第十五話 ノスフェラトゥ
火球を吐き、荒れ狂う巨大な赤狼を前に、シュタインは玉砂利へ降りた。甲羅に身を隠しつつ花蜜へ話しかけた。
「注意をこちらに向ける。玄武の甲羅はどれくらいもつかい?」
「こここわいけど、こわくないのでしゅ。がんばるのでしゅ」
シュタインは、答えになっていない花蜜の言葉に苦笑を浮かべつつ「上出来だ」と笑みで返す。
「甲羅で火球をいなしつつ距離を詰める」
「だだだいじょうぶでしゅ!」
「そして髭きりの太刀で切る伏せ、チッ」
甲羅に伝わる轟音にシュタインは舌打ちし、バックステップで距離をとった。
赤王が、おしゃべりしている暇はないぞと、シュタインに見せつけるように嗤った。
「花蜜、大丈夫かい?」
「だだだいじょうぶ、なのでしゅ。はなみつは、いちにんまえの、おんみょうじ、なのでしゅ」
涙目の花蜜が気丈に振る舞う。
彼女の気遣いを無にせぬよう、シュタインはニヤリと口元を緩めた。
「うん、じゃあいくよ、主殿」
「きゅ、きゅうきゅうにょりつりょう、い、いくのじゃ!」
「御意!」
左腕に花蜜をしがみつかせたシュタインは玉砂利を蹴った。
「臆病にも逃げ隠れた獣よ、我が刃の前に伏せよ!」
右手に髭きりの太刀を掲げ、狩衣の吸血鬼が叫ぶ。
「しゃらくさい、盾ごと燃やしてやる!」
憤怒の赤王が、玉砂利に爪を食い込ませ吠えた。
「花蜜、ちょっと我慢しててくれ」
「がががまんしゅるぅぅゎゎゎゎ」
シュタインは左腕の花蜜に囁きつつ間合いを詰める。吐き出される火球に対し玄武の甲羅を斜めに当て、夜空へ弾き飛ばした。
「Allez!」
神速で赤王との距離を詰めたシュタインは太刀を横薙ぎにする。
赤王が身体を引き太刀を避け、火球を連続で吐く。シュタインは甲羅で受け流し続けた。
「こうも連続で吐かれると―」
「ぐははっ、甘いわッ!」」
足が止まったシュタイン目掛け、赤王が火球を吐き出すと同時に駆けだした。
火球を受け流した隙に赤王が甲羅を蹴る。
衝撃に耐えきれなかった花蜜が地面を転がってしまう。
「めめめめがまわゎゎゎゎぁぁぁ!」
「しまった、花蜜!」
「これで、しまいだ!」
赤王が転がる花蜜の先に跳躍、前足でぎゅむと踏みつけた。仰向けに踏みつけられ、背の甲羅が邪魔で身動きが取れない花蜜がもがく。
「あわわわ、しゅたいん、たしゅけ、おおおししょうしゃまぁ!!」
「うるさい、だまれ!」
「ぴゅあぁぁ!」
びーぴー泣き出す花蜜を見おろしニタリと嗤う赤王。シュタインはギリと奥歯を噛ましめ、太刀の切っ先を赤王に向けた。
「おっと、コイツの命が惜しくば、その剣を棄てろ。そこの爺も動くな!」
赤王がシュタインを睨み、ついで空にいる晴明を牽制した。シュタインの視界にいた晴明のに動きも止まっている。
さすがの晴明も花蜜の危機には止まらざるを得ない。
「まったく、おぬしでは話にならん。わしが自らケリをつけたほうが良さそうじゃな」
シュタインの背後から晴明の厳しい声が響く。だがシュタインは微動だにしない。
彼の耳には、あのバンシーの切なる悲鳴があった。
僅かに垣間見ただけだが、雅なる平安絵巻が脳裏に映る。
アレをこの世界に野放しにしてはいけない。
「二度はない」
シュタインの目が深紅に輝く。
「この場のヒーローは、僕に譲ってもらいたいな」
「……ひーろー? 何だそれは。やれやれ、気でも狂うたか」
「狂ってはいないさ。僕は花蜜の神獣だから、僕が颯爽と彼女を救うのさ」
シュタインは髭切りの太刀をおろし、玉砂利に突き刺した。両手をひろげ、掌を赤王に向ける。
「さぁ、僕は太刀を手放した。花蜜を解放するんだ」
「ふん、バカ者が! ハイわかりましたと、言うとでも思ったか!」
「……」
大きく口を開き勝ち誇る赤王に対し、シュタインは沈黙する。
「手下どもを屠ったソレなくして俺には勝てん」
ギロリを目を血走らせた赤王が、火球を吐き出す。
シュタインはその紅い瞳で、迫る火球を見つめた。
「……二百年前に、この太刀はなかったんだけどね」
シュタインの目が闇色に染まる。
右手で火球を受け止め、そのまま地面に叩きつけ爆発させた。
砂利を吹き飛ばし炸裂する炎の中にあって、暗い闇は禍々しさを増していく。
口端から白煙を燻らせ、シュタインの輪郭がぼやけ夜に溶けはじめた。
赤王がチッと舌打ちする。
「動いたらこの娘の命はないと言ったろう!」
「いだいぃぃ」
赤王がぐにと花蜜をふむ力を強める。
花蜜の口から絞り出される悲鳴にシュタインの眉が歪む。
「……花蜜を解放したほうが身のためだ。次はない」
夜闇の中、シュタインの形が、砂のように崩れていく。
赤王か、あからさまにうろたえ始めた。
「お、俺もお前も、知らない世界に飛ばされた仲間だろう? ここは手を組んでこの世界を、生きやすい世界に変えようじゃないか。なぁ!」
「しゅたいん、たわごとを、きいては、だめなのでしゅ。しゅじょうを、おすくい、もうしあげるの、でしゅ!」
「うるせぇ!」
「ぴゃぁぁあぁぁ!」
花蜜の悲鳴と同時に、シュタインの体が夜に溶け、血色の双眸が不気味に灯る。
「お前は仲間などではない。ただの――」
――犬だ。
シュタインの狩衣が弾け、闇が爆発した。
闇は数多の蝙蝠の姿となり、金切り声を上げて渦を巻く。
「くそっ、こんな蝙蝠如きがぁぁぁ――」
蝙蝠の渦は塊となって紅い巨狼に襲いかかり、その頭を削りとった。
首から血を吹き上げる巨狼が、横倒しにどうと地面に崩れる。自由になった花蜜がうつぶせに屈み、甲羅にすっぽりと隠れた。
「ふわわわ、なにがなにがなにが、えっと、えっと、りりりんぴょうとしゃしゃしゃかいちいちちちん」
ブルブル震えながら九字を唱えようとしているが口が言うことを聞いてくれない。
闇は、まだ蠢きを止めない。
蝙蝠の渦は、ビクビクと痙攣するその首なしの巨狼を貪り始める。
音もなく、一瞬で赤と黒が混ざり合い、そして闇に塗り替えられた。
闇が漂い凝縮し、やがて人型になっていく。
その闇から滲み出るように、シュタインが姿を現した。
狩衣が破け、細身だが引き締まった筋肉が火災によって赤く染められる。
徐に右手を額にあて、下がってしまった前髪を指に絡めかきあげた。
「……これで約束も果たせ――」
「ふぇぇぇぇ」
「おっと、レディを忘れてしまっていたよ」
シュタインが辺り見渡し、脱ぎ捨てられている衣服の切れ端を見つけた。「さすがにまだ見せて良い歳ではないしね」と呟き、ささっと腰に巻く。
「さぁ花蜜、あの狼は倒したから、もう大丈夫だ」
シュタインは穏やかな声色と共に花蜜の甲羅ごと持ち上げた。甲羅をくるんと裏返し、体を縮こまらせている花蜜に笑顔を見せた。
と同時に玄武の甲羅が消え去り、花蜜はシュタインに抱きかかえられた。
「おっと危ない。花蜜、痛いところは?」
「ふぇぇぇええっと、えっと、だい、だいじょうぶ、なのでしゅ。はなみつは、つよいのでしゅ、いたいけど、なかないのでしゅ」
「そうか、花蜜は強いなぁ」
シュタインは、がしっとしがみついている花蜜の頭を優しく撫でた。
「火は……ほとんど消されたか。さすが安倍晴明だ……」
御所の火は晴明の召喚した青竜によってほぼ鎮火されていた。
が、御殿は焼け落ち、助けるはずの帝の安否は不明だ。日の出を待つ空に、晴明の影はない。
「救出に行ったの――」
「おぬしは、何故にそのように裸でおるのだ」
背後に殺気を感じたシュタインは、本能で横に飛んだ。シュタインの足をかすめ。玉砂利に札が突き刺さった。
声の方ににシュタインが振り向けば、そこには鬼の形相の晴明が。
「花蜜を抱えているんだからもう少し優しく――」
「……幼いが、花蜜は女子であるぞ」
「あー、これは不可抗力で狩衣が破けてしまって」
「……何故それほど密着せねばならぬのだ」
「その物騒な札をしまってくれると、僕も安心して説明、いや弁明ができるんだけど」
じゃりっとシュタインが後ずさった時。
「おししょうしゃま、やったのでしゅ! はなみつは、やったのでしゅ!」
「そ、そうじゃな、よくやったぞ、花蜜。さすがわしの弟子じゃ!」
眼の端に涙をためた笑顔の花蜜に、晴明は頬をひくつかせたのであった。