シリウスの預かりもの
「あの星を、君にあげるよ」
青年は言った。
少女は笑った。
あまりに子供じみた話のように思えた。青年も、わずかに笑ったようだった。
そこは何もない荒野で、遠く海が見えた。潮風は穏やかで、波の音が低く響いていた。
明かりは、青年が持っている懐中電灯だけだった。外灯はなく、近くに民家のようなものも見えない。 そのせいか、星がひときわ綺麗に見えていた。こんな星空は見たことがないと、少女は密かに心を踊らせた。小さなガラス片を散りばめたように、その一つ一つが光を放っていた。
青年は、空の一点を指差した。
「いいか、あの星だ。三つ並んだ星の、少し西の方にある、明るい星だよ。分かるね?」
少女は頷いた。それは空で一番明るく光る星で、彼女にもすぐに分かった。
「よし、ではあの星は今日から君のものだ。さあ、名前をつけてごらん」
「名前? あの星には、名前がないの?」
青年は、少女の頭をそっと撫でた。
「もちろん、あるさ。みんなが呼ぶための名前がね。でもそれはそれとして、君だけの名前をつけるんだよ」
少女は考えた。その最も強く、焦がすように光る星に、ふさわしい名前を。
「ええと……あのね……」
やっと思い付いた名前を口に出そうとすると、青年は人差し指をそっと、少女の口元に持っていった。
「なに?」
青年は、だめだというように、首を横に振った。
「それは、君だけの名前だ。決して口に出してはいけないよ」
そう、言った。
「でも、決して、忘れてはいけない。その名前はいつか必要になるからね」
ふと、そんなやり取りを、彼女は思い出した。
時々、何かの拍子に思い出すのだ。記憶は曖昧で、夢だったのかもしれないとも思うこともある。幼い頃に見た、どこか現実感のない夢の断片なのだ、と。いずれにせよ、あの頃の自分はまだ十にもならない小さな子どもで、たとえ現実の出来事だったとしても、もう二十年近くも前のことだった。
あの荒野がどこだったのかも、今となっては分からない。その向こうに黒々と横たわっていた水平線も、冷たく深い夜に毅然と光る沢山の星も。青年と交わした言葉さえも、自分の中で勝手に作り上げられた、幼稚な妄想のように思えた。
彼女には年の離れた兄も従兄もいない。幼い頃をともに過ごした人々の中にも、彼にあたるような人は思い付かない。やはり、あれは夢だったのかもしれない。
ただ、あの日、帰り道は真っ暗な一本道で、ひどく寂しく、少し恐ろしかったことだけは、はっきりと覚えている。
彼女は、眠らない街を歩いていた。
意識を幼い記憶から現在に戻し、駅に向かう足をわずかに速める。終電に間に合うかどうかという時刻だ。間に合わなければ、この時間から泊まれるところを探さないといけない。あるいは、駅前のネットカフェで夜を明かすことになるかもしれない。急げば急ぐほど、先の細いパンプスに爪先が軋む。
このところ、毎日こんな感じだ。
朝から晩までパソコンに向かい、振ってくる仕事を捌く。それが、いつ終わるとも知れず続いている。何をやっているのだろうと、ふと思うこともある。けれどすぐにそれを振り払い、彼女は仕事に没頭する。考えることをやめて、どうにか今をやり過ごす。
同じように先を急ぐ人々の群れに、彼女は大きくよろめいた。誰かの肩がぶつかって、細いかかとがバランスを崩した。振り向きもせず去っていく背中に、彼女はふと、何もかも投げ出してやりたくなった。
―――やめた。
糸は、唐突にプツンと切れた。
―――もう、やめやめ。
彼女は、歩くのをやめた。
ドスンと、後ろを歩いていた大柄な男性が、止まりきれずぶつかった。その後も何人かの先を急ぐ人々が、ぶつかったり、肩が触れたりしながら、苛立った視線を向け、悪態をつき、彼女の横を通り過ぎていった。
空を、見上げた。
ビルの明かり、ネオン、その向こう。
あの星だ、と彼女は思った。
こんな騒々しい街の、こんなくすんだ空でも見つかる。当たり前だ、と思う。だからあの人は、一番明るい星をくれたのだ。
―――あれは、ほんとうにあったことなんだ。
不意に、そう思った。
記憶の鍵が開くように、彼女は星の名前を思い出した。いつかそれが必要になると、青年は言った。
たぶん、それは今なのだろうと、彼女は滲む空に思った。
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