第十二話 御所
陽も登らぬ京に太鼓が鳴り響く。
太鼓の連打は喫緊の事態が発生したときだ。
「お、おししょうしゃま!」
「御所で何かあったか!」
シュタインの背後から晴明の声。シュタインが顔を向ければ、額に皺を寄せた晴明が。
「ま、ましゃか」
不安げな顔の花蜜が晴明の裾を掴む。
今の状況下で御所の騒ぎ。何が起きているのか、蚊帳の外の住人であるシュタインでも想像がつく。
保昌の配下になってしまった頼光四天王は全て塵となって消えた。彼にとって戦力ダウンは手痛いはずだ。
ではどうするか。
自らの手で本懐を遂げるのだ。
「保昌は僕の知っている気配だった。おそらく、彼は彼でなくなっているはず」
シュタインは、検非違使庁で見かけた際の気配を思い出していた。
遠い遠い過去の、失策だ。
「……妖とでもいうのか?」
「先ほど対峙した人狼が何よりの証拠」
晴明の睨みを、シュタインは真正面から受けた。神気溢れる視線に全身が凍える感覚に陥るが、シュタインは見つめ返す。
彼にも引けない理由があったのだ。
「ふん、時間が惜しい。御所へ行く」
「僕も行きます」
「足手まといはいらぬ」
「でも、あれは――」
シュタインが立ち上がろうとしたとき。
「はなみつもいくのでしゅ。はなみつとしゅたぃんがいれば、しゅてんどうじも、にげだしゅのでしゅ!」
花蜜がシュタインに抱きついた。
「しゅたぃん、またそらをとぶのでしゅ! ごしょまで、どわぁぁぁぁっと、ひとっとびでしゅ!」
抱きつきながら顔をあげ、にぱっと白い歯を見せる花蜜。幼き手が消え寂しくなった袖を掴み、ワナワナと震える晴明。
これはヤバイと悟ったシュタインは大げさに立ち上がり「ご、御所へ急がないと!」と花蜜の背を押す。
「な、なれなれしくしおって!」
「おししょうしゃま、いそぐのでしゅ!」
憤怒の晴明を遮るように花蜜が叫ぶ。シュタインは晴明がブ千切れる前に、簾をめくりあげ、さっさと庭へと逃げ出した。
花蜜のことになると晴明は手が付けられなくなりそうだ。
シュタインは、ひとつ賢くなった。
逃げたシュタインを追うように、晴明が庭におどり出た。未だ太鼓は連打され、藤原の屋敷の周囲でからは喧騒が漏れてくる。
すわ一大事と近隣の貴族の屋敷から狩衣姿の武者らが駆け出していった。
「ぬう、御所の空が。保昌め!」
晴明が右京方面を睨み叫んだ。闇に支配されていたはずの夜空は炎で煌々と炙られていた。
火の粉が風に煽られ、上空へ舞い上がっていく。
シュタインは都の家屋を思い出し、ハッと顔をあげた。
「まずい、延焼すれば、京が危うい」
現代でこそ消火という行為がとれるが、近代までは〝壊す〟という行為でしかなしえなかった。
ここ平安では、さらに状況が悪い。
茅葺は火の粉が降り注げば、あっという間に火に包まれるだろう。板張りの屋根も同様だ。
あばら家のような家屋が密集していれば、炎は舐めるように燃やし尽くしていくはずだ。
そうなっては手が付けられない。
それは晴明とて、理解していた。都でも何度か大火が起こっているのだ。
彼はシュタインの左腕に座る花蜜に手を差し伸べた。
「ここに花蜜を残してはかえって危険じゃ。わしとくるのじゃ」
「はなみつは、いちにんまえの、おんみょうじでしゅ。おししょうしゃまのあしでまといには、ならないのでしゅ!」
「ならん! あやかしと共になど――」
「ぶーー、おししょうしゃまだって、しえきしゅるしんじゅうに、またがるのでしゅ。はなみつも、おなじなのでしゅ!」
口を尖らせ抗議する花蜜がシュタインの襟をぎゅっと握ると、みるみる吊り上っていく晴明の眉。
シュタインは瞬時に判断した。
自分の身が危ういと。
芦屋道満との間に何があったのかはわからないが、晴明にとって花蜜がどれほど大切なのかは、彼の行動で理解できる。その想いの強さだけシュタインに怨嗟とも八つ当たりともとれる殺気が向けられるのだ。
シュタインがいかな吸血鬼の一族とはいえ、晴明にとってはそのあたりに転がっている石と変わらないだろう。
それほどに、相性が悪いのだ。
そんな時にとれる手立ては――
――逃げの一手である。
「一刻も早く御所に行かないと!」
シュタインは花蜜にそう告げ、烏帽子に手を置き、玉砂利を散らしながら跳躍した。
晴明は紅に染まりつつある闇に消えたふたりを見上げ、唇を噛んだ。
「くっ、待たぬか!」
晴明がすばやく手首を返すと、彼のひとさし指と中指の間に一枚の札が出現した。
流麗な文字で〝鳳凰〟と書かれている霊符だ。
「来たれ鳳凰、急急如律令!」
晴明が呪を唱え霊符を空に飛ばすと、その符は蒼き炎に包まれる。
爆発するように拡大した炎は一対の翼をひろげ、長い首を天に突き上げ、見事な尾をたなびかせた鳳凰となった。
晴明は老齢さを微塵も見せずに十メートルも跳躍し、鳳凰の背に飛び乗った。
「御所へ」
鳳凰は高らかに声を上げ、優雅にはばたいた。
南門にあたる建礼門上空にたどり着いたシュタインが見たのは、炎に包まれている御所だった。
南庭を取り囲む回廊と紫宸殿はすでに崩れ。
奥にある御池には炎から逃げた女官らが入水して身を寄せ合い、恐怖に震え。
御所を焼き尽くす焔は竜巻の如く唸りをあげ天を衝いていた。
「た、たすけて!」
「あやかしだッ!!」
女官が、文官が逃げまどい、衛視が弓に矢をつがえている。
天皇が住まう清涼殿は炎を噴き上げ、そこには巨大な狼の姿が。
炎に負けない見事な赤毛。その背は寝殿造りの屋根の高さにある。
口の周りは湿っており、滴る液が玉砂利を赤く染める。
人の大きさもある前足で寝殿造りの屋根を突き破れば女の悲鳴が轟く。
炎を吹き出す屋敷に顔を突き入れた直後、ぐしゃりと湿った音と断末魔が耳をつんざいた。
「クハハハ、脆い。なんと脆い人間どもだ」
巨大な赤狼が唸るように言葉を吐く。
勇敢な武者らが矢を射るが、赤狼は歯牙にもかけない。
突き刺さるはずの矢は鋼のような体毛に阻まれ、地に落ちていくだけだった。
「おおきな、おおかみでしゅ!」
「あれは……赤王!」
「れっど、でしゅか? しゅたぃんは、しっているのでしゅ?」
「二百年前に狩りそこなった、人狼の長さ。しかし、どうしてここに?」
上空から惨劇を見せられているシュタインは、理解できないでいる。
「お前がここにいるのは何故だ?」
背後からしゃがれた声。蒼い焔を纏った鳳凰の背にのる晴明が、そこにいた。
「……召喚! 誰かが召喚したのか!?」
「はぐれ、じゃろうな」
「おししょうしゃま、はぐれって?」
「お前には教えてなかったな……はぐれとは、陰陽師になれなかった者の、成れの果てじゃ」
思うところがあるのか晴明の目が険しくなる。
「でも、陰陽師になれなかった程度の腕前じゃ、召喚なんてできないのでは?」
「花蜜がお前を召喚できたのは、陣を間違えたからじゃ。一人前になれぬはぐれが、まっとうな陣を構築できるわけがなかろう」
「偶然?」
晴明が頷いた。
「陰陽師は、ほぼ加茂一族が手中収めておる。わしもかつてはそうじゃったがな」
晴明が、ふと頬を緩めた。
晴明に陰陽を教えたのは加茂一族だ。かつてを思い出しているような笑みに、彼も人間なんだとシュタインは感じた。
「じゃが、才なく、そこから弾かれた者がいる。おおかた、保昌はそれらを囲ったのじゃろう」
「でも、なれなかった者たちを囲っても……」
「あの様子だと、呼び出したアレが保昌を食らうたのだろう」
晴明が憎々しげに赤狼を睨んだ。