第20話『語られたあの日、見つめる瞳』1
灰の砦の空が、淡い青に染まりはじめていた。
まだ陽は昇りきっていないが、空気には確かな“朝”の気配がある。
廊下を歩く足音がひとつ。
柔らかく、一定のリズムで――それは、上品に整えられた軍靴の音だった。
歩いていたのは、シアネ・クリスタル・フォン・エルデ。
昨夜からこの砦に滞在し、昨日はあの後、ずっとハウゼンと"何か"を話していた。
彼女が向かったのは、倉庫として使われていた場所。
今は民間人の避難場所として使われているこの場所には、毛布や荷物が所狭しと敷かれ、数十人の大人と子どもが身を寄せ合って眠っていた。
――ミルヴァン村から、リリアナ隊によって救出された人々。
かすかに寝息の混ざる静かな空間。
誰もが、昨夜のように目の前の命を心配せずに済む時間を――
今はただ、安らかに過ごしていた。
シアネは音を立てないよう、ゆっくりと歩を進める。
眠っている子どもの顔にかかっていた毛布をそっと直し、荷物の隙間に丸まっていた老人に小さな枕を差し出す。
「……ん……」
その動きに、小さな女の子が目を覚ました。
ぼんやりと瞬きをしたあと、目の前の“きれいな人”に気づいて、じっと見上げる。
「……おねえちゃん……だれ?」
シアネはしゃがみ込んで、小さく笑った。
「ただの通りすがりの、気まぐれな来訪者です」
「きまぐれ……って、おなかすいてる?」
「……そういう意味では、ありませんよ」
女の子はぽかんとしていたが、しばらくするとくすっと笑って、また毛布の中に戻っていった。
シアネは何も言わず、その場にしゃがみこみ、眠る民の静けさを見守るように、しばし目を閉じた。
「……あんた、兵隊さんか?」
低い声がかかった。
シアネがゆっくりと視線を向けると、毛布を肩までかぶった壮年の男が、壁際でこちらを見ていた。
「はい。王都より、避難されてきた皆さまの様子を見に来ました」
「えらいお姫さんが、わざわざこんなとこまで……物好きだな」
そう言って、男は少しだけ苦笑する。
「こんな所、って……ほんとうに、そうですね」
シアネは静かにうなずく。
「倉庫の床で眠るような避難生活、決して良い環境とは言えません。でも、皆さんが生きてここにいる。それだけでも、素晴らしいことです」
「……あんた、偉い人のわりに、ちゃんと物言いが柔らかいな」
隣の女が言う。
「リリアナ隊の隊長さんかと思ったけど……あの子じゃないのね?」
「ええ。私は、あの方の……“上”というより、“少し別の立場”の者です」
「ふぅん……でも、似てると思うよ。真っ直ぐな目とか。あの子の方がだいぶ騒がしかったけど」
場の空気がわずかに和らぐ。
「俺も娘が連れてかれたまんまでよ、もう諦めてたんだ。」
別の男が語りだす。
「そしたらあの隊長さんがよ、娘は私が連れ戻すから、あなたは帰る場所を用意しとけってさ」
「気休めなのはわかってるけど、正直救われたよ」
シアネは男の話しをゆっくり受け止める。
奥から、小さな子どもが顔を出す。
「おねえちゃん、紅蓮姫のおともだち?」
「紅蓮姫?」
シアネは少し首をかしげ聞き返す。
「うん。ぐれんーって火を出して、すっごく元気で……」
「『生きるんだ!』って、大声で言ってた」
別の子が顔を出す。
「みんなで逃げようって……あのとき、ほんとに死ぬかと思ってたけど、なんか、あの声で……生きなきゃって思ったの」
「うちの爺さんも言ってたよ。“あんな子がいるなら、まだ国は終わっちゃいねえ”ってさ」
シアネは言葉を返さなかった。
ただ、小さくうなずいて、民の言葉を胸の奥に刻みつける。
「……それだけで、ここに来た意味がありました」
ぽつりとこぼした言葉に、誰かが「え?」と首をかしげたが、シアネはすでに立ち上がっていた。
倉庫の出入口に向かう途中、後ろから聞こえてくる囁き。
「ねぇ……あの人、あの子のことすっごく大事そうに話してたね」
「なんか似てるよね、雰囲気とか」
「王様の人なのかな?」「もしかして、お姉ちゃんだったりして……!」
――シアネは歩きながら、ほんのわずかだけ視線を伏せた。
それは笑みではなかったけれど、
どこか――温度のある、柔らかな反応だった。




