2
人でごった返す都心の駅ビルから少し歩いたところ、路地裏のさらに裏のようなその場所は、昼間だというのに人通りは全くない。
そこに、コンクリート打ちっぱなしの三階建てのビルがあった。ただ四角くコンクリートを固めただけのような愛想もそっけもない作りだが、それがかえってお洒落な造りだ。
ビルの一階はカフェになっていて、入口の扉の上に飾られた看板には『camarade』と店名が書かれている。フランス語で仲間という意味だ。店主が恋人と幼馴染達と一緒に始めた店であることが由来だが、フランス語にしたことに特に意味はない。響きが気に入っただけらしい。
入口の前に置かれている黒板のボードスタンドには、本日のランチメニューとオススメメニューが可愛らしい文字で書かれている。
一階部分の壁にだけアイビーの葉が這うように連なっていて、冷たい印象のコンクリート打ちっぱなしのビルが少しだけ優しい印象に変わっている。
このカフェでウェイトレスのアルバイトをしている大学四年生の柚原奈海は、ビルの外階段を上がっていた。奈海が一段上がる度に、八センチあるヒールがカツンカツンと高い音を鳴らした。デニムのミニスカートから伸びた長い脚は、高いヒールを気にする様子もなく軽快に階段を上がって行く。
ビルの二階はオフィスフロアになっていて、美人で有能と噂の社員が平日の月曜から金曜の9時ピッタリに出勤している。働いているのは、社長とその女社員だけだ。企業向けのデータを扱う仕事らしいが、詳しくは知らない。仕事内容は、そのふたりだけで十分事足りているらしい。彼らが残業や休日出勤をしているのを一度も見たことがない。
そして、三階が若社長の住居だ。
二階や三階にランチを運ぶこともあるが、今日は奈海のシフトは入っていない。それでもカフェで働く友人達とお喋りをするために遊びに来ることは時々あったが、今日はそれでもない。
奈海は二階の扉の前で足を止めた。用があるのは二階だ。
黒く塗られた扉はシンプルなままで、会社名も何も書いていない。扉と同じ黒色の呼び出しボタンが扉横の壁にあるだけだ。
ここが何をしている場所なのか知らなかったら、呼び出しボタンを押すことすら躊躇したに違いない。それくらいに、この玄関前のフロアは、何だか怪しい雰囲気を放っている。
だが、奈海は躊躇いもなく我が物顔で扉を開いた。
「あら、奈海。いらっしゃい。」
扉が開いたことに気づいた黒江栞が、書類棚の前に立って大きめのファイルを開いた格好で微笑んだ。大人の女性の余裕のある笑みだ。
ロングストレートの黒髪でミステリアスな雰囲気を醸し出す美女。自分もかなりの美人だと信じている奈海だが、認める栞の美しさは認めている。美しさのレベルがあるとしたら、世界一の自分より少し下くらいだろうか。
彼女の年齢は知らない。本人も隠している様子はないが、敢えて聞くことでもない。
見た目は二十代で十分通じるが、落ち着いた雰囲気や物言い等から、三十代くらいだと奈海は思っている。
パソコンよりも処理能力が速く、データ保存領域も広いのではないかと噂の天才社長の右腕なのだから、彼女もかなり仕事が出来るのだろう。
まさに女が憧れるデキル女だ。
「こんにちは~。お邪魔しまーす。」
お邪魔しているつもりなど欠片もない様子でフロアに入った奈海は、そのまま目的地のフロアの奥へと歩みを進める。
「私服なんて珍しいわね。可愛い。」
栞が、まるで子供をあやすみたいな笑みを見せる。でもそれが嫌味に見えないのは、彼女が意外とサバサバした性格だと知っているからか。
「うん、知ってる。今日はバイト休みなの。」
「その休みに、わざわざ仕事の邪魔をしに来るなんて随分と暇なんだな。
男前の教授とのデートに忙しいんじゃなかったか?」
目的地の社長デスクに到着するやいなや、嫌味を言われた。
大きな黒いデスクに肘をつき頬杖をつきながら、つまらなそうに書類を読んでいる男。久遠零、二十四歳。『Office 0(ゼロ)』の社長だ。
地毛だという色素の薄い柔らかそうな茶色い髪。涼しげな目元に、すっと通った鼻筋、薄めの唇。零の周りだけライトで照らされているかのようにキラキラと輝いて見えるのは、その美しさのせいだろう。“王子様”と呼ばれるのも頷ける。むしろ“王子様”という言葉は、彼のためにあるのではないだろうかと真剣に思うくらいに、彼は王子様だ。史上最悪の性格の悪さを除けば、だが。
彼が言った、男前の教授とは、奈海が通う大学の物理の准教授のことだ。まだ30代の若い准教授で、顔もいいので女子生徒にはかなり人気があるのだが、如何せん、性格に難があり過ぎる。頭の中は物理のことしか入ってないのではないかと疑うくらいの物理バカだ。レポートにもかなり厳しい。
だから、色仕掛けをしてレポートを受け取ってもらおうと思っていたのだが、何をしても暖簾に腕押し。
結局、今日の午前中に何度も訂正させられたレポートをやっと提出してきたところだ。
それを分かっていって言っているのだから、本当に嫌なヤツだ。
だが、それくらいのスルースキルなら長い付き合いでもう身につけた。
「やっぱり犯人がいたのよ!そうだと思ってたわ!今すぐ見つけて!」
奈海が、両手を社長デスクの上にドンッと乗せた。
書類を読んでいた零の視線が、ゆっくりと、かつ、気だるそうに奈海の方へと向く。そして、また視線は書類へと戻り、つまらなそうに読み始めた。
完全なる無視だ。無視アピールだ。
美人女子大生よりもつまらない書類をとるだなんて信じられない。
だが、何も考えずに来たわけじゃない。どうすれば、興味を持ってもらえるかは分かっている。
「もちろんタダで、とは言わないわよ。」
奈海はそう言いながら、社長デスクの上にある電卓を手に取った。零の眉がピクリと動いたことならば、チェック済みだ。
この次はきっと、口元がニヤリと歪むはずだ。
派手なオレンジ色のネイルが施された指が、流れるようなスピードで電卓を弾く。カフェのバイトで経理を担当しているから、ネイルをしている指で電卓を扱うのにも慣れている。
そして、奈海は、勝利の決まった顔で、零の眼前に電卓を持って行った。
「へぇ。」
零は満足げに何度か頷いて見せた。思った通り、口元はニヤリと歪んでいる。
着ている服はお洒落だが、ブランド物で身を固めているわけでもないし、このオフィスも特別豪華な仕様になっているわけでもない。散財しているような印象もない。
社長をしている零はかなりお金持ちの癖に、超がいくつあっても足りないくらいのケチだ。お金を借りたら、月に五割という法外な利子を請求されてしまうのだから、ヤクザよりも性質が悪い。そのせいで、バイトの月給をほとんど奪われた友人を知っている。
きっと、根っからの金好きなのだ。
でも、今回はその零の性質が役に立った。
「あら。」
栞がやってきて電卓を覗き込むと、驚いた様子でアーモンド形の綺麗な瞳を少しだけ見開いた。週に何度かカフェでアルバイトをしているだけの女子大生が払えるような金額ではなかったからだろう。
何かを言いかけた栞だったが、それを零が制した。
「条件がある。」
「条件?」
「報酬金は後払いでいい。但し、金額はおれが決める。」
零はそう言うと、細く長い綺麗な指が電卓を叩いた。
そして、見せられたのは、最初に奈海が掲示した金額の三割増し。
この流れは想定はしていたけれど、思っていた以上の値上がりだ。一瞬悩んだが、実際に支払うのは自分ではないので構わないという結論に達した。
「ええ、いいわよ。」
「交渉成立だ。」
ニヤリと笑った零と奈海が手を組んだ。
栞が可笑しそうに笑った。
奈海に連れられて『Office 0』にやってきた優希は、色気たっぷりの美女、栞に応接スペースに案内された。灰色のコンクリートがむき出しになった壁に包まれたオフィス、その奥に応接スペースがあった。といっても、ガラス天板のローテーブルを挟んで黒のソファが二脚置かれているだけだ。
「幽霊…。」
耳を触りながらそう呟いたっきり、零は黙ってしまった。ソファに深く腰掛け、長い脚をくみ、まさしくふんぞり返って座っている。
話は全て、隣に座る奈海にしてもらった。
ここに来たのは、姉の幽霊についての相談のためだ。
姉の美希が亡くなったのは、三か月前。マンションのベランダからの飛び降り自殺だった。いや、少なくとも警察はそう判断した。
だが、真実は違う。姉が自殺なんてするはずがない。そんな理由だってない。
だから、警察にも何度もそう言ったのだ。それでも、警察の見解は変わらなかった。
本当に自殺だったのかもしれないー、姉の幽霊を見たのはそう思い始めた頃だった。
二週間前の夜中に見たのは、姉が死ぬ直前に体験した事実に違いない。やっぱり、姉は自殺なんかしていなかった。誰かにベランダから突き落とされ殺害されたのだ。
でも、そんなことを言って、誰が信じてくれるだろうか。警察にも何て説明すればいいのか分からない。娘の死を必死に受け入れようとして、それでも受け入れられるわけがなく苦しむ両親に、何て言えばいい。言えるわけがない。余計な心労を与えることは出来なかった。
そこで、奈海に相談したのだ。美人で明るくてサバサバしている奈海は、一見軽そうに見えなくもない。実際、レポートや試験についてはあまりやる気がないので、優希が面倒を見てあげたりしている。男性に対しても、うまくコントロールして自分に貢がせる奴隷、くらいにしか思っていないような気がする。
だが、友人に対しては、世話好きの姉御肌だ。どんな相談にも親身になって聞いてくれる。
だから、奈海には相談しやすかった。
そして紹介されたのが、零だった。自他ともに認める天才で、大学時代に、未解決だった殺人事件の犯人を見つけたこともあるらしい。
そんな人ならもしかしたらー。目標だった憧れの姉を失い、途方に暮れていた優希にやっと希望の光が差した。
報酬金が必要だと言われたが、姉の事件を解決してくれるのなら喜んで支払う。安いとは言えない額だったが、構わなかった。引き受けてくれるのなら、借金をしてでも支払う覚悟は出来ている。
『一応、了承はもらったけど、気まぐれな人だから話しをしてみなきゃ分からないわ。』
奈海にそう言われて、何が何でもお願いをするつもりでここにやって来た。断られたときのための泣き落とし作戦、逆ギレ作戦、いろんなパターンを頭の中でシュミレーションして来た。
それなのに、一言も喋ることは出来なかった。
だって、緊張して話すどころではない。優希の心は今、中学生の女子が憧れのスターに会ったときみたいにドキドキしている。
目の前のソファに王子様が座っているのだから仕方がないと思う。
史上最悪に性格が悪い、と奈海から聞いていたが、それを差し引いたとしても王子様だと言えるくらいにカッコいい。甘いマスクでスタイル抜群。性格が悪いくらい我慢できる。
こんなに素敵な人に相談できるのなら、もっとちゃんとメイクして、お洒落をしてくればよかった。
「夢でも見たんじゃねぇの?」
やっと口を開いた零が言ったのは、当然の感想だった。
死んだ姉の姿を見た、しかもそれが最後のときの映像だった、なんて誰が信じるだろうか。もしも、自分が逆の立場だったら、たぶん、信じない。いや、絶対に信じない。悲しみの中で幻を見てしまったのだろう、と相手を不憫にすら思うだろう。
「本当なんです!」
優希は、身体を前のめりにして必死に訴えた。
でも、零は面倒くさそうにため息をつく。
「証拠は?」
「それは…。」
「ほら、ねぇんだろ?どうせ、寝ぼけて、自分の願望でも見ちまったんだよ。」
零はそう言うと、もう帰れ、とばかりに手を払う。
言う通りかもしれない。でも、そうではないと信じている。
それなのに、何も言えない自分が悔しいのか、悲しいのか。優希は唇を噛んで俯く。
「自分の姉が殺されてればよかったなんて、誰が思うのよ!」
怒鳴ったのは奈海だった。
驚いて奈海を見ると、怖い顔で零を睨んでいた。
美人は怒ると怖い。閻魔様のような恐ろしい目で零を睨みつけていたけれど、自分のために怒ってくれていることが素直に嬉しかった。
でも、怒られた本人である零は、驚いた様子も怯えた様子もなく飄々としている。
「優希のお姉さんは、同じ大学の院生だったの。だから、私も会ったことがあるわ。
凛として、自分をしっかり持っていて、後輩にも頼られるような女性だった。優希が憧れるのも分かるくらいに素敵な人なのよ。」
奈海が、姉のことをそんな風に思っていたなんて知らなかった。
そういえば、奈海も美希に可愛がられていた。一緒に自宅マンションに遊びに行くこともあった。『お腹すいた~。』と我が物顔で玄関に入る奈海に、美希はいつも呆れたような顔をして『すぐ作るから待ってなさい。』と言ってキッチンに入っていっていた。まるで三姉妹みたいに笑い合っていたあの頃が、つい昨日のことのように思い出される。
そして、お葬式の日。奈海は、これでもかというくらいに唇を噛んで、それでも隠し切れない大粒の涙を式の間中ずっと流し続けていた。
ーあぁ、奈海もお姉ちゃんのことを好きでいてくれたんだ。
嫌っていたとは思っていなかったけれど、改めてそう思うと鼻の奥にツンと何かがこみ上げてきたのを感じた。
優希は、こぼれそうになる涙を必死に我慢する。
「だから夢じゃないって?」
「そうは言ってない。ちゃんと真剣に話を聞いてって言ってるの。」
「もう聞いた。」
「それなら、優希がどんな思いでここに来たかわかるはずよ。」
「わかったさ。自慢の姉が自殺で処理されたのが許せねぇから幽霊話をでっち上げたので、犯人もでっち上げてくれってことだろ。」
零が鼻で笑う。
史上最悪に性格が悪い、と奈海が言っていた意味がやっと分かった気がした。普通、身内を亡くした人間に対してこんな態度はとらない。
「犯人をでっちあげてほしいなんて、言ってません。」
強い口調で、優希が言った。
奈海にばかり頼っていてはいけない。
いつも助けてくれていた姉のために、自分も頑張る。もう、これくらいしか姉にしてやることは出来ないのだからー。
零がこちらを向いた。綺麗なのにひどく冷たい。まるで血が通っていないみたいに白く透き通った肌のせいだろうか。きっと違う。彼の表情には、感情が入ってないのだ。
さっき、奈海と言葉の応酬をしていたときとは全く違う。
なんとなくだけれど、零の他人に対しての態度はこちらが普通のような気がした。心を許していない相手には、絶対的な壁を造っている。そんな印象だ。
感情のない綺麗な顔は、美人の怒った顔よりも怖い。でも、だからって、ここで負けるわけにはいかないのだ。
「犯人はもう分かってます。」
零の片眉がピクリと動いた。それだけでも、会話が出来ているような気がして、張りつめていた緊張の糸がほんの少し解ける。
「そうなの!?」
先に反応したのは奈海だった。
「言ってなくてごめんね。」
「それは別にいいけど。犯人が分かってるってどういうこと?」
「お姉ちゃんが教えてくれたの。」
「美希さんが?」
「うん。」
零は、胡散臭い、とばかりにため息をついたが、気にしないことにする。
姉の霊が現われるようになったのは、真夜中のあの出来事が起こった日から三日くらい経ってからだ。
夜、枕元に姉がいるような気がして目を覚ますというのを繰り返していた。初めは気配を感じる程度だったが、そのうち、段々と気配は姉の姿へと変わった。
姉は、必死に何かを伝えようとしていた。口を動かして何かを言っているのだけれど、どうしても声を聞くことは出来なかった。
でも、昨日の夜、ついに何を言っているのかがわかった。姉は、自分を殺した犯人を必死に教えようとしていたのだ。やっぱり、そうだと思っていた。
「お姉ちゃんを殺したのは、婚約者の佐田亮です。」
優希は自信を持って、犯人の名を告げた。