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血伯爵の恋  作者: 劫火
番外篇
16/18

上。

一声の遠吠えが、密林に響き渡った。

密林は四方を海に囲まれた小島であり、青空に白い雲が流れ、湾には透き通る水と白砂が広がっている。寄せては返す波音が心地よい安らぎを運んでくる中、ただその遠吠えだけが静寂を引き裂いた。

断崖の上に生い茂る樹林は、岩肌に根を絡ませ、複雑に入り組んだ洞窟を形成している。濃密な樹冠が陽光を遮り、海風を閉ざし、本来ならば蒸し暑くじめじめとした空気が支配するはずの島内は、どこかひんやりとした気配に包まれていた。

周囲の植物には、いつの間にか薄く霜が降りていた。

その奇妙な光景を、一閃の爪が裂く。

壁のように立ち並ぶ木々が紙のように引き裂かれ、不揃いな裂け目から、一頭のルナガロンが森を飛び出してきた。

先程の耳を劈くような咆哮は、どうやらこのモンスターのものだったようで、あの一声だけでその場にいたハンターたちは身動きを封じられてしまった。

攻撃をかわしたにもかかわらず、ルナガロンは苛立ったように前脚を振り回し、何かを払いのけようとしていた。

しかしいくら努力しても、血のように赤い噛生虫は舞うようにその身の周囲を漂い続け、僅かに振り払っても、再び執拗に戻ってくる。やがてその一部は、氷で形成された甲殻の隙間へと忍び込んだ。

「まずい、ルナガロンが海辺に逃げるぞ!」

ようやく咆哮の影響から回復したハンターたちが気づいた時には、すでにルナガロンは包囲を突破し、狩猟範囲の外へと逃れようとしていた。

ざわめく一同の中で、調査員バハリは歯噛みして叫ぶ。

「奴は重要な研究対象なんだ、逃がしてたまるか――!」

このままでは、傀異調査任務そのものが失敗に終わってしまう!

ハンターや随行するオトモたちは慌てて追撃の準備を始めたが、その時、ひとつの影が後方から駆け出す。

ポニーテールの女ハンターが、誰よりも早く行動を開始したのだ。

赤毛のガルクに跨がり、急斜面を駆け上がる。

彼女は叫ぶようにしてガルクに加速を命じ、必死の追走の末、ようやくルナガロンの姿を捉えた。

喜ぶべきか悩ましいところだが、噛生虫のしつこさがルナガロンの動きを阻み、しばしば立ち止まっては追い払う様子が幸いした形だ。

そのおかげで、ガルクの脚でようやく追いつける距離が保たれている。

しかし、もう少しで届くというその時――

ルナガロンが再び走り出した。

翔蟲を投げようとしても、この距離では間に合わない。女ハンターはそう悟り、焦りながらも必死に策を探す。

目を皿のようにして周囲を見渡し、ふと顔を上げた瞬間、視界に映るある光景に目を留めた。

「キャラメル!」

オトモガルクの名を呼ぶと同時に、キャラメルは即座に反応。

加速しながら坂の曲がり角で急停止すると、その勢いで女ハンターを背中から前方へと放り投げた!

宙に浮かびながらも彼女は冷静だった。

その瞬間に翔蟲を放ち、光を放つ青い糸に手を伸ばすと、まるで風を駆ける鳥のように空中を駆け抜けた。

突風の中を滑るように飛翔するその刹那、逃げるルナガロン、追うハンターたち、吹き荒れる風音――

すべてが一瞬、ゆるやかに動きを緩めた。

彼女の耳に響くのは、自身の規則正しい呼吸音、そしてかつて耳元で優しく囁いた、ある少年の声。

「落ち着いて、タイミングを見極めろ。」

記憶の中の銀髪の少年は、狩猟の王たる者の如く、今もなお静かに導いてくれている。

彼の面影に背中を押され、彼女は静かに機を待つ――

ルナガロンが再び地を蹴ろうとした、その瞬間、彼女の掌からクナイが飛び出した。

幾重にも重なる樹々の間をすり抜け、鋭いクナイはルナガロンに向かって真っ直ぐに飛ぶ。

しかし、それはあくまでかすり傷にしかならず、鋭い刃はわずかに鱗を裂いただけだった。

だが、彼女の本当の狙いは、別にあった。

クナイはさらに進み、岩壁と木を結ぶ太いツタを切断する。

一見複雑に絡み合っていたそのツタは、たった一本失われただけで均衡が崩れ――

巨大な岩が重みに耐えきれず、落下した!

それは、まさにルナガロンが通り過ぎようとしていた瞬間。

不意を突かれたルナガロンは岩を頭部に受け、強烈な衝撃に悲鳴を上げながら地面を転がった――!

「私は、落とし穴を……えっ?」

そのとき、女ハンターも無事に地面へ着地し、畳みかけるように追撃の準備に入ろうとした。だが、ポーチの中を何度も探っても、道具が見つからない。

慌てて中を覗き込むと、あったのは回復薬が数本だけ――

落とし穴どころか、捕獲用麻酔玉すら入っていなかった!まさか……この前の任務の後、補充を忘れてた!?

目の前ではルナガロンが再び立ち上がろうとしているというのに、手元には何の手立てもない。

このまま狩猟対象を取り逃がしてしまうのか――

そんな絶望の淵に立たされた刹那、他のハンターたちが到着し、すかさず援護に回った!

ある者は落とし穴を仕掛け、またある者は麻酔玉を正確に投げる。

一連の動作は流れるように無駄がなく、瞬く間に巨大なモンスターを完全に無力化させた。

苦労の末、ついにルナガロンの捕獲に成功。

その場の誰もが歓声を上げ、なかにはこう叫ぶ者もいた――

「ナイスだよ、曉茉!」

まだ少し呆然としていた曉茉だったが、仲間たちの称賛に思わずぎこちない笑みを浮かべてしまう。

「どいてどいてー!やっと俺の出番だぞ!」

そんな中、バハリがようやく坂の上から追いつき、満を持して登場した。

彼は手をひらひらと振ってハンターと後片付け中のオトモたちを軽く追い払い、防護ゴーグルを着けると、ぎっしりと道具が詰まった箱から金色の薬瓶を取り出した。

実験瓶を軽く振り、中身に異常がないと確かめると、迷いなくルナガロンへと近づき、

そのまま薬液を豪快にふりかけた。

「さあ、今回の成果を見せてくれよ――!」

バハリは少し離れた位置まで駆けていき、拳を握りしめて実験結果を見守った。

その様子に釣られて、曉茉もまた唇を引き結び、両拳を握って固唾を呑む。

噛生虫に寄生されたルナガロンの氷鎧と鱗のあいだからは、血のような紅い結晶があちこちに現れていた。

それはまるで凍てついた痣のように、ルナガロンの全身を覆っていた。

金色の薬液が染み込み、時間だけが過ぎていく。

それでも何の反応もない。ただ静寂が満ちていくばかりだった。

皆が、今回も駄目なのかと、心のどこかで思い始めていた。

誰もがそう思いかけたそのとき。

ぴしっ――

一片の紅い結晶が、鱗の隙間から音を立てて崩れ落ちた。

カラ……カラカラカラ……続けざまに大小さまざまな紅い結晶が、ルナガロンの体から崩れ落ちていく。

砕けた破片の中からは、無数の噛生虫の幼体がもがきながら這い出してきた。

成体の噛生虫たちは、まるで水銀に触れたかのように、急にルナガロンから離れ、空高く逃げていく。

ついに寄生からは解放されたのだ。

――だが、それでもルナガロンの呼吸は苦しげで、傀異化の兆候は完全には消えていなかった。

「はぁ……やっぱり駄目か。」

バハリは残念そうに頭をかきながら、ため息を漏らした。

「幼体が即死しないってことは、薬の効果が切れたら再び孵化する可能性があるな……同じ牙獣種でも、ウルクススには効果あったのに、格上のモンスターには通じないとはなあ……」

バハリはしゃがみ込むと、ピンセットで幼体を何匹も試験管に詰めていく。

ルナガロンの容態を確認しながら、ぶつぶつと独り言を漏らし、すっかり研究の世界に没頭していた。

こうなると、しばらく誰も彼を止められない。

仲間たちはもう慣れっこで、自然と片付けや撤収の準備を始めた。

調査の成果は乏しくとも、任務自体はこれで一区切り。

一行は帰還のために、エルガドへの出航準備に取りかかる。

作業に追われる者、腰を下ろして休む者――

皆がそれぞれの時間を過ごす中、曉茉だけはその場に立ち尽くしたまま、眠るルナガロンをじっと見つめていた。

隣ではオトモガルクのキャラメルがおとなしく座り、彼女の傍に寄り添っている。

だが、曉茉はそれすら気づかぬほど、深く考えに沈んでいた。

「……何を考えているのですか?」

不意にかけられた柔らかな声。振り返ると、いつの間にかタドリが隣に立っていた。

「どこか、怪我でも?」

曉茉は首を横に振るだけで、答えなかった。

しばらくしてようやく、心配させたかもしれないと気づき、あわてて補うように言葉を継ぐ。

「もっと、強くならなきゃって思ってただけ。」

その言葉にタドリはくすりと笑い、からかうように、そして優しく告げた。

「この三年間、君はほとんど無休だったんですよ?」

風神龍と雷神龍を討伐したのをきっかけに、曉茉は止弦、瑞雷、汰華たちと共にエルガドへ向かい、やがて傀異調査団へと加わった。

エルガドに来てからというもの、曉茉は毎日のように忙しく、傀異調査の任務には一度も欠かさず参加していた。

時の流れは早いもので――気づけば、もう三年も経っていた。

海風に塩の匂いが混ざるこの街の空気にも、いつしか曉茉は馴染んでいた。カムラの里の花の香りや炭火の匂いとは、まったく違う空気だったけれど――

思い返せば、ここで得た経験は数え切れない。

狩猟の技術も、現場での判断力も、自分なりに少しは成長できたと思っていたのに――

まさか今日になって、こんな失敗をしてしまうなんて。

そう思うと、曉茉は思わずため息をついた。

――結局、自分のうっかりがすべての原因だった。

一流のハンターを目指すには、まだまだ道のりは遠い。

もっと強くならなくちゃ、もっと、もっと強くなって……

「猛き炎」に認められ、一緒に肩を並べて戦えるほどの力を身につけられたら、きっとよかったのに。

だって……もっと早く一人前になれていたなら、あの約束だって、きっと――もう果たせていたかもしれない。

「運命に導かれるなら、焦ることもありませんよ。」

何も口にしていないはずなのに、タドリは静かに、けれど確かに、曉茉の胸の内を言い当てていた。

曉茉の頬に、じわりと赤みが差す。

どのように返していいか分からず、しばらく口ごもる。

……彼女の過去とその物語は、今やカムラの里でもエルガドでも誰もが知るところとなっている。

だけど、だけど――どうしてタドリは、まるで自分の心を読んだように……?

曉茉は思わず視線を落とし、愛犬キャラメルの顎を撫でてごまかす。

だが、そのキャラメルは甘えるのも束の間、突如として空を睨みながら低く唸り声を上げ始めた。

明らかに、敵を前にした時のような警戒態勢だった。

キャラメルだけではない。周囲のガルクたちも一斉に空へ向かって吠え始めた。

異変に気づいたハンターたちも、思わず手を止めて天を仰ぐ。

つい先ほどまで晴れ渡っていた空が、いつの間にか不気味な雲に覆われていたのだ。

ねっとりとした空気が肌を這い、不穏な気配が辺りに満ちていく。

やがて、ガルクたちの吠え声は、どこか恐れを含んだ悲鳴へと変わっていった。

その直後――

遠くの森がざわめき、突風が吹き抜けたかと思うと、空を裂くように巨大な紅い影が走った。

「……あれは、噛生虫……?」

誰かがぽつりと呟いた。

目を凝らせば、空を覆うように無数の噛生虫が渦を巻いて飛んでいた。

それはまるで、数千、数万もの噛生虫が一糸乱れず編隊を組み、密林の四方から集結してきたかのようだった。

ギィィ、チチッ、チチチ……不気味な羽音を響かせながら、空中をぐるぐると旋回し、そしてまるで意思を共有したかのように、

一斉にある方向へと飛び去っていった。

ハンターたちはそれを追い、海岸の果てまで走った。

群れをなして舞い上がり、遥か空の彼方へ去っていく噛生虫の姿を、ただ黙って見送るしかなかった。

今ここにいる誰もが、あの噛生虫たちと一度は相まみえている。

だからこそ、目の前の光景がいかに異常であるか、全員が本能的に察していた。

「……帰巣本能。」

誰に言うともなく、タドリがぽつりと呟いた。

その表情からは、いつもの穏やかさが消えていた。代わりに浮かんでいたのは、深い憂いと緊張だった。

その言葉を聞いた途端、曉茉の心臓がドクンと跳ねた。

空を舞う噛生虫の群れ――

そして、脳裏に浮かんだのは、まるで忠実な従者のように、ある少年の手から離れずにいたあの虫たちの姿だった。

まさか、まさか……!

「禍と福は表裏一体。これから先、覚悟してかからねばなりませんね。」

周囲の不安を敏感に感じ取ったのか、タドリは一瞬だけためらった末に、やがて静かに、しかしはっきりと告げた。

「――噛生虫を操るほどの強大なモンスターが、近いうちに姿を現すかもしれません。」


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