上。
一声の遠吠えが、密林に響き渡った。
密林は四方を海に囲まれた小島であり、青空に白い雲が流れ、湾には透き通る水と白砂が広がっている。寄せては返す波音が心地よい安らぎを運んでくる中、ただその遠吠えだけが静寂を引き裂いた。
断崖の上に生い茂る樹林は、岩肌に根を絡ませ、複雑に入り組んだ洞窟を形成している。濃密な樹冠が陽光を遮り、海風を閉ざし、本来ならば蒸し暑くじめじめとした空気が支配するはずの島内は、どこかひんやりとした気配に包まれていた。
周囲の植物には、いつの間にか薄く霜が降りていた。
その奇妙な光景を、一閃の爪が裂く。
壁のように立ち並ぶ木々が紙のように引き裂かれ、不揃いな裂け目から、一頭のルナガロンが森を飛び出してきた。
先程の耳を劈くような咆哮は、どうやらこのモンスターのものだったようで、あの一声だけでその場にいたハンターたちは身動きを封じられてしまった。
攻撃をかわしたにもかかわらず、ルナガロンは苛立ったように前脚を振り回し、何かを払いのけようとしていた。
しかしいくら努力しても、血のように赤い噛生虫は舞うようにその身の周囲を漂い続け、僅かに振り払っても、再び執拗に戻ってくる。やがてその一部は、氷で形成された甲殻の隙間へと忍び込んだ。
「まずい、ルナガロンが海辺に逃げるぞ!」
ようやく咆哮の影響から回復したハンターたちが気づいた時には、すでにルナガロンは包囲を突破し、狩猟範囲の外へと逃れようとしていた。
ざわめく一同の中で、調査員バハリは歯噛みして叫ぶ。
「奴は重要な研究対象なんだ、逃がしてたまるか――!」
このままでは、傀異調査任務そのものが失敗に終わってしまう!
ハンターや随行するオトモたちは慌てて追撃の準備を始めたが、その時、ひとつの影が後方から駆け出す。
ポニーテールの女ハンターが、誰よりも早く行動を開始したのだ。
赤毛のガルクに跨がり、急斜面を駆け上がる。
彼女は叫ぶようにしてガルクに加速を命じ、必死の追走の末、ようやくルナガロンの姿を捉えた。
喜ぶべきか悩ましいところだが、噛生虫のしつこさがルナガロンの動きを阻み、しばしば立ち止まっては追い払う様子が幸いした形だ。
そのおかげで、ガルクの脚でようやく追いつける距離が保たれている。
しかし、もう少しで届くというその時――
ルナガロンが再び走り出した。
翔蟲を投げようとしても、この距離では間に合わない。女ハンターはそう悟り、焦りながらも必死に策を探す。
目を皿のようにして周囲を見渡し、ふと顔を上げた瞬間、視界に映るある光景に目を留めた。
「キャラメル!」
オトモガルクの名を呼ぶと同時に、キャラメルは即座に反応。
加速しながら坂の曲がり角で急停止すると、その勢いで女ハンターを背中から前方へと放り投げた!
宙に浮かびながらも彼女は冷静だった。
その瞬間に翔蟲を放ち、光を放つ青い糸に手を伸ばすと、まるで風を駆ける鳥のように空中を駆け抜けた。
突風の中を滑るように飛翔するその刹那、逃げるルナガロン、追うハンターたち、吹き荒れる風音――
すべてが一瞬、ゆるやかに動きを緩めた。
彼女の耳に響くのは、自身の規則正しい呼吸音、そしてかつて耳元で優しく囁いた、ある少年の声。
「落ち着いて、タイミングを見極めろ。」
記憶の中の銀髪の少年は、狩猟の王たる者の如く、今もなお静かに導いてくれている。
彼の面影に背中を押され、彼女は静かに機を待つ――
ルナガロンが再び地を蹴ろうとした、その瞬間、彼女の掌からクナイが飛び出した。
幾重にも重なる樹々の間をすり抜け、鋭いクナイはルナガロンに向かって真っ直ぐに飛ぶ。
しかし、それはあくまでかすり傷にしかならず、鋭い刃はわずかに鱗を裂いただけだった。
だが、彼女の本当の狙いは、別にあった。
クナイはさらに進み、岩壁と木を結ぶ太いツタを切断する。
一見複雑に絡み合っていたそのツタは、たった一本失われただけで均衡が崩れ――
巨大な岩が重みに耐えきれず、落下した!
それは、まさにルナガロンが通り過ぎようとしていた瞬間。
不意を突かれたルナガロンは岩を頭部に受け、強烈な衝撃に悲鳴を上げながら地面を転がった――!
「私は、落とし穴を……えっ?」
そのとき、女ハンターも無事に地面へ着地し、畳みかけるように追撃の準備に入ろうとした。だが、ポーチの中を何度も探っても、道具が見つからない。
慌てて中を覗き込むと、あったのは回復薬が数本だけ――
落とし穴どころか、捕獲用麻酔玉すら入っていなかった!まさか……この前の任務の後、補充を忘れてた!?
目の前ではルナガロンが再び立ち上がろうとしているというのに、手元には何の手立てもない。
このまま狩猟対象を取り逃がしてしまうのか――
そんな絶望の淵に立たされた刹那、他のハンターたちが到着し、すかさず援護に回った!
ある者は落とし穴を仕掛け、またある者は麻酔玉を正確に投げる。
一連の動作は流れるように無駄がなく、瞬く間に巨大なモンスターを完全に無力化させた。
苦労の末、ついにルナガロンの捕獲に成功。
その場の誰もが歓声を上げ、なかにはこう叫ぶ者もいた――
「ナイスだよ、曉茉!」
まだ少し呆然としていた曉茉だったが、仲間たちの称賛に思わずぎこちない笑みを浮かべてしまう。
「どいてどいてー!やっと俺の出番だぞ!」
そんな中、バハリがようやく坂の上から追いつき、満を持して登場した。
彼は手をひらひらと振ってハンターと後片付け中のオトモたちを軽く追い払い、防護ゴーグルを着けると、ぎっしりと道具が詰まった箱から金色の薬瓶を取り出した。
実験瓶を軽く振り、中身に異常がないと確かめると、迷いなくルナガロンへと近づき、
そのまま薬液を豪快にふりかけた。
「さあ、今回の成果を見せてくれよ――!」
バハリは少し離れた位置まで駆けていき、拳を握りしめて実験結果を見守った。
その様子に釣られて、曉茉もまた唇を引き結び、両拳を握って固唾を呑む。
噛生虫に寄生されたルナガロンの氷鎧と鱗のあいだからは、血のような紅い結晶があちこちに現れていた。
それはまるで凍てついた痣のように、ルナガロンの全身を覆っていた。
金色の薬液が染み込み、時間だけが過ぎていく。
それでも何の反応もない。ただ静寂が満ちていくばかりだった。
皆が、今回も駄目なのかと、心のどこかで思い始めていた。
誰もがそう思いかけたそのとき。
ぴしっ――
一片の紅い結晶が、鱗の隙間から音を立てて崩れ落ちた。
カラ……カラカラカラ……続けざまに大小さまざまな紅い結晶が、ルナガロンの体から崩れ落ちていく。
砕けた破片の中からは、無数の噛生虫の幼体がもがきながら這い出してきた。
成体の噛生虫たちは、まるで水銀に触れたかのように、急にルナガロンから離れ、空高く逃げていく。
ついに寄生からは解放されたのだ。
――だが、それでもルナガロンの呼吸は苦しげで、傀異化の兆候は完全には消えていなかった。
「はぁ……やっぱり駄目か。」
バハリは残念そうに頭をかきながら、ため息を漏らした。
「幼体が即死しないってことは、薬の効果が切れたら再び孵化する可能性があるな……同じ牙獣種でも、ウルクススには効果あったのに、格上のモンスターには通じないとはなあ……」
バハリはしゃがみ込むと、ピンセットで幼体を何匹も試験管に詰めていく。
ルナガロンの容態を確認しながら、ぶつぶつと独り言を漏らし、すっかり研究の世界に没頭していた。
こうなると、しばらく誰も彼を止められない。
仲間たちはもう慣れっこで、自然と片付けや撤収の準備を始めた。
調査の成果は乏しくとも、任務自体はこれで一区切り。
一行は帰還のために、エルガドへの出航準備に取りかかる。
作業に追われる者、腰を下ろして休む者――
皆がそれぞれの時間を過ごす中、曉茉だけはその場に立ち尽くしたまま、眠るルナガロンをじっと見つめていた。
隣ではオトモガルクのキャラメルがおとなしく座り、彼女の傍に寄り添っている。
だが、曉茉はそれすら気づかぬほど、深く考えに沈んでいた。
「……何を考えているのですか?」
不意にかけられた柔らかな声。振り返ると、いつの間にかタドリが隣に立っていた。
「どこか、怪我でも?」
曉茉は首を横に振るだけで、答えなかった。
しばらくしてようやく、心配させたかもしれないと気づき、あわてて補うように言葉を継ぐ。
「もっと、強くならなきゃって思ってただけ。」
その言葉にタドリはくすりと笑い、からかうように、そして優しく告げた。
「この三年間、君はほとんど無休だったんですよ?」
風神龍と雷神龍を討伐したのをきっかけに、曉茉は止弦、瑞雷、汰華たちと共にエルガドへ向かい、やがて傀異調査団へと加わった。
エルガドに来てからというもの、曉茉は毎日のように忙しく、傀異調査の任務には一度も欠かさず参加していた。
時の流れは早いもので――気づけば、もう三年も経っていた。
海風に塩の匂いが混ざるこの街の空気にも、いつしか曉茉は馴染んでいた。カムラの里の花の香りや炭火の匂いとは、まったく違う空気だったけれど――
思い返せば、ここで得た経験は数え切れない。
狩猟の技術も、現場での判断力も、自分なりに少しは成長できたと思っていたのに――
まさか今日になって、こんな失敗をしてしまうなんて。
そう思うと、曉茉は思わずため息をついた。
――結局、自分のうっかりがすべての原因だった。
一流のハンターを目指すには、まだまだ道のりは遠い。
もっと強くならなくちゃ、もっと、もっと強くなって……
「猛き炎」に認められ、一緒に肩を並べて戦えるほどの力を身につけられたら、きっとよかったのに。
だって……もっと早く一人前になれていたなら、あの約束だって、きっと――もう果たせていたかもしれない。
「運命に導かれるなら、焦ることもありませんよ。」
何も口にしていないはずなのに、タドリは静かに、けれど確かに、曉茉の胸の内を言い当てていた。
曉茉の頬に、じわりと赤みが差す。
どのように返していいか分からず、しばらく口ごもる。
……彼女の過去とその物語は、今やカムラの里でもエルガドでも誰もが知るところとなっている。
だけど、だけど――どうしてタドリは、まるで自分の心を読んだように……?
曉茉は思わず視線を落とし、愛犬キャラメルの顎を撫でてごまかす。
だが、そのキャラメルは甘えるのも束の間、突如として空を睨みながら低く唸り声を上げ始めた。
明らかに、敵を前にした時のような警戒態勢だった。
キャラメルだけではない。周囲のガルクたちも一斉に空へ向かって吠え始めた。
異変に気づいたハンターたちも、思わず手を止めて天を仰ぐ。
つい先ほどまで晴れ渡っていた空が、いつの間にか不気味な雲に覆われていたのだ。
ねっとりとした空気が肌を這い、不穏な気配が辺りに満ちていく。
やがて、ガルクたちの吠え声は、どこか恐れを含んだ悲鳴へと変わっていった。
その直後――
遠くの森がざわめき、突風が吹き抜けたかと思うと、空を裂くように巨大な紅い影が走った。
「……あれは、噛生虫……?」
誰かがぽつりと呟いた。
目を凝らせば、空を覆うように無数の噛生虫が渦を巻いて飛んでいた。
それはまるで、数千、数万もの噛生虫が一糸乱れず編隊を組み、密林の四方から集結してきたかのようだった。
ギィィ、チチッ、チチチ……不気味な羽音を響かせながら、空中をぐるぐると旋回し、そしてまるで意思を共有したかのように、
一斉にある方向へと飛び去っていった。
ハンターたちはそれを追い、海岸の果てまで走った。
群れをなして舞い上がり、遥か空の彼方へ去っていく噛生虫の姿を、ただ黙って見送るしかなかった。
今ここにいる誰もが、あの噛生虫たちと一度は相まみえている。
だからこそ、目の前の光景がいかに異常であるか、全員が本能的に察していた。
「……帰巣本能。」
誰に言うともなく、タドリがぽつりと呟いた。
その表情からは、いつもの穏やかさが消えていた。代わりに浮かんでいたのは、深い憂いと緊張だった。
その言葉を聞いた途端、曉茉の心臓がドクンと跳ねた。
空を舞う噛生虫の群れ――
そして、脳裏に浮かんだのは、まるで忠実な従者のように、ある少年の手から離れずにいたあの虫たちの姿だった。
まさか、まさか……!
「禍と福は表裏一体。これから先、覚悟してかからねばなりませんね。」
周囲の不安を敏感に感じ取ったのか、タドリは一瞬だけためらった末に、やがて静かに、しかしはっきりと告げた。
「――噛生虫を操るほどの強大なモンスターが、近いうちに姿を現すかもしれません。」