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「カット!」
監督が叫んだ。
「よーし、発火のタイミングはそれでオーケー。助かったよ、フォウ。明日もうひとシーンだけ、よろしくな」
フォウは額の汗をぬぐい、親指をたててみせた。
「戻れ」
炎に短く命じて、手の平をかざす。
車と役者の周囲を取り巻き燃え上がっていた炎が、ひゅっと体積を減らしてフォウの手の中へ吸い込まれた。
拳を握りこみ、火を消す。
敵役を演じている若い男優が、あんぐり口を開けてその光景を凝視していた。
「なんだ、お前さん。フォウの炎芸を見るのは初めてかい」
助監督が男優の背中を派手に叩いた。
「あいつはうちの武術指導のツテで、たまに手伝いに来てくれるんだよ。特に、火薬やらなんやらの予算がカツカツなときは、めちゃくちゃ役に立つ手合いさ。なんせ大道具も小道具も燃やさなくて済むし、準備も後片付けもなし。おまけに支払うのはあいつへの日当だけ」
「い、いや、そうじゃなくて」
噴出する撮影資金の赤裸々な話にたじろぎながら、男優が言った。
「あの炎……まさか手品? じゃないですよね?」
あははは、と助監督が笑った。
「手品といえば手品かな。フォウの手の中から出てきて、また手の中へ戻っていくわけだから」
「こらこら、おっちゃん」
脇から当のフォウが突っこみを入れた。
「霊幻道士の修練の技を、手品たあひでえ言いぐさだぜ」
「れ、霊幻道士……!?」
{おうよ。本物は初めてみたかい、あんちゃん」
自分より年かさの男優に対して、フォウは大胆な物言いでニヤリと笑ってみせた。
まあまあ、と助監督が間に入った。
「香港映画の世界でも、霊幻道士のブームは去って久しいからなあ。リバイバルの深夜放送とかで見るんでなけりゃ、若い連中にはほとんど縁のない商売になっちまった」
「いや、でも、あの炎……」
男優はまだ戸惑っている。
「道士っていうのは俺も知ってますよ。葬式のときに鐘を鳴らしてお経のまたいとこみたいなのを読む……」
「違う違う」
フォウが手をひらひら振って否定した。
「ああいうのは南無大師と言って、形だけそれらしく躍ったり唸ったりしてみせるだけ。もっともどこも人手不足の昨今、霊幻道士を引退したじいさんが副業でやってたりすることもあるんだけどね。俺はそういうんじゃなくて、マジモンの霊幻道士。だからあの炎も、本来は俺の武器なの。あんたが悪霊だったら、さっき炎に巻かれた時点で塵になってるとこなんだぜ。よかったな、まっとうな人間やっててよ」
偉そうに胸を張って説明しつつも、いまいち情けない思いが隠せないフォウである。
何が哀しくて霊幻道士が映画の撮影でアルバイトをせねばならないのか。
それはもう当然、本業で依頼の筋が少ないからに決まっている。
うちの親父は頑固だからなあ。
今の時代、何事につけてもフリーの職人は割りを食う。
特に、おおっぴらに動画サイトで宣伝などできない職種ではなおさらだ。
頼りは業界のつながり。
香港の霊幻道士たちも流派で団結し、互いに顧客を融通しあうことで、なんとか業界の形を保っている。
それが邪道だ、とフォウの父は力説する。
霊幻道士とは職業ではない、使命だ。
それが父親の口癖だ。
力を持って生まれた者の宿命として、無力な人々を助けなくてはならない。
それなのに収益だ損得だフランチャイズだなどというのは言語道断。
あんなやつらと一緒にやっていられるものか。
というわけでフォウの父親は自分の属している流派からも飛び出して、一人で勝手に道士を名乗っているわけである。当然、その息子であるフォゥにも同じスタイルでの仕事を要求し、だからといってフリーの道士などという怪し気なものにカネを積んで依頼するようなもの好きはほとんどいないわけで。結局、フォウ一人が一家を背負って生活費を稼ぐために、こんな情けないアルバイトをしているというわけなのだ。
もっとも、悪霊退治のための炎を映画撮影に提供していると知ったら、またぞろ父親が怒髪天を衝いて大暴れするのは間違いない。
フォウにできるのは、名を隠し身を隠しつつ、こそこそと小金を稼ぐことだけである。
「ご苦労さん。今日もカッコいい炎だったぜ、フォウ」
この仕事を紹介してくれた武術指導が、茶水(香港映画界独特の職業。出演者やスタッフの湯茶の世話をする)のおばさんの心づくしを手渡して、フォウをねぎらった。
「よかったら明日も来てくれるかな。主演女優が炎に巻かれて逃げるシーンの撮影があるんだ」
「あれ? そこはもう、炸弾専家(爆発処理の専門家。本来は警察の処理班を指す)を使って撮り終わったと言ってませんでしたか?」
「お前の炎を目の当たりにして、撮り直したくならない監督がいたらお目にかかりたいよ」
武術指導はそう言って笑った。
「そしたら今からでも俺はいいですよ」
「ところがどっこい、主演女優サマは今日も勝手に撮影をお休みだ。しかたなくドラマのほうも、彼女がいないところだけ部分撮影ってことになったそうだよ」
「わがままだなあ……」
「それが人気者ってことの証明でもある」
香港の俳優は忙しい。映画の撮影だろうがなんだろうが、その途中でインタビューやらイベントやらに駆り出される。人気が出てきたらなおさらだ。馬車馬のように働いていなければ、この慌ただしい街ではあっという間に忘れ去られてしまう。
それどころか、売れてくると何本もの映画を同日に掛け持ちで撮影することも平気でやる。
片方の現場が押してきたら、割りを食うのは出足の遅かったほうの現場となる。
「いいじゃないか。二日間働いたら、そのぶんの日当がもらえるんだから。気前よく払うように、俺から製片(制作現場の事務方担当)にも言っとくよ。じゃ、明日の午後三時頃でいいか?」
「りょーかーい」
へらっと笑ってみせて、フォウは上着を肩に立ち上がりかけた。
周囲では大道具係が忙しくセットを組み替えている。
そこへ、聞きなれた胴間声が響いてきた。
「おおーい、フォウ! 大変だ大変だー!」
「うええ」
フォウは顔をしかめてくるりと背を向けた。
だが、逃げ出す前に声の主は大道具を蹴倒しながら撮影所へ跳びこんできた。
襟首を掴まえられ、引っ張り戻される。
「どこ行こうってんだよ、フォウ! まさか、俺の呼ぶ声が聞こえなかったのか?」
「聞こえねえわけがないだろ、この大声野郎!」
振り向くなり、フォウは噛みつくように言った。
目の前にあるのは思ったとおり、フォウとは腐れ縁の古なじみ。
大柄な体に、似合わぬ黒いスーツとネクタイなどつけているのは、彼が葬儀屋業界に所属しているからだ。
南無大師の話でもわかるように、霊幻道士という稼業と葬儀屋には密接な関連がある。
だが、この男とフォウが商売上での取引があるとか、そういうわけでもなかった。
フォウにとっては厄介なことに、この男は生来から霊幻道士という仕事に強く憧れており、たまたま知り合ったフォウの技に魅了され、つきまとってくる面倒な相手なのである。
「だってしょうがねえじゃねえかよ。映画の撮影現場ってなあ始終誰かが怒鳴ってやがるから、俺の声がかき消されてしまっちゃ困ると思ってよ」
「そのバカ声が何にかき消されるってんだよ!」
フォウは負けずに怒鳴り返した。
「だいたい、撮影現場にあったり前の顔して乗り込んでくんなって、いつも言ってるだろうが! 仕事の邪魔なんだよ!」
「仕事ったって、ただのアルバイトじゃん」
「うるせえよ!」
「栄えある霊幻道士がこんなハンパ仕事のことを気にしてんじゃねえよ、フォウ。お前の道術が映画のエフェクトに使いまわされてると思うだけで、俺ぁ泣けて泣けてよう」
言葉だけでなく、そこで本当に泣き出してしまうのだからフォウもお手上げだ。
「カンベンしてくれよ、波士哥よう」
この喜怒哀楽の激しい男と知り合ったのは、とある悪霊を追いかけていたとき。なりゆきで葬儀屋の手を借りることになってたときだ。
顔を合わせるなり殴り合いの大ゲンカを繰り広げた。
出会いは最悪。
なのに気付けば向こうがこっちに惚れこんで、なにくれとなく手助けをしようとしては大失敗の大暴れ。
ときにはほとほと呆れつつも、どうにも憎めないやつなのだ。
「ほら、みんながこっちを見てるじゃねえか。俺がいじめたと思われたら、たまったもんじゃねえや。あーあー、俺が悪かったよ謝るよ。だから頼む、泣くのはやめてくれ」
「だ、誰が泣いてるよ!」
「まさに今、わんわん泣いてるじやねえかよ」
「これは嘆いているというのだ! 男一匹、こんな大変なときに、めそめそ泣いててどうする」
「あー……」
天を仰いでから、フォウは降参した。
「で、何が大変だって?」
「そうそう、そうだった!」
とたんにボスコは勢いづいた。
「俺の出入りしてる病院でよ、おかしな事件が連続して起こってるっていうんだよ」
「おかしな事件? 病院で?」
「それがなんと、鬼上身だっていうのさ!」
その単語を聞いて、フォウもさっと真顔になった。
鬼上身というのは要するに、悪霊や妖怪が人間に憑依することを指す言葉だ。
「けど医者ならそういうの、精神疾患と診断しちゃうんじゃねえの? なんかのトラウマが原因だとか、断続的トランス状態に陥っているとか、多重人格だとか。病院ではそういう言い方すると思うんだけど」
「もちろん医者はそうさ。この噂は看護師のねーちゃんたちから聞いたんだ」
葬儀屋稼業では病院回りも大事な仕事のうちだ。看護師と懇意にしていれば、顧客の紹介を優先してもらえることも多い。
ガラッパチで、お世辞にもハンサムとはいえないこの男は、しかし人付き合いはなぜか上手で、行く先々の病院で気難しい看護婦長に好かれているのだった。
そのボスコが病院絡みで持ち込んでくるのは、かなり精度の高い情報だとフォウにもわかっていた。
フォウは本腰を入れて話を聞く態勢に切り替えた。
周囲では相変らず、映画人たちがやかましく叫びかわしている。
どたばたと道具が運ばれスタッフが走り回る中に、誰もが知る人気俳優が当たり前のように混じっているのが香港映画らしさだ。
アイドルだからといって自分だけの楽屋にこもることはない。なんなら撮影の手伝いまでする。
フォウにとっては当たり前の光景だが、ボスコはまだ見慣れていないので、話の途中でもそばを俳優が通っていくと、そちらに気を取られたりする。
ついにフォウも怒り出した。
「いい加減にしろよ、ボスコ! 落ち着いて話せ!」
「わ、悪ィ。けどさあ」
叱られても、ボスコは一向に悪びれない。
「お前の関わってるこの映画の主演って、あのキャスリーン・チョイじゃなかったか?」
「あの、とか言われても知らねえよ俺は」
「ちぇっ。ほんとにお前は世の中に疎いんだから。いいか、キャスリーン・チョイといえば香港小姐でベストフォトジェニック賞とグッドスマイル賞の三冠を達成した伝説の美女だぜ? そのくせ気さくであけっぴろげで、そのうえ」
「そのうえ?」
「ものすごいボインだ」
「ケッ」
フォウは舌打ちをした。
「だからなんだってんだよ。いいからさっきの話を詳しく教えろっての」
「ちぇ。もしキャスリーンが現場にいたら、あわよくばサインとかツーショとか、期待してたのによう」
「調子よすぎだろてめえは。病人が次々と得体のしれねえもんに憑依されてるってえ大事件の話をしてんのに、その合間に女優とツーショだなんて不謹慎すぎるぜ。あいにくお前の大好きなそのキャスリーンさんは、業界ではわがまま気ままのヒステリー女で通っててよ。今日も勝手に自主休業で、みんなを困らせてるときた」
「うおお。やめてくれ俺の美しい夢を壊すのは」
「勝手に夢見てやがれ!」
フォウはボスコの頭を一発殴った。
この野郎、といってボスコはフォウを蹴った。
荒っぽいやり取りではあるが、この二人にとってはいつものスキンシップ。なんだかんだ言いながら、話を終えて立ち上がる。
「おい、どこ行くんだフォウ。俺っちの言った病院に直行するんじゃねえのかよ」
「ばーか。道具がねえよ」
ボスコが持ち込んでくる事件は意外に精度が高い。
噂話とはいえ、ひとつの病院で次々と憑依事件が起こっているとしたら、それはかなり強力な霊障のしわざだ。
のこのこ見物にいって返り討ちにあったりしたら、それこそフォウは父親から半殺しの目にあわされるだろう。
「いいか、ボスコ。てめえはこれ以上、手を出すな」
別れ際にフォウは、毎回お約束の警告を口にした。
たちまちボスコが抗議の声を上げるのを聞かない体で、両耳に指を突っこんでくるりと背を向ける。
一気に撮影所の門を抜けて、ちょうど手近にいたミニバスに手を挙げて、乗り込んだ。




