第15話『軍の顔』4
リリアナは、地図の隅に書かれた小さな署名に目をとめた。
そこに記されていたのは――
《C.クリスタル・フォン・エルデ》
「ねえ、ミレイア。この“フォン・エルデ”って、貴族の名前……なんだよね?」
ミレイアはわずかに視線を向け、少しだけ笑う。
「気になった?」
「気になるよ。よく聞くけど、詳しくは知らないし……。
“エルデ”って何?」
ミレイアは一度、手元の書類を伏せてリリアナを見つめた。
「“エルデ”は、王国の歴史の中で――
“たった一人の兵士”にだけ授けられた名よ」
リリアナは息をのんだ。
「たった、一人……?」
「王国がまだ、内乱と外敵の脅威に揺れていた時代。
国境の町や村が敵国に襲われ、国民は逃げ場もなく追い詰められていた」
「その中で、一人の兵士が自ら志願し、
民間人を守るためにたった百人の部隊で前線に立った」
「彼は敵の進行ルートを読み、民間人を安全な道に誘導し、
自らは殿として最後まで戦い抜いた。
そのとき、守られた町、村の数――八十六。救われた民――万を超える」
「彼の行動が王国の防衛線を支え、
民衆の信頼と王家の統治を繋ぎ止めた」
「その功績を称え、王は彼にこう言った――
“そなたの歩いた大地に、国の未来が築かれた。
よって、そなたに“地を継ぐ者”の名を与える”――」
「こうして誕生したのが、“フォン・エルデ”。
――“地を継ぐ者”」
リリアナは黙って聞いていた。
その名が、ただの称号ではないことを、今、初めて知った。
「そしてその末裔が、今の“クリスタル家”。
当時から王に仕えた名門だけど、“エルデ”の名を継げるのはその一系統だけ」
「現在、その家を継いでいるのが――“シアネ・クリスタル”。
前当主が急逝し、十代半ばで彼女が当主の座についたわ」
「……私、その子、見たことある気がする。
背筋がやたら綺麗で、なんか冷たそうな感じの……」
「ええ。きっと、あなたの記憶は間違っていないわ」
ミレイアは静かに微笑んだ。
「私も少しだけ、王都にいた頃にお会いしたことがあるの」
ミレイアの目が少しだけ遠くを見つめる。
かすかな懐かしさが、その瞳に宿っていた。
「シアネはね――正統なる貴族の名を持ち、
その責務と誇りを静かに抱いている人。
誰に媚びるでもなく、厳しくも凛とした姿勢で、常に堂々としていた」
リリアナは静かに聞いていた。
「“エルデ”は“血筋”だけで受け継がれるものじゃない。
彼女は幼い頃から、あの名にふさわしい教育と責任を受けて育てられた。
それが“伝統を継ぐ家”の重み」
リリアナはゆっくりとうなずいた。
“名前”に込められた重さが、少しずつ心に落ちていく。
「“フォン”は本来、“〜に属する”って意味。
"エルデ"は"大地"。
“フォン・エルデ”は、“この地に属する者”、もっと言えば――
“この国の大地と運命を共にする者”ってことね」
「その名を持つということは、“国と民を背負う存在”になるってことなの」
窓の外には、兵士たちが訓練を始める声が響いていた。
その中で、リリアナは小さくつぶやいた。
「“名前”って、すごいんだね……。
背負ってるものまで、変わって見える」
「ええ。でも、それに怯える必要はない。
あなたが背負ってるのは、今の“リリアナ隊”と、目の前の仲間たちだけ。
それ以上を望まれる日が来るとしても、それは――もっとずっと先の話」
ミレイアの言葉に、リリアナは小さく笑った。
「うん。それでいい。
私は、私にできることからやる」




