第百十九話 ねがい
「……ね、ねえ」
私はピクリとも動かない魔王様を揺り動かす。
魔王様は私の目の前で静かに横たわり、まるで眠っているみたいに、穏やかな顔をしている。
「……ちょ、ちょっと、起きてくださいよ」
いやだ。
「も、もう、そんなお芝居なんて必要ないんですよ」
いやだ。
「ねぇ、魔王様ってば。起きてくださいよ。ねぇ……」
私は壊れた人形のように魔王様を揺り動かし続ける。
あたり一面、血だらけになっている。
私の服にも頬にも赤い鮮血がこびりついているが、そんなものはまったく気にならない。
どれだけ揺すっても魔王様は目が覚めない。
私の心の中から、全ての感情というものが抜け落ちてしまい、心の中が、がらんどうになってしまったかのように、何も考えることができない。
ただただ、目の前のこの現実を受け入れることだけを拒否している。
目から何かが滴り落ちる。
下を向き、魔王様の顔をぼーっと見つめると、水滴が魔王様の頬に落ちる。
「う……」
私は上を向いて、心の中に急に込み上げてきた感情、荒れ狂った感情を空に向けて吠えたてる。
「うわぁぁぁぁっ!」
私は叫ぶことしかできなかった。
私はバカだ。大バカだ。
こんなにも、こんなにも、この人が好きだったなんて。
それなのに、この人になんの思いも伝えることができなかった。
私は魔王様の頭を膝の上に抱えるようにして、抱き締めながら、泣き叫んだ。
あたり一面、いきなり、真っ暗な帳に包まれる。
私と魔王様。それともう一人だけが存在する世界だ。
「コングラッチュレーション! よくやった! ははっ! 今日は、お祭りだ!」
魔王様の頭を膝に載せ抱えている私の回りで、薄紫色の髪の毛の女の子が、ぴょんびょんと狂ったように飛びはねている。
激情が収まった私は、興味がなさそうにその女の子を見た。
頭の中の靄が、きれいさっぱり晴れて、すでに昔の記憶、現実世界の記憶も戻っている。
「よくやった! よくやったぞ! これで、この世界の安定も保たれる。よしよし。お前を元の世界へでも、どこへでも戻してやるぞ!」
私は、満面の笑みを浮かべているその女の子をじっと見つめた。
そのとき初めて、女の子の瞳に、動揺のようなものが現れた。
「お、おい、お前。いったい何を考えている」
どうやら、この女の子の姿をした化物。『神』を自称する化物は、私の頭の中の思考が読めるらしい。
女の子は焦ったように早口でまくし立てる。
「や、やめろ。そんなことを願うな。た、頼む。……そ、そうだ、元の世界に戻すついでに、お前を大金持ちにしてやろう。元の世界ではもう、お前の幸せは決まったようなものじゃないか。な?」
私はただ静かにその女の子の姿をした化物。『神』と称するそいつを見つめる。
私はそっと目を閉じた。
目の前には、一人の皮肉げな笑みを浮かべた男の人が立っている。
「……で、どうするよ。俺?」
彼が私に問いかけてくる。
「このまま、この世界のことを全てなかったことにすれば、俺たちは現実世界て大金持ちになって、自由気ままに暮らせるってことらしいぞ」
その男の人は両手を大袈裟に広げながら乾いた笑い顔を浮かべていた。
「……でも、もうお前の中では結論でてんだろ?」
男の人は真面目な顔をして、こちらに問いかけてきた。
私は静かにうなずく。
「そんじゃ、俺が何も言うことはねえよ。お前はばしっと、そいつを、その想いを叩きつければいいんだぜ」
そこで、男は、ぐっと、親指をたてて、私に笑いかけた。
その笑顔は作り物ではない、暖かい微笑みだった。
……私の中では、もう願いは決まっているんだ。
……そうだ。
私にはなんでも一つ願いを叶えることができる『権利』があるのだ。
「……ば、ばかなことを考えるのはやめろ」
神を自称する女の子が驚愕の視線をこちらに向けてきた。
目の前にいた男の人の姿はもうない。
「……」
私はじっと、その女の子に視線を向ける。
「お、お前、わかっているのか? もう、元の世界に戻れなくなるのだぞ。しかも元の世界とのチャネルも切れるから、記憶すら失うのだぞ! な? 考え直せ」
必死に女の子は私に翻意を促そうと訴えてくる。
それこそ、死にものぐるいだ。
「……」
私はただ黙って首をふった。
そして肺いっぱいに空気を吸い込む。
頭の中がクリアになっていく。
「や、やめろ! そ、その願いを口に出すな! 頼む、や、やめてくれぇぇぇ!」
少女は、狂ったように首をふりながら両手をこちらに向け、後ずさる。
まるで、私の存在を否定するかのように。
「やめろぉぉぉっ!」
女の子の絶叫が、空間中に響き渡る。
「……魔王様を」
そして、私はその『願い』を口に出した。
「生き返らせて!」
黒一色のその空間に、嵐のような炎の風が巻き起こる。
「ば、馬鹿がっ! ここまできて、ここまできて!」
女の子の顔が醜く歪み、炎の風と共にどこからか現れた光に包まれ、その体がひび割れていく。
「わ、私は諦めないぞ!」
その女の子の叫び声を最後に、あたり一面が、眩い光に包まれる。
そして、私は膝の上の魔王様に顔を向ける。
魔王様の瞳がピクリと動いたかと思うと、すーっと目を開けた。
「……ソニヤ」
私は微笑みながら、魔王様に万感の想いを込めて呟いた。
「好きです。魔王様」
「俺もだ、ソニヤ」
私たちはそっと唇を重ねた。
次回で完結です。
なんとか、ここまで書き上げる事が出来ました。




