第四話 髭切りの太刀
やおら花蜜が立ち上がり、シュタインの袖を掴んだ。
「こっちに、あるの!」
ぐいぐいと引っ張る花蜜に、仕方がないとシュタインは立ち上がる。
花蜜は部屋の仕切りの簾をめくり、まっくらな隣の部屋へ進んでいく。
「あいちゃ!」
からんと何かを蹴飛ばす音と花蜜の悲鳴が重なる。
「大丈夫かい? 灯かりもないのに、無暗に歩くからだ」
シュタインは花蜜の脇に手を差し入れ、ぐっと持ち上げ、左腕に座らせるように抱きかかえた。
花蜜が「うわわ」っとシュタインの首にすがる。
「で、どっちにあるのかな?」
「あえ、あっと、こ、ここを、まっしゅぐ」
花蜜が闇を指差す。
「またすだれが見えるけど、その向こうかい?」
「そのむこうの、そのまたむこうの――」
「わかったわかった。まずは隣の部屋に行こう」
シュタインは暗闇を歩いた。ときおり歩幅を調整しながらも、闇を歩いた。
はらりとすだれをめくり、部屋へ入る。
「しゅたぃんは、しんじゅうだから、みえるの?」
「あぁ、僕は特殊でね。明かりがなくとも見えるんだ」
闇の中、木の床をコツコツと靴音が進んでいく。
「しんじゅう、しゅごい!」
「おっと、レディたるもの暴れちゃだめだ」
「れでい?」
「礼節をわきまえた素敵な女性のことだ」
「はなみつ、れいせつ、できるよ!」
花蜜の弾む声を案内に、シュタインは三つの部屋を通り抜け、廊下を歩き、最奥と思われる小部屋にたどり着いた。
塗り壁で仕切られた空間は奥行きは二メートルほどで、幅はその半分もない。小部屋というよりは納戸である。
ただ、中はがらんどうで何もない。
少なくともシュタインの目にはそう見えた。
「ここでいいのかな」
「んー」
花蜜がニカっと笑う。
泣いたり笑ったり忙しいことだ、とは口に出さず、シュタインは彼女を下した。
「えっとね、えっとね」
花蜜はぺたぺたと床に手を付けながらゆっくり進んでいく。奥の壁にゴチンと額をぶつけて「ぴぎゃぁぁ」と叫んだ。
「やれやれ」とシュタインが脇にしゃがみ、花蜜の頭をよしよしと撫でる。
「壁があるだけで、その先はないぞ」
「ぐすん、かくしとが、あるの」
ぐずっと鼻をすすった花蜜が壁と床との境あたりをぐっと押した。
壁の下部がギギギと音をたて奥へと押しやられ、その代り塗り壁の上部がせりでてくる。
壁の真ん中あたりを軸に、巾六十センチほどの壁の一部が回転しているのだ。
「わあぁぁ、ふぎゃ」
強く押しすぎたのか、前のめりになった花蜜が顔面を床にぶつけた。勢いを増した回転する壁が花蜜を襲う。
「おっと危ない」
シュタインは回転して落ちてくる壁板を右手で受け止める。踏まれたカエルのように平べたくなっている花蜜の当帯を掴み、静かに起き上がらせた。
「レディは慌ててはいけないよ」
「あ、あったー」
ぺたりと座りこんだ花蜜は、一振りの刀を持っていた。
優雅な曲線を描いた鞘には金箔で梅の意匠が彩られ、唾は無骨ながらも滑らかに仕上げられている。
シュタインが見ても、それは高価なものであると理解できた。
だがその刀は、柄と唾をひもでしっかりと固定されている。使うことを禁じているように、シュタインには感じられた。
「花蜜、それは」
「おししょうしゃまが、かくしちぇた、しんぐ、なのでしゅ」
うんしょ、と声を出しながら、花蜜は紐で封印されている鞘から刀を抜こうとしている。
「にゅけない……くらくて、わからにゃい……おししょうしゃま……」
花蜜がぐずり始めたのを見たシュタインは「紐を解いけばいいんだね」と、彼女に刀を持たせたまま紐をほどき始めた。
情調が不安定なのは幼子特有なのか、それとも師匠である晴明の危機がそうさせているのか。
シュタインは、涙をこらえて「えぅ」と口を曲げている花蜜の心情を慮った。
晴明の弟子とあらば、陰陽師としてそれ相応の力があるのだろうが、花蜜はまだ五歳だ。
花蜜が置かれている状況は、大人でも辛いだろう。
この歳の子にさえ容赦がないとは。
シュタインは、このまま花蜜の言うままに動くことが最善なのか、どうすればよいのかを考えた。
何もわからぬ現状で、何をすべきなのか。
また、現実に戻ることは可能なのか。
この危機を打開することで現実に還ることができるのか。
「この〝ひげきり〟があれば、ししょうを、おしゅくい、できるにょ」
シュタインが解くのをもどかしく待っている花蜜が呟いた。その言葉は思考に沈むシュタイン意識を引き戻す。
「髭切りの、太刀だと!」
「ぴぎゃぁぁ!」
シュタインが唐突に声を上げたせいで驚いた花蜜が暴れ、刀が抜けた。
「いたっ」
花蜜が剥き出しになった刃で指を切ったらしく、指にぷっくりと赤い半球ができている。
微かに漂う鉄の臭いに、シュタインの目が紅く光る。
「凄まじい、力の密度……」
シュタインの視線は花蜜の指に吸い込まれている。彼の喉がゴクリと動く。
陰陽師の力ゆえか、花蜜の血には名状しがたいオーラがあった。
誘われるようにシュタインの腕が伸び、花蜜の手を掴んだ。
「き、きれちゃ……」
「だ、ダメだ、抗えん!」
シュタインは花蜜の指から垂れそうな赤い雫を舌で舐めた。小さな指を、舌で味わい、丹念に舐めまわす。
嚥下した音が闇に響く。
「こ、これは……」
シュタインの肩に重く熱い奔流が生まれ、すぐに身体中に走りめぐる。
腹の底で渦を巻いた灼熱の濁流は四肢にちぎれ、シュタインの肉体を滑走していく。
つま先にまで痺れにも似た快感で埋め尽くされ、漲る気合にシュタインは顎を上げた。
「す、すさまじい。これほどの力、味わったのはいつ以来だろうか」
ゴトリと刀が床に落ちる音。我を忘れていたシュタインがハッと花蜜を見た。
「しゅたぃんは、ちが、すきなにょ?」
花蜜がきょとんと首を傾げた。
「む、これは、はしたないものを見せてしま――」
「しんじゅうは、けいやくしゃの、なにかを、かてとしゅるって、おししょうしゃまが、いってた!」
「糧?」
「そうなにょ! やった、はなみつは、いちにんまえにょ、おんみょうじなにょ!」
花蜜が床の髭切りの太刀を両手で拾い、「おもいー」と唸りながら刀の柄をシュタインンに差し出した。
「これで、おししょうしゃまを、すくうのでしゅ!」
いきなりの所業に一瞬戸惑ったシュタインだが、両手で柄を握り「御意」と頬を緩めた。