白き病
その夜、ルクレシア王国は重く湿った空気に包まれていた。月はまだ赤く光り、星々はかつてのように輝くことを拒んでいるかのようだった。しかし、今夜の不安の原因は月や星の光だけではなかった。町のあちこちで、異様な静けさと共に、恐ろしい知らせが人々を覆っていた。
「白き病が現れた…」
その囁きは、王都の隅々まで広がっていた。聞き慣れない病が、人々を石に変え、命を奪っていく。肌が白く変色し、やがて感覚を失い、最終的に体が硬直し、動かなくなる。まるで生きながらにして石化していくようなその病は、一度かかれば治療の手段もなく、死が訪れるのを待つしかない。
「カイ、これが…」
セリアは不安げな目でカイに問いかけた。目の前に広がるのは、街の一角で異様な静けさを見せる小さな村だった。住民たちはその異常な病に侵され、家々に閉じこもっていた。
「白き病、だな」
カイは短く答えた。彼の表情はいつもと変わらず、どこか飄々としたままだが、その瞳の奥には鋭い観察の色があった。
「この病は、魔法ですら治せないの…?」
セリアは地面に落ちた白い粉のような物質を指先で触れ、そっと目を伏せた。その冷たさは、まるで命そのものを吸い取ってしまうような感覚だった。
「魔法も、薬も、どうにもならない。これが厄災だってことさ」
カイは少し息を吐きながら、周囲を見渡した。「厄災ってのはただの自然現象じゃない。そいつはこの世界の法則そのものを歪めるんだ。だからこそ、俺みたいな力が必要になる」
セリアは彼の言葉に耳を傾けながらも、目の前に広がる無情な現実に心を締め付けられていた。命を救うことができない無力さ、そして迫り来る厄災の恐ろしさが彼女を苦しめていた。
「どうすれば…この病を止められるの?」
セリアはか細い声で問いかけた。
カイは軽く笑い、「まあ、俺がその力を使うって話になるんだろうけど、まだ時期じゃない」
そう言って、彼は再び歩き出した。彼の背中はいつものように軽やかで、どこか余裕すら感じさせた。
「時期じゃないって…!カイ、もうこの村の人たちは危ないのよ!」
セリアは彼を追いかけながら、声を上げた。
「分かってるさ。でもな、俺の力は残り5回。これからまだ厄災が控えてるのに、ここで無駄遣いしてたら終わる」
カイは少しだけ真剣な表情を見せた。「お前だってわかってるだろ?全部を救えるわけじゃないんだ」
その言葉にセリアは立ち止まり、無力さが一層心を重くした。彼女は救いたいと願っている。それでも、現実は残酷であり、全てを救うことはできないというカイの言葉が真実であることも理解していた。
「でも…」
セリアは唇を噛みしめ、目を伏せた。「でも、誰かが動かなければ…誰も救えない…!」
カイは彼女の言葉を聞いて、少しの間、無言のまま立っていた。そして、ゆっくりと彼女に近づき、軽く彼女の肩に手を置いた。
「お前は優しいな、セリア」
彼は静かに呟いた。「でも、時には冷静に考えなきゃならない。全てを救うなんて無理だ。厄災に挑むってことは、その覚悟を持つってことでもあるんだ」
セリアはその言葉に反応せず、ただ黙っていた。彼の言葉は冷たく感じたが、その裏には優しさが隠れていることもまた感じていた。
その時、不意に遠くから叫び声が聞こえた。
「助けて…!誰か…!」
セリアはその声に反応し、カイの肩越しに目を向けた。そこには、一人の若い女性が村の中を逃げ回り、白い粉に包まれているのが見えた。彼女の肌は既に白く変色し始めており、命が消えかけているのが一目で分かった。
「カイ…!あの人…」
セリアは叫びながら走り出したが、カイが手を伸ばして彼女を止めた。
「待て、セリア」
カイは冷静に言った。「今は無理だ」
「でも…!」セリアは彼の手を振り払おうとしたが、その瞬間、カイの真剣な目が彼女を射抜いた。
「俺たちが今できることは、これ以上被害が広がらないようにすることだ。それが一番だ」
カイは力強く言った。「厄災を止めるために、俺たちの命は使わなきゃならないんだ。それは、この村を見捨てることにもなるかもしれない」
セリアは苦しげに顔を背けた。彼の言葉は残酷だったが、真実だった。全てを救えない、その現実が彼女を襲い、心を締め付けた。
「……分かった」
セリアは静かに頷き、涙をこぼしながらも前を見据えた。「でも、私が必ずこの世界を変えてみせる。そのために…私はあなたと共に戦う」
カイはその言葉に微笑み、「よし、それでいい」
彼は再び歩き出し、セリアもその背中を追って歩み出した。
赤い月の下、白い病が蔓延する村を背にして、二人は次なる厄災に立ち向かうために歩き続けた。