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HEALERS  作者: KBX
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第二章 対立と協力 中

 港町を奪還したことで、中央大陸南東の街との連絡も可能となった。

 中央大陸は中央に存在する“破滅の大地”の部分をくり抜くとドーナツのような形になるのだが、東方の部分は海から中心部まで山脈が連なっている。その山は火山だったり、危険な物質や植物が生い茂る山で構成されており、人間が近づける場所ではなかった。

 そのため、中央大陸で人間が生存できる地域は、ちょうどアルファベットのCと同じ形になる。

 よって、Cの最も下の部分に存在する港町を奪還したことは、大陸全体の四分の一ほどの街や資源を得ることを意味する。

 まず、一日ほどして港町の東側に避難していた人々が帰ってきた。

 西側の被害が大きいのは変わらず、そこに住居を持っていた者は東側に存在していた宿舎を利用したり、不幸にあった人間の家に住み着いたりしていた。かなりの人数が殺されたのか、建物の数は十分だった。

 これにより、魔法派の戦力は増大することになる。


「ミスト王女、よくぞお戻りになられました!」

 大きな城の前で、エストは城の警備兵からそんな言葉を受けていた。

 傍らには、港町で出会ったナナミという女性。そして、その周りにいた護衛兵たちが、二人の左右に並び、門への道を開けた。

 中央大陸に存在するグラニエル王国、その王城は黒い石造りの大きなものだ。朝の太陽の光が照りつけ、輝いて見える。堀や囲いなどはなく、美しい左右対称で中央が高く、手前にはバルコニーが見える。その直下に存在する木製の大きな門には、左右に開くのか大きな取っ手が見える。

 エストがナナミと共に下着を買った町から二日ほどして、エストはグラニエル城の城下町、この大陸の最も北にある場所へと辿り着いた。

 今、門の前にいる兵士の手によって、城門が開かれようとしていた。

 兵士は扉の下の部分にあった、わずかな隙間に指を入れると、いっきに持ち上げた。ガラガラという音を立てて木の扉は持ち上がり、上にある城の壁の一部に吸い込まれる。

 上かよ!

 エストは思わずツッコミそうになったが、周りの人間がさも当然のように反応がないので、辛うじてこらえた。

 エストは今、ミスト王女という人と間違えられてここに連れてこられている。軽卒な行動は、控えるべきだった。

 今日は上なのね、とエストの隣にいるナナミが呟くように言った。今日は、ということは別の方向の時もあるのか?日替わりで開く方向が変わる扉ってなんなの?エストは気になったが、これ以上気にしても仕方ないかと思い、考えるのをやめた。

 城内に入ると、赤い絨毯の上に少し豪華な赤いローブを羽織った小太りの男が立っていた。髪は薄く、少し頭髪がはげており、それなりに歳を取っていると思わせられる。目を開くと、左目が青く、右目は黒い、オッドアイだった。

 彼の背後には王座が一つ見え、その上には誰かが座っている。部屋の左右には他の部屋に繋がっているであろう扉が見える。

「お帰りなさいませ、ミスト王女」

 男が、エストに向かって頭を下げる。え、ええ。などとエストは言ってみる。特に問題はなかったようで、その直後、ナナミのほうに向き直った。

「ようこそ、ナナミ様。お話は伺っております」

「ええ、お久しぶりです。大臣様」

 大臣様。つまり、この男が大臣、国で二番目ぐらいに偉い人だ。なるほど確かにそれらしい格好をしている。エストはそう思ったが、もちろん言わなかった。

 よく見ると、後ろの王座には自分そっくりの茜色の髪の女性が座っている、いや、少し体を傾けて眠っているように見えた。

 大臣が少し左に移動して、更に奥の王座の女性をよく見ると、

「ん……?」

 その女性と王座、さらに部屋の奥の様子は、全て壁に描かれた絵だということに気づいた。広く見えるこの部屋は、実際には左右の扉のみが使用できる短い通路だったのだ。

 入り口の扉といい、どうして王城がカラクリ屋敷のようになっているんだ。エストには分からなかったが、ナナミと大臣がさも当然というように左側の扉へと向かおうとするので、エストはなんでもないフリをして後に続いた。

 扉をくぐった先にある廊下は、すぐに行き止まりになっていた。光源となる白い常光石が左右の壁の高い所に設置されている。入ってきた扉以外に、扉や出口は見当たらない。また何か仕掛けがあるのだろうか。

 常光石は、衝撃を加えなければ発光しない発光石とは違い、常に弱い光を発し続ける。大陸北西の高い山の表面に少量存在する貴重な岩石だが、さすがは中央大陸で最も位の高い者が住む城だ。贅沢に使われている。

「では、細かい事は後ほど……お疲れでしょうから、ゆっくりお休み下さい」

 そう言って、大臣は入ってきた扉から出ていって、行き止まりの廊下から姿を消した。黒い石壁と白い常光石で囲まれた廊下に、エストとナナミが取り残される。

 さてどうしようかとエストが思っていると、ナナミは笑顔でこちらを向いて、

「合い言葉、何だったかしら?」

 そう問いかけてきた。

 合い言葉……?この部屋の仕掛けは、何か特定のパスワードを入力すれば先に進めるようになっているのだろうか。エストはそう思ったが、合い言葉など当然知るわけがない。しかし、ここで先に進めなければ、王女を偽った者として、無事ではすまないだろう。

 とっさに思いついた言葉を、エストは口にする。

「ひ、ひらけごま〜……」

 なんてベタな。

 我ながら、エストはそう思った。ジョンならこういう時、もっと格好よく長い口上をしゃべれるんだろうな、とも思った。

 その瞬間、廊下の右側の壁が動いた。右奥の壁の一部がまるで扉のように横に開き、その先に通路が現れたのだ。

 この国大丈夫かな。エストはそう思った。

 ナナミは何も言わず、笑顔のままエストより先に通路の先に進む。


 港町にやってきた人々の中に、エストの姿は見当たらなかった。

 数日待っても現れず、街の戦力が十分なことと、

「……もう、殺し合いは、やりたくないな……」

「うん……」

「全く同感だ。こんなのは、ゲームの中だけで十分だ」

 特にイーニッドとシリア、ジョンの戦意がほぼ喪失されていることにより、エストが帰ってきたら星の村に来るよう伝えるように神父にお願いして、三人と、

「あ、僕そもそも戦えないんで、引っ込んでていいですか?」

「おめぇ、丸腰で戦場にいたのかよ。すげえガキだな」

 レスラーに感心されながら、エイトも一緒に星の村に戻ることとなった。

 エウナは、相変わらず第一線で戦い続けるらしい。

「ヒーラーは安全なところにいたほうがいいし、こっちの戦力も十分よ。お疲れさま、みんな。楽しかったわよ!」

 そう言って、港町を出る四人に別れを告げた。

 エウナは無邪気に手を振って、四人を見送った。彼女は今まで何をやってきて、何人を永遠の眠りにつかせてきたのだろう。彼女に問う者は、誰もいなかった。


 中央大陸での機械派と魔法派の戦いは、概ね魔法派の有利のように見えた。

 あてにしていた他国からの援軍をレスラー海賊団によって打ち切られ、エイト曰く旧式の銃、それも数が足りず槍や弓を使用する機械派の戦力で、魔法の力に抗うことは難しかった。

 魔法派は戦線を除々に押し上げ、ついに北方と南方の中間、鉱山と森の生い茂る山がぶつかっているところにある町を制圧することができた。

 魔法派の士気は、最高潮だった。機械派を、王国兵を殲滅せんといわんばかりに。


「レスラー海賊団!ってことは、あの人がレスラーだったのか!?」

 星の村の教会、講堂の椅子に座って、ジョンとエイトが話していた。

 神父が不在のため、教会はエイトが寝泊まりして管理することとなった。村の人間のほうがいいのでは、という声もあったが、親としても我が子が心配で家に置いておきたいらしく、唯一親がいないイーニッドはこの時期にやらかされると目も当てられないため、エイトが一人で住むこととなった。それでも心配して、ジョンとイーニッドの少なくともどちらか一人は、毎日教会を訪れてそこで過ごすようにしている。

 エイトは教会に置いてある資料を読書の代わりと毎日目を通しながら、訪れる人との雑談に興じていた。今日のジョンは、マントはなし。

「有名な人なの?」

「ああ。レスラーといえば、かの『災厄の四魔神フィーア・カタストロフ』のうちの一人だ」

「フィーア……」

 これはジョンが勝手に呼んでるだけだな、エイトはそう思った。実際にその通りだった。

「強力な魔法すぎて、使う度に災害レベルの現象が起こる魔法の使い手をそう呼ぶんだ。ちなみに他の魔法使いはシスドラ、ゴーウィル、サイトウ、ミラクリシアって人たちをそう呼んでる」

 四魔神なのに合計五人いるとか、同じ国の人っぽい名前の人がいたとか、そういうツッコミはしても仕方ないのでエイトは心の中でそう思うだけにした。

「ちなみにゴーウィルとミラクリシアは故人だ」

 三魔神になっておられましたか。エイトはそう思うだけで口に出さない。

 代わりに、二つのことが気になったエイトは、ジョンに質問した。

「ちなみに、レスラーさんはどんな魔法を使うの?」

「クエイクだ。地震の魔法だな」

「地震……」

 それは確かに強力な魔法だ。地震といえば、大地を震動させる自然災害で、エイトの国でも酷い時には何百人という人が犠牲となる。それを意図的に起こせるとなれば、特別な存在とみなされるのも納得だ。

 が、

「……海賊、だよね?」

「ああ」

 海賊であるレスラーの生活域は海の上だ。

 レスラーという名前で、海賊で、魔法が地震。

 なんてミスマッチな人だろう。エイトはそう思った。

 そしてもう一つ、気になったことを質問する。

「あと、サイトウって、たぶん名字だと思うんだけど、フルネームは?」

「サイトウ・マサユキだったと思うぞ……名字?」

 ああ、やっぱり。

 エイトは薄々感付いていた。この大陸の人は、自分のことをハズカシと呼ぶ。エイトの国では、初対面の相手とは基本的に名字で「羽束師さん」などと呼ぶが、そういうわけではなかった。

 この国では、名が先で性が後なのだ。だから、名前がハズカシだと勘違いされていて、皆がハズカシと自分のことを呼ぶのだ。

 エイトはその旨をジョンに伝えた。

「は、逆!?」

 ジョンは心底驚いていた。

 今度からはエイト羽束師と名乗らなくちゃな。別の国で自己紹介するみたいだ。ってそういえばここは別の国だったな。

 数日前にジョンから聞いた、言語統一戦争についてエイトは思い出した。どうも、人の名前なんかは統一されずにそのまま残ったようだ。

「つまりお前は、エイト・ハズカシだったんだな?」

「まぁ、そうだね……呼びやすい方で呼んでくれて構わないよ」

 エイトがそこまで言った時、教会の扉が開いた。


 最近、怖い夢ばかりを見るようになった。

 自分は、崖を背にして何者かと戦っている。

 戦っているのは自分だけではない。何人もの戦士が、魔法使いが、自分と共に何者かと戦っていた。その中には、見知った顔があったような気もする。

 何者かは、圧倒的に強い。いくら攻撃を加えても、傷つく様子がなかった。

 そのうちに、何者かとの戦いで傷つく人達が現れる。

 自分はとっさにヒールをかけるのだが、ヒールをかけた人は例外なく、

「いやだ……いやだ……」

 そう呟きながら、自ら崖の下へと足を運び、落ちていくのだ。

 そのたびに、誰かの叫び声が聞こえた。

 今度は大丈夫だと思って、または条件反射的に、他の人にヒールを使っても、人々は崖下への投身自殺をやめない。

 そうして、自分のまわりから人がいなくなった。

 自分が何者かと戦わなければいけない。

 そう思った瞬間に、いつも目が覚めるのだった。


「さて、あなたはただのそっくりさんかしら?」

 ベタな合い言葉で開いた扉の向こうにあった廊下には、さらに一つ扉があった。その先には、一つの大きな部屋があった。

 入ってすぐ右手には、いかにも偉い人の寝床といった天涯付きの一つの大きなベッドがあり、部屋の右の壁、ベッドの隣からはいくつもの大きなタンスが並んでいる。左の壁には本棚が並び、向こうの壁は大きな窓のそばにイスと机が設置してあった。部屋の中央には大きめの常光石が光源として設置されており、それに覆いかぶせて光を遮断するための大きな黒い布が隣に落ちていた。床には、今エストが立っている付近以外の場所に絨毯が敷いてある。

 エストがナナミに勧められて、ベッドに腰をかけたところで、ナナミがエストにそう問いかけた。

 バレた。

 エストの背筋に寒気が走った。

 まぁ、ここまで誰にも偽物の王女であるとバレなかったほうが奇跡、というかおかしいのだが。

 エストが返答に窮していると、

「ふふ、別に何もしないわよ」

 ナナミは笑顔でそう言って、再びエストの返事を待つ。

 確かに、あたしをどうにかするつもりなら、こんなところまで連れてきたりしないか。多分、この人は分かっていてここまで連れてきてくれたのだろう。

 エストはそう思って、今までの経緯をナナミに話した。

 自分は星の村出身の人間で、港町にはちょっとしたお使いで来ていただけということ。そこで人を探していたところに、ナナミと出会ったということ。

「あら、ホントに赤の他人だったのね。ごめんなさいね、巻き込んで」

 ナナミはそう言って、エストに謝った。

 謝ってから、

「それで、エストちゃん?ここまで来ちゃったら戻るに戻れないから、しばらくここで王女様のフリをしていてくれないかしら?」

 笑顔のまま、ナナミはそう言った。

 エストとしても、ここで放り出されても星の村まで辿り着く自信はなかった。選択権はほぼないが、とりあえずうなずくしかなかった。

「ありがとう。じゃあさっそく、覚える事を覚えないとね」

 そう言うナナミは、どこか楽しそうだった。まるで、新しい娘ができたかのようだった。


 開かれた教会の扉から、入ってきたのはシリアだった。

 よく見ると、少しげっそりしているように見える。港町での一件が、まだ心にのしかかっているのだろうか。確かにあれはキツかったからな。ジョンはそう思った。

 エイトには、更にピンクの人形も見えた。初めてシリアと出会った時のように、ぼんやりとした雲のようだ。しかし、その人形も、何か疲れているような、苦しんでいるような、そんな印象を与えた。

「あれ、イードは……?」

「今日は家にいると思うぞ。大丈夫か?」

 ジョンがそう答えたが、そう、とだけ言ってから、シリアは教会を後にした。

「大丈夫かな、あいつ」

 ジョンがそう言って、エイトに向き直る。

「ねえ、精霊ってどんな形なの?」

 エイトは、先ほど見えたピンクの人形が気になって、ジョンにそう問いかけた。

 エイトは、数日前に、シリアに精霊が見えるのかと問われた。問われるということは、自分が精霊が見えているのでは、と思わせる何かがあったのだろう。そうエイトは推理して、心当たりといえばあの人形の雲だけだった。

 ジョンからの返答は、

「そういうのはシリアに聞けばいいんじゃないか?」

 こうだった。

 というわけで、二人はシリアを追って教会を出た。

 外は今日も晴れで、お昼の太陽が暖かく村を照らしていた。


 ミスト王女は、生粋の変わり者だったらしい。

 城は面白くないからといってカラクリ屋敷のように改造し、男女問わず下着を集めることが趣味だった。集めた下着は、部屋の壁に並ぶタンスに収納されているらしいが、エストは見る気が起こらなかった。

 その王女は少し前に行方不明になったらしい。

 ナナミは、先代の女王、つまりミスト王女の母親の友人で、ミスト王女ともよく遊んでいたようだ。ところが、彼女の国に不幸が起こり、困った時はこの国に来なさい、ということで中央大陸に訪れたらしい。

 大臣は、昔から魔法が嫌いな性格だったらしい。原理が分からない物には頼りたくない、生真面目な性格だったようだ。しかし、戦争になるとは思っていなかったが、どうも王女が失踪したことが関係しているらしく、王女が戦争への歯止め役となっていたようだ。

「あの、お一人でこの国にやってこられたのですか?」

 一通り聞いてから、気になっていたことをエストはナナミに問う。

「連れがいたんだけどねぇ、あの騒ぎではぐれちゃったのよ。まぁきっと、どこかで上手くやってるわよ」

 連れは自分の息子だ、ということはナナミは言わなかった。

 その後、一通り質疑応答を終えてから、ナナミは部屋のタンスを物色し始めた。ベッドの隣のタンスを開くと、中から男物の洋服が出てきた。他のタンスには下着しか入っておらず、男女問わず様々な下着がコレクションしてあった。

「昔から、こういう服ばっかり着てたわね。あの子ったら」

 ナナミは懐かしく思いながら微笑む。

 ミスト王女は、城をからくり屋敷に改造して、パンツコレクターで、男装癖。

 本当にこの国大丈夫かな。エストは心底そう思った。

「王女様失踪してるし、戦争してるし、大丈夫じゃないんじゃない?」

 ナナミは、出した物をタンスにしまいながらそう言った。

 心を読まれたことに対するツッコミをする体力は、エストにはもう残っていなかった。

 ……戦争?

「戦争って……?」

 何も知らないエストは、ナナミに問いかける。

「あら、前から言ってたじゃない。魔法使いを全滅させるために、大臣が戦争をしようと思ってるかもって……」

 そこまで言ってから、

「そういえば、あなたは赤の他人だったわね」

 ナナミはそう言い直して、今世界で起こっているであろうことを、エストに説明し始めた。


「ふーん……そんな夢を見るのか」

 イーニッドの家で、シリアはイーニッドと会話をしていた。内容は、シリアが最近見る怖い夢について。

「シリアはいつも、精霊と一緒にいる夢を見るんだろ。てことは、その精霊が考えてることが夢になってるのかもしれないぜ」

 イーニッドがそこまで言ったとき、家の扉がノックされる。

 扉を開けると、ジョンとエイトが立っていた。

「よう。シリア、いるか?」

「ああ、来てるよ」

 ジョンとイーニッドは短い会話を交わしてから、一緒に家の中に入る。エイトも後に続いた。

「おじゃましまーす」

 そう言ってから、玄関で靴を脱ぐ。

 家の中は、閑散としている。家を火事にした経験から、イーニッドは家の中に余計な物を置かないようになった。広いスペースに、シリアが一人座っている。

 ジョンは挨拶もそこそこに、

「なあ、精霊ってどんな見た目してるんだ?」

 シリアにそう尋ねた。

「どうって……うーん、ぼんやりしてて、光の影みたいで、ピンク色で……」

 シリアは首を傾げながらそう答える。

 エイトが見た、今も見えているピンクの雲とは、曖昧なピンク色という点で共通しているように見えた。

「夢の中で話してるってことは、言葉も通じるのか?」

「たぶん」

 ジョンがそう言って、エイトのほうをちらっと見る。精霊が見えているなら、話しかけてみろ、という合図のように見えた。

 といっても、どう話しかけたものか。見るからに、目の前のピンクの雲は落ち込んでいるように見える。

 エイトは少し考えて、

「気にしない方がいいんじゃない?」

 そう発言した。

 自分に向かって発言されたのだと感じたのか、ピンクの雲は少し慌てた素振りを見せてから、エイトにも見えなくなった。

「うーん、そうかな」

 そう答えたのは、シリアだった。シリアには、精霊の姿形については気にしなくてもいい、というふうに捉えられた。

「なんだ、自分で言い出しておいて……まあいいが」

 ジョンもそう言って、それからはたわいもない雑談で時が過ぎていく。

「え、お前、エイトのほうが名前だったのか!?」

 先ほどジョンが発見した事実にひとしきり驚いて、夕食の時間まで過ごしてから、その日はお開きとなった。


「戦争を止めさせることって、できないんですか?」

 事の次第を聞いたエストが、ナナミに向かってそう言った。

 ナナミは、静かに首を横に振った。

「残念だけど、こうなってしまったら途中で止めさせるのは難しいわ。今はおとなしく、待つしかないでしょうね」

「そんな……どうして、魔法を使うことは悪いことじゃないのに」

「確かにそうかもしれないけど、魔法が人に危害を与えることだってあるでしょう?」

 確かにそうだ。自分の家を何度か火事にしている友人のことを、エストは思い出した。しかし、それで戦争を起こして、魔法を根絶やしにすることなど、あってはならない。

「残念だけど、一つの側面からしか物事を見られない人が、世の中には沢山いるの。そういう人を説得するためには、何か『きっかけ』がなければダメよ。あなたは、その『きっかけ』を持っているかしら?」

 ナナミはそう続ける。

 きっかけ、それが何のことなのか、エストにはよく分からなかった。ただ、王女のフリをして戦争をやめろと叫ぶだけでは、ダメなのだろうか。

 エストが頭の中を熱くしていると、そこに少し冷たいナナミの手がポン、と置かれた。

「少し休憩して、ここの暮らしに慣れましょう。何か甘いものを持ってきますからね」

 そう言って、ナナミは本棚のほうに向かっていった。たくさん並んでいる本のうち、

「どれだったかしら……?」

 そう言いながら、青いカバーの本を引き抜く。すると、本棚が勝手に動いて、新たな廊下が現れた。

 そうだな、まずはこのヘンテコなお城に慣れなくっちゃ。

 着物姿のナナミが、一度エストのほうに振り向いて、微笑んでお辞儀してから、その通路のほうへと姿を消した。

 私は、あなたの味方ですからね。

 エストは、ナナミからそう言われた気がした。


「上上右右左A、B、A、左A!オープン!」

 エストがグラニエル城にやってきてから数日後、エストはこの城の構造をおおよそ把握しきっていた。

 コマンドを入力して、自室の本棚を動かし、通路を出現させる。

 その先には、大きな設備がある部屋へと続いていた。

 凡人が見ても何がどうなっているか分からないが、それが機械をいじるための設備であること、程度には理解できるだろう。星の村にいた頃は機械いじりが趣味だったエストにとっては、楽園のように見えた。

 まだ太陽が昇ってから時間があまり建っていなかったが、そこで過ごす人達は既に集まって、作業を始めていた。

「おお、王女様!おはようございます!」

 エストに気づいた人達が、エストに向かってお辞儀とあいさつをする。

「おはよう、みんな!」

 そう言ってから、エストも自分のやりたいことをやり始めた。

 部屋のタンスには男物の服しかなかったが、こういう作業をする場合にはむしろ都合がよかった。汚れが目立たないためなのか、黒色のものが多かった。

 なお、下着については、

「あの、下着ってどれを使えば……」

「あら、あの子はそんなもの穿かなかったわよ?」

 ナナミ曰く、自分で穿いて汚してしまうのが嫌だと言って一日中ノーパンで過ごすらしい。城へ向かう途中、下着を購入したものの穿かせてくれなかったのはそういうことだったのか。

「私も下着はつけないから大丈夫よ、ほら」

 ナナミはそう言って、二児の母とは思えない程綺麗な肌を、ちらりと着物の間からエストに覗かせた。ナナミの国の文化では、着物の下に下着はつけないという文化があるのだが、エストはもちろん知らなかった。

 そういうわけで、エストは今日もパンツを穿いていない。馴れれば意外と快適だった。ちなみにブラの方は、恵まれた体格のため必要としていなかった。

 ナナミがここに朝食を持ってきて、一日中機械いじりに精を出す。たまに城の中を散歩したり、ナナミと一緒にグラニエル城の近くに広がる城下町に遊びに出たりして、それなりに楽しい生活を送っていた。

 そうして、また数日の時が流れる。


 もう少し早く、気づくべきだった。その可能性を。

 エイトは後悔したが、それよりも逃げて、生き延びることに必至だった。


 風が強い日の、夕暮れ時だった。

 エイトが中央大陸についての文献を読んでいるところに、ジョンがやってきた。

「どうだ、何か面白いことあったか?」

 そう言いながら、講堂で本を読んでいたエイトに話しかける。

 今日は夕食の時間までジョンが教会を訪れていて、夕食間際にエイトが何かを思いつき、資料を漁り始めた。一度自宅に帰ったものの、気になったジョンが夕食を取ってから、マントを羽織って再び訪れていた。

「あのさ、この“破滅の大地”って、ホントに人は通れないの?」

 中央大陸の中心部に広がる“破滅の大地”の言い伝えの数々は、確かに常識で考えれば、そんなバカな、と思う。入った人は帰ってこない、と言われているが、そのような危険で無視できない場所なのに、どのような地形になっているのかという文献を、エイトは見つけることができなかった。

「ああ、そのことか。気になって俺も調べたんだよ」

 一人称が俺なのか我なのか定まらないジョンは、エイトに自身の調査結果を伝えた。

「結論から言うと、その通りだ。何回か調査に入った例があるんだが、その人達はことごとく行方不明になっている。おそらく息絶えたんだと思うぜ」

「そうなんだ」

 エイトがそう返事した。疑問は深まるばかりだが、

「でもな、帰ってきた例もあるんだよ」

「マジで!?」

「つっても……」

 ジョンはそこで、一度言い留まった。本人たちがいない間に、この話をするのはどうかと思ったが、エイトにならいいか、と思って、再び話し出した。

「実際に行ったのは二年ほど前、シリアとイードと、エストの三人だ。しかも少し侵入してから急いで引き返したらしいからな」

「へぇ……」

 よく知る二人が当事者だったことと、ジョンがその場にいないことにエイトは驚いたが、

「じゃあ、横断はできないけどふちを沿って歩くことはできるってことか……」

「そうだな……」

 そちらのほうに意識が向いてから、今この大陸で行なわれていることを思い出した。

 その瞬間、星の村を怒号と銃声が包み込んだ。


 エイトの推理は、少し外れていた。

 王国の兵士は、山の中を、山を越えながらこちらに接近してきていたのだ。

 そうして進むうちに、この星の村に突き当たった。

 丁度この辺りは、港町に近い。押さえられれば、機械派は大きな足がかりを得られることとなった。

 エイトとジョンは、一目散に教会を飛び出した。正面からではなく、森に近い裏口からだ。

 兵士たちは、当然村から逃げる者を阻止するため、村の出口を固め、そちらに意識を集中させた。お陰で、エイトとジョンはそれほどの数には気づかれなかったが、走っているところを一人の兵士に気づかれ、ぱあん、と発砲された。

 弾丸は二人には当たらなかったが、ジョンが前から倒れる。

「ジョン!」

 エイトはそう言うが、少し振り返るだけで走り続けた。ジョンの腹部辺りから、赤い液体がしみ出している。

 しかし、二人を見つけた兵士は、再び弾を装填すると、倒れているジョンの背中に発砲する。

 命中した、と思った瞬間、ジョンは立ち上がってエイトと同じ方向に走り出した。地面には、つぶれたトマトが放置されている。

 心無しか、ジョンの走る速度が早くなっており、すぐにエイトに追いついた。

「くそっ、同じ手は通じぬか!」

 ツッコミを入れている余裕は、エイトにはない。

「どうするの!?」

「走れ!森の中には、あいつがいる!」

 あいつって誰、と問いかける余裕も、エイトにはなかった。

 二人は一目散に、森の中へと走る。

 森では、木々が邪魔になって銃は使いにくいようだった。

 どうやらジョンに撃たれた二発目は、マントのカモフラージュのお陰で体には直撃しなかったらしく、ケガはしていなかった。

 二人は、夜の森の中を走る。二人とも後ろに目はついていないので、誰が追いかけてきているかは分からなかったが、たまに発砲音が聞こえるので、敵に追われていることに間違いはなかった。

 先はよく見えないが、とにかく前に走った。山道なので、少しずつ降りながら走る。

「いた!」

 ジョンがそう叫んだ直後、いきなり辺りが明るくなった。

 ジョンが振り返って、エイトもジョンの後ろに回ってから振り返ると、大きな炎が木々の向こうに見えた。

 丁度、星の村の辺りの位置だった。

「イード……」

 ジョンがそう呟いた。

 なるほど、炎の魔法で村に火をつけ、付近の港町に異常を知らせる。そういう作戦だと、エイトは認識した。ということは、この瞬間までまだイーニッドは生きていることになる。

 そして、その手前に、やはり少し後ろを振り返った追っ手の姿が見えた。数は三。一人が銃を持ち、残りの二人は槍を持っていた。

 その直後、ジョンの右側から、何か大きな物が現れて、ジョンと兵士の間に割って入った。

 大きな爬虫類のような体に、深緑色のウロコ。大きな頭部には鋭い牙が光り、背中には大きな翼を持つ生き物。

 エイトもよく知っているが、実際に見るのは初めて、というか架空の生物のはずだった。

 ジョンがいつか見たドラゴンが、兵士達の前に立ちはだかった。

「……は?」

「任せた!」

 ジョンがドラゴンにそう命じてから、発砲音が聞こえた。

 ドラゴンに向けて、兵士が発砲したのだ。しかし、深緑色のウロコは傷さえつかない。

 ドラゴンは、大きな頭を少し後ろに下げた。

「耳ふさげ!」

 ジョンがそう言って、エイトが耳を両手で塞いだ直後、

「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 ドラゴンの強烈な咆哮が、兵士達を襲った。耳を塞がなければ、鼓膜が一瞬で吹き飛ぶほどの音量だ。

 兵士達はまともにこれを受け、次々としりもちをついた。

 ドラゴンは、大きな頭をこちらに向けてから、すぐに兵士達のほうに向き直った。

「借りは返したぞ、ってか」

 ジョンがそう呟いて、

「さあ、逃げるぞ!」

 いまだ呆気に取られているエイトの手を引いて、その場から走り出した。


 ドラゴンの咆哮は、山をも越える。

 その音で、悪夢にうなされていたシリアはようやく目を覚ました。

 目を覚まして、村を襲っていた異変に気づく。

 が、遅かった。

 慌てて部屋から出ると、そこに飛び込んできたのは自分の母の無惨な姿だった。

 シリアは顔を引きつらせながらも、とっさに叫んだ。

「ヒール!」

 しかし、効果は現れない。彼の母親は、既に息絶えていた。

 さらに、運の悪いことに、

「お前、回復魔法でも使うのか?」

 そこにいた、剣と銃を持った兵士達に、気づかなかった。

 シリアは、兵士達と共に燃え盛る星の村を後にすることになった。


 その日の夕食が終わった頃。

 港町にいたレスラーは、夜風に当たろうと教会から外に出た。

 戦争の経過は、上々と言えた。戦線は中央大陸の半分以上まで押し上がり、ケガ人も現地の処置だけで十分なほどに被害を受けていない。港からは他の大陸の魔法使い達も次々と上陸し、戦力も日に日に増している。

 暗くなり始めた夜空の下で、少し強めの風を浴びる。端から見るとレスラーの格好は寒そうなのだが、本人は平気だった。

 そんな時に、町のちょうど北にある山から、火の手が上がっているのが見えた。

 最初に気づいたのは、レスラーではない。港町の教会の扉は、海に向かって設置されているので、火は教会の裏側に見える。周りの人間が火事だと騒ぎ出して、教会の左側に回ることで初めて視認できた。

「あれ、星の村の辺りね」

 突然、レスラーの隣から声が聞こえた。

 驚いて声のほうを見ると、明るい茶髪を夜風に舞わせながら、エウナが先ほどレスラーが見ていた辺りと同じ方角を眺めていた。赤いスカートも、めくれない程度に風に揺られている。

「おわっ、お前、前線にいたんじゃないのかよ」

「それはいいから、早く火を消せる魔法使いを集めて」

「……そうだな」

 レスラーはそう言って、教会の中へ戻ろうと身をひるがえす。

 ちょうどその時、

 ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!

 という、何者かの雄叫びが港町に聞こえてきた。

 レスラーの動きが一瞬止まったが、何にせよ教会の仲間に異変を知らせるのが先決だ。今の謎の雄叫びで、気づいた者もいるかもしれない。レスラーは雄叫びを無視して、教会に向かって走り出した。

「あの子たち、大丈夫かしら……」

 エウナは、雄叫びに怯むことなく、そう呟いた。呟いて、街にいる人間に、協力を要請するべく動き出す。

 ほどなくして、水の魔法が使える者を含む集団が完成した。

 レスラーの魔法は地震を発生させるクエイクという魔法で、うかつに自陣で使えるものではない。星の村の一大事だが、神父は前線のほうに向かっていて、この場にいない。結局、エウナが先陣に立って、その集団は燃え盛る星の村へと出発した。


 エウナが星の村に出発してからしばらくして、

「俺なら、火はつけずに制圧してからこの街を奇襲するな……」

 レスラーが、星の村のほうを見ながら呟いた。

 村のほうの火は既に消えている。エウナ達が鎮火したのだろう。

 報告を待っていると、自分の元を訪れたのはエウナではなく、

「あ、レスラーさん!」

「おお、あの方が伝説の……」

 エイトとジョンの二人だった。


「読心術、ですか?」

 風が強い日の晩のこと、王城の自室でエストとナナミが会話をしていた。

 寝間着なら、下着がないことも気にならない。寝間着は女の子らしい可愛らしい物だった。ミスト王女が王女という立場をアピールしたい場合は、女物の服やドレスも普通に着ていたとナナミは言っていた。その時下着を履いていたかどうかは定かではない。

 ナナミのほうは、いつもどおりの着物だ。どこに替えを用意しているんだろう。

「そう。相手の表情や動作なんかで、心の中が分かったりするものよ」

「へえ……」

「どう、覚えてみない?」

 この人はそんなことができるのか。エストは感心しつつ、自分が使えるようになったらどうだろうと考えた。

 考えて、考えようとした直後に、

「といっても、最初からマスターするのは難しいわね。だから、まずこの子の気持ちから練習しましょ」

 そう言って、どこからかネコのぬいぐるみを取り出した。

 少しでも真剣に考えようとしたあたしがバカだった、エストはそう思った。


 シリアは、山の中を歩いていた。

 周りには、帝国の兵士が自分を見張り、全員が鉄の鎧を装備し、一人はこちらに銃口を向けている。

 腕は後ろ手に縛られ、指を差して魔法が使えないようにされていた。といっても、癒しの魔法でどうにかできる状況ではないが。

 空はすっかり暗く、強い風が吹いている。しばらくすると、軍隊のキャンプらしき場所が見えてきた。いくつかの三角形のテントが張られ、シリアの周りにいる兵士と同じ武装をした人間が数人、警備にあたっている。

 しばらくその中を歩いて、一人の女性の兵士の前に連れてこられた。

「報告します!」

 シリアの周りの兵士たちがそう言った。敬礼などはしない。

「回復魔法の使い手と思われる者を捕らえました!」

「……それで?」

 女性が、すこし低い声でそう答える。少し長めの金髪で、後ろで髪を纏めてポニーテールにしている。その手には銃が一丁握られていた。精悍な顔つきで、兵士の次の言葉を待つ。どうも、この人が隊長格のようだ。

「これから捕虜として、我が軍の癒し手となってもらいましょう!」

 うう、やっぱりそうか。

 ジョンのよくやるゲームでも、回復役が捕まったら敵に利用されるという展開はよく見てきた。敵の兵士の、それも故郷の村を襲撃した相手のいいようにされるのはとても嫌だったが、即座に殺されたり拷問されるよりはマシか、とも思えた。

「アホか!」

 しかし、女性の返事はこうだった。

「そんな意味のわからん魔法なんぞに頼るか!お前ら王国の兵士だろう!」

「す、すみません!」

 そう言って、女性は他の兵士を叱咤した。

 意外だった。

 確かに、王国の主張は不安定な魔法に頼る生活をやめよう、というものだ。それゆえに治療とはいえ魔法に頼るわけにはいかない。この女性は、よく分かっている人だと思った。

 しかし、捕虜を解放するつもりもないらしく、

「……お前、そのままこいつを連れて後陣に合流しろ。処分は上に任せる」

「はっ」

 シリアを連れてきた兵士達の一部にそう命じて、兵士達は休むことなく野営地から歩き出した。このまま山の中を通り、彼らの仲間が陣取る所まで行けば下山するのだろう。

 野営地から、シリア達が見えなくなってから、再び一人の兵士が女性の元を訪れた。鉄の鎧はすすけ、武器は持っていない。

「隊長!」

「隊長と呼ぶな!」

 隊長と呼ばれた女性は、そう言いつつ次の言葉を待つ。

 彼女は、隊長と呼ばれることを良しとしない。敬礼などの上司に本来取るべき態度を取られることも好まない。はたから見て位が高いと分かる行動をうかつにとると、遠隔攻撃ができる敵から狙撃を許すから、という理由もあるが、単純に本人が階級制度を好まないという部分も大きかった。

「村に火を放った魔法使いがおりまして、それにより港町の敵に気づかれた模様、次々と同胞が討たれています!」

「……引き時だな」

 そう言ってから、まずは報告に戻った兵士を休ませ、他の兵士にそれとなく、しかし急いで撤退の準備をするように促した。

 星の村に増援にかけつけた魔法派の人間は、深追いはしなかったらしく、彼らは無事に安全な場所まで撤退することに成功したという。


「こりゃあ、ひどいな……」

 ジョンは、星の村に戻ってきていた。

 のどかな様子だった村は、今や焼け野原だった。木でできた家が中心だった村の民家のうち、半数近くが焼け落ちていた。よく見ると、火が放たれ全焼した家屋と、火が放たれたものの消火が間に合って原型を留めている家屋、そして火が放たれていない家屋があることが分かった。無人だった石造りの教会は、中の物が多少荒らされてはいたが火は放たれていなかった。

 エイトは、火の魔法使いが誰も住んでいない家を選んで火を放ち、異常を知らせたのだと推測した。それが、火事に備えて予備の家を用意していたイーニッドによるものだということも薄々気づいていたが、そこまでの断定は行なわなかった。

 村には、死体もいくつか転がっていた。

 ジョンの家は、火こそ放たれていなかったものの、中では二人の人間の死体が転がっていた。ジョンはそれを見て、それが自分の両親の死体であると認識した時、目に涙が浮かんだ。しかし、その表情は悲しみよりも怒りに満ちていた。

「……こうなれば、我が暗黒の呪術で、奴らに裁きの雷を……」

「塩の魔法でどうやって雷を出すのさ……」

 同伴していたエイトが、隣から冷静につっこんだ。エイトにとっては、これまで散々見慣れた光景だ。剣で斬りつけられて死んだのかな、ぐらいしかエイトが感じるものはなかった。

「……雷の変換石があれば出せる」

 エイトのつっこみに、ジョンは予想外にも真っ当な返事をしてきた。とはいえ、エイトは変換石というものを知らないので、なにそれ、といつもの調子で返す。

 変換石は、魔法の力を持つ者が使うことで、魔法の性質を変化させられるものだ。例えば先ほどジョンが言った雷の変換石なら、どんな魔法でも雷の魔法を発動できる。ただし、変換された魔法の威力や規模は石の大きさに比例し、大した威力は出ないことが多い。さらに注文魔法の行使もできないことも実証されており、おまけに石自体が希少で高価なため、利用する者はほとんどいなかった。ちなみに、呪文は変換前の物で発動するため、例えば火の魔法使いが雷の変換石を利用した場合、ファイアと叫ぶと雷が落ちることになる。

 ジョンが説明し終わる頃には、ジョンの涙はあっさり止まっていた。

「ジョンって物知りだねぇ……」

 エイトは、死体が二つ転がっている家の中で、のんきにそんな感想を漏らした。

 いつも通りの態度を取るエイトに、ジョンは思わず、

「お前、この状況でよく平然としてられるよな……」

 怒りを通り越して、呆れの言葉をエイトにぶつけた。

 エイトはなんでもないように、ジョンに言い返す。

「まぁ、こういう時にいつも通りに声をかけてくれる人が欲しいって、当時思ったからね……」

「お前……」

 ジョンは、それ以上は何も言わなかった。

 さて、と言ってから、エイトは勝手に家を物色し始めた。食料、特に大量のトマトと、ジョンが読んでいたと思しき書物や小説なんかがいくつか見つかったので、後で拝借することにした。

 ジョンはトマトをズボンのポケットに補充して、

「これを使えば、父と母は助かったのだろうか……」

「いや、ダメでしょ」

 エイトに冷静かつ真っ当なツッコミを受けた。


 今回の反省を活かして、魔法派は山の中の敵にも注意を払うようになった。

 エウナはそのまま、山岳地帯の敵の排除及び制圧に回ったが、結局、最前線の戦場付近の山まで敵兵は見つからなかった。

 このため、各所から戦力を回した結果、前線を押し上げる余裕はなくなり、しばらく膠着状態が続いた。

 よって、星の村やそこに転がる死体なんかは、初日から放置されている。村にいるのも、ジョンとエイトの二人だけだった。

 教会の裏手あたりで、二人が見覚えのある、長靴を履いた人間が地に伏していた。

「イード……」

 ジョンが、彼のあだ名を呟く。

 イーニッドはうつ伏せで倒れており、腹部からは赤い液体が大地に広がっている。恐らく、森のほうへと逃げようとしたのだろう。

 しかし、彼の倒れている場所に見覚えがあるエイトは、迷うことなくイーニッドの体を転がし、顔が見えるようにしてから、頬を思いきりつねった。

「……っいててててててて!」

 頬をつねられて、眠っていただけのイーニッドはすぐに目を覚ました。腹部には、トマトの汁がべったりとついていた。

「まーた、トマトに命を救われる人が……」

 予想通りの有様に、エイトが呆れてそう言った。

「あれ?ジョンとハズ……エイト?」

 イーニッドが二人の姿を確認してから、村の様子を認識した。静かな様子から敵兵に占拠されたわけではないことには安堵するべきだが、村の人々の死体がそこら中に転がっていることのほうが彼にとって影響を与え、

「くそっ……」

 そのまま、悪態となって彼の口から出た。

 ジョンは、なぜイーニッドがこんなところで寝ていたのか本人に質問するが、

「いや、敵が襲ってきたもんで火をつけて港町に知らせようと思ってな……その後しばらく持ちこたえて、救援が来た、と思ってからの記憶がないんだよ」

 イーニッドはそんな返答。

 記憶がない、ということは、その瞬間に敵に不意を突かれたのだろうか。そして、トドメはその救援に来た人のせいで刺し損ねたか、トマトの汁と血を間違えて追撃の必要なしと判断されたか。しかし、ジョンが同じ場所で同じ手を使った時、かまわず追撃されたことから、後者の可能性は低いだろう。エイトはそう推理した。

 ちなみに、実際は救援に来た人間が、適当に範囲を指定して放った魔法の流れ弾に当たり、その効力で眠り続けていただけである。その事実を知る者は、この場にはいなかったが。

「で、そこで多分気絶して、俺が仕掛けておいたトマトの上に重なったんだな……」

 ジョンがその後の展開を予測して、たぶんそう、という同意を二人から貰った。

 ともかく、イーニッドが無事で何よりだ。ジョンはそう思うことにした。

「って、そういえば、シリアは?」

 イーニッドが思い出したかのようにそう言って、二人はまだ見ていないことを告げる。

 しかし、その後、村のどこを探しても、遺体すら見つけることはできなかった。

 そのまま日が暮れて、三人は廃墟と化した星の村から港町に戻った。


 最初に会った隊長格の女性兵以外にも、しっかりした信念を持って戦場に望んでいる者は少なくなかった。

 シリアは、機械派、王国の部隊をたらい回しにされていた。どこの隊長格の者も、魔法に頼るのをよしとしない。といって、捕虜をかかえておける余裕もないので、どんどん後陣の位の高い者に処分を任せるのだ。

 そのうち、三回ほど野宿を共にした兵士達からも同情されてきて、捕虜扱いのはずなのに兵士と変わらない食事と寝床が与えられていた。しかし、それで捕虜となったシリアの気が晴れるわけではない。また、例の悪夢の影響もあって、ぐっすり眠れずにいた。

 そうして一週間が経過し、シリアは王国の城の門の前にいた。黒い石でできた、立派な城だった。

 そこから目隠しをされ、城の中に入る。シリアは見えていなかったが、道だと思ったら道ではなく、行き止まりかと思ったら先に進める、おかしな城だ。

 次にシリアが視界を取り戻した場所は、薄暗い牢屋だった。今いる場所は、教会の実験室の壁と同じ素材でできた、ほとんどの魔法で破壊できない特殊な金属の檻の中で、牢屋の中から見て右側にある扉や鍵と思わしき部分も同じ素材だった。当然ながら、この金属はかなりの高級品で、そのためか、牢屋はこの一室しかない。そのせいか、一人分の牢屋としては若干広めだ。床や壁は、少し堅い黒い土が剥き出しになっている。光源はろうそくで、薄暗い。牢の前には廊下が続いており、曲がり角の位置まで牢屋から見えるが、その先には見張りの人間がいる。魔法を飛ばされるとたまったものではないので、かなり距離が離れた安全な場所にいるようだが、癒しの魔法しか使えないシリアにとってはどうでもいいことだった。


 精霊の世界では、人間と不用意に接触することを禁じられている。それでも、それに納得いかなかったヒールは、積極的にお気に入りの少年、シリアと共にいた。

 人間が魔法と呼ぶ、精霊にとっての『遊び』を始めたのは大昔、それこそ数千年前、人類が誕生して間もない頃の話だ。名前を言い当てられたら人間の世界に干渉しよう、誰かがそう言い出したらしい。これが精霊達の間で流行となり、いつしか慣習となった。そのエネルギーは名前を言い当てた人間から拝借して、身体に影響が出そうなら警告を与えてから干渉をしばらくやめる。取り合いになったら面倒なので、一人の人間に付き合う精霊は一人まで。この辺りも、なんとなく決まったルールだが、直接自分達の存在を示唆することは危険だとして、堅く禁じられていた。

 しかし、ヒールは、人間と会話することを好んだ。もっと交流したいと望んだ。最初は彼の夢の中で、最近はいつも隣にいて、彼と共に過ごすことにしていた。彼がそれをどう思っていたかは分からない。普通の人間には、現実では彼女の声は届かないのだ。

 シリアは、ヒールを気遣っているのか、自分の怪我は極力自力で治すように努めていた。それでも友人には迷わず魔法を振り、警告を与えても自分の身を省みないところが、ヒールはますます気に入っていた。

 そのシリアが、今は敵意を持つ人間に囚われてしまっている。腕を縛られた時にできた痣や、山を移動中にできた傷などは、それとなく治癒することで気づかれずに干渉できたが、大きな力を瞬間的に発する場合は、シリアが魔法を使う素振りを見せなければならない。さもなくば、精霊の存在を人間達がはっきりと認識しかねない。そうなったら、この『遊び』は終わりだった。


 その晩、シリアは久しぶりに、精霊ヒールの夢を見た。

 実は、港町の一件は、ヒールの心に大きなショックを与えた。これまで、癒しを与えて感謝こそされ、恨まれることになるとは思いもしなかったからだ。自分の存在の否定に悩まされ、彼女は気づかなかったが、それがシリアの悪夢の原因となっていた。

 心なしか、いつも上に立っている雲が、暗い。

 ヒールが現れてから、話しかける前に、

「ヒール、大丈夫……?」

 シリアが、ヒールにそう話しかけた。

 こんな時でも、シリアは精霊の自分のことを心配してくれる。ヒールは、そのことが少し嬉しかった。

「ええ、私は大丈夫ですよ、マスター」

 嬉しくて、ついそう返事してしまった。シリアの優しさに甘えて、シリア自身が相当参っていることを、確認できなかった。

「ここまでの道、見てきたんだよね」

「はい。お伝えしましょうか?」

 シリアの要求に、ヒールはすぐに答える。そして、足下の雲が突然晴れて、そこには黒い石でてきた大きな城と、その前に立っている人間達が映し出された。そのうちの一人はシリアで、今、兵士達に目隠しをされている。

 シリアは、その様子を少し左後ろ、実際にヒールがいたであろう場所から眺めていた。

 そうして、門の扉が横に開き、部屋の絵が描かれた通路を右に曲がる。その後、からくり屋敷のような仕掛けの城を進み、牢屋の場所まで戻ってきた。

「……この王国、大丈夫なの?」

「さあ……」

 エストが何度も思った感想を、シリアは口にした。

 そして当然、ここから脱出する方法を探そう、ということになる。

 そんな時、

「あ、誰かが同じ牢に入れられたみたいです、マスター」

 ヒールがそう言って、シリアが返事をしようと思った瞬間、シリアは目を覚ました。


「読心術、マスターできちゃったなぁ……」

 朝食を取った後、エストは自室のベッドに寝転んでいた。

 エストの部屋には、朝の日差しは入ってこない。常光石に布を被せれば、部屋は薄暗かった。

 エストの読心術は、最初はあまり乗り気ではなかったのだが、ナナミが教えるうちにいつの間にかネコの気持ちが分かるようになり、それで調子に乗ってなんだかんだ練習を続けるうちに、単純な人なら相手の考えていることを何となく察することができるほどにまで達していた。

 朝飯前の一仕事と、いつもの機械いじりを行なっていたエストは、ふと気になって、そこにいた人に聞いてみた。

「これ、何をつくっているの?」

 返事は、こうだった。

「大臣様の注文なんですが、よく分からないんですよね」

 よく分からない?

 何を作っているのか自分で分からないものなんて、作って楽しいのだろうか。

 そう思ってから、あまり面白くない、という声が、エストに聞こえた。直接耳に届いたわけではなく、エストが読心術で読み取ったのだ。

 設計図のようなものは一応あるようで、エストは見せてもらったものの、何の機械かさっぱり分からなかった。しかし、危険な物質を含んだりケガをする恐れのある行程があることは分かった。

 そうして、他の人間もあまり乗り気でなく、むしろ嫌々作業をしている人も多かったので、気が滅入ったエストは自室に戻ってベッドに寝っ転がっていた。

 そうだ、大臣に直接聞けば、あるいは心を読み取れば何か分かるかもしれない。でもそれで、自分の正体がバレる危険があるのは嫌だなあ。そんな思考がエストの頭の中を巡りながら、時は過ぎていく。


「ひっ……」

 周りには、どちゃっ、という音に、シリアが目を覚ましたように見えた。目を覚ましていたシリアは、音と反対側の壁に壁に背をつける。

 牢屋には、一人の少女が投げ込まれていた。顔は見えなかったが、黒く短い髪で、黒い下着しか着用しておらず、その下着もボロボロで、あわや局部が見えてしまいそうだ。それだけなら生唾物だが、全身がムチで打たれたかのような傷だらけで、そこから大量に出血しており、髪からつま先にかけてまで全身が血まみれだ。床には赤い液体と、それ以外の色の液体も混ざって、小さな池を作っていた。そのあまりに悲惨な光景に、シリアは思わず小さな悲鳴をあげた。

「おう、お前の同僚だ。仲良くしてやれ」

 そう言って、少女を連れてきた兵士は牢の鍵をかけ直した。どちらの人間に向けてそう言っているのかは、分からなかった。

 少女は、ぴくりとも動かない。

 シリアは少し躊躇して、なんとなく自分の左後ろを見た。直後に、自分の右腕がわずかに暖かくなったのを感じた。

「ヒール」

 その腕をあげて、床に倒れている少女を指差し、呪文を唱える。

 少女の全身の傷はみるみる塞がってゆき、本来のものであろう美しい肌が蘇った。しばらくして、むくりと少女が起き上がり、体に痛みが走らないことを確認して、シリアに気づいた。

「……」

 少女は、シリアを睨んで、何も言わない。

 りりしい顔つきの美少女で、黒い瞳がシリアを真っすぐにとらえる。シリアは彼女の格好の問題もあって一度顔を逸らしたが、それでは始まらないので、彼女に再び視線を向ける。よく見ると、右目がない。癒しの魔法でも、眼球の再生は難しいようだった。

 少女はそのまま、自分の血液と他の液体の池から移動し、少しシリアのほうに近づいてから、格子と逆側の壁にまだ液体でベトベトの体を平行に寝かせて、そのまま片方しかない目を閉じた。

 拷問。

 そんな言葉がシリアの脳裏を過る。

 そのまま、再び少女が目を覚ますまで、結局シリアは眠れなかった。


 少女が目を覚ました時、色々な液体でできた池はすっかり蒸発して、赤いシミだけが残っていた。

 むくり、と少女が体を起こす。その様子を見たシリアは、

「お、おはよう」

 そう声をかけた。

 薄暗い地下牢では、太陽が昇っているかどうかは分からない。少し肌寒いな、ぐらいしか、外の情報を得ることはできなかった。

 少女は片方しかない目を二回ほどパチクリさせ、その直後に廊下から足音が聞こえてきた。足音の主は、武装した王国の兵士だった。

 どうやら、食事が運ばれてきたらしい。二枚の皿には残飯らしきものがのせられている。皿のサイズは小さくなく、一人分の米が乗る程度の大きさはあった。兵士は扉を少し開け、皿を入れてから、

「あれ、お前、もうあの傷が治ったのか?」

 少女にそんな言葉を飛ばした。

 少女は反応しない。目すら合わさない。少しの間があって、ちっ、と兵士が舌打ちしてから、忘れず牢の扉を閉め、廊下を引き返していった。

 その後も、少女が動くことはなかった。シリアは気になって立ち上がってから、皿に入った残飯と思わしき料理の近くまで歩いた。それは紛うことなき、残飯だった。ライスに、何かよく分からない緑色のスープがかけられているだけ。

 動かない少女のほうを、シリアはちらっと見てから、皿を二枚とも拾い上げた。それでも反応がない少女を見て、シリアは問う。

「食べないの?」

「……食べても、どうせ戻すことになるから」

 少女は、シリアのほうを見ないで、そう返事した。

 シリアの脳内に、昨日の残状が蘇る。シリアはぶるっと身震いしてから、先ほどまで自分が座っていた位置に戻り、座り込んだ。

 一見、皿の中のものは、あまり美味しそうにはみえない。手で食べるしかないので、手がベトベトになるが、そうも言っていられない。シリアが一口、手で掴んだそれを口の中に放り込む。

「……!」

 それは、残飯とは思えないほどうまかった。スープの正体は見た目を極限までマズそうにしたシチューで、これほど美味なシチューをシリアは食べたことがなかった。シリアは気づかなかったが、実は目に見えないほどに潰した野菜や肉が入っており、栄養価も高い。シリアは夢中になって、一皿分をたいらげた。大した量ではないにも関わらず、シリアは満腹感を得ることができた。

 そして、再び少女のほうを見る。少女は相変わらず、シリアから目をそらし続けている。

 先ほどの少女のセリフから察するに、一度は食べたことがあるのだろう。しかし、この美味を武器に、量を食べさせ、戻すときの苦痛を与えるという魂胆なのだろうか。しかし、それならば一皿で満腹を感じさせず、もっと多量に食べさせようとするはずである。

 この違和感に気づいたシリアは、その理由を考えながら、とりあえず手のベトベトをどうにかしようと思った。とりあえず手についた残飯を舐めて、少し手を振ってから、自分のズボンで拭き取ろうとする。そこで、初めて自分のズボンのポケットに何かが入っていることに気づいた。

「ん……?」

 出てきたのは、恐らく水でよれよれになったであろう小さな黒い手帳だった。

 二年ほど前に港町で拾った、拾った者は死ぬと書かれていた手帳だった。あれからすっかり存在を忘れており、ずっとポケットに入っていたのだろう。

 その手帳を見た瞬間、少女の目つきが変わった。少女はシリアにはいながら急接近して、シリアの手から手帳をひったくった。

「あ、ちょっと……」

 シリアの声は無視して、少女は躊躇なく手帳の表紙をめくる。三秒ほどしてから、はあ、とため息をついて、シリアの手に手帳を返した。

「あなたが、港町で私にぶつかった人なのね……」

 少女はそんなことをシリアに告げた。これにはシリアも驚いて、ええっ、と声を上げる。その直後に、

「その手帳、読んでもいいわよ。私がどんな人か分かるから」

 そう付け加えた。

 その後、少女はしばらくこちらを見続ける。シリアが目を合わそうとすると、ぷいっと視線を逸らしたので、ともかく手帳の中身を読んでみることにした。

 しかし、最初のページに書かれたボールペンの文字と違い、中身は水溶性の鉛筆で書かれていたようで、文字がつぶれて読めるものではなかった。水彩画のような黒い模様が数ページ続き、残りは白紙だった。

「ごめん、読めないや」

 シリアは水彩画のようになったページを、四つん這いの少女に見せながらそう言った。

 その瞬間、ふふっ、と吹き出してから、少女が一瞬笑顔になった。左目しかない笑顔だったが、何故かシリアはどきっとして、強く印象に残った。その後少女は目を閉じて、

「……そう」

 そう言って、少女は体の向きを変えて、先ほどまで自分が寝ていた場所に戻ろうとする。

「あ、あのっ!」

 シリアは勇気を出して、少女に声をかけた。別にここからいなくなるわけではないのだが、今ここで声をかけないと、二度と彼女と話すことはないだろう、そう直感した。だから呼び止める。

「僕はシリア。シリア・セルヴィッジ。キミは?」

 少女はぴたっと止まって、少しの間があってから、シリアのほうを振り返った。

「私は、アヤ。よろしくね、同居人さん」

 アヤはそう告げてから、先ほどまで自分が寝ていた位置へと戻り、ごろんと横になった。

 それを見てから、ずっと起きていたシリアのまぶたが閉じてゆく。料理に催眠薬が入っていたわけではなく、単純に少し緊張が解れたことによる、安堵の眠りだった。


「なんだか、頼もしい味方ができたような顔をしてますよ、マスター」

 今日の夢の中にも、ヒールは出てきてくれた。

 シリアは少し照れながら、

「まあ、ちょっとドキドキするけどね……」

 夢の中の精霊に、そんなことを告げていた。

「アヤのこと、守りたいな」

 自らも囚われの身であることを知ってか知らずか、シリアはそんなことを口にする。

 アヤは、いつもあんな瀕死の状態で放置され、人体の自然治癒だけで傷を治してはまた拷問されているのだろうか。そう考えると、不憫でならなかった。いつかは死んでしまうかもしれない。そうなる前に、自分とヒールが治療しなければならない。

「そうですね、じゃあ私が見てますから、彼女が帰ってきたらマスターを起こしましょうか」

「ありがとう、ヒール」

 ヒールからの提案に、シリアは感謝の言葉を述べるが、その後にあることに気づく。

「あれ、ということは今、また彼女は酷い目に……?」

 その指摘に、ヒールは少しばつの悪そうな顔をした。表情がシリアに伝わっているのかは分からない。

「はい……マスターが眠られてから三十分ほど後に。実は少し見に行ったのですが、あの光景はあまり見たくありません……」

「そっか……」

 やはり、自分の無力を思い知らされる。

 この状況を早く終わらせるためにも、ここから出る方法を考えることが、今は先決のようだ。無論、アヤを連れて。

 その後すぐ、シリアは目を覚ました。隣には空の皿が二つころがっていた。


 アヤが拷問を受けて、シリアがその傷を癒す日々がしばらく続いたある日のこと。

 その日、牢に戻ってきたアヤには、珍しく意識があった。

 兵士が見えなくなってから、シリアは魔法を使う。実は別に兵士に見られていてもどうこうされないのだが、なんとなく兵士達の前では使いたくなかった。

「……ヒール、って名前なのね」

 アヤがシリアの方を見て、いや、シリアの若干左後ろを見て、そう言った。

 アヤには、シリアの左後ろにピンクの雲のような人形が見えていた。アヤはその正体が、魔法を発生させている根源、精霊だと知っていた。

 しかし、シリアがその発言の真意に気づくのは、その次に見た夢の中だった。

「なんだか、特別な人には気をつけないと見えちゃうみたいですね……」

 ヒールは、夢の中でそう言っていた。

 精霊が見えるとはいえ、アヤがそれに対して何かをする素振りはなく、本人もどうこうしようというつもりはなかった。今まで何度か精霊を見る機会はあったのだが、関わろうとするだけ無駄だ、ということが彼女には分かっていた。


「綺麗な指輪ね、それ」

 シリアが城の地下牢に囚われてから数日後、エストはまさか友人が自分のすぐ近くで虜囚になっているとは思わず、昼のランチタイムにナナミと会話していた。自室の窓の近くに用意された机で、ナナミと会話しながら料理を食べる。ナナミの料理はどれも美味しく、さらに工夫のされたものばかりだった。きっとこの人に作らせれば、残飯ですら美食と化すだろう。

 思えば港町でジョンを殴った指輪は、ずっとつけっぱなしだった。

「これ、実は変換石が埋め込まれてるんです」

「変換石……」

 ナナミは、変換石についてよく知っていた。エストも、あのナナミさんなら当然知っていると決めつけて、そのまま話を進める。

「珍しいものが手に入ったって、神父さんがあたし達にくれたんですけど、誰も欲しがらなくって……」

 エストの指輪に埋め込まれている変換石は、火の魔法を発生させるものだ。

 当然、火の魔法の使い手であるイーニッドは必要としない。シリアも、誤爆を恐れて所持することを嫌がった。ジョンは一見この手の道具を欲しがりそうなのだが、他人の魔法と被ることを良しとせず、結局エストがアクセサリの代わりとして身につけていた。

 なので、エストにとって、この指輪は星の村の友人との友情の証である。ということは全く全然ない。友情の証なら、その友人を一番堅い部分で殴ったりはしない。

「まあまあ、それは大事にしなきゃね」

 知ってか知らずか、ナナミはそんな言葉をかけた。そのまま言葉を続ける。

「ところで、今は何を作ってるの?」

「あ、興味あります?」

 エストはそう言って立ち上がって、ベッドの隣に並ぶタンスの脇に置いてある筒のような機械をかかえた。どのような機械なのか、一通り説明する。要するに、星の村で作っていた『コレ』と同じように声で発射することができる手持ちの砲台だった。

 ナナミに名前を聞かれたが、エストは特に考えていないと答え、

「じゃあ、何かかっこいいのを考えないとね」

 ナナミは笑顔で、物騒な兵器の名前を考え始めた。


 日に日に、アヤが連れて行かれる間隔が短くなっている気がする。

 それに伴い、元々少なかったアヤとの会話がさらに少なくなっていた。

 シリアは少し寂しく思ったが、自分が彼女の生命を繋いでいる、という思いから、根気よく彼女にヒールをかけ続けた。

 それが、ただの自己満足だったと思い知ることになる。

 

 彼女が戻ってから、速攻でヒールを使う。

 こんな日々でも、慣れれば日常だ。しかし、その日常は脆くも崩れ去ることになる。

 兵士達が、すぐに戻ってきて、

「おっ、治ったようだな。ほら、来い!」

 そう言って、すぐにアヤを連れて行ってしまった。

 戻ってきたアヤは、先ほどよりも更に酷い有様になっていた。

 ここでまた自分が回復させれば、またすぐに連れて行かれるかもしれない。シリアはそう考えて、ヒールを使うことを躊躇した。

 その後、彼女が意識を取り戻すまで、それほど時間はかからなかった。

 アヤは目を覚ましてから、倒れたまま、シリアに向かって、片方しかない目を見開いて、こう言った。

「あ……なた……がっ!」

 そこで一度、言葉を区切る。シリアは、彼女の次の言葉を待つことしかできなかった。

「あなたが、いなければっ、私はあの日の晩、死ぬことができたのにっ……!」

 そう言って、すぐに目を閉じて、気を失った。

 シリアは、とても大きなショックを受けた。意識しないうちに、涙を流していた。

 自分は、そんな風に思われていたのか。よかれと思ってやったことは、彼女にとっては苦痛を引き延ばすためだけの所行だったのか。港町で、眠りながら燃えてゆく兵士に、ヒールを使ったことを思い出す。もしかしたら、自分は同じ過ちを、また……。

 そのまま、知らないうちに、シリアは眠りに落ちていた。


 それから、アヤの姿を見ることはなかった。

 目を覚ますと、アヤの姿がない。そこには血溜まりの後だけがあった。周りには複数の兵士達がいて、シリアが目を覚ますなり、

「おい!あの女はどうした!」

 そうシリアに問いつめた。シリアはただ、首を振ることしかできない。

 脱出した形跡は、ない。檻も壁も、傷ついているところは見当たらなかった。通路のほうも、しっかりと見張りは機能している。まるでこつ然と消え去ったかのように、アヤの姿はなくなっていた。

 兵士達はシリアに微塵も期待しておらず、とりあえずここに住んでるだけ程度にしか思っていないようで、尋問や拷問も一切されない。今回も同じで、すぐに他の場所へと捜索へ向かった。

 ただ一人残されたシリアは、その場に棒立ちになっていた。

 その時、ろうそくの小さな光に、何かが反射したことに気づいた。足下にあったそれを拾ってみると、黒いナイフがあった。実はアヤが隠し持っていたものだが、シリアはそれが天からの贈り物のように見えた。

 シリアは、それを躊躇なく自分の左手首に突き刺した。当然、血が吹き出て、シリアの体を赤く染める。

 な、なにをやっているんですか!?

 その一部始終を見ていたヒールは、慌てて力を行使する。見る見る間に傷は塞がり、出血も止まって、元通りになった。

 それを見たシリアは、手当たり次第に自分の体を斬りつけ始めた。腕、胸、腹、足、頭部……。

 痛みは、感じていないようだった。感じていても、気にしない。

 やめてください!やめてください!

 ヒールは何度もそう言った。もちろん、誰の耳にもそれは届かない。

 端から見ていると、斬りつけられた部分が即座に治って、それでも血は吹き出るところから吹き出て、体を赤いスプレーでペイントしているようだった。

 やがて、シリアの全身が真っ赤に染まって、シリアは思い切り自分の首にナイフを滑らせた。

 ぶしゃああ、という音と共に、頭のあったところへ血が噴き出し、ごとん、という音を立てて、頭部が床に落ちた。

 自然治癒できない範囲では、癒しの力を行使することはできない。

「いやあああああああああああああああああ!」

 ヒールが上げたその悲鳴は、城の誰かの耳に届いた。


 城の中で、一仕事終えたナナミは、城の一階の廊下を歩いていた。

 港町で自分が拾った少女の世話を見るのが意外と面白い。やはりというかなんというか、子育てはいいものだ。別の国に行ったら保育士でもやってみようかしら。

 ちなみに、その少女とはエストのことなのだが、女性というほうが一般的には相応しい。しかし、ナナミから見れば少女のようなものだった。

 そんなことを考えていた時、女性のものと思われる悲鳴がナナミの耳に入った。

「あら?」

 周りに人はいない。近くに部屋が一つあるが、そこはただの倉庫で人はいない。かなり遠くから聞こえてきたものだろうか。それなら兵士さんがなんとかしてくれるわね。無関心と無関係を決め込んで、ナナミはエストの部屋に向かって歩き出した。

 その時、廊下の向こうから、扉を開かずに飛んでくる人影がナナミに映った。ピンク色の雲のようだが、女の子のような形をしていて、それは泣いているようにも見えた。

 ナナミは一瞬で、彼女、といっていいのか分からないが、ともかくその雲が悲鳴の正体だと確信した。

「どうしたの?」

 ナナミは誰もいない廊下に向かって、笑顔でそう言った。

「えっ……?」

 ナナミには、その声がはっきり聞こえた。その声は、目の前で止まった雲のような人形から発せられていた。

 現実ではありえないような光景だが、ナナミは少しも怯むことなく、

「私でよければ、相談に乗るわよ?」

 そう言って、止まったままの人形の手にあたる部分を引いた。実際に触れることはなかったが、それに釣られて人形が動き出す。

 そのままナナミは、近くにあった無人の倉庫部屋へと入っていった。

 倉庫といってもそこは食料庫で、主に薫製にされた肉などの保存食が保管されている。入り口近くに設置してある発光石をナナミがポンと叩き、明かりをつける。

 ナナミはそこで根気よく、落ち着かせながら、ピンクの人形から話を聞いた。

 彼女はヒールと名乗る癒しの魔法の精霊で、自分が好いていた男の子が死んでしまったということを話した。どうやらこの城には牢屋があったらしく、ナナミはその位置を知らない。

「そう……それは辛かったわね」

 ヒールの話を一通り聞いたナナミは、そう言ってから一呼吸置いて、

「ねえ、もし行くあてがないんだったら、私と一緒に来ない?」

 突然、そんな話を持ち出した。

 自分のことをはっきり認識して、そう提案してくる人間にヒールは驚いた。驚いて、返事をしない間に、

「じゃあ、行きましょうか」

 ナナミは笑顔のまま、倉庫の扉を開けた。

 この人は何者なのか、ヒールには皆目見当がつかなかった。しかし、悪い人間のようには見えなかったので、そのままなんとなく、ナナミの後をついていくことにした。


「え、エストさんっ!?」

 ナナミはそのまま、エストの部屋へと向かった。

 例の合い言葉で開く廊下は、ナナミが壁をノックすると、内からエストが開けられるようになっていた。廊下を進むと、エストはベッドに腰掛けていた。

 かつて星の村でしょっちゅう見ていた少女が、まさかこんなところにいるとは思わなかったヒールが、驚きの声を上げる。もちろん、エストには聞こえない。

「あら、知り合い?」

 ナナミが何もないところに顔をむけてこう言うので、エストは首をかしげて、

「あの、どうしたんですか?」

 そうナナミに問いかける。

 ナナミはヒールとエストの関係が気にはなったが、ここで精霊が云々言っても彼女が理解できるかは分からないと判断して、

「あなたの友人が来てますよ。今日、どこかで会ったらよろしくお願いしますね」

 何らかの意図を含んで聞こえるように、エストに告げた。

 エストはますます分からなくなった。友人?なら会いにいかなくてもいいのか?そもそもその友人はミスト王女の?それとも私の?

 しかし、意味ありげに見えて何でもないことを言うことがナナミには多々あったので、とりあえず話を切り替えることにした。

「ところで、今日は何か予定ある?」

「特にありませんよ」

「そう。じゃああたしはいつも通り『コレ』を作ってようかな……」

 エストはそう言って、ベッドの脇に置いてあった大きな筒のような機械を見た。

「そういえば、名前は決まりましたか?」

「うーん、あたし、そういうのはあんまり苦手で……」

「あらあら、ミスト王女は何かあったらすぐに格好いい名前をつけておられましたよ」

「そう言われても……」

「そうですね。得意分野は人それぞれですから」

 そんな二人の会話が続き、ヒールはその様子をずっと観察していた。

 もう一度だけ、人間と付き合ってみよう。そう思った。


「こ、こんばんは……」

 その日、結局友人と思わしき人物に出会わなかったエストは、不思議な夢を見た。

 雲の上に、自分が立っている。目の前には、ピンク色の光の影が、女性の形を作っていた。

「えっと、あなたは?」

 エストは口を開き、光の影に話しかけた。

「私、その、精霊で……」

 光の影はそんなことを言い出した。

 精霊?例の魔法がなんとかの話に出てくる?これが?

「ヒールっていいます。あの、星の村のシリアさんのこと、覚えていますか?」

 突然シリアの名前が出てきて、エストは驚いた。

 ヒールといえば、彼が使っていた魔法の名前だ。そういえば、夢の中で精霊と会うみたいな話もしていた。エストは冗談か何かだと思っていたが、こうして実際に出てこられると、信じざるを得ない。

「ええ……知ってるけど、どうしてあなたが?」

 少し頭が混乱してきたエストは、とりあえず質問をしてみることにした。

「えっと……その、マスター、シリアさんが、あの……」

 そう言って、ヒールは思い出したくないことを思い出して、話すのをやめてしまった。

 沈黙が流れる。

 シリアは、自分の精霊に自分のことをマスターと呼ばせていたのだろうか。それとも、精霊達は皆、そう呼ぶのだろうか。

 そんな考えを経てから、ようやく、シリアの身に何かあったことをエストは察することができた。

 目の前の光の影は、泣いているように見えた。

 エストは、まさか自分が住んでいる城の地下で自決したとは夢にも思わなかったが、今世界中で起こっている、この国が発生源の戦争の影響で何かが起こったことは想像することができた。何らかの理由で彼から引き離されたのか、それとも彼が死んでしまったのかは、分からなかった。

 それよりも、エストは彼女、ヒールが自分に何を伝えるべく現れたのか、そちらのほうが気になった。

 しばらく経ってから、ヒールが話しかける。

「あの、エストさんは、魔法って使ってみたくないですか?」

「え、あたし?」

 突然の提案に、エストは驚いた。魔法って、そうやって使えるようになっていくものなんだっけ。

 うん、と返事をした瞬間、エストは目を覚ました。


 よく眠っていたようで、エストが目を覚ました時には、すでに朝食の時間だった。

 ナナミがいつも通り食事を持ってくる。今日は、卵を焼いたものが肉の上にかかっている料理と、キャベツのサラダと、トーストだった。王女様の食事としてはやけに庶民的なものだが、ナナミは初日から平然とこのような料理を作ってくるので、エストも特に気にしなかった。

 今日は、そのナナミの左の人差し指に絆創膏が貼られていることにエストは気づいた。

「あら、バレちゃったかしら?」

 エストがナナミの指のほうを見ていると、ナナミがそう言った。

 エストは、昨日の夢のことを思い出した。そういえば、ヒールと名乗る精霊が、魔法を使ってみないか、という話をしてきていた気がする。

 試しに、絆創膏が貼られているナナミの指を指差して、シリアの真似をしてみた。

「ヒール」

 すると、外見上は分からなかったが、絆創膏の下の切り傷は一瞬で塞がった。外見上は分からなかったので、エストには特に何も起こっていないように見えた。

 しかし、ナナミには、エストの声に合わせて癒しの力を行使する精霊、ヒールの姿がはっきりと見えていた。自分に何をしたかも、大体分かった。

「あら、ちゃんと仲良くなれたみたいね」

 ナナミは笑顔でそう言った。

 その言葉を聞いて、エストはちゃんと自分の魔法が効いたのだと分かった。分かって、少し嬉しい気持ちになった。

 

 大きな機械のある作業場で、エストの作っている機械は完成間近となっていた。音声を認識して、弾を打ち出すことができる。今度は棒状のものではなく、球状の、しかもそこそこの大きさのものを打ち出すことができる。物資や施設が揃ったこの場だからできることで、星の村だと決して作れないシロモノだった。

 他の作業員が作っていた何かも、最終行程に入っているようだ。

 ある日のこと、作業員の一人がケガをして、両手が使えなくなった。火傷だった。危険な行程があることはエストも分かっていたが、実際にケガ人が出るのは初めてだった。

 エストは満を持して、その作業員を自室に呼び出した。

「これからすることは、他の人にはナイショね」

 エストはそう言った。なんだかいかがわしいことを始めそうなセリフだが、そんな気は全くない。

 両手の平の火傷の跡を見て、生々しい光景に一瞬だけ怯んだが、すぐにそれを指差して、

「ヒール」

 そう呟いた。

 彼の手からはみるみるうちに火傷の跡が消えてゆき、また使い物になるようになった。

「ミスト王女、これは……!?」

「だから、ナイショね?」

 驚く作業員に、エストは自分の唇の前に人差し指をあて、ナイショのサインを送った。

「あ、ありがとうございます!ミスト王女!」

 作業員はそう言って、エストに感謝の言葉を送った。

 しかし、エストには彼の本心が見えていた。

 ケガをしていれば、作業をサボれたのに、余計なことを……。

 これが、読心術で読み取った、彼の本心だった。

 彼が部屋を立ち去ってから、エストはぽつりと呟く。

「……余計なこと、しちゃったかな……」

 その言葉は、精霊ヒールの耳にも届いていた。


 生きとし生きるもの、全てが常に健康で、長く生きることを望むものだ。

 傷を治されて、感謝こそすれ、恨みを抱き、自らを傷つけるような自分勝手な生き物は、人間だけだろう。


 この国の大臣は、大きな手術の末、右目の移植に成功していた。

 しかし、特に彼の視力が悪かったわけではない。彼が移植手術を実行したのは、ある力が手に入ると確信したためだった。

 その結果、大臣はこの世界に存在する魔法の根源、精霊の姿を見ることができた。そのおかげで、少し前から、ミスト王女が偽者の別人であるということに気づいていた。

 また、その力を利用して、城ではあるものが作られていた。長きに渡った行程はついに終わりを迎え、大臣の手にはその完成系が握られていた。


「こいつは魔法使いだ!偽者の王女め!」

 いつもは工場、大きな機械の置かれた部屋にミスト王女がいるという話を作業員の誰かから聞いて、大勢の作業員の前で、その事実をエストに突きつけた。

 突然、大臣は球状の機械を握りしめ、エストのほう、そのやや左後ろのほうに向けた。大臣の目には、その機械にピンクの雲がみるみる吸い込まれる様が見えた。全てのピンク色の雲が吸い込まれてから、球状の機械の様子が変わり、見る見るうちに岩石のような成分が機械を覆い、見た目はただの大きな石になった。


 ああ、ついに気づかれてしまった。

 エストは、声を上げるだけで追いかけてこない大臣の様子を不可解に思いながらも、急いで逃げ出した。部屋の正規の入り口のほうは大臣が塞いでいるので、自室に戻る隠し通路を開いた。

 あらかじめ、いざという時のための逃走経路は考えてある。この城が複雑な造りをしていることも幸いして、誰にも捕まることなく城を脱出することができた。

 エストは、城下町を突っ切って逃げる。ナナミのことが脳裏に過ったが、きっと彼女なら私のことは気にせず逃げなさいと言うだろう。他人の心配より、自分の心配をするべきだ。恐らく、城の兵士が追いかけてくるだろう。エストは追っ手が追いつきにくい場所、山のほうに向かって、ただ走った。

 その後、エストの姿を見た者は、世界でたった一人だった。

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