第46話『奪還と歓喜』パート5:リリアナとヨルナ
夜の医療棟は、ひっそりと静まり返っていた。
負傷者のうめき声も、治癒魔法の光も今はなく、廊下には交代の看護兵が時折足音を立てるのみ。
リリアナの病室もまた、静寂に包まれていた。
カーテンがわずかに揺れ、小さな卓上灯がオレンジ色の光を広げている。
ベッドの上でリリアナは目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
まだ痛む体に力は入らず、炎の花を咲かせた代償は、思っていた以上に大きかった。
「……やっぱ、起きてると思った」
そんな声が、扉の隙間からふいに届いた。
「入って、いい?」
扉がわずかに開き、赤いつなぎに青いベルトを締めた少女――ヨルナが、ひょこっと顔を出す。
リリアナが静かに頷くと、彼女は遠慮がちに入ってきた。
「しずかーに歩くの、ちょっと得意なんだ。こっそりおやつ盗みに行くときとかさ」
そう言って笑うその口元は、無理やり形を整えたように見えた。
ヨルナはベッドの横にある椅子に座り、少しだけリリアナの顔を覗き込む。
「ねえ……カイル……さっき、死んだって」
声は、思ったよりもあっさりしていた。けれど、それが余計に痛々しく響いた。
「カイル、私のお兄ちゃんなんだけどさ。治療はしたけど、もう、戻ってこなかったって」
リリアナはまぶたを開き、かすかに唇を動かす。
「……そっか」
たったそれだけの返事だったが、ヨルナの表情がほんの少しだけ緩む。
「なんかね、寝てるみたいな顔してたんだよ。ちょっと怒ってるみたいな……変な顔」
沈黙が落ちる。
ヨルナは自分の足を抱え込むようにして、小さく背を丸めた。
「……カイルって、どんな人だったの?」
リリアナがふとたずねた。
「強い人だったよ。でも、最初はね……」
「……ねぇ、リリアナ。
ほんとはさ、うちら……“戦うために育てられた”兄妹だったんだよ」
ヨルナがぽつりと呟いたその声には、いつもの調子も、笑いもなかった。
「わたしが小さい頃、おにいちゃんはもう訓練部隊に入れられててさ。グランツェルって、強くなきゃ価値がない国だったから……力がある人だけが食べられて、眠れて、褒められる」
「おにいちゃんは、全部守ろうとしてた。わたしのことも、周りの子たちのことも。いつもボロボロになりながら訓練して、食べ物をちょっとずつ隠して、わたしにくれて……」
その表情は、どこか遠くを見るような目になっていた。
「あるときね、訓練場で事故があって……弱い子が一人、死んじゃったの。なのに、誰も止めようとしなかった。『弱い奴は消える』って、それが当たり前みたいで。
それからだよ。おにいちゃんの目が、変わったの」
リリアナは、その話をじっと聞いている。
ヨルナは、膝に置いた手を強く握りしめた。
「“強くならなきゃ、守れない”って。そう言って、おにいちゃんはどんどん、周りから離れてった。力ばっか求めて……あたしの声も、届かなくなっていった」
「でもさ、あの人……ほんとは、昔はすっごく優しかったんだよ」
青いベルトを、指先でなぞるように撫でる。
「これ、くれたの。わたしがまだ小さかった頃。“青が似合うね”ってさ」
少し笑ったあと、彼女の手はマフラーに触れる。
「……それからね、わたし、ちっちゃい頃――友達がいなかったの」
ヨルナはぽつりと呟いた。
「みんな怖がって近寄らなかったの。だって、わたし“カイルの妹”だったから。怒らせたらヤバいって思われてて……。
だからね、森に行って、毎日、木の下でひとりで遊んでたの」
ふっと、頬を緩める。
「ある日、そこにいたの。ちっちゃな狐さん。最初は逃げられたけど、毎日エサ持ってったら、ちょっとずつ近くに来てくれるようになってさ……名前も付けたんだよ、“ユリュ”って。
毛並みがふわふわで、金色で、すごく綺麗な子だった」
「その子だけが、ずっと傍にいてくれた。話しかけても、笑っても、何も言わないけど……わたし、毎日ユリュに話してたんだ。嬉しかったこととか、怖かったこととか、全部」
「……でも、ある日ユリュが動かなくなってて。死んじゃったの、寒い冬の朝。……わたし、泣きながら抱きしめて……」
言葉が途切れ、目元をぬぐうように袖が動く。
「そしたらね、おにいちゃんが、ユリュの毛を混ぜた布で、リボンとマフラーを作ってくれたの。
“この子は、ずっとヨルナのそばにいるよ”って、そう言って……。
わたし、いまでもそれ、着てるんだ」
ヨルナの指が、青いベルトとマフラーの端を握りしめた。
「だから、汚したくなかったの。戦いで泥とか血がつくの、すごくイヤだった……それだけは、わたしの“優しい世界”だったから」
テーブルの上に置かれた水差しをじっと見つめながら、ヨルナは言葉を続ける。
「たぶんね、国のせいなんだよ。強い人が上に立って、弱い人は黙れって、そんなのばっかだった」
「だから……おにいちゃん、強くなりすぎた。きっと、誰よりも強くあろうとして、ぜんぶ、ひとりで背負っちゃったんだと思う」
その背中を見てきた少女の、ぽつりとこぼれる後悔。
「わたし、止められなかった。怖くて、できなかった」
リリアナは、ゆっくりと目を開け、少しだけ体を起こそうとする。
「無理、しないで。だいじょうぶ、あんたが、……ちゃんと、止めてくれたから」
ヨルナの声が震える。
「悔しいよ。ほんとは、わたしがおにいちゃんを止めたかった。ひっぱたいて、“もうやめて!”って、言いたかった」
「でも……あんたがやった。誰にも止められなかったおにいちゃんを、止めた。……だから、ちょっとだけ、ありがとう」
リリアナは、微かに笑った。
「……あなたも、戦ってたんだね」
ヨルナは、驚いたようにリリアナを見た。
「……うん。そうかも。自分でも気づいてなかったけど」
しばらくの沈黙。
けれど、それは苦しくはなかった。
ただ夜が流れ、心の中に残るものを少しずつ、溶かしていくような時間だった。
ヨルナがランプの灯りを見つめる。
「ねぇ、リリアナ。あんた、あの人を“倒した”けどさ……憎んだりはしてないの?」
「……ううん、憎んでないよ」
リリアナの声は、弱々しくも、静かな強さを帯びていた。
「誰かを倒せば、終わるわけじゃない。
きっと、どこかでまた、同じことが繰り返される。
だから"私たち"は、倒したんじゃなくて……止めたかった。
あの人が選んだ、戦い方そのものを」
月明かりに照らされたその横顔は、まっすぐで、どこか痛々しくも見えた。
「……誰かを倒すことで、自分が“正しい”って思い込むのは、怖い。
私たちは“敵”を憎む前に、“どうしてこうなったのか”を見なきゃ、いけないのに……
そんな余裕すら、奪われるのが――戦争なんだよね」
その言葉を聞いたヨルナは、しばらく黙っていた。
そして、唇を噛みしめる。
「……わたしさ、いままで“あっちが悪い、こっちが正しい”って……そんなふうにしか考えてなかった」
彼女は、ひざに置いた手をぎゅっと握る。
「でも……戦場って、本当にぐちゃぐちゃで、なにが正しいのか、わかんなくなるよね。
“守るため”に武器を持ったのに、誰かを泣かせて、
“生きたい”って願ったのに、人の命を踏みにじってて……」
その瞳には、拭いきれない葛藤と、子供らしい誠実さが滲んでいた。
「戦うことしか、選べなかったの。
あの人も、わたしも、たぶん国じゅうが……
“勝たなきゃ、死ぬ”って思い込まされてたから。
気づいた時には、もう、全部が“敵”になってた」
言葉を吐き出すように、続ける。
「ねぇ、リリアナ。
どこかの国でも、今、同じことが起きてるかもって……そう思うと、怖いよ。
子供も、大人も、何も知らないまま“戦わされて”、憎しみだけを抱えて……
気づいたときには、家も、友達も、家族もいないの。
……わたし、もう、あんなの……誰にもさせたくない」
リリアナは、その言葉を、ただ黙って受け止めていた。
やがて、ヨルナは声を震わせながら、小さく呟いた。
「だから、わたし……あの人の分まで、“止めたい”って思うよ。
戦わなくていい世界を、ちょっとでも作りたい。
……だって、わたしたち、殺して、殺されるために生まれてきたわけじゃないもんね」
そう言って、ヨルナはリリアナの手をそっと取る。
「……リリアナ。ありがと。
わたし、いま、初めて……おにいちゃんのこと、話せたの」
そこには、痛みも、愛しさも、希望も、すべてを抱えて“未来を見よう”とする少女の姿があった。




