第七話 九字
爆散し、粒子となって闇に消えた渡辺綱を騙る人狼。
シュタインは太刀を握ったまま大きく目を開き、言葉を発することもできないでいた。
「はなみつは、すごい、おんみょうじ、なのでしゅ」
彼女の声でシュタインは我に返った。
人狼を、爆散消滅させる。
過去の狩りでは、そこまではできなかった。
精々、貫き切り刻み、治癒を上回るダメージでもって屠ってきたのだ。
シュタインは、自身の左腕に座り、にんまりと頬を緩めている花蜜を見つめた。
九字を唱えて太刀の力を引き出した、というのは、嘘ではないらしい。
花蜜の血を舐めた時に感じた力は、本当だった。
そして、ふと違和感を思い出した。
「花蜜がすごいのはよくわかったけど、ちょっと疑問があるんだ」
「しゅごいのでしゅ。しゅたぃんも、あがめるのでしゅ」
「その、すごい陰陽師の花蜜が唱えたのは、九字、なんだよね? でも、僕が知っている九字は『臨兵闘者皆陣列在前』なんだけども」
「ふふふ、そこにきがつくとは、さしゅが、はなみつのしんじゅうなのでしゅ!」
おだてたからか、尊大に胸をそらす花蜜。シュタインは未だ青白い焔をあげている髭切りの太刀に視線を移した。
花蜜が抜いた時よりも、さらに強大な圧を放っているように感じる。
人狼を爆散させたということは、シュタインを同様に屠ることも可能だ。
人狼とシュタインの差は、髭切りの太刀の前には誤差にもならないだろう。
彼も特殊なのだ。
「はなみつがそらんじたのは、くじの、がんしょなのでしゅ」
「……元祖?」
「そうなのでしゅ。しょもしょも、くじというにょは――」
花蜜が人差し指を立てて講釈を垂れるのを、シュタインは黙って聞いていた。
かいつまんで説明すると――
九字とは、道家により呪力を持つとされた九つ漢字だ。
古代中国の国家、西晋と東晋に生きていたとされる葛洪が著した『抱朴子』に出てくる。
抱朴子が入山時に「入山宜知六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と唱えたことが起源とされている。
九字には数種あり、流派で使用するものが分かれている、らしい。
『臨兵鬥者皆陣列前行』は、シュタインが知っている九字『臨兵闘者皆陣列在前』と、微妙に違うだけなのだが、花蜜が言うには威力はけた違いであり、『髭切りの太刀』のような霊力を持つ神具の秘められた力を引き出す際に必要だというのだ。
つまり、唱えた九字は元祖なので非常に強力であり、またそれを扱える花蜜はもっと凄いのだと。
凄腕陰陽師なのだと、言いたいのである。
「日本語というのは難しいのだな」
ため息交じりにシュタインがこぼした言葉に「しゅたぃんのことばは、しんじゅうのことばだから、よくわからにゃい」と頬を膨らませたのであった。
シュタインと花蜜は、月のない闇の鷹司小路で、立ち尽くしていた。
「人狼を倒してしまったから、情報を聞き出せなくなってしまった」
「はなみつが、つよしゅぎたからなのでしゅ」
何故かしゅんとしょげる花蜜に、シュタインは苦笑する。
「屋根の上から見た時に、異様な篝火の量の屋敷があった。そこが妖しいと思うんだ」
「しょうなのです! はなみつも、しょうおもったところでしゅ! おししょうしゃまなら、けびいしのかこみなんて、あーーっというまに、ぬけだしちゃうのでしゅ」
「僕もそう思うよ」
「もちろんでしゅ!」
鼻息も荒く、花蜜が主張する。
いま見た花蜜の力から予想するに、師である晴明の持つ力は強大だとシュタインは感じていた。
その晴明がおとなしく捕まっているのは、花蜜の無事と引き換えにしているからではないのか、と。
渡辺綱を騙った人狼が花蜜の身柄にこだわったのは、その力を我が物とせんからであり、晴明はそのことを知らないのでは、と。
あくまでシュタインの予想であり、事実は違うのかもしれないが、少なくとも花蜜は彼の保護下にある。
髭切りの太刀と合わせれば、人狼に後れを取ることはないだろう。
花蜜がいかにして自分を呼んだのかは不明だが、晴明ならば元に戻すことも可能ではないのか。
軽率だろうか、いやちがう。
そもそも人狼がここ平安の都にいること自体、おかしい。
誰かが意図的に仕組んだものではないのか。
晴明ならば、きっとこの状況を理解し、解決できるに違いない。
きっとそうだ、そうに違いない。
かすかな希望は晴明にあるのだ。
憧れの晴明に会うための理由をこじつけられたことに、シュタインはほくそ笑む。
「む。しゅたぃんが、わるいえみに、なっているでしゅ」
花蜜がシュタインの頬をむにゅっとつまんだ。
シュタインは花蜜を抱え、茅葺屋根の上にいた。数件先の通りの向かいにある、塗壁に囲まれた大きな屋敷には篝火がたかれている。
木製の門には狩衣姿の武者数人が立ちはだかり、周囲の闇から浮き上がって見える。
平安の世では、夜にまったく出歩かなかったわけではなく、風俗的には夜も人は行動していた。
高貴な人の住まう御所では夜間も警備があったはずである。
だが、いまシュタインの眼前にある屋敷の警備は明らかに異常だった。
門だけではなく、屋敷や庭園にも火が灯され闇を嫌うかのように煌々と照らされており、武士と思われる武装した者たちの姿が目立った。
寝殿造りの屋敷には簾がかけられ、屏風やすだれで仕切られた外周には廊下が走り、東対、西対、北対、釣殿などと渡り廊下で繋がっている。
庭園には背の高い松の木がそびえ立ち、その根元にある池には朱の橋。
蹴鞠がされていたろう玉砂利の庭。
陽の元であればさぞ雅だったろう。
シュタインが思い描いていた平安の姿がそこにあった。
それが物々しい空気でぶち壊しになっているのだ。
「無粋なことを……」
シュタインは掘りの深い顔をゆがませて悔しがった。
「ここは、ふじわらさまの、おやしきでしゅ」
花蜜の口がきゅっと結ばれる。彼女の口ぶりや仕草から、ここが相当に身分の高い貴族の屋敷だと、シュタインにも容易に察せられた。
だが、高貴さとこの物々しさとはイコールではない。
口外できないことがあるに違いないとシュタインは睨んだ。
それこそ、誰かを監禁していてもおかしくはない。
「だからといって指をくわえて見ていても仕方がない」
シュタインは花蜜を抱え、跳んだ。