだ。遅れてやってきた右顔面の痛覚と、凄然たる戦慄に歯の根が合わない。アレは見てはいけない、関わってはいけない。本能が暴力的に理性を濁し塗りつぶした。顔を抑えた手から、粘着性の液体が流れ出し口に入る。鉄の味と錆びた臭いが、体内の芯から戦慄の手を伸ばす。

 クリーチャーがゆっくりと歩き出し、視線を彷徨わせ、日向を捉え、走り出した。

「何してんだ逃げろお前らぁッ!!」

 時宮の叫びを聞き、膝を着いていた巳荻が立ち上がり飛び出した。巳荻が刀を振るうが、クリーチャーを掠めることも無く容易く殴り飛ばされた。追撃を加えるクリーチャーから、転げるように巳荻が逃げる。防御も、牽制さえも逃走さえも意味を成さず、一方的な勝負が始まっていた。何度も殴られ、爪で肉を削がれ、恐怖に滲んだ顔を背ける事さえ許されず、投げつけられた玩具のように転がる。

 視界が涙で滲んできた。ただただ震え上がり、悪夢に支配された。あそこに居るのは、学校でも一・二を争う実力者だ。自衛隊として活躍する第一線とも並ぶとされ、その実力は全国的に見ても上から数えたほうが早い。一体のクリーチャーならば、二十分あれば単騎で制圧が可能。それが、何も出来ずに被虐の限りを尽くされていた。

 それでも彼女は立ち上がり、刀を構えた。

「ねえ、見てない、でさ、逃げてよ、お願い、だから」

 その言葉が、自分に向けられたものだと判断するのに一瞬遅れた。その間にもクリーチャーは巳荻に踏み込み、爪を立てる。迎え撃つ形で振るう巳荻の刀が、クリーチャーの手に重なった。彼女の能力なら、異核兵装以外のあらゆる物体を切断可能だ。このクリーチャーとて例外ではない。しかし、クリーチャーは手が刀に重なり、己の手が負傷した瞬間、驚異的な反射神経で後方へ跳躍した。

 切断とは程遠い、かすり傷がクリーチャーの手に残っている。それも傷口から煙を上げ、すぐに修復されてしまった。痛みに激昂したのか、クリーチャーが吼えた。鼓膜を破るほどの暴風にも似た振動。荒れ狂う音の破裂に心臓が握り潰されそうになる。

 巳荻に対し、更なる追い討ちをかけるクリーチャーに巨大な影が降りた。破砕された道路をめくり上げて時宮が投げつけたのだろう。クリーチャーは動こうともせず、コンクリートの塊を全身に浴びた。

 時宮を見る。あれほどのおぞましい怪異を目の当たりにし、冷静でいられるはずは無い。彼の足も震えていた。止めてくれと言う声も出ない。何をしても、結果が分かりきってしまう。

「普通、全員見捨ててケツまくって逃げんのが常套なんだけどよ。収まんねえよチクショウ。なに調子乗ってハシャイでんだ化け物が!」

 土煙の中へ時宮が奔る。尻餅をついたまま後ずさる日向。ここに居ては駄目だ。みんな死ぬ。逃げなくては。早く。一刻も早く。耳を劈く、観測班からの悲鳴にも似た指示が頭に入らない。どこか、どこか遠くへ。アイツの居ない場所へ。

「なんなんだよ、これ。どうしろってんだよ」

 クリーチャーから背を向け、立ち上がろうとした日向の前に子供が三人立っていた。日向の顔につけられた傷を見た子供達は引きつった短い悲鳴を上げ、三人は寄り添い、不安を広げた表情で見つめていた。

 お前達なんか知らない。どこへでも行ってくれ。こっちは自分を守るだけで、逃げるだけで精一杯どころか無理かもしれない。そんな日向の考えはどこにも届かず、子供達は口を開く。

「―――たすけて」

 呼ばれたことに、腕が震え始める。何かが喉を震わせるため空気を送り込むが、それを出すことを日向の全てが拒絶した。構っている時間など無い。己の生存を最優先するべきだ。誰が死のうが、関係が無い。戦場で生き残るためには、一切の甘えなど許されない。

(ほんとうに、いいのか)

 ここにいる自分は、なぜ今生きている。どうして逃げようとしている。そこに、自分の変わりになる誰かがいたから。

 それでいいのか、と彼は繰り返した。

 逃げ出すための足が、立ち上がるため強制的に変換される。阻害されていた意思は脈動を続け、本来の自分を覗き込む。上手く並んでいない感情を自覚し、機械的に配列を始める。それに伴う全てが不安定な状態に身を任せ、普段とは違い、柄の異なるピースを凹凸に合わせ一つ、また一つと嵌めてゆく。

 現状、全てを投げ捨て自分だけ逃げる段階では無―――

 雑音。

 それが不正解であるかのように頭痛が走り、日向の体が宙を舞った。地面に叩きつけられ顔を向けると、最初に遭遇した甲虫型のクリーチャーが細長い腕を向けていた。再び振りかざされた腕に、成す術も無く身体を打ちつけられる。転がる日向が手をつき立ち上がろうとしたとき、胸に衝撃が襲った。砕かれるコンクリートと、せき止められた呼吸。

 爬虫類型クリーチャーが、日向の胸を踏み、そこに立っていた。

「ヒィッ―――!」

 逃げようとするが、圧倒的な負荷に胸が押し付けられる。標本に止められた蝶のようにしか手足を動かすことが出来ない。そして、爬虫類型のクリーチャーは甲虫のクリーチャーを一瞥し、後者は前者を恐れるように身を退いた。

「お前の相手は、俺だっつってんだろがぁッ!!」

 時宮が片手で槍を突き出す。それをものともせず、クリーチャーは交差法で腕を振るった。吹き飛ばされる時宮を追い、クリーチャーが飛ぶ。立ち上がる時宮は左腕が既に無く、ただクリーチャーの攻撃を受け止めるだけになっていた。再び合わなくなる歯の根。いつの間にか汗で体中が濡れていた。何かを掴みかけていたような感覚は、もうどこにも無い。絶望だけがそこにあり、憎悪も、羞恥も、己を構成する枠組みなど見当たりはしなかった。

「ああ、ああ。ひぃっ」

 ここから逃げ出そうと手足を動かすが、立ち上がることすら出来ない。這いずりながら背を向ける。聞こえてきた悲鳴に後ろを見ると、日向を見ていた甲虫型のクリーチャーが、ゆっくりと振り返り、子供達を捉えた。クリーチャーから逃げ始める子供達の足は遅い。

 見ていられずに、目を背けた。

 こちらに向けて、早い足音が聞こえてくる。倒れていた日向の襟を、巳荻が掴んで引き起こし走り出した。引きずられるように足を縺れさせ、クリーチャーから逃げ出す。呆然として後方を見ることすらせず、服を掴む巳荻を見る。その全身は血に濡れ、荒い息を吐き、前だけを見つめていた。

「み、巳荻……時宮が。子供が。巳荻、み」

「五月蝿い」

「なあ、あの子達が、なあ、あの子達、俺、お、俺」

「黙れ」

「た、助けて! あの子達、たすけッ」

「……ッさっさと走れよッ! 役立たずッ!!」

「う、ああ、うあ、ぁああ」

 巳荻に引かれながら、ゴーストタウンを走り抜ける。喉からは言葉にならない呻き声が漏れ、残った左目からは涙が止まらない。破砕音が徐々に遠くなり、もう振り返っても何も無いだろう。息が上がり、碌に足も上がらない。惨めな慟哭は小雨に流されるほど弱々しく、戦場の隅に消えて行く。

「アイツが言ったの……時宮が、私に逃げろって。頼むから、生きてくれって……」

 巳荻の呟きはか細く、時折鼻を啜る音が聞こえた。

 二人が走る前方に、仄暗い染みが三つ。新たなクリーチャーが吐き出された。

「退け……退けって言ってんでしょおぉッ!!」

 服を離された日向は道路に転がり、巳荻が刀を振るった。



 分厚い雲は未だ晴れることは無く、クリーチャーとの戦争も終わりを見せない。顔に押し当てたタオルから止めど無く血が滴り、覚束無い足先がどこかを目指して彷徨う。心臓が早鐘を打ち、枯れた喉が閉じるように張り付きそうだった。

 見渡すと、避難場所に指定された小学校の中に日向は居るようだ。校舎の外にある、屋根がついた渡り廊下を歩いていた。ここまに来るまでの記憶が、ほとんど抜け落ちている。どうやってここまで逃げてきたのだろうか。途中、「あるけます」と誰かに呟いた事だけは覚えていた。自分は何をしにいくのだろうと、日向は朦朧とする頭で考えていた。どうして一人なのだろう。巳荻はどこへ行ったのだろうと思いをめぐらす。日向は、彼女がクリーチャーの前に倒れ付す辺りまでは意識があった。

「うぅ、はあ、うう」

 壁に手をつき、足を引きずりながら歩く。急に寒気を感じる。雨に濡れていただけでは無いだろう。顔の他に、腹部と太腿にも傷が有り、血を流し続けている。肋骨が折れているのか、息をするたびに内側の肉を刺されるような痛みがあった。感覚が戻り、呻き声と涙を流しながら、ようやく自分がどこへ向かっているのかが分かる。この先の体育館に、救護班が待機しているのだ。

 学生部隊の支援活動として、星名も参加しているはずだった。

「あ……ほのか。ほのか……たすけて」

 彼女の姿を求めて気が急ぐ。しかし身体は重く、思うように前進することが叶わない。片目のため遠近感が狂った通路は近いようにも、遠いようにも見える。

 いつの間にか耳から通信機が無くなっており、戦況を知る術も無かったが、まだ戦争が続いている事だけは知っていた。ここに来る途中、誰かが言っていたことを思い出す。学生部隊の仲間だろうか、戦線が徐々に移動している事から、警戒区域を広げるような話をしていたはずだ。

 避難場所として指定されたはずの小学校は、閑散と静まり返り人ひとり居ない。手すりと渡り廊下の柱に手をつきながら歩き、ようやく体育館の開け放たれた扉を潜った。

「あ……れ?」

 そこには外とは違い、大勢の人間がいた。老婆がいた。スーツを着た男性がいた。子供がいた。若い男女が抱きしめあっていた。征軍の人間がいた。学生部隊の戦闘服を着たものがいた。

 しかし、誰も彼もが一切動かず、床に倒れている。無表情に覗く瞳に光は無く、ぼんやりと開けたままの口元からは涎が引いていた。倒れている人々の中で、息をしているものは、誰一人いなかった。

 その中心に、座り込んだ人間を見つける。真白な髪と、華奢な体躯。紺色の戦闘服を纏い、腕に救護班の腕章をつけていた。背を向けているが、一目で分かる。

「ほのか?」

 呼びかけに返事は無い。倒れている人波の間を歩き、彼女へ近づいてゆく。

「なあ、ほのか」

 彼女が、振り返った。

「―――こないで」

 呟き、憔悴しきった彼女の瞳から、涙が零れた。そして、彼女に手を伸ばそうとした時、こみ上げる吐き気と頭痛と不快感と共に視界が回り―――。


「いやあああぁぁぁッ!!」


 意識が暗転する直前、胸を差すような悲鳴が聴こえた。



■    ■    ■



 最近、頭痛が酷くなっている。こめかみを押さえて頭を振る。これは一体、どうしたことだろう。母と暮らしていた時と同じくらいに、頭が軋む。母が亡くなり、義母が来てからは一切無かったものだ。

 兆候が見られたのは十二月。いつもの様に、星名ほのかは部屋のベットで眠っていた。と言っても意識が無かったわけではない。母の死によって、日に日に酷くなってゆく苦痛から開放された彼女は、静かな世界を恐れ、受け入れることが出来ずに、ただ無為に日々を過ごしていた。転入手続きをした学校にも通うことは無く、毎日部屋のベットで横になるばかり。

 ある日、階下で何かが倒れたような大きい物音がしたのだ。気になったと言うよりは、音という契機に自分の状態を見ることが出来、喉が渇いたという理由で彼女は部屋を出る。西洋被れの装飾を施された、無駄に広い廊下を彷徨った。

 そして、台所のドアを開けたときに、彼女は見てしまう。血を流し、床に倒れふす義母の死体を。悲しいと言う気持ちは無く、ただ残念だと思った。別に義母が嫌いだったわけではない。母が亡くなり、塞ぎこんでいた自分にも快く話をしてくれた義母には感謝をしているし、いい人だと感じている。引きこもった星名に、本当の家族のように親身に接してくれていた。

 誰かを呼んで来なくてはならないと、星名はぼんやりと思う。原因は不明だが、人が一人死んでいるのだからと、どこか遠い世界の出来事のように見ていた。恐怖すら麻痺してしまっている自分に気付くことなく、冷蔵庫からジュースを取り出し、飲み干した。

 そうして落ち着いてから、思いだしたように足が震え始める。真綿が水を含むように、急速に戻っていく認識。ようやく星名は悲鳴を上げた。

 台所を飛び出て屋敷を走る。この家にただ一人いる父を探す。平日と言う感覚が彼女には無かったが、父がいつも屋敷の中で仕事をしていることは知っていた。父を呼び続けながら、書斎へ向かう。

 そして、廊下の突き当たりにある父の書斎の前に、一体のクリーチャーが佇んでいた。

 こちらに、獰猛な視線が向けれらる。

 その後、どうやって逃げたのかはよく覚えていない。何も考えられず走り抜いた先で、日向悠生に保護された後、その日から頭痛の再来が起こった。

「ねえ、星名さん。大丈夫?」

 呼ばれて顔を上げると、同じ非戦クラスの女子が心配そうに星名を見つめていた。「ごめんなさい、ちょっと夜更かししちゃって」と言い訳をすると、彼女は呆れたように笑い、「ほどほどにしときなさいよ」と肩を叩いて去っていった。

 彼女の含み笑いが妙に気になる。何をほどほどにと言っているのだろうかと、星名は小首を傾げた。

 頭を振って周りを見渡す。外では雨が降っているため、体育館の中には救護班の簡易施設が設営されてい。そこには現在も、怪我人が続々と運ばれてきている。怪我の縫合等は授業で習っているが、初めて接する本物の傷口は見ているだけで痛そうだ。自分には無理かもしれないと最初は思っていたが、心もとなさは時間が経てば慌しさに紛れていった。

 衛生兵として戦場に立つことを日向に反対されたが、その時は反骨心でやり過ごした。しかし反対されたままでは、ここにいる意味が無い。少しでも彼の傍にいたいと考え、星名はこの道を選んだ。何とかして説得をしなければならないと思ったとき、過保護な彼に負けず、自分も頑固だと分かり苦笑を覚えた。

「うん、あいされてる」

「え? なんて言ったの?」

 考えていた事が、思わず口をついて出ていた。羞恥に顔を背け、「なんでもないです」とだけ告げた。傍にいた征軍の衛生兵に聞かれたようだが、内容までは分からなかったようだ。

「ああそうだ、君、解熱剤が足りなくなりそうだから取ってきてくれ」

「は、はい」

 薬品の種類を矢継ぎ早に複数告げられ、目を回しながら覚える。

 体育館の中を歩きながら、酷くなっていく頭痛に目を瞑る。今日は、特に症状が顕著に現れていた。今まで何度か看て貰い、薬も飲んではいるがまったく効果が無い。朝はなんとも無かったが、ここに来てから急に重くなったような気がしていた。割れるように、誰かが自分を呼ぶ声まで聞こえてきた。熱が出ている所為で、幻聴でも聴こえているのだろうか。そんな経験は、今まで一度も無かったはずだ。

 指示された薬品を受け取り戻ろうとするが、足がフラフラと言う事を聞かない。突然訪れた、一際強い痛みに手が滑ってしまい、薬品を落としてしまった。割れる瓶と、帯を引く包帯。周りが一斉に星名を見て心配げな声をかけるが、とうとう蹲ってしまった。近くにいた人達の声に、空元気を返すほどの余力も無い。

 その時、近くで悲鳴が聞こえた。

 どうにか目を動かし、悲鳴が上がったほうを見る。仄暗い染みが一つ、体育館の入口付近に現れていた。徐々に広がるざわめき。そして、クリーチャーが顕現し、手近にいた人間を強靭な腕で薙ぎ払う。

 なだれを打って響く怒号と金切り声。我先にと人々が出口を求め、こぞって走り出した。

 クリーチャーは優先的に異能者を狙う。まず、征軍や学生部隊の人間が餌食となった。彼ら衛生兵の中で、異核兵装や軽装備で戦闘が可能なものは極端に少ない。『力場』を展開し、逃げるだけで精一杯である。

 当然ここは警戒区域から外れているはずだが、なぜクリーチャーが現れたと言う疑問があるが、クリーチャーの出現範囲など過去の実績からおおよそを算出しているに過ぎない。

 クリーチャーの咆哮を聞き、厳粛な信者が祈りを捧げるように膝を折る人。十字を切る神父の言葉も、親類の慰撫もここで飽和する事は無い。

 虚脱感と悲嘆が支配する中、歯を食いしばり涙を流し続ける人。張り裂けんばかりの慟哭も胸腔に閉じ、懐古の揺り籠にすら身を委ねることは無く、自我崩壊の果てにある諧謔の境界で足を止め覗き込み駆けずり回っている。

 ただじっと、死に埋没してゆく人並みに視線を奪われている人。暴力という風雨の中に、近しい人がいたのか、ぶつぶつと人の名前を唱えている。後ろからクリーチャーに裂かれ、枯れる前に摘み取られた花に、無意味な差し水を与え続けた。

 持て余す慨然は別のベクトルへ容易く変わり、今にも叫びだしそうな喉を震わせた。

「どけぇっ!!」

「きゃッ」

 蹲っていた星名は、逃げ出す人々の群れに弾き出された。

 すぐにでも逃げなければならないが、身動きをとることすら困難なほどだった。割れるような頭から、痛みを反響させる声が聞こえる。何を言っているのか聞き取る事が出来ないが、「ここへ」と自分を呼ぶ意思だけは伝わってきた。いや、ただ呼んでいるのではなく、命令だ。遺伝子に組み込まれたプログラムが発する抗いようの無い摂理。己の存在に根ざした何かが、この近くにいる。

 正体不明の声も気になるが、このままではクリーチャーの餌食になってしまうだろう。また、先ほどから通信機がノイズに塗れ、観測班からの連絡が無い。しきりに助けを呼ぶ征軍の衛生兵が、クリーチャーによって押しつぶされた。クリーチャーは傍にいた中年男性を補足し、牙を向けて動き出す。悲鳴を上げた男性は、這うように逃げだしたところ、星名の姿に目をつけた。

 男の相貌がぎらりと光る。己を救う道を見つけたように。

「お前、能力者なんだろ! 何とかしろぉッ!!」

 未だ頭痛の影響で動けない星名は、男に肩を掴まれクリーチャーの前へ放り出された。

 倒れた星名は顔を上げ、クリーチャーの禍々しい爪を見た。振りかざされた腕に、血の気を失い目を瞑る。

 ここで自分が死んでしまっては、救護班行きに最後まで反対していた彼に申し訳が立たない。やはり、愚かな選択だったのだろうか。彼が傷ついている間、自分は安全な場所で帰りを待つだけなのが耐えられなかった。だから、少しでも近くにいたい。そんな甘い戯言は、今ここで葬り去られようとしている。

 身体を強張らせて、衝撃に耐えようとしていた星名だが、いつまで経ってもクリーチャーの爪は届くことは無かった。不審に思った星名は目を開けると、そこにはクリーチャーが人形のように佇んでいた。一向に動くことが無いクリーチャーを、異様に思った人々も足を止める。

 先ほどまでの、渦を巻く叫喚がこそげ落ち、不気味な静けさが支配した。

 そこへ、征軍の男が星名を助けようと走りこんできた。勇敢な彼は倒れている星名の脇を抱きかかえ、逃げだそうと走り出す。しかし、彼は何の前兆も無く床へ倒れた。

 自分の監視と護衛を行っている人物がいることは知っていたが、彼がそうだったのだろう。

 何が起こっているのか分からない。力が流れ出している事だけが鮮明だ。押さえ込まなくては。床に倒れ、息をしなくなっている彼のような人を、悪戯に増やすだけだ。

「ああっ。……ああ!」

 何も聞こえない。何も感じないと命令する。頭痛は気のせい。頭の中心から聞こえる声は、ただの幻聴。

 ゆっくりと呼吸を整える。

「はあ、はあ、はあ」

 ほんの少しだけ、痛みが和らいできた。床に落ちる汗の音が、大きく響いている。

 視線を感じて、顔を上げた。

 静まり返った体育館の中心で、周囲の人間は皆一様に星名を見ている。誰も彼もが恐れを成した形相で、彼女を排他していた。その中の一人、星名を突き飛ばした男が口を開く。

「バケモノッ!」

 男の叫び声が、耳に届き、声が漏れた。

「あ……」

 憎悪の視線。拒絶の言葉。

 遠い記憶。背中に付いて歩いた帰り道。

「いや、いやぁ……いや」

 繋ぎたかった手。聞きたかった声。

「……おねがい」

 ほしかった―――。



"アンタみたいなバケモノ、見てるだけで吐きそう。さっさと死んじゃいなさいよ。"



「あいして―――」

 そこにはいない彼女へ向けて、手を伸ばす。

 そして、避難所に取り残された五十四名は、星名ほのかの意識に呑まれた。



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