お婆ちゃんとさよならしました
ニョルズスタッドに朝が訪れた。空は青く澄み渡り風が優しく吹いている。海には波一つたっておらず、海鳥達は海原を揺り籠にして羽を休めていた。
しかし、次の瞬間、海鳥達がけたたましい鳴き声をあげたかと思うと、一斉に空へと飛び立って行った。かなりの恐慌にかられたらしく、海面には鳥達の羽が散乱し雪原の様になっている。
鳥達が驚くのも無理はない。突然、何もない空間から巨大な竜が現れたのだ。彼等をまとめて一飲みにしてしまいそうな巨大な竜ビルクーロである。
しかし、漆黒の竜は鳥達の惨状には目もくれず、高速で飛び立って行った。普段のビルクーロなら、周りに気を配りゆっくりと姿を現す。
「お姉ちゃん、フロル、今から海岸に着陸するから直ぐに降りて。僕も人の姿に戻ったら追いかけるから」
ビルクーロは姉と幼馴染みに口早に告げると、そのまま海岸に着陸した。彼が慌てている理由はただ一つ、祖母レーソの寿命が残り僅かなのを感じたからである。
もし、竜から人に変わる所を見られたら大問題だ。着替える時間も含めても本の数分である。しかしビルクーロはそれさえも、もどかしく感じていた。
「タツオ、お姉ちゃんが見張ってるからここで人の姿に戻りなさい」
「…分かったよ。フロルは先に行ってて」
フロルが駆け出したのと、同時にビルクーロはタツオ・トキヨシへと変わる。そのまま手早く着替えると、一目散に駆け出した。一刻も早く祖母レーソの元へ。ただ、それだけを思い走りだす。
誰もいなくなった砂浜には海鳥達の鳴き声と波音だけが響いていた。
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朝が早い為か、祖母の家はまるで時が止まったかの様に、シンと静まり返っていた。
「お婆ちゃん大丈夫かな…」
余りの静けさに不安になったのか、ブルーメの表情が曇る。普段は弟の前では、弱気な姿を見せないブルーメではあるが、まだ十代の少女なのだ。ましてやブルーメは近しい人間との別れを体験した事がまだない。
「ヘル様は祖母との時間を大切にしなさいって言ってくれた…あの方は人の寿命が分かるんだ。つまり、お婆ちゃんはもう少し生きていれるんだ。今はお婆ちゃんの側にいるだけだよ」
タツオはそう言って姉を促すが、ブルーメの足はピクリとも動かない。
「怖いの…少しでも動いたら、時間が動きだしてお婆ちゃんとの別れが訪れそうで怖いの」
「時は川の流れみたいな物なんだよ。同じ川を流れていた水でも、違う支流に入ればもう交われなくる。だから、大切な人と過ごせる時間を大切にして欲しいんだ。この一瞬も流れていった水と同じで、二度とは戻って来ないんだから」
タツオはそう言うとゆっくりと歩き出した。タツオは誰よりも時間の大切さを知り抜いているのだ。
(この家には色んな思い出が詰まってるんだよな)
幼い頃の思い出を噛み締めながら、タツオはゆっくりとドアを開けた。
「お婆ちゃん、ただいま…美味しい蜂蜜が手に入ったから蜂蜜水を作るね」
鳩蜂の蜂蜜は滋養に溢れているから、祖母の体を優しく癒してくれるだろう。
「タツオ、お帰り…シルビア、タツオ達が来てくれたからお前は一度お戻り」
シルビアは母レーソにずっとついていたらしく、顔からは疲労の色が濃く見えている。
「母さん、私は大丈夫よ。だからここに居させて」
「お母さん、お婆ちゃんは僕とお姉ちゃんが見てるから少し寝れば良いよ…スリープ」
タツオが唱えた睡眠の魔法により、母シルビアは深い眠りに落ちていった。
「タツオ。お願いがあるんだけど、お婆ちゃんを空の旅に連れて行ってくれないかい?」
「む、無理だよ…今のお婆ちゃんの体には負担が掛かり過ぎる」
いくら高度な魔法障壁を張っても、空の旅は確実に祖母の寿命を減らしてしまう。いや、下手をしたら耐えれない可能性もある。
「お願いだよ…空の上から私を呼ぶ声が聞こえてくるんだ…懐かしい声がお婆ちゃんを呼んでるんだよ」
「…分かった。でもちょっとだけ待っていて…お姉ちゃん、お父さんとお兄ちゃんを呼んできて」
それから数十分後、ビルクーロの鞍にはレーソを囲む様にしてトキヨシ一家が座っていた。
「それでは行くぞ」
飛び立って五分程経った頃だろうか。ビルクーロの周りに淡い光が集まりだした。やがて光は人の形に姿を変えていく。
「嘘?お父さん…」
最初に現れたのはレーソの夫でシルビアの父スミス。
「貴方…それにパパにママにお兄ちゃんにレイカまで…みんな来てくれたんだ」
やがて光はレーソの両親や家族に姿を変えて彼女を包み込んでいく。
それは美しくも哀しい幻想的な光景。叶う筈がない再会は、永劫の別れが近付いている事の知らせでもある。
そしてレーソは大切な人に見守られながら、人生の幕を閉じた。
黒い竜は静かに着陸すると、哀しみにくれる家族に声を掛けた。
「心配せずとも、この者の魂は我か天まで送り届ける…任せておけ」
竜は自信に満ち溢れた声で遺族に告げた。ただ、トキヨシ家の長女ブルーメだけは黒い竜が必死に涙を堪えている事を知っている。
ビルクーロは上空に着くと同時に大粒の涙を溢した。
「ふぇっ…お婆ちゃんが死んじゃったー!!」
漆黒の竜はあらんばかりの声をあげて泣き叫んだ。大粒の涙が幾つも幾つも零れ落ちていく。
「タツオは相変わらず泣き虫だね。その泣き虫を治してくれないと、安心して休めないよ」
レーソの魂はそう言いながらも黒い竜を優しく撫でていく。幼子の頭を撫でる様にゆっくりと優しく撫でる。
「どわってーお婆ちゃんが、僕をドラゴンと知っても受け入れてくれたから…怖かったんだよ。ドラゴンってバレて嫌われたらどうしようと思って…でも、お婆ちゃんが僕を受け入れてくれたから…やだよー、お婆ちゃんとお別れしたくないよー」
漆黒の竜はしゃくりを上げながら泣き叫ぶ。そこにいるのは無慈悲の黒龍ではなく、身内との別れを悲しむ少年である。
「タツオ、お前がお婆ちゃんの可愛い可愛い大切な孫。何時でも婆ちゃんが見守っているから頑張るだよ」
「うん…分かった。僕、頑張るよ」
漆黒の竜は両目を手で何度も擦りながら頷く。そして前をしっかり向くと力強く羽ばた冥界へと旅立って行った。




