第五話 検非違使庁
銀色の月が山陰にかかりつつあった。冷えた空気がごうと唸り、京の夜空をかけていく。
シュタインは腰に太刀を履き、花蜜と再び庭に出ていた。
縛り上げた黒装束から聞き取りをする予定だったのだが。
「……処分されたか」
首を落とされた五つの黒い骸が松の木の根元に転がっていたのだ。
「ふぇぇぇぇぇ」
花蜜はシュタインの左腕に座り、顔を彼の首に埋め、その惨状を見ないようにしていた。
シュタインは優しく彼女の背を撫でる。
「油断していたとはいえ、気配も感じさせぬとは……」
シュタインは、玉砂利を赤く染めている遺体を見下ろし、苦々しく眉を寄せた。
ウォォォォン。
夜を引き裂く遠吠えに、シュタインの耳がピクリと動いた。遠き過日に聞き覚えのある遠吠えだった。
「この遠吠えは狼……いや違う。だがしかし、まさかな」
シュタインは遠吠えのした夜空を見た。
すぐに視線を腕に乗る花蜜に戻し、声をかけた。
「花蜜、まずはどうすればよい」
「ふっぐ、おししょうしゃまは、けびいしちょうに、つれていかれちゃの」
「検非違使庁、か」
花蜜の言葉を、自らの記憶に探す。
今までに読んだ陰陽師関係の物語に頻繁に出てきた名前だった。
「京の警察組織だな。確かこの本の巻末資料に平安京の地図があったはず……」
シュタインは右手でズボンの後ろポケットにしまい込んだ本を取り出し、手の中で開いた。親指で巻末までページをめくり、目当ての地図を探しだした。
「京の上部真ん中あたりか。まぁ、これが合っている保証はないがな」
ふぅと小さく息を吐いたシュタインは花蜜に視線を戻した。
「花蜜は、ここがどこなのかわかるかい」
「ここは、しゃきょうの、このえおうじにょ、えっと、おししょうしゃまの、かくれやしき」
「左京の近衛大路はと、ふむ、京の左上部あたりか。平安宮を越えなければならないけど、回り道したほうが良いかもしれない」
シュタインは、屋敷に目を移した。色も薄く粗末ながらもしっかりとした造りの建物だ。
壁はなく、すだれで間仕切られた部屋は、穏やかな日差しの中ならば、なんとも優雅な時を過ごせただろう。
華やかな平安を思わせるものはないが、晴明の息抜き場と考えれば、目立たない方が良いのだと納得した。
「夜が明ける前に片づけたいのだが」
「ま、まって、いまから、うらなうのでしゅ」
シュタインの腕の上で花蜜はもぞもぞと動き出す。
「占う、とは?」
「あー、うらなうどうぐがないぃぃ……」
花蜜は、またべそをかきそうになる。
平安の世は占いが支配していた。その日の用事も、早朝の夢見占いで凶とされればキャンセルしていた時代だ。
花蜜は今からの行動を占おうとしただけなのだ。
そんな花蜜に対し、シュタインは「占いなど必要ないぞ」と背を撫でる。
「う、うらないなしでなんちぇぇ」
「この髭切りの太刀があれば全ての問題は霧散する」
花蜜の抗議に、シュタインは腰に佩いた髭切りの太刀の柄をたたいた。
ストライプの三つ揃えに髭切りの太刀。
銀髪を後ろに流した美中年。
抱きかかえるのは半尻姿の幼女。
雅な平安の世に違和感しかない出で立ちだが、月明かりに浮かび上がるシュタインには、風格があった。
それがなにを以て醸し出されるのかは、山の影に隠れつつある月にもわからないのだった。
満月の明かりも山に隠れ気味ではその威光も衰える。
シュタインは近衛大路の闇の中を歩いていた。
その紅の目を光らせ、さながらあやかしの如く。
表通りは、なんとか屋敷の体をなしている建物も多いが、横道に入った途端、あばら家が目に入る。
茅葺ならば上等。板の上に石だけが置かれているものもある。
シュタインは、本に書かれている雅さとはかけ離れている京の様子に眉をしかめながらも足を急がせた。
「よるのきょうは、こわい……」
左腕に座る花蜜がぷるぷると体を震わせた。
「おっと、あそこには篝火があるな。そこを曲がって避けるとしよう」
大路を急ぐシュタインは、見回りだろう松明を掲げて歩く人影を避けていた。
見た目が異様であることの自覚はある。見つかれば間違いなく騒ぎになるだろう。
騒ぎが起きれば、自分はともかく花蜜の身がどうなるかわからない。
幼子を痛めつけるなどとは考えたくないが、この時代の京がどうなのかは本には書いていない。
無用の危険は避けるべきだ、とシュタインは考えたのだ。
「月も落ちつつあるのは好都合だ。街灯もないおかげで闇を行ける」
「がい、とう?」
「あぁ、なんというか、燈籠のようなもの、かな」
「とうろうなら、しってるでしゅ」
花蜜がにぱっと笑う。
「とうろうは、おししょうしゃまのやしきにも……おししょうしゃま……」
「お師匠は僕が必ず助けると約束しよう。だから泣く必要はない」
「ほんちょう?」
「花蜜は一人前の陰陽師で、僕はその陰陽師に召喚されし神獣だ。できないことはない」
シュタインは頬にしわをつくった。
「はなみつは、いちにんまえでしゅ!」
「あぁ、一人前だ」
彼女の頭をくしゃくしゃと撫でたシュタインは、遠くに篝火を見た。
「また見回りか? 京の治安は、それほど悪いということか?」
「あ、あのもんは、けびいしちょうの、うらぐちでしゅ」
花蜜が指をさしたのは、篝火に照らされた小さな門だ。
塗壁に囲われた一角に、やけに頑丈そうな木製の門があり、槍を地につきたてた武士の姿もある。
「ということは」
「ついたでしゅ、おししょうさま、いまおたすけしゅるでしゅ」
花蜜に襟をぎゅっと掴まれたシュタインは小さく頷く。
「あれは……」
花蜜が声を詰まらせた。シュタインが彼女の顔を覗くと、口を半開けにして一点を見つめていた。
「やしゅましゃ、さま」
花蜜がポツリとこぼした言葉に、シュタインは視線を彼女の目の先に移した。
褐衣姿の偉丈夫が検非違使庁の門から出てきたのだ。
篝火に映される顔は豊かな髭をたたえ、凛々しくも猛々しい。
矢を背負ってはいないが腰には太刀を履いている。
一目で武芸に秀でた者とわかる。
「保昌、ということは、藤原保昌か! だがこの本には、褐衣は位の低い武官が着るものと書かれていたのだが」
シュタインは右手で顎をさすった。
藤原保昌は、平安時代に道長四天王と称された武勇の人物だ。貴族でもある彼が敢えて褐衣を纏う理由はない。
武官として束帯を着用しているはずだ。
「でも、あのおかおは、やしゅましゃさまで、まちがいないでしゅ」
ぽーっとした顔の花蜜がうわごとのように言った。
「奥には何人も入れてはならん。仔細は聞くな」
藤原保昌と思われる人物が低い声で言い放つと、送りに来たと思われる影が静かに首を垂れた。
位が低い武官であればこうはしないだろう。
「藤原保昌で間違いはなさそうだが……あの気配、僕は知っている……」
シュタインは目を細めた。
あの藤原保昌が本物であるならば、シュタインが知っている存在と同じ気配を持っており、それは絶対にありえないことだったのだ。