1.ノアール・イリザイア
戦争とは、今までこの地球上では幾度となく繰り返されてきたが、果たして人間が生きていくのに必要であっただろうか。
そして、それは人々の同意に基づいて行われたものだったのだろうか。
国家の、国の上に立つもの同士の諍いから始まったものではないか。
命を大切に、随分とふざけた言葉である。
今もどこかでその大切な唯一無二の自分を、命を、望まない戦いに捧げているというのに。
「…かあさん…ルミナ…」
何度呼んだって、答えるものはいない。
何故なら…死んだから。
もうこの世には、いないから。
幼い少年は細い脚をふらつかせて、木屑や血溜まり、コンクリートの破片が散らばる地面を歩いた。
足は血に塗れ、喉は乾き、腹は空き、体には虫が集った。
お腹を空かせると温かいスープを作って抱きしめてくれた母親はもういない。
顔色を伺っては花冠を作ってくれた妹はもういない。
何故、歩いているのかもわからない、目的地はどこにも、ない。
不意に彼は躓いて足元に目を落とした。
「…ぁ、あ…」
そこには老婦人の頭だけが転がっていた。
その顔に見覚えがあった。
村で見かけたら必ず声をかけてくれる優しいおばあさん。
誰にでも優しく温かく接したこの優しい女性が、どうしてこんな無惨な姿にならなくてはならなかったのか。
「腹、減って…死んじまう…」
後ろの方から足音が聞こえる。
同時に何か金属のようなものを引きずっている音。
「人間って…食ってもいいのかな…」
「…ぇ」
振り返ったのと同時に、ガタイの大きい髭面の男が鉄筋を振りかぶった。
死んでしまう、そう覚悟して固く目を瞑ると、鉄がぶつかり合う音が頭上に響いた。
「さぁ、立って」
沈んだ少年の心に一筋の光を振り下ろすように女の声は透き通っていた。
ひとつに束ねられた茶色の美しい長い髪。
男は今にも倒れてしまいそうなげっそりとした顔で女を睨んだ。
「…お前この村の人間じゃないだろ…」
「えぇ、通りすがりの旅人よ」
「なら口を挟むな…それともなんだ、お前が俺たちの食いモンになるのか?」
男が言い終わると同時に脚を取った。
無様に頭から地面に落ちると、当たり所が悪かったのかそのまま気を失ってしまった。
「はぁ…人なんて食ったら腹壊すこと間違いなしだね、ましてやこんな状態の子供を。」
男から少年へ視線を流すと、未だ動けずにいた少年に手を伸ばした。
「…お腹空いた?」
まったく味のしない乾いたパンでも、今はとても美味しく感じた。
数日振りの固形食に無心になって食いついた。
しかし一気に口に入れたせいか、涙目になってむせてしまう。
「ははっ、水も飲みな」
女が微笑みながら右手に持った飲み水を渡してくる。
それを見つめて、少年は未だ咳き込みながらもその手を睨んだ。
「なんだ、毒は入ってないぞ?」
「…何が目的なんだ」
「何の話?」
「見ず知らずの子供に食料を恵む旅人なんて…聞いたことない」
「ふぅん」
「あんた…変わってる…」
「そう?よく言われる。まぁ親が変わってるからねぇ…そうだ、君、両親は?」
「…いたらひとりであんなとこ…」
「いるわけない、よね。ごめん」
二人で座っていた丸い切り株から女は立ち上がると、自分の分の水を飲み干した少年と向き合うように正面に屈んだ。
「…私達とくる?君が良ければだけど。」
「…たち…?」
「あぁ、今はここからちょっと離れたところに置いてきてるんだけど、君と同い年のような子達がいっぱいいるよ」
「…何してるの?」
「旅だよ、長い旅。終わりのない旅。広い世界を身寄りのない子達に教えてやってるんだ。ルールは私についてくる、喧嘩はしない、それだけ。ここにいてもきっと寂しいだけだろうから。まぁ、君がここにいたいって言うなら、私は止めないさ。」
しばらくの沈黙が続いた。
女はどちらの答えも受け入れるつもりだ。
イエスとノー。
どちらかの答えが少年の口から出るのを、ただ静かに待っていた。
それから、少年はそんな彼女の視線から逃れるように目を逸らした。
「…おれは…ここは…おれの大事な思い出が…たくさんあるところだから…」
「…そうか、わかった。帰る場所はあるの?」
「…うん」
「そう」
最後まで暖かい瞳で少年を見つめた。
手を優しく握ると、女は立ち上がって、背を向けた。
「じゃあ、私は行くよ」
「待って!」
少年の声に振り向くと、小首を傾げた。
「…あんたの名前…」
「私の名前?」
「た、助けてもらった…食べ物も…!」
キョトンとしてから、不意にフッと吹き出した。
「旅人は、名乗らないよ」
そう言ってまた背を向けると、片手を軽く上げてから闇へと歩き出した。
少年に背中を見届けられて。
「…母さん、おれ…」
どうしたらいいか、わからない。
旅人、女の笑顔が思い出すだけで心を温めた。
母と同じような笑顔。
もう二度と出会えないと思っていた光を目にして、故郷を出たいと考えている。
けれど、それは母と妹を裏切る事になるのではないか。
望まぬ死を迎え、まだ生きたいと思っていたはずなのに、生きているのは自分だけ、そんな自分をあの世でふたりは怨んでいるのではないか。
幼いながらも、そんな感情が少年を苛んだ。
帰る場所はあるか。
彼女の質問に答えたものの、本来あるべき家の姿は、憎い戦争のせいで瓦礫の山だ。
瓦礫を見つめたまま、動くことができないのか。
過去に囚われたまま一生生きる事になるのだろうか。
そんなの、自分にしかわからないじゃないか。
「…おれは…」
太陽が昇り始め、空も明るくなってきた頃、少年は裸足のまま駆けた。
瓦礫の山から駆け出して小さな丘に登る。
そこから見下ろす景色は、自分の知る世界では世界一だった。
でも、もう違う。
彼女を探して、もっと広い世界を知りたい、彼女に着いていきたい!
小さな少年の胸は、いつしか期待に胸が高鳴っていた。
しばらく景色を眺めていると、村の外れの方でぞろぞろと子供達が密集して移動しているのが見えた。
「あれだ…!」
坂を一気に駆け下りて、さっき出てきた瓦礫の山を横目に見た。
立ち止まって別れなんて、言わない。
この丘が出発点、そして故郷。
家がなくなっても、この丘がなくなることはない。
故郷は、いつだってそこにあるんだ。
まるで母と妹が自分の背中を見送っているかのような心の暖かさ、自信が少年を包んだ。
「ま、待ってくれぇえっ!」
群れの中のひとり、少女が少年を見つけると、ハッとしたように先頭を歩く女に声をかけた。
「レイ!」
「…ん?」
レイと呼ばれた女は立ち止まって、全速力で駆けてくる少年を見つめた。
「…来たか」
「っ、はぁっ、はぁっ…待って…おれ、やっぱ行く!」
「…そうか、もう未練は無いね?」
「そんなもの、ない…ふるさと…あの丘!帰る場所も…あそこだ…おれも、おれもみんなと一緒に行きたい、あんたと一緒に行きたい!」
「ははっ、そうか、気に入ったよ」
まるで太陽のように笑った彼女が、手を差し伸べてきた。
「ようこそ、私はレイア、レイア・フォーミリアス。レイってみんなは呼んでる。君は?」
「…ノアール…ノアール・イリザイア…」
「ノアール…」
少しだけ驚いたような顔をしてから、しかしまたすぐに笑いかけた。
「よろしく、ノアール」
まだこの時は知らなかった。
ただ世界を旅するだけだと、そう思っていた少年の未来が、名前通り、闇で染まるなんてことは。