第32話『旅立ちの朝』パート3:砦を離れて
草の香りが、微かに風に乗ってきた。
灰の砦を出発してしばらく。
リリアナたちの一行は、のどかな草原地帯を馬車で進んでいた。
後ろを振り返れば、砦の高い石壁がもう小さくなっている。
前方には、広く開けた青空と、ゆるやかな丘陵が続いていた。
旅の緊張感が、ほんの少しだけ和らぐ。
「みてみてー! とりさんー!」
コヨが、走る馬車の窓から身を乗り出して叫んだ。
その指差す先には、小さな鳥の群れが、低く旋回していた。
「出た、遠足気分……」
ノアが呆れたようにぼやく。
テトも顔を輝かせて、
「ひろいのー! たのしいのー!」
と笑っている。
リリアナはその光景を見て、自然と頬を緩めた。
(……こうして笑えるのも、悪くない)
平和とは言えない世界の中で。
こんな小さな瞬間でも、大切に思えた。
そんな中。
「ねぇねぇ、この馬、名前つけるのー!」
コヨが言い出した。
「しろいから、しろまるー!」
引いていた白馬を無邪気に撫でながら、楽しそうに叫ぶ。
「こっちは、もじゃもじゃー!」
テトが、もう一頭の毛並みがボサボサの馬を指差して笑った。
「センスないのー!」
コヨが真剣な顔でつっこみながら、さらに続けた。
「そのとなりのお馬さんは――」
と、満面の笑みで、
「ハウゼンなのー!」
その瞬間。
「「「ぶっ!」」」
ノア、ルネ、ラシエル、リリアナ――
周囲の全員が、思わず吹き出した。
「いや、ハウゼンって……!」
ノアが腹を抱える。
「……似てるけどさぁ!」
ルネも笑いながら肩を揺らす。
リリアナも思わず口元を押さえた。
指差されたその馬は、
確かに、眉間にしわを寄せているような、気難しそうな顔をしていた。
「……本人に聞かれたら、怒られそうね……」
ミレイアが苦笑する。
すかさずテトが腕を組み、鬼軍曹のような顔をして、叫んだ。
「絶対に! 絶対に! 試食に群がるな!!」
リリアナたちは笑いをこらえきれなかった。
草原の道は、まだ長い。
だが、砦を出た時よりも、ずっと空気は軽くなっていた。
開けた空。
遠くに続く道。
そして、仲間たちの笑い声。
この旅の先に、どんな試練が待っているのかはわからない。
けれど、今だけは――
この、かけがえのない時間を、胸に焼き付けておきたかった。
リリアナは、ふと空を見上げた。
どこまでも高く、どこまでも青い、自由な空だった。




