夢の彼女
彼女は、いつも同じ夢の中にいた。
柔らかな光の中で、名前を呼んでくれる。声は風みたいで、触れられそうで触れられない。
夢から覚めると、彼女のことはすべて消えていた。
顔も、声も、何を話したかも。ただ「誰かに会っていた」という感覚だけが、胸の奥に残る。
それでも夢は毎晩やってきた。
何度も恋に落ち、何度も忘れた。
――おかしい、と思い始めたのは、ある朝だった。
目を覚ましたあとも、彼女の横顔が消えなかった。
最初は断片だった。
指先の温度、笑うときに少し伏せる目。
時間が経つにつれて、夢の記憶は現実に留まるようになった。
現実と夢の境目が、曖昧になっていった。
昼間、街を歩いていても、ふと彼女が隣にいる気がした。
夜、眠るのが怖くなった。
どちらが夢で、どちらが現実なのか、わからなくなっていったから。
「このままじゃ、壊れるよ」
夢の中で、彼女はそう言った。
その声は、いつもよりずっと悲しそうだった。
「君が壊れるくらいなら、夢は終わったほうがいい」
彼女は、夢を壊そうとしていた。
それに抗うように、僕は夢日記を書き始めた。
目が覚めた瞬間、震える手で書き殴る。
彼女の言葉、仕草、名前。
書けば、忘れなかった。
書いている限り、彼女は現実に存在している気がした。
けれど、ある日。
現実の彼女――現実にいる、別の「彼女」が、夢日記を見つけた。
理由はわからない。
嫉妬だったのか、恐怖だったのか、それとも優しさだったのか。
炎は、静かに紙を食べていった。
文字が、名前が、記憶が、灰になった。
その夜、夢を見なかった。
朝起きたとき、胸は空っぽだった。
何か大切なものを失った気がするのに、何を失ったのか思い出せない。
だから、忘れないために、手のひらに名前を書いた。
何の名前なのかもわからないまま。
時間が経つと、インクは薄れていった。
消えていく文字を見て、なぜか怖くなった。
消そうとして、やめた。
理由は、わからない。
「夢って悲しいね」
ふと、口からこぼれた言葉に、自分で驚いた。
「思い出そうとしても、思い出せないもん」
その瞬間、胸の奥が、きしんだ。
記憶が、波のように押し寄せた。
彼女。
夢の中の彼女。
何度も恋をした、名前を呼んだ、忘れてしまった彼女。
慌てて手のひらを見る。
そこにはもう名前はなかった。
ただ、うっすらと黒い汚れだけが残っていた。
何かを書いて、何かを必死に残そうとした痕跡だけが。
そのことを、現実の彼女に話した。
彼女は少し黙ってから、微笑った。
そして、こう言った。
「……それ、きっと夢のほうが現実だったんだよ」




