操雲術
夜が明けた。
夜の道、魔獣たちは、左手の森から飛び出してきては、グリアに飛び掛かかろうとしたが、高速で動く、この奇妙な乗り物に乗るグリアに、傷一つ負わせることが出来ずに、空を切って、そのまま地面に落ちることが、ほとんどだった。もちろん中には、この乗り物に追いついてくる魔獣もいたが、追いつくことは出来ても、グリアに手足の一本を切り落とされて、行動不能にされたり、昨晩の魔獣たちに使ったような魔法で、焼かれたりして、手も足も出ずにその場に残されてしまう。
だが、グリアの表情は険しい。この乗り物で何とか逃げ切れる程度の運動能力を残した魔獣たちが多いという現状は、同時にパーリーの生存する確率を下げる要因にもなる。
おかげで、一度は休むつもりだったグリアは、途中の町も飛ばして、一睡もせずに夜通し走り続けていたが、グリアは眠気など感じてはいない。人間、本当に何かに必死なときは、眠気など感じることも出来なくなるものだ。
そして、パーリーを見つけ出すことが、今のグリアのそれに当たる事になる。
なぜ、それほどにまでして、パーリーを助けたいのか。それは、彼女がこの世界の生き残りであるからである。
二年前の種災の時、グリアの元にも救援の要請は来ていた。のだが、その時寝込んでいたグリアは、臨時で組まれた、救援の軍が壊滅し、なだれ込むように帰還、そしてゲートが閉じられた事を、全てが終わった後で聞かされたのだ。
もちろんグリアが行って、どうこうとなる事でなかったのは、確かである。だが、グリアは、まだ十代の若者だ、自分の限界など、まだ見切れていない。
今でも、自分が居れば何かが変わったのではないかと、心のどこかで思っている。
パーリーを救いたいのは、自分が居れば何かが変わり、助け出せたかもしれない人々への罪滅ぼしのつもりなのである。
ティリャが止めなかったのも、そんなグリアの気持ちを察して、今回も根回しをして、止めてしまえば、グリアは気を病んでしまうのではないか。そう思ったからこそである。
だからティリャは、今回別の方法での根回しをしていた。ティリャが、パーリーの名前を見つけたのも実は、一週間も前の話なのだが、見つけてすぐに今回の計画を思い立ち、まず国の皇太子となっている兄と話し合い、グリアの姉とも連絡を取り、計画を練った。
すでに、グリアの姉が、自らの力で動かせる数十人の兵を連れて、グリアの祖国、イマリ王国から、ナルタ王国の領土内、王都から歩いて、二時間ほどのところにある小さな町に入っている。
グリアが、朝あった憲兵もティリャと一枚かんでいる。他の若い兵士から信頼されている彼を引き込んだおかげで、ゲートを抜けても怪しまれないようにすることが出来た。
そして、準備の出来たティリャは、三日前、一つ演技をして見せた。
二人だけの秘密に見立てたのは、少しばかりの遊び心と、なぜもっと早く知らせなかったのかとグリアから言われないための保身。そして、もし、幸いにも、ティリャの心配か無駄になった時に、グリアがまた自信を持てるようになるのではないか。という期待からである。
だが、そんな事を露とも知らずにいる、グリアは、ティリャとの約束を一つすでに破っていた。特別に取れるようにしておいた、経過報告を、昨日は一度もしなかったのである。
グリアにしてみれば、そんな事をしている時間すら惜しいのは、分かるのだが。
兎にも角にも、グリアは、昨晩一度も休まずに、必死になって先を目指した。ただただ真っすぐな、石畳の広い街道を、一度も折れることなく、ひたすら進み続けた。
パーリーは、森の中を走っている。背後には、黒くて大きな影。パーリーの二人分よりも大きなそれは、大きな足音を立てて追いかけてくる。
その体は異形としか言いようがない。
体は人間、だがその大きさは半端な物ではなく、腕なんかも丸太ぐらいあって、筋肉が盛り上がっている。そして頭には牛の頭が乗っていて、昔何かの本に出てきた、ミノタウロスのような姿をしているその魔獣は、体が大きいだけあって、パーリよりもゆっくりした動きをしているのに、進むのはパーリーよりも速い。
木と木の間を縫うようにして逃げ回るのを、魔獣は木を時には大きく迂回して、そして時にその木をへし折って追いかけてくる。
「woooooo」
魔獣が叫び、思わず振り向く。魔獣が声を上げるなど聞いた事が無い。おまけにあの魔獣は、黒いオーラに覆われているから魔獣で間違いないのだが、体の状態が異常なほどに良い。
普通の魔獣の体は死体から成る物で、徐々に腐っていくものだ。例えるなら、亡者かミイラ。
だが、その魔獣はいまだに血の通った生き物と同じような状態で、目の前まで迫った時には、その体から熱も感じられた。
一体あの魔獣は何なのだろう。パーリーは、この魔獣と出会った、少し前の事を思い出した。
魔獣と出会ったのは、もう森を抜けようとしていたまさにその時だった。
木の上から、目の前に広がる平原を見渡して、さらには、雲から小さな鳥を作り、空からと自分の目で、危険が無いか確認していたその時だった。
その魔獣は、その平原にいた。
その魔獣が、北から南へ、特に何かを目指しているといった様子ではなく、ただ何となく、進んでいる。そんな風に見えた。
そんな魔獣に魔獣化した仔馬が近づいた。その魔獣から漂う生の気配に、引き付けられたのだろう。ボロボロとなった体で、這うようにして向かっていく。
やがて、その仔馬が、足元にまでたどり着き、そのまま攻撃に、というにはあまりにも貧弱なその一撃をミノタウロスの魔獣は、動じることもなく受け止め、その仔馬の体を踏みつけた。
その重い音が、こちらにまで響いてきて、ぼんやりと見ていた、パーリーは、ようやく我に返った。
一体あれは何なのだろう。パーリーの中で、恐怖心の他に、その魔獣に対する興味がわいてきた。
あの魔獣に、神様の力を使ったらどうなるだろう、ここに来る途中、森の中で魔獣を見付ける度に、力を使って倒してきた。
どの魔獣からも魂が抜けだして、空へと昇って行ったのだ。あの魔獣にだって、囚われた魂が、存在するはずである。
それを助けてあげるのだ。自分に言い聞かせて。腕を上に振り上げた。
そこからの距離は二から三百メートル程。パーリーの振り下ろした手から放たれた風は、その距離を一瞬で駆け抜け、魔獣にぶつかった。
パーリーの口元は吊り上がり、白くて所々間抜けな白い歯が見えた。心の底から、その行いを楽しんでいる。他の人間がこの状況を見れば、この少女が、何かに取り付かれているのではないかと疑い、恐怖する。そんな光景。
しかし、その表情が恐怖に変わるまでには、そう長い時間はかからなかった。
確かに、魔獣にぶつかった風は、魔獣の体に傷をつけた。少しばかりよろめきもした。けれども、それだけで、魔獣は、木の上からこちらを見る、銀色の少女を見るなり、その木に向かって猛烈な勢いで、駆けだした。
体に付いた傷はすぐに消え、元に戻ってしまっている。
パーリーは、身の危険を感じたが、動けない。
魔獣は、大きいが、パーリーの居るところまでは、さすがに届かないだろうとも思えた。
だが、その魔獣は、そのままパーリーを捕まえようとなどとは、考えていなかった。
その大きくて、重い体でパーリーのいる木に、ぶつかり、木は、その重い一撃で、悲鳴を上げながら傾き始めた。そして、パーリーも。
そのぶつかった衝撃で、木から投げ出されたが、なんとか受け身を取ったうえ、下が積もった落ち葉で柔らかかったこともあり、大したけがはないが、動くことは出来なかった。
パーリーの居た木は、パーリーの横に倒れた。ちょうどその魔獣が通れるだけの空間が、魔獣とパーリーの間に出来る。一歩一歩近づいてくる魔獣が、笑っているように見えた。
パーリーに手を伸ばした魔獣は、パーリーをどうするつもりなのだろう。他の魔獣にしていた事を思い出す。果たして、この魔獣は、パーリーを魔獣化させるのだろうか、それとも、パーリーの知らないもっと恐ろしい事が待っているのだろうか。
魔獣の大きな手が、すぐ近くに迫っている。パーリーはあきらめて、ゆっくりと目を閉じた。
二年間必死に逃げて生き延びてきたが、それも今日で終わりだ。家族はどうしているのだろう。まだどこかで生きていて、パーリーと会えるのを待っているのだろうか。
二年前に行ったあの学園が思い出される。あの大きな部屋は、パーリーの知らない少女が使うのだろう。
あの時は会えなかったが、あの学園には、何処かの国の王子がいるらしい。
その王子は、パーリーと一つしか変わらない歳の頃に、何処かで起きた種災を鎮めてしまったらしい。その中には、いろんな生き物が混ざり合った、大きな魔獣もいたという。
今この状況になって、初めてその王子のすごさが分かった気がする。一度でいいから会ってみたかった。
もう少しで、あの腕が、触れてくるだろうか、随分と時間をかけている。趣味が悪いと思った。
ついに我慢しきれず、パーリーは目を開いて、一瞬何が起きているのか分からずに目を見張った。魔獣が、こちらに背を向けて、腕をめちゃくちゃに振り回しまわしているのだ。
魔獣の向こうに、大きな二枚の羽が見えた。真っ白いそれは、鳥の物なのだが、何処か不自然に見えるそれが、パーリーの作り出した雲の鳥だと気が付くのに長い時間がかかった気がした。
鳥が魔獣の目を突いて、魔獣の右目から、血が流れた魔獣を激昂させた。ついに、その体を魔獣の腕が捕らえ、雲である体の一部が、ちぎれて消えた。
その時になって、我に返りそして、走り出した。
森の奥へ。パーリーが走り出してすぐに、鳥の甲高い鳴き声がして、それがかき消されるように消えた。
心の中で感謝しながらさらに奥へと逃げる。
どうやって探しているのか、魔獣は、姿が見えないはずのパーリーの居る方向に向かって、まっすぐに走ってくる。走っても、走っても、足音は近づいてくるばかり。それでも足を止めてなどいられない。
魔獣の気配を感じ取り、左に飛び込んだ。魔獣が、飛んで、一気に距離を詰めてきたのだ。飛んだ勢いをそのままに振り下ろされた魔獣の腕をパーリーは、避けたのだ。
魔獣に、今の反動で、少しの間が出来て、前転で勢いを殺したパーリーは、そのまま振り返らずに元来た方へ走る。
なんとしてでも、あの魔獣から逃げ延びよう。
自分が作り出した雲の鳥だが、それでも生み出された時点で、そこに心が、感情が生まれる。操雲術を教えてくれた母が、いつも言っていた事だ。
そして、あの鳥には確かに感情があった。声は無かったけど、その鳴き声はパーリーの耳に残っている。
甲高い鳴き声で威嚇し、消える時にも悲鳴のような物が聞こえた。
背後の足音がまた近くまで迫ってきた。右へ左へ、もう、どこにいて、どこへ向かっているのかなど関係ない。もういっそ、このまま森の反対側、大陸の西海岸まで逃げてしまおうか。
海に逃げてしまえば、さすがにあの魔獣も追いかけては来られないだろう。もっとも、もう今自分がどこにいるのかなど、パーリーには分かっていないが、とにかく、自分に通れて、魔獣には通れない木々の間をなるべく選んで通る。魔獣は、その度に大回りをしなければならず、後少しのところまで、迫るのだが、パーリーには手が届かない。
メキメキと木の倒れる音がする。最初こそ驚いて振り向いてしまったが、もう気にも留めない。森の中の雑音の一つとしか、感じられなくなっていた。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。パーリーは、今まで見た木の中でも、比較的大きな木の下で足を止めた。
走っているときに何かに軽くかかったのを感じたのだ。足元を見ると、そこにロープが、パーリーを取り囲むように大きな円を描いている。
思い当たるものがあって、木の幹に目を向けた。分かりやすく同じぐらいの太さのロープが下がっている。
駆け寄って、ロープを手に持った頃、少し差が開いていた魔獣が、この木の元、開けた空間に飛び込んでくる。そこで背をこちらに向け、静かに佇むパーリーを見て、ようやくあきらめたと思ったのか、獰猛な笑みを浮かべて、今までよりもゆっくりとした足取りで、パーリーへと向かう。
だが、パーリーには、足音で、魔獣がどの位置に居るのか分かった。
魔獣は、円の中に足を踏み入れる。
そこで、思いっきりロープを引く、上の方で滑車が何個もカラカラと回る音が聞こえて、魔獣は、その場で、何事かと見上げる。その視界にロープが入るまでには、少しの間があったが、油断していた魔獣には、十分な間だった。
引っ張ったロープを木の幹に巻き付け、走ってその場を離れた。
予想が正しければ、あれはかなり古いものだ。父が、趣味の狩りでここまで来ていたことは知っている。その時に仕掛けた罠のいくつかが分からなくなってしまったと言っていたのだ。
あの罠は、一緒に仕掛けた時の物とよく似ている。その頃から木登りが得意だったパーリーは、木の上に滑車を取り付けるのを手伝ったのを覚えていた。
さっきの罠も滑車の音がしたし、多分間違いはないだろう。
あとどれくらい持つだろうか、あの魔獣なら、今にもあのロープを引きちぎって、追いかけてきそうだ。
パーリーはいつの間にか魔獣によって木が倒されて出来た道を、森の外へ向けて走っていた。それがただ走りやすい所を本能的に選んでいたのか。それとも外の世界へ出ることを諦められないからなのかパーリーには分からない。
どちらにせよ、こちらに逃げるのが最善だと思ったそれだけだった。
どれぐらい走っただろう、背後であの魔獣の咆哮が聞こえた。網を破られたのだろうか。
その疑問は、すぐに確信に変わった。大きな足音が、こちらに迫って来ている。その音は、さっきよりも激しくこちらまで聞こえて来ている。
走っている先に、平原が見えた。外へ飛び出して、後ろを振り返り、森の奥から、こちらを目指して走ってくる、魔獣の姿を視界にとらえ、直ぐに外して、パーリーは、空を見上げて、浮かんでいる雲を見た。
いつもみたいに、雲の形を変えている暇はない。だが、もともと操雲術は、空に浮かぶ雲その物の形から、想像力を働かせて、何かに変える。そんな技なのだと母は言っていた。
大きくて長い雲、その端が、二つに割れていて口のようにも見えた。近くが盛り上がっていて、そこが目だとして。
「うん、貴方は龍よ」
その雲を指してその雲が何になるのかを決めて、胸に手を当てて、静かにその雲が、龍として動くところを想像すると、その雲はそれにこたえるが如く、動き出した。とぐろを巻き、こちらを見下ろしている。
森を見た、もう一体ぐらい作る時間がありそうだ。
もう一つ見つけていた雲を見て、もう一度胸に集中して、心臓のから伝わる脈を感じる。ふと、この動作が、風の力を使う時と似ていると思ったが、すぐに頭から消して、集中しなおした。
丸い雲から、二本の角が伸びている雲。一見ウサギのようにも見えるそれだが、ウサギでは頼りない。あの角をもっと恐ろしい、別の物に想像する。例えば、鳥が羽ばたいているところ。
そう言えば、左端が少しとがっている。あれが嘴だとして、少し左に傾いていて、右に吹く風になびく雲は、獲物に一直線に向かう猛禽類のようだ。
「分かった、貴方は鷹なのね」
パーリーが言うと、龍と同じぐらいの大きな雲が、そうだとばかりに羽ばたいて見せる。
「woooooo」
森を抜けて、怒り狂った魔獣が、こちらに向かって吠えた。
「やっちゃえ」
雲を指さしていたその手を、魔獣に向けると、すぐそこまで迫っていた魔獣に、初めに横から龍がぶつかれば、巨大なそれが、地面からわずかな高さを飛んだことで、砂ぼこりが舞い、魔獣が見えなくなる。そこへ鷹が飛び込んだ。
「こ、これなら」胸に痛みが走り、パーリーは胸を抑えた。心臓の音が、いつもよりも早く伝わってくる。乾いた地面が、割れているように、自分の心臓が、割れているのではないかと、思ってしまうほど、激しい痛みが、パーリーを襲う。
だが、晴れてきた砂ぼこりの中に、それは居た。まるで何ともないかのようにその場に立ち、パーリーを見据えている。
それでも、パーリーは諦めない。空に昇っている二体に再び目の前の魔獣を攻撃するように、念じる。それが限界だった。
胸の痛みがより激しくなり、雲で作った、二体も保つことが出来なくなる。風で塵が飛ぶのかの如く、雲はかき消され、その場に仁王立ちする、魔獣だけが残った。
パーリーは、その場にうずくまった。
今日、何度目だろうか、目の前に魔獣がいる。その片目はつぶれ、体には、無数の傷が付いている。
ブーンと、虫の羽音が聞こえる。目の前の魔獣は、パーリーに向けて手を伸ばしているが、もうパーリーに何かをする気力は残っていない。胸はまだ痛んで、もしかしたら、魔獣にやられる時よりも痛いかもしれない。
そう考えると、少し楽になった。
もう、しゃがんでいるのも疲れたパーリーは、その場に横になろうとする。
少しチクチクするが、柔らかい草の上で、最後は終わろう。そう思った。