第十話 晴明
背に突きつけられた殺意。シュタインの頬に汗が流れる。
左腕に花蜜がいようとも、自分だけを滅することが可能ということだ。
「おぬしの気配、人ではないな」
先ほどの、殺気のこもるしゃがれ声。シュタインは緊張に支配されていた。
「お、お察しの通り、僕は――」
「ならば」
「ま、待ってくれ。言い訳をさせてもらえるなら、僕は呼ばれたからここにいるわけで――花蜜を傷つけたりとか、そう言ったことではなくむしろ」
「それが、我が弟子と、どういった関係があるというのだ」
背中に当てられた札がシュタインにめりこんでいく。
背に焼けるような痛み。
「ぐ……」
シュタインは唇をかみしめ、耐えた。
ここで晴明に対し敵意を見せることは、死につながる。
雷光で人狼を粉砕した技量を目の当たりにしては、彼に対して抗おうとは思えなかった。
「おししょうしゃま、しゅたぃんは、はなみつのしんじゅうでしゅ。おいたは、だめでしゅ」
シュタインの苦悶の表情を覗いたからか、花蜜が顔をあげて頬をふくらませる。
「おぉ花蜜や、無事であったか。どれ、わしが抱っこをしてやろう」
不機嫌なしゃがれ声が猫なで声に変わった。シュタインはその変化を感じたが振り返ることはできないでいる。
いまだ背には札が突き刺さっているのだ。
「おししょうしゃまでも、しゅたぃんを、いじめちゃ、だめなのでしゅ」
「わしはそんなことはしていないぞ?」
「ぶー。しゅたぃんが、いたがってるでしゅ」
花蜜が口を尖らせた瞬間、背中の痛みが消えた。
微かな舌打ちと晴明が離れる気配。
シュタインは、人生で初めて、存在を許されている事実に感謝した。
シュタイン、花蜜、晴明は藤原の屋敷の、奥にある、黒い簾で仕切られた部屋にいた。調度品らしき物のはない、物寂しい部屋だ。
庭に詰めていた武者たちは晴明によって昏倒しており、玉砂利の寝床で横たわっている。
かすかに聞こえるフクロウの声。
微かな油灯りがぼんやりと空間を彩っている。
仄かな明かりに浮かび上がる、晴明の姿。
白い狩衣を纏い、白髪に白眉。豊かな髭も白い。
鋭い眼光はシュタインから一瞬も離れず、床に胡坐をかき、圧倒的なまでの存在感を示していた。
対してシュタインは正座である。
ボロボロになってしまったスーツ姿で板の間に正座である。
憧れの晴明を目の前にしたが、喜びは浮かんでこないばかりか恐怖しか感じられないでいた。
「なるほど。花蜜の召喚の失敗か……召喚元へ返さねばいかんな」
「えぇーー、しょんなぁ……」
晴明の断言にわかりやすくしょげる花蜜。
ふぅと、呆れともとれる息を吐いた晴明だが、射抜く視線はシュタインに向けられたままだ。
「でもでもおししょうしゃま! はなみつは、しゅたぃんを、よべたのでしゅよ?」
「偶然であろう」
「ひとがたのしんじゅうで、ことばもしゃべる、さいこういの、しんじゅうでしゅ!」
「問題ないからおとなしく待っていろと申し付けたはずだ」
「だって、おししょうしゃまが、とらわれて、おししょうしゃまが……ふえぇぇぇぇん」
盛大に泣き出した花蜜に、晴明が動揺しはじめた。
「わしの心配をしてくれたのは、嬉しいぞ」
あわてた晴明が花蜜の頭を優しく撫でている。だが花蜜のぐずりはなおらない。
「ままままて、花蜜。ひとりで召喚ができたのは、すごいことなのじゃぞ?」
「おじじょうじゃまなんが、じらだーい」
「わ、わかったわかった、花蜜は悪くない。悪くないから泣き止むのじゃ」
シュタインなぞそこにいないかのように、晴明は花蜜の頭や背を撫で、懸命に宥めている。
豹変した晴明に、シュタインは戸惑いを隠せない。
晴明と花蜜とを交互に見ては首を傾げた。
どうなっているのだ。
今しがたまでの、滲み出る殺気はどこへ行ったのか。
シュタインの目の前にいるのは、どこにでもいる好々爺だった。
胡坐をかく晴明の足の上に、にっこり笑顔の花蜜がすっぽりと収まっている。シュタインは正座を変えてはいない。
落ち着いたからこそ、目の前の老人に対して敬意が湧いてきたのだ。
「ところで、頼光四天王が人狼に成り代わっていたのは……」
口を開いたのはシュタインだ。せっかくの会話のチャンスをいかしたかったのだ。
「うむ、狼憑きだろうな。見たことはなかったが、気配は感じていた」
「さしゅが、おししょうしゃまなのでしゅ」
「ふふ」
にぱっと笑う花蜜につられ、晴明も頬を緩める。
師と弟子ではなく、誰が見ても孫娘と祖父にしか見えない。
シュタインはそのほっこりする光景を見ていたかったが、心を殺して口を挟む。
「そもそも、僕が呼ばれるような事態とは、いったい?」
シュタインの言葉に、晴明の目が険しくなる。
「花蜜がおとなしゅうしていればこうはならなかったものを」
晴明が答える。
が、まるで孫娘との触れ合いを邪魔するなと言わんばかりだ。
シュタインはどちらかといえば被害者なのだが、威圧で口答えできないでいる。
「ごめんなしゃぃ……」
「いやいや、花蜜は悪くないのじゃぞ? 悪いのは、京を狙う酒呑童子と、それに組し藤原保昌じゃ」
「や、やしゅましゃしゃま、が……?」
想像だにしなかったのだろう事態に、花蜜は泣きそうな顔になる。
「そうじゃ。大江山に向かった源頼光が酒呑童子に討たれたとして討伐の挙兵を企てておったが、その矛先は畏れ多くも御所じゃった」
「ええええぇぇ!」
「主上は御所から出ることもあたわず。わしは、以前から保昌の危険性を申し上げておったのじゃが、時すでに遅かった」
忸怩たる思いを隠し切れないのか、晴明は奥歯を噛みしめている。
当代きっての陰陽師を言われた晴明が出し抜かれたのだ。誇りも傷ついたろう、とシュタインは思った。
彼を尊敬しているシュタインとて、腹に据えかねるものを感じているのだ。
「先日、屋敷に渡辺綱らがきおってな。主上への叛意の疑いがあると喚きおったのじゃ」
「しょんな! おししょうしゃまは、そんなことはしないのでしゅ!」
「あたりまえじゃ。わしは一条陛下を尊敬しておる。わずか七歳で即位され、苦労に苦労を重ねたお方じゃ」
晴明は瞼を閉じた。遠き日を思い出しているのか、晴明の肩が震えている。
そんな師を見て、花蜜がうんうんと頷き始めた。
シュタインの脳裏に、嫌な予感が走る。
「しょれならば、はなみつとしゅたぃんで、しゅじょうを、かしこみかしこみ、おたすけもうしあげるのでしゅ!」