拝啓、あなた様へ
地面に散らばった紙を一枚拾った。何かの本から破られたのだろうか、何も書かれていないが少し黄ばんだ紙は、長い間持ち主がいなかったためか埃を被っていた。じっとりとした手汗に埃が纏わり付く。何か出てくるのではないかというほど薄暗く、小さな窓から差し込む光によって部屋の隅には濃い影ができていた。しかし、不思議とこの場所に懐かしさを感じて、窓から見える景色をぼうっと眺めていた。
窓の下にある埃の被った机に登って、高い位置にある窓に手をのばす。木製の縁は古いためか歪み、力を入れて少しずつ開けていくが、狭い部屋に木枠がガタガタと鳴らす音が響いた。踏ん張った足が、少しずれて机の上の埃が舞う。
くしゃり
埃に足を滑らせて、机の上に開いたままだった本を踏んでしまったようだ。紙に皺がついて、本の上に靴の足跡が残っていた。
ふと、窓をあける最中、背後に床が軋む音がした。
「なにかあった?」
なかなか物置から帰ってこない私を心配して、祖母が様子を見に来たようだった。
振り返ると、窓の反対にある階段の少し下から、祖母がひょっこりと顔を覗かせていた。足が悪くなった祖母は階段を途中まで登って疲れてしまったのか、上までは上がってこなかった。
「埃すごいからもう降りるよ。」
そう言って窓を閉めると、こんどは机から飛び降りた。祖母はその音にびっくりして心配そうな表情をした。
「危ないから、本当に気をつけて。」
この建物は、母家とは別に庭に建てられた古い倉庫で、屋根裏部屋には何年も前に祖父が使用していた部屋があった。長い長い闘病の末、息を引き取った祖父が、ある日突然歩けなくなって、この部屋には誰も来なくなった。その時から、時が止まってしまったかのようにそのまま残されているらしい。祖母は死ぬまでに一度でも彼が残したものを見てみたいと言っていたが、彼女も足が悪く、急な階段を登る必要があるこの部屋には近づけないでいた。
「階段降りられる?」
階段途中で顔を見せる祖母の元へと近づくと、彼女が階段に座り込んでいるのが見えた。何年もの間だれも足を踏み入れなかった場所には私と祖母の跡だけが残っていた。それほど上まで登っていないにもかかわらず、手すりと階段に彼女の奮闘のあとが残されていた。
「もう降りよう。」
埃を吸い込んだのか、咳き込む彼女にはこの環境はよろしくない。足だけでなく、体に不調が多くある彼女がここに居続けるのを放置はできない。安全に降りられるよう少し前に立ち、しかし彼女が気を追わないよう最低限の手助けができるように、すぐに支えられる位置で見守る。
一段一段、足場を確かめながら降りてくる彼女は、足の弱さこそあるが手すりにかける力はずっと強く見えた。
「おりられましたね。」
階段下まで降りてくると、そう言って嬉しそうに笑顔を見せた。昔は当たり前にできていたことが、日に日にできなくなっていく中でも、何かできるごとに喜んで嬉しそうに笑う姿はとても健気だ。
「母家に戻ってご飯にしようか。」
祖母の手をひきながら、外に出る。歩くときですら、ゆっくりと一歩ずつ進んでいく祖母に、食事の時間であることを告げる。
「何のご飯が食べたい?」
祖母は、自分が作るかのように問うた。彼女は目も悪くなり、手の力も衰えてから台所に立たなくてもいいように気をつかってきた。
「んー、何にしようかな。」
そう悩む素振りをしながら、思考をかさねる。やること全てを取り上げしまうことは、憚られるが、何かをお願いすることの危険性を考えるとどこまでお願いするのがいいのだろうか。彼女はもう、消化や排出すらも弱まって、食べるものすら選ぶことができない。
「ごはんと、サラダと、…豆腐ハンバーグとか。」
お米を洗って炊飯器にしかけたり、レタスをちぎることくらいしかお願いしかすることが出来ず心苦しくなりながらも、彼女が居場所を失わないように献立を考える。
「たのしみね。」
そう言ってまたニコリと笑う祖母の顔に夕日が当たって濃い影を落としていた。
次の日、彼女は突然倒れた。
「むかしね、あの窓からあの人が覗いていたの。」
祖母は体調を崩して床に臥した後、倉庫の高い位置にある窓を見ながら突然そう呟いた。彼女の希望から倉庫に近い部屋に布団をひいて、祖母の闘病生活が始まったのは記憶に新しい。寒い冬だというのに濡れ縁を開けてほしいと言われて渋々頷いたのだが、それはガラス越しにでも倉庫を見ていたいということだ。
「あの人とお見合いで結婚することになったとき、彼は全然話してくれないし、彼の母も怒ると怖くて、なんでこんな家に嫁いできてしまったのかしらって、毎日家の裏で泣いていたの。」
とても懐かしそうに目を細めて話す彼女は、とても穏やかだった。
「夫のことが恨めしくて倉庫の方を毎日睨めつけていたら、窓に彼の顔が見えたの。あんな高いところからあの人私が泣いていたのを見ていたのね。」
瞼を閉じてその光景を思い浮かべているのか、体調を崩しているとは思えないような、朗らかな笑い声を漏らした。
「それからは毎日、あの窓を見つめているの。」
そう言って、また倉庫の方を眺めた。
彼女しか住んでいないこの広い家で、祖父と死に別れて以降も毎日あの窓を眺めていたことを私は知っていた。もう誰もいないと分かっていても、もう日課のようになってしまっているのだろうか。
日に日に彼女の容体は悪くなっていった。病気のような急な悪化ではないが、衰弱し食事も食べられなくなっていく。病院への入院を嫌がり、この家で最後まで過ごすことを彼女は選んだ。
「ごめんなさい。甘えてしまって。」
そう申し訳なく彼女は私に謝罪した。動けなくなった彼女の食事やトイレ、お風呂などの世話は全て私が一人で行っていた。そのことに申し訳なくなったのか、いつも曇った表情でごめんなさいと謝るようになった。
「大丈夫。」
そんな彼女に申し訳ないと思って欲しくなくて、大丈夫と声をかけ続けた。
ある夜、おやすみと声をかけに来るとこちらを見た祖母がこう言った。
「ありがとう。」
祖母は視線をこちらに向けて、笑みを浮かべた。寝たきりになってから、彼女の表情はいつも曇っていたのに、その時の祖母はスッキリとして穏やかな表情を浮かべていた。
「あなたと居られて、本当に幸せでした。」
そういうと彼女はにこりと笑顔を向けて、私の手を握ると力を込めた。彼女の手は私の手を確かに握っているのにあまりに弱く、彼女が目を閉じてからはさらに力が抜けていった。
「おやすみなさい。」
そう言って、私は彼女の手をそっとおくと立ち上がった。
彼女が目を覚ますことはもうないだろう。
私はまたあの倉庫に足を踏み入れていた。祖母が倒れてから数ヶ月間来ていなかったためか、以前つけた足跡にうっすらまた埃が積もっていた。
前と同じように急な階段を登っていると、より濃く手形が残っている手すりが目に入った。
――彼女が登った時のものだ。
その手形と足跡は、上まで続いていた。途中で転んだのか、這ったのか、それでも彼女は確かに一番上まで辿り着いていたようだ。
その跡を辿って登っていく。屋根裏部屋に落ちていたはずの紙はなくなり、机の上には閉じられた本が置かれていた。誰かが触れたように埃があまりついていなかった。
その本を開くと、ヒラリと紙が一枚落ちた。拾い上げると、どこかで見たことのある破れた紙のようだったが、以前とは見た目がすこし変わっていた。黒く塗りつぶされたようなげじげじとした黒く太い線がいくつも並行に書かれていた。
挟まっていた本を開くと、確かに一部破れていたが、その本の中は真っ白で何も書かれていなかった。そっと破れた部分に当てはめると破れた紙から本に黒いインクが広がって行った。いや、それはそもそも千切れた紙に書かれていたものが何重にも重なった文字であって、その文字が本に写ってだんだんと薄まっていくと言った方が正しいだろうか。時間が経つにつれて文字が読めるようになっていったそれは、日記のようだった。
――祖父の日記だ。
内容は祖母と結婚した時から始まり、無口だと聞いていたが祖母が話していたことはよく聞いて覚えていたようで、いつも祖母を気にかけていたことが読み取れた。部屋に篭りっきりで迷惑をかけてしまっていること。うまく話せないことの自己嫌悪や後悔。物書きの残す文章は彼の感情が著実に読み起こされ、正確に読み取らせられる素晴らしいものだった。
しかしこの日記には違和感を覚る。祖父が倒れたあとの内容だけでなく、祖父がなくなった後のことまで書かれていた。何よりも初めから読んでいたら決して起こるはずのない“矛盾”が、彼の死後の話には現れていた。
すんだ水に墨が落とされるように、その矛盾点と不安感は私の心を染めていくと同時に、すとんと腑に落ちるものでもあった。顔をくしゃりと歪めながら、笑う声が自分の口から漏れたーー。
ーー長い間祖母に会いにこなかった友人や親戚たちを白状だと思っていたが、少なくとも情はあったのか誰もが涙ぐんでハンカチで目元を覆う。そんな彼らを横目に彼女が横たわっている棺桶の中にそっと日記を置いた。まるで誰も私のことなど気がついていないかのように、無関心で近くを通り過ぎていく。一人、また一人と彼女の棺桶に花を添えていくなか、私はその場を離れた。
家に帰ると、倉庫の急な階段を慣れたように上がり、椅子を台にして机にのぼる。固くなった窓に力を込めると、がたがたとガラスが揺れる音が鳴り響いた。そこからいつものように外を眺める。
もう誰もいない。手入れもできないため草が生い茂り、秋の今は枯れた葉があるばかり。以前はそこから洗濯物を干す人が見えていたものだった。日に照らされるあの人は眩しそうに空を眺め、そしてこちらを見ていた。
あの人はよく動き回っていた。家事に洗濯、花の水やり。買い物、ご近所の人との立ち話。くるくる変わる表情が無邪気な子どものようで、多くの人がその人を慕っていた。
私は真反対で、うまく話すこともできず人の話を聞くばかり。この部屋から眺めては何度も似た人を物語に描いてしまう。日常で楽しく会話していた記憶などほとんどない。それどころか、泣かせてばかりだった。
こんな私があの人に残せるものは何だろうか。何度も書き殴っては、墨で塗りつぶした。彼女の幸せな日々を描き続けるためには、彼女を支える存在が必要だ。吐き出した痰に血が混じりはじめたころ、終わりが近づく焦燥感から涙が流れた。
こんな希望の未来を書き殴ったところで、意味などないと分かっていた。私があの人を支える存在になリたくても、その未来には私はいないのだから。
頭を抱えて唸りを上げる。私とあの人はたった二人の家族だ。
『――子もいないあの人を誰が支えてくれるだろうか。』
そう書いた不安を綴ったページを破って放り投げたーー。
ーー私は彼女が最後に寝ていた布団の片割れで庭を眺め、時を待っていた。
体の異変を感じて自分の指先をみるとボロボロと黒くちぎれていっていたのが見えて目を見開いたが、すぐに目を閉じて享受する。
かつて彼女が寝ていたその布団の上には、焼け焦げた紙が一枚残されていた。
俺たちの戦いはこれからも続く...!!
ご愛読ありがとうございました。
先生の次回作にご期待ください。




