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 フォウの家は、いわゆるマンモス団地の中にある。


 黄大仙(ウォンタイシン)という地区は、道教寺院から名前をもらっている割には、昔から貧民の集う土地として知られていた。

 バラック住まいの人々を収容するために公営団地が次々と作られ、少子高齢化の流れに押された老人たちが、今も老朽化したその団地の片隅で細々と生活している。


 今日も守衛室で居眠りしている雇われ管理人を横目に、フォウはエレベータで自分の階へ上がった。

 そのエレベータも、ときおり不吉にゴトゴトと音を立てる年代物である。


 自宅のドアの前に何人かの男たちが群がっていた。


 一人は真っ赤なペンキに太いハケをひたし、入口に大きな文字を書きなぐっているところ。

 もう一人はポリタンクからせっせと液体をまき散らしている。

 揮発性の嫌な匂いが廊下一帯に漂っているところから、それはガソリンであるとすぐにわかった。

 三人目と四人目は、二重ドアの外側の鉄扉を揺さぶって、あたりはばからぬ大声でわめき散らしている。


「ふざけんじゃねえぞ、このアマ! 中にいるのはわかってるんだ、出てきやがれ!」


 廊下の角で、フォウはひとつ溜息をついた。


 おもむろに男たちの背後へ立つ。

 ぎょっとして男たちが振り返った。


「な、なんだコノヤロウ!」


「なんだと言われても……この部屋の住人だよ」


「なにいっ?」


 たちまち男たちはいきり立った。


「てことはコノヤロウ、てめえはあのクソアマの兄貴かなんかか!」


「お前たちのいうそのクソアマが俺の推測と一致してるなら、そのとおりだと答えるしかないな」


「すっとぼけてんじゃねえぞ、テメエ! ブッ殺されたいのか!」


 あいにく、男たちの威嚇はフォウに通じない。

 強面の男四人に囲まれても、フォウはただ、ウンザリしたように肩をすくめるばかりである。


「妹の借金のことは、いずれ俺がなんとかする。だからお前さんたちは、今日のところはおとなしく帰ってくれ」


「こ、このっ……どのツラ下げてそんなセリフを……」


「あいにく、俺の持ってるのはこのツラだけなんだけど」


「くそっ!」


 実際にはもっと下品な罵声を言い放題にわめき散らし、男たちはいっせいにフォウへ殴りかかってきた。


 もちろん、チンピラ風情の攻撃など、フォウにとってはそよ風が吹いた程度でしかない。


 一人目の拳を受け止め、二人目の腕を関節と反対方向にねじり、三人目を蹴って廊下の端まで吹っ飛ばした。


 四人目の胸倉を掴まえて、引き寄せる。


「だからさ。乱暴なことはやめようぜ、お互い」


「ひ……ひい」


「借金は必ず返す、と兄貴分にも伝えな。返せなかったとしても、俺が直にあんたらのとこへ出向いて落とし前をつける。だから、ご近所さんに迷惑をかけるのだけはやめてくれないか。ほら、こんなふうに」


 フォウが無造作にポケットからマッチを取り出す。

 男たちがぎょっとして後ずさった。


「て、てめえ、俺たちがここに撒いたのがなんだか、わかってやってんのか……」


「わかってるに決まってるだろ」


 マッチを擦り、ガソリンの上に放り投げた。

 今度こそ男たちは絶叫し、転がるようにして廊下を駆け去っていった。

 フォウの攻撃で負傷させられた足を引きずりながらも、驚異的なスピードである。

 さすがチンピラ。下っ端でも、ガソリンが引火したらどんな参事が巻き起こるか理解している。


 だが、ここにいるのは炎使いの霊幻道士。


 炎はガソリンの手前でひょいと向きを変え、空中を滑ってフォウの手元に戻ってきた。

 フォウは苦い笑いを片頬に浮かべて、炎を手の中で消滅させた。


 ガソリンにも手をかざし、念をこめて急速に気化する。

 そうしておかなければ、またぞろ近所の人たちが臭いだの危ないだのと文句をねじこんでくるからだ。


 改めて、ドアを見上げた。

 真っ赤な毒々しいペンキでそこらじゅうに「還錢(ワンチン)(カネ返せ)と書かれてあった。

 これはさすがに、フォウの道術ではどうにもならない。


「またこれを消すのか。たまんねえなあ……」


 愚痴を言いながら扉を開ける。


「おい、いい加減にしろよ」


 大声で呼ばわっても、最初のうちはなんの反応もなかった。

 しかしフォウが部屋の隅のガラクタをかき回し、道具袋にいろいろ詰め始めてしばらくすると、奥のドアがやっと隙間ができるほど開いた。


「……あいつら、帰った?」


「だから! そんなに怖いなら、最初からああいう連中にカネを借りるなって言ってるだろうが!」


 作業を続けながら、フォウは肩越しに妹へ怒鳴った。


 ドアの隙間からのぞいている顔は、決して可愛くないわけではない。だが、美人と呼ぶには険がありすぎると、本人に向かってズバリ言う者もいる。

 性格が顔に出るのだ、とフォウは思っている。


 地頭はいいくせになんの努力もせず、常に不幸を誰かのせいにしておいしいところだけをつまみ食いしようとする、だらしなくて性格の悪いフォウの妹。


 どうせまた、楽をしていい思いをしようと何かを企てて、借金だけを抱え込んだに違いない。

 普段ならカネを借りた相手を口八丁で篭絡するか自分の借金を誰かに押し付けるかを得意としているのに、今回は珍しく失敗したようだ。


「お前、いい加減にしとかないと、そのうち大変なことになるぞ。いつでも俺が尻ぬぐいしてやれるとは限らないんだからな」


「だって!」


 妹が激しく言い返してくる。


「こんな家庭に生まれちゃった以上、自分の力で将来を切り開かなくちゃ、どうしようもないじゃない! だから私だって私なりに必死なのよ! それともなに? アニキは私が風俗にでも沈んだほうがいいっていうの?」


「今だって、当たるを幸い男という男に貢がせて、それで首が回らなくなってんじゃねえか。それと風俗とを比べても、それほど遠い距離じゃねえだろ」


「アニキさいてー!」


 ドアの向こうから枕が飛んできた。

 フォウがやや頭を下げると、枕は向こう側の壁にぶつかって床に転がった。


「あんたら男たちの稼ぎがないから、私がこうやって一人で苦労してんじゃないの! クソオヤジは妖怪退治だかなんだか知らないけど、カネにならないことで家を空けてばかり! クソアニキだって私のことなんかカケラも考えてくれてない! このままじゃ、カナダ留学なんか夢のまた夢で終わっちゃう!」


 このままでもどのままでも、それはただの夢だよ。

 言い返したいのを、フォウはぐっと喉の奥へ呑みこんで我慢した。


 妹が急にカナダ留学を言い出した理由はわかっている。三軒先の幼馴染が奨学金を得たことが、うらやましくて妬ましくてならないからだ。

 別に勉強したいわけでもキャリアを積みたいわけでもない、ただ張り合うためだけの留学になんの意味があろう。


 フォウだって必死で稼いでいる。

 だが、その稼ぎは全て家系を維持するだけで消えてしまう。

 とても妹に遊興のための小遣いを渡す余裕などないのだ。


 賢い妹には、それがちゃんとわかっている。

 わかっていて、なお我がままを言うのである。

 自分の不満を自分の中で抱え込むより、他人にぶつけて傷つけるほうが小気味いいので。兄のせいにしてしまえば、自分がかわいそうな被害者になれるので。


「とにかく! しばらくはフラフラ外に出掛けるんじゃねえぞ。下手をしたら売り飛ばされるどころか、ぶっ殺されて内臓取られても文句は言えないんだからな」


 どうせ聞くはずもない忠告を残して、フォウは家を出た。

 ドアの向こうからは、なんの反応も戻ってはこなかった。

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