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 翌日になってもまだムシャクシャは収まらなかった。


自然、撮影のために操る炎の動きも乱暴になり、武術指導にたしなめられてしまった。


「おいおい、フォウ。それじゃあうちの看板女優さんが怖がって、撮影に応じてくれなくなるよ。もう少し人物から炎を遠ざけてくれないかな」


 言われてフォウも、あっすみませんと女性スタントマンに謝った。

 スタントマンのほうは慣れたもので、フォウの謝罪を笑顔と共に軽く流した。


「私は大丈夫よ、フォウの火は絶対に人間を傷つけないとわかってるもの」


「お前らはそうだろうけれど、キャスリーンは納得しないだろ」


「えっ。てことは、今日は来てるんですか主演女優」


 リハーサルの最初からスタントマンが配置についていたので、フォウは当然、本番も彼女が代理でアクションするものとばかり思っていたのだ。


 フォウの言葉に、武術指導が肩をすくめてみせた。


「気まぐれキャスリーンは、そのあだ名のとおりだよ。昨日まではどこに雲隠れしてたのか監督ですら教えてもらえてなかったのに、今朝、俺が来てみたらもう化粧部屋に入ってた」


 肩越しに武術指導が指さすのは、キャスリーンのために特別誂えしたトレーラーである。後部には彼女の使う衣裳と化粧品のあれこれが満載されている。


「いや、それはいいとしても、この爆発シーンを本人が演じるんですか? けっこう危険なアクションだから、スタントマンに替身(タイサン)させるもんだとばかり思ってた」


「本人がやると言い張ってるんだとよ。さっきも監督が説得に行ったけど、すぐトレーラーから追い出されて戻ってきた。ま、一度やらせてみればいいのさ。すぐに音をあげるだろうよ」


 百戦錬磨の武術指導はそう言うけれど、まだほんのアルバイトでしかないフォウは心配でしかたない。

 自分の炎が直接の原因でないとしても、いきなり炎に巻かれて、そのうえドアから転がりだしポーチの階段を転がり落ちるというアクションがついている。

 昨日までの撮影にいっさい参加していない女優が、フォウの炎について理解しているとも思えないのだが。


 案じているうちに、当の女優が出てきた。


 美人といえばとびきりの美人だが、女性関係にうといフォウにさえわかるほどの厚化粧をしていた。

 真っ赤に塗った唇と目の周囲を取り巻くつけまつげについ目がいってしまうが、実はあまり顔色がよくないのではないか。

 視線が不必要に落ち着かないのも気になった。


 気まぐれだの傲慢だのと陰口を叩かれる女優ではあったが、思っていたよりも愛想はよかった。

 というか、最低限度の愛想がなければ、香港で映画人はやっていられない。

 何事も、叩き上げの経験と人間関係。

 大学で映像学など習ったからといって、偉そうなことを一言でもいおうものならすぐベテラン勢に叩きだされるという苛烈な現場である。


 武術指導がストーリーボートを掴んでキャスリーンのところへすっ飛んでいった。

 これは香港映画界に吹いた新しい風のひとつである。

 昔は絵コンテすら切らず脚本も作らず、アクションでさえその場の感覚だけで撮影していたという。

 実は今でも脚本は、撮影前に出資者や出演者を魅きつけるという目的のほうが大きい。現場には脚本家やその弟子が毎日出勤し、その場の撮影の雰囲気を見ながらどんどん翌日のセリフを書き直していくのである。


 監督もやってきて、キャスリーンに説明をしている。

 彼女が殊勝に頷いているのが、フォウが控えているところからも見える。


 武術指導がフォウを指さした。

 今回使われる特殊な炎について、解説しているのだろう。


 美女の視線がフォウを捉え、フォウは一応頭を下げてみせた。


 顔の造作でいえば、夕べのシウレンのほうが上かな。


 だが、大美人というのは単なる姿形ではなく、かもしだす雰囲気も含めての存在感である。数々のミスコンを制覇してきたキャスリーンの貫禄はさすがだった。ぱっと花が咲いたよう、という形容詞がふさわしい。彼女の行く先々には、おのずから光が追いかけていっているようにも見えた。


 建物のセット前に組まれた、壊すためのドアとポーチの後ろにキャスリーンが立つ。

 さきほどスタンドインを務めた女スタントマンもそばで最後の忠告を与える。


 武術指導がフォウのところへ走ってきた。


「フォウ、準備はいいか」


「もちろん」


「まずはキャスリーンの後ろから炎を噴き出させてくれ。背後で爆発が起こったという設定だ。キャスリーンが演技でよろけながらドアを開ける。それと同時に炎で彼女を包め。ポーチにつまづいて倒れるまで、炎を消すなよ」


 さっきから何回もリハーサルした内容をもう一度繰り返すのは、アクションの素人相手で武術指導も緊張しているのだろう。


 フォウの炎を使えば消火隊を準備しないぶん経費が削減できるだけでなく、炎を保護剤代わりにして転倒のショックを和らげることができる。

 そのことは、女スタントマンを使ったリハーサルで武術指導にもわかっているはずだ。

  問題はキャスリーンがそれを信じるかどうかである。

 彼女が炎に包まれて立往生すれば、どっちみち撮影はやり直しだ。


預備(ユーベイ)(用意)!」


 叫んで、監督がカメラマンのところまで駆け戻る。

 大きく手を振ってカチンコ係へ合図した。


「アクション!」


 フォウはその声と共に、キャスリーンの背後へ向けて念を飛ばした。

 そこにはリハーサルの時点から、焼けた炭の入った洗面器が置いてある。

 野外バーベキューの大好きな香港人にとって、炭はそこらのスーパーで普通に売っている生活必需品だ。


 炭から火を引き出し、前方に引っ張る。


 派手な爆発にみえるよう演出しながらも、キャスリーンにはダメージを与えないように加減した。

 背中に到達する直前で炎を曲げて、彼女の周囲を取り巻くようにさせる。


「……えっ?」


 妙な手ごたえに、フォウは驚いた。


 今、何か。

 強い力で炎を押し返されたような。


「カアアット!」


 監督の代わりに武術指導が怒鳴った。


「フォウ! 何してんだ、炎の向きが逆になってるぞ!」


 彼の言ったとおりだった。

 キャスリーンを包むはずの炎が跳ね返され、その勢いで後ろへ流されているのだ。


 こんな馬鹿な。


「くそっ!」


 フォウは改めて呪文を唱えた。再び炎を巻き起こし、キャスリーンにぶつける。

 今度は手加減しなかった。撮影とか言っている場合じゃない。道士の作った炎を押し返す相手だ。これは、ただ事ではない。


 キャスリーンが両手を大きく広げた。


 フォウの炎を軽々と受け止め、あろうことか手の中にくるくると巻き取って小さくし、口の中へ放り込んでしまった。


 バリバリと白い歯が炎を噛みくだく。


 その真っ赤な唇が大きく開き、甲高い笑い声を上げた。


 違う。これはもう、キャスリーンではない。


 何か違うものだ。

 もしくは、彼女の中に別のものが入り込み、彼女を操っているのだ。


 吊りあがった目がフォウに向けられた。

 ぎらりと瞳が金色に光った。


 やばい。


「カアアッ!」


 キャスリーンの姿をした何者かが、吠えた。


 すると、なんたることか。


 彼女の口から無数の黄色い泡が噴き出し、空中にまき散らされた。

 空気に触れた泡はそれぞれが小さな猫の形を取り、向きを変えて手近な人間に襲い掛かった。


「うわああっ」


「きゃあ!」


 たちまち武術指導が、スタントマンが、監督がカメラマンが。

 その場にいた人々が仰天して開いた口の中へ、小さな猫たちがスルリと入り込んだ。


 憑依。


 金色の猫に憑りつかれた人々の目がいっせいに吊りあがり、光った。


 全員がフォウに向かい、飛び掛かってくる。


「……炎よ、来い!」


 洗面器が割れ、炭が細かい破片となって飛び散る。

 その中から飛び出した火種が、渦を巻いてフォウの手元に跳びこんでくる。


「があああ!」


 爪と牙を剥いて襲い掛かった一人を、炎の鞭でなぎ倒した。


 続いて一人、二人。炎を長い紐状にして、右へ左へとくねらせて打ち倒す。

 だが、敵はとにかく数が多い。

 香港映画の撮影は他国のそれよりは少数精鋭で行うものだが、それでも現場のスタッフとなると数十人はいる。


 前の敵を相手にしていると、背中から飛び掛かられ。ひっくり返されたのを受け身でかわしても、脇から新手がやってくる。

 いくら炎を呼んでも、攻撃どころか自分の身を守るのが精いっぱいだ。

 新たなな火種を作るため、マッチを取り出そうとしたら、その腕に思い切り噛みつかれてフォウは悲鳴を上げた。


 噛み裂かれた傷口からダラダラと血が流れ落ちる。

 咄嗟に血止めの呪文を唱えたが、流血に変化はない。


 ギョッとして、フォウは化け猫たちを見上げた。

 こいつらの爪と牙には毒がある。

 道士の術を無効化する毒だ。


「な、なんなんだこいつらは!」


 追いまわされて、フォウはセットの中を逃げ惑った。

 プラスチックで作られた建物の外壁を蹴倒し、画像加工のため張られているグリーンシートの内側へ回り込む。

 積まれたレンガを駆けあがり、偽物の樹木をよじのぼった。


 どこへ逃げても化け猫は追いかけてきた。


 しかも、数が多い。

 いくらフォウが炎を使って撃退しても、別のやつがすさかず襲ってきてフォウの体にダメージを与える。

 そして、彼らに与えられた傷は深く、しかも激痛を伴う。


 だんだん走るスピードが落ちてきている自身を、フォウは自覚した。


 毒だ。やつらの毒が体に回ってきた。


 苦肉の策で、フォウはキャスリーンのトレーラーに跳びこんだ。

 

中はムッと女の化粧品の匂いが充満していた。

 続いて跳びこんでこようとした化け猫を蹴倒し、後部ドアを閉める。

 かんぬきをかける間も、天井にバンバンと音を立てて化け猫たちが着地した。

 ギャアギャアとわめきながら、外装を攻撃してくる。その振動でトレーラーが大きく左右に揺れ始める。


 化粧テーブルからどさっとハンドバッグが落ちて、中のものがこぼれだした。

 いくつもの白い袋がフォウの視界に跳びこんできた。

 薬袋。

 取り上げて、確認してみる。


 あの病院の名前が記載されていた。


「……なんてこった!」


 では、あの妖気に取り巻かれた病院に、キャスリーンも入院していたのだ。

 それが気鬱のためかはたまた本当に何かの疾患があったのかは、今はどうでもいい。

 問題は、彼女がマスコミその他を避けるつもりで選んだあの病院が、こいつらの元締めである化け猫の巣窟だったということだ。


 があん、があん。


 だんだん、外からの攻撃が激しくなってきた。

 猫じみた高い鳴き声が、うるさいほどに中まで響いてくる。

 このままではもたない。

 そのうちにトレーラーの薄い装甲は破られ、フォウは逃げ場を失ってしまう。


「落ち着け。落ち着け、フォウ」


 フォウは自分で自分に言い聞かせた。


 思い出せ。

 こんなとき、どんな技を使えばいい。

 何をすれば、こいつらを撃退できる?


 考えても頭は真っ白なままだった。


 そのうえ、フォウには弱みがあった。

 凶悪な敵とはいえ、彼らは憑依されているだけなのだ。

 炎を使って何匹かを焼き殺すことはできるだろうが、それでは、憑依された人間をも殺してしまうことになる。


 憑依している何かを、人間の体が追い出さなくてはならない。

 だが、いい方法を思いつかない。

 頭の中で師匠である父親から押し返られたことを反芻し、読み漁った本の内容を思い浮かべてみても無駄だった。

 該当する知識がないどころか、絶え間なくガンガンと響いてくる外からの攻撃音と、今やゆっさゆっさと形容するレベルのトレーラーの動きに脳を噛みだされて、考えがまとまらない。


 ついに、トレーラーが倒れた。


 同時に、攻撃を何度も受けた外装のあちこちに穴が開いて、それぞれの穴から化け猫の手が突き出されてきた。

 引っかかれ爪を突き立てられ、転がりまわってなんとか攻撃を避けようとしたが、どうにもならなかった。


 転がった勢いで、外装の破れ目から転がり出てしまう。


 化け猫たちが待ち受けていた。


「うわあああ!」


 フォウの喉から出た叫びには、怒りよりも恐怖のほうが多く混じっていた。

 咄嗟に身を丸めて、目や心臓への攻撃だけは防ぐことができた。


 しかし、多勢に無勢。


 脇腹を食いちぎられ、鮮血がほとばしった。

 その血を嬉し気に舐めて、別の一匹が今度は背中に食らいついてくる。

 フォウの血を舐めた化け猫は、さっきよりも力を増していた。

 周囲に巡らした炎に対する耐性も獲得したようだ。

 炎など気にもせず、四方八方からフォウに噛みつき、あちこちの肉へ牙を食い込ませる。


 あなたには無理。


 痛みと衝撃に支配されかけた脳の中に、夕べのシウレンの言葉が甦った。


 ああ、本当だったよシウレン。

 こいつらは確かに、俺一人ではどうにもならない。


 せめて、憑依されて化物になった人たちを元に戻してやりたい。

 けれども、フォウの命と引き換えにしてさえ、それは無理のようだ。

 いっそ、炎を最大限のパワーへ引き上げて、何匹か道連れにしてやろうか。

 駄目だ。それでは彼らを殺してしまう。

 殺してはならない。救わなくては。


 救わなくては。


 意志とは勝手に遠ざかろうとする意識を、フォウは必死に叱咤した。

 

 馬鹿野郎、失神してる場合じゃねえんだ。

 何があろうと最期まであきらめるな。

 闘い抜け。


 あれ? 俺ってそもそも、なんのために闘ってるんだっけ。

 どうしてここにいて、こいつらに襲われてる?


 とか考えるのも面倒くさい。


 もういいや。

 痛いし、苦しいし。

 忘れちまえ。何もかも。


 視界が闇に塞がれていく。

 相変らず、猫たちはフォウの体のあちこちをむさぼっている。

 致命傷にならないのは、かろうじて炎がその部分に巻きついているからだ。

 その炎もフォウの意識と共に、だんだん精彩を失っていく。


 キャスリーンが現れた。


 ぐるると低く唸ると、フォウに群がっていた化け猫たちがいっせいに引いた。

 体を支えるものをなくして、血まみれのフォウはその場へごろりと転がった。


 そのことすら、フォウ自身にはよくわかっていない。

 それどころか、攻撃が止んだことにほっとして、地面に長々と横たわる。


 かあっとキャスリーンが真っ赤な口を開いた。


 涎を垂らしながら、フォウに覆いかぶさる。

 いつの間にか彼女の尻からは長い尻尾も生えていた。

 しかも、尻尾は九尾もある。

 背中を丸めたその姿は、人間というよりはすでに猫に近い。


 耳まで開いた口で、フォウを頭から丸呑みにしようとする。

 肉に対する獣の欲望と共に、道士の力を己の体に取り込む喜びで全身を震わせている。


 だが。


 その、一瞬。


 雷が。


 ギョッとして、キャスリーンが動きを止めた。

 フォウにのしかかった姿勢のまま、首を巡らして天を振り仰ぐ。


 だが、そこにあるのは香港特有の薄ぼんやりした曇り空。

 雨雲でもなければ、稲妻も見えない。

 それなのに。


 また、雷鳴が轟いた。


 周囲がまばゆい光に照らし出される。

 何もない空から、だしぬけに雷が生まれたのだ。


 真っすぐに化け猫を目掛けて落ちてくる。


 避ける暇もなかった。

 雷は一気に化け猫を引き裂き、幾つかの肉塊に変えた。


 ばらばらになったキャスリーンの残骸が、地面に散らばる。

 それはもうすでに、元が人間だったとは判別できない。ぶすぶすと黒煙を上げる、焼け焦げた肉でできた消し炭だ。


「う……」


 フォウはやっと片手を上げ、目に流れ込んだ血をぬぐった。

 自分でも腹がたつほど緩慢な動作で、あたりを見回す。


 いた。


 セットの建物の上に立てた、撮影用のライトの支柱だ。

 そのてっぺんに男が一人、立っている。

 足場とは言えないほど細いその棒の上で、男は危なげなくバランスを取り、こちらを見下ろしている。


 ニヤニヤ笑っていた。


 ずいぶん離れたところにいるのに、フォウにはその男の表情がはっきりと見て取れた。


「お……お、まえ……」


 フォウはなんとか声を絞り出した。


「おま、え……な、に、もの……」


 男は高らかに笑った。


 若い男だ。

 フォウよりは少し年かさだろうか。

 だとしても、十二分に若い。


「俺か?」


 いかにも小ばかにしたような顔で、男は言った。


「それよりも、自分がコテンパンにやられた敵のほうが気にならないのか? そういうところが素人だというんだ」


「な、んだと……お?」


「おおっと。そんなにズタボロにやられて、まだ俺にケンカを吹っ掛ける気力があるのかよ。バカだな、そういう力の無駄遣いをするから、倒せるものも倒せないんだ。

 いいか、あいつは金華猫。弱ってる人間の精気がやつらの好物だ。病院に巣くっていたのも、そのためだ。お前はやつらにとってのご馳走にされるためだけに、いたぶられていたんだぜ。弱ったほうが美味い獲物になるからな。

 どうだい、カッコ悪いとは思わないか」


「くそ……っ」


 言われ放題に言われても、反撃もできない。

 何より、反撃するだけの気力がない。


「なんだ、まだ文句があるのか。そんなへろへろのみっともない有様のくせに。いい加減に自分の力不足を認めて、助けてくださってありがとうございました、とでも言ったらどうなんだ」


「ちく、しょう……」


 フォウは地面をひっかき、なんとか体を起こした。


 彼は、フォウとは違う流派の道士服を肩にひっかけていた。その裾が、風にひらひらと舞っている。


 シウレンの姿がフォウの脳裏にひらめく。

 彼女の言葉と共に。


 怪異を退治するために、彼女は自派で最高の道士が派遣されたと言っていた。


「おまえ、が……仏山派の……?」


「そう! 俺は正真正銘、プロの道士。そして」


 高らかに、男は告げた。


「偉大な勇者だ!」


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