第8話 境界の森
「そろそろ戻りましょうか」
顔色の戻った師匠を見て、そう声をかける。
湯を纏い重くなった髪は、師匠の表情を隠したままだ。
師匠へ踏み込むことの恐ろしさがある。壊れてしまうんじゃないか、という恐ろしさが。だから、今はここで十分だ。手を差し出せば、いつもの笑顔で握り返してくる。この関係。
「ありがとね」
「え? なんですか? 腹から声出してください」
「お腹で思い出した。そういえばお腹すいたね」
「いや、なんて言ったんですか?」
「『そういえばお腹すいたね』って」
「その前に決まってるじゃないですか」
「昔は覚えていたんだが、脳に矢を受けてしまってな……」
「致命傷じゃないですか。膝どころの騒ぎじゃないですよ、それ」
元気そうで安心した。
「……師匠」
「な、なに? 弟子くんも脳に矢を……?」
「俺も昨日おんなじことしてもらったんで、気にしないでくださいね」
「……うん」
それは、決して彼には見られたくない表情。泣きそうになりながら、嬉しそうに、でも間違いにほんの少しだけ失望している表情で、彼女は心の底から笑っていた。
☆☆☆☆☆☆
晩御飯後、師匠の部屋の前で。
「今日も一緒に寝る?」
「今日は一人で寝てみます」
「布団掛けるのよ? 夜更かしはダメよ? 寂しくなったらいつでも来ていいんだからね?」
あんたは母親か。
師匠の隣の部屋に入る。同じような間取りの、同じような部屋。部屋の明かりを消し、ベッドに腰かける。沈み込み、バランスを崩してそのまま横になる。
師匠の過去が気になるかならないかで言えば、なる。結構気になる。
寝返りをうち、窓を見る。
師匠にも抱えているものはたくさんある。それらに踏み込めないこともよく分かっている。だけど、時折見せるあの悲しそうな顔。その理由を知りたいと思うのは、傲慢だろうか。
師匠の表情に仕草、声や言葉。それら一つ一つ全てに惹かれている。異世界なんていうよく分からない世界に投げ込まれ、よく分からないまま生きていたとしたら、おそらく俺は再び死を選ぶだろう。
彼女がいてくれたおかげで、俺は生きている。生きていられる。一人じゃないことが、こんなに温かいのか。
逆に、師匠はどう思っているのだろうか。付き添い人とか、そんな感じだろうか。あれだけ強いんだから、俺の手助けを求めているわけでもないだろうし、異性として見られてるわけでも無いだろう。
まあ、期待はしないでおこう。勝手に失望するのは辛いからね。
最後が最後だけに、嫌な妄想ばかりが膨らむ。師匠の過去やらトラウマやらの詮索はしない。きっと辛いのだろう。俺だって言えない事の一つや二つはある。誰だってそうだ。
睡魔が思考を襲う。
負けるな思考ちゃん。睡魔をやっつけろ!
「寝るか」
布団をかぶり、目を閉じた直後、
「弟子くん……?」
可愛らしい声が聞こえてきた。
「はい?」
「いいかな?」
「え、はい」
扉を開け、師匠が入ってくる。枕を持ちながら。
「い、いいかな?」
俗に言う夜這いというやつだろうか。違うかな? 違うよね、知ってた。
☆☆☆☆☆☆
「一人じゃ眠れなくてさ」
「さいですか」
左肩を下にし、師匠に背を向けて寝る。なんとなく顔を合わせづらい。
「うん、温かい」
師匠が体を密着させる。
背中に二つの柔らかな感触を感じ……ないな。背中の神経って鈍いからね。きっとそう、そういうことだと思う。
「ね?」
師匠の両腕が、俺を包み込む。首元に感じる師匠の息。そして、背中に感じる二つのマウンテン。
あれ!? ある!? なんで!? 本当はちゃんとあった……?
いや、じゃなくて。なんでこんなに密着してるんだ、この人。いつもこんな感じじゃなくない? 本当に夜這い? マジのやつ? え? 急に手汗が出てきたんだけれども。
「……」
「……」
沈黙は是なり。珍珍も是なり。もう我慢できない。
グルっと寝返り、師匠の顔を真正面から捉える。
「にへ」
年相応の可愛らしさ、そして整った美しさを持つ顔。その顔が、優しく笑う。まるで全てを許容するかのように。
左手を布団から出し、師匠の頬を撫でる。
「師匠」
「うん」
鼻先が触れそうなほどの至近距離。
ここまでしても、拒否されない。もうこれはオッケーということですよね、ね?
「ね、弟子くん」
「…………はい」
頬から手を滑らせ、後頭部に回す。そして、ゆっくり顔を近づける。
「おやすみい……」
「え」
幸せそうな表情のまま、瞼を閉じてしまう。
「…………」
後頭部に回した手をギュッと握り、ゆっくり布団に戻す。
柔らかな表情のまま眠る師匠を見る。整った顔だ。前の世界では、さぞモテただろう。なのに、なぜ。いや、それはおかしいか。モテるからって、悩みが無いわけではないよな。
俺を抱きしめたままの師匠の両手を下ろさせ、仰向けになる。目を強くつむり、雑念を払う。
煩悩滅殺火もまたクールだ。心を静め、このまま眠ってしまおう。ずっと深く、深くに。
☆☆☆☆☆☆
思いの外、快眠だった。
玄関のドアを開け、息を大きく吸う。新鮮な酸素と、体中の酸素を入れ替える。
そういえば、この異世界に元素とかの仕組みはあるのだろうか。
「おはよーっ」
伸びをしながら師匠も外に出てくる。
「おはようございます」
「昨日も言ったけど、今日は魔界に向かおうねっ」
「はい……え?」
「え?」
言ってたっけ、そんな事。
「あれ、言ったよね?」
「いや、言ってなかったと思います」
「じゃあ、オッケー! いこっ!!」
何がオッケーなのか。なぜ行く方向で決まってしまうのか。というか剣を抜いてすらいないんだけれど。RPGなら、まだ王様の話聞いてるくらいの気構えなんですけれど。
☆☆☆☆☆☆
竜人族の姉妹に勧められた道を通って、目的地である魔界に向かう。
「でっかいもり~」
師匠が小学生の知能指数になっている。まあ、いつもの事だが。
しかし、この光景を前に馬鹿っぽい発言になるのも仕方ないだろう。
小さな山くらいありそうな森が、眼下に広がっている。
竜人族の住む山脈は頂上を超えると、魔王のいる魔界という世界に属する領域になるらしい。ならば頂上を越えることが最短ルートになると思ったが、越えても魔王の城に一直線というわけではないらしい。俺を襲ったドラゴンの種族が住む領域になるらしい。
戦闘をなるべく避けて通りたいと言ったところ、山を下りて徒歩で向かうことを勧められた。
下りている途中に町のようなものが見えたが、好奇心より使命感。師匠と話し合った結果、まずは魔界を目指すことになった。
山を下りている最中、今いる山脈と、森。そして、その森を挟んでもう一つの山脈が見えた。山を下りて魔界に向かう以上、その森を避けては通れない。そして、その森の巨大さから師匠はアホになってしまったと、そういうわけだ。かわいそう(小並感)
「じゃあもうちょっと、頑張ろっか」
師匠に手を引かれ、山を降りていく。別にイチャつきたいわけではない。こうでもしないと転げ落ちそうなのだ。
☆☆☆☆☆☆
二回ほど無事に転げ落ち、なんとか山を下り終えた。
「さて、行こっか」
「はい……」
笑う膝を叩き、森へと足を踏み入れる。東京ドームほどもあるであろう森は、手を加えたことのなさそうな生え方をしている。
驚くべきことに、森の植物は生命力が強く、雑草が膝ほどまであり、生い茂る木々は数メートル先も見せてはくれない。そしてもう一つ驚くべきことに、俺は東京ドームの広さを知らない。あくまでイメージでお届けしただけだ。
虫や鳥の鳴き声に精神は摩耗し、服に木が引っかかり、重い足がさらに重くなる。
「あ゛あ゛あ゛!」
「大きな声を出さないでください、師匠。イライラしそうです」
「切ってもいいかな!」
「是非」
正直イライラしていた。
「せぇいっ!」
いつもより強くて鋭い掛け声。振り払われた剣は、草木を切り裂く。しかし、
「あれ!?」
「すぐに……生えた……?」
切った途端に生えてきた。まったく同じ成長度合いで。
「えぇ……」
ドッと疲労が襲ってくる。足が鉄の塊になったように重く、動かない。
「とりあえず一回出よっか……」
「ですね……」
そう言って師匠は振り返る。右を見る。そして、左を見る。そして、もう一度振り返って俺の方を見るが、その顔は少し青い。
もう次の言葉は、言わずとも分かっている。
「迷ったみたい」
「そうなんですっ!?」
そっちか~っ! 食い気味だったのに間違えちった。いやいやいや、普通はそっちじゃないでしょうよ。
「あっ」
俺の反応に、師匠は目を見開く。気が付いたようだ。
「遭難したみたいっ!」
「そうなんですっ!?」
俺の言葉で察した師匠。更にそれを察した俺。完璧なTake2だ。
大笑いする。腹を抱え、肩を叩き合いながら笑う二人。
「あは、あははっ! で、でっ弟子くんっ」
「なっ、なんですっ?」
「わ、笑い事じゃないよぉ……」
本当にね。笑ってる場合ではない。このままでは死ぬ。
「師匠、死にたくないです」
「これだけはやりたくなかったけど……森ごと燃やそっか」
「俺達も焼死しませんかね」
「……たぶん」
考えつく限りの事を試してからだな。ある意味、自殺も現状打破ではあるけれどもさ。
☆☆☆☆☆☆
「……燃やすね」
「……はい」
既に日は落ち、空を見上げても暗闇しかそこには存在しない。
試せるだけのことは試した。ひたすら歩いたり、川を探したり、切ったり蹴ったり、泣いたり喚いたりもした。最後の二つは本意では無かったが。
師匠は、壁を押している感じで両手を前につき出す。すると、手の前に火球が生まれ、周辺の木を飲み込んでいく。最終的に、火球は5mほどの大きさにまで膨れ上がった。
離れている俺でも、目を開けていることすら辛いほどの熱気だ。
「いけーっ!!」
師匠の全力の声を初めて聞いたかもしれない。
火球は、師匠の手を離れた瞬間から爆発的に大きくなり、前方の木々を燃やし尽くしていく。そして出来上がる、道とは呼べない道。
「行こう弟子くんっ」
「はいっ」
返事をするが早いか、共に走り出す。後ろは既に木々が生え揃い、道が消えていっていた。
「火球が小さくなってます!」
「あれが消えたら終わりだよ!」
祈る神は俺にはいないが、願わくば生かして帰してほしい。
「あっ!」
師匠の声に、下げていた視線を上げる。前方の木々は無くなっており、小さくなった火球は荒野を飛んでいく。
森を抜けたところで足を止める。走った汗と嫌な汗で体はベトベトだ。
「生きてる……」
「よかった……本当に……」
山の上から見えた町が前方にある。そこで寝泊まりできればいいが、生憎と一文無しだ。竜人族の町まで登って戻らなければならない。
「帰ろっか……」
「そうですね……」
今日のところは帰るとして、これからどうしようか。
師匠の命を狙う者が、明日現れないとも限らない。対策はなるべく早くに講じなければ。
つかれたから、とりあえずかえりたいな(小並感)