3、奇襲
おれが呟くと、座敷襖子がむくりと炬燵の中から顔を覗かせた。
「は、はしもとさん……ですか?」
眼に涙を溜めて怯える彼女を前に、おれも思わず固唾を呑む。
ごくりと喉が鬱陶しいほど音を立て、さながら早鐘のように心臓が脈打つ。
橋本さん。通称、鬼。
齢52の婦人でありながら、一見して30代半ばに見紛う若き容姿を保ち続けている、この界隈で名高い妖怪である。
彼女の出没頻度はそれほど高くは無いが、月末が多い。どこにでもあるごく普通の服を着て、その上からクリーム色のエプロンを羽織り、左手の薬指には指輪をはめている。つまるところ、夫が居る。
そんな家庭を持つ身でありながら、鬼は月末になるとよくこのアパートを訪れて
「金寄越せ金寄越せ」
と自前のフライパンで脅迫してくる。
「その、誰なんですか、そのはしもとさんとは……?」
あまりのおれの怯えように、迷子のような顔で座敷襖子が言う。
おれは答える。
「大家だ」
そう、橋本さんは、この木造アパート〈ブリッジブック〉の大家である。
月末になると、家賃未払いのか弱い雛鳥たちを「金寄越せ金寄越せ」とダイヤモンドコーティングが成されているとかいうフライパンで脅迫せしめる、実に全うな大家である。
だが、今月の家賃未払いのおれにとって、橋本さんはさながら悪魔。
〈正義の反対はまた別の正義〉とは、実によく言ったものだ。
おれの恣意的な正義と橋本さんの合理的な正義はどちらも正しく、どちらも交わることは永遠にない。
「大家さん、ですか?」
と可愛らしく小首を傾げる座敷襖子に構っている余裕はない。
因みに今は金は無い。
強いておれが持ち合わせている財産があるとすれば、橋本さんから頂いたダイヤモンドコーティングが成されているとかいうフライパンぐらいだ。
……どうする、どうすればいい?
逡巡してる間にも、扉は強烈にノックされる。
ドンドンと普段に況して、勢いのあるそのノックの威力は留まることを知らず。
まだ築5年の〈ブリッジブック〉。郊外であるにもかかわらず、家賃7万円もするこの建物は非常に堅固だ。にも拘らず、今、その建物全体が揺れている。
……こいつはいつもの数倍激しい。もしかすると、昨晩夫婦喧嘩でもしていたのかもしれんな。
呑気に考察していると、ノックの音が止む。
「……お、お、お終わりましたね」
と、座敷襖子がホッと一息ついたのも束の間。
―――ズガンっ!―――とひと際大きな音を立てて、おれの顔面数センチの所を何かが通り過ぎていった。
ひゅんと耳元で風が鳴り、木材の匂いが鼻先をかすめたその直後。発情期の猫の鳴き声のような音が周囲一帯に鳴り響き、実に呆気なく、ベランダへ続くガラス窓が割れていた。
「「……え?」」
可及的に進む破壊活動を前にして座敷襖子と顔を見合わせるも、問題が解決するはずも無く。
ふと寒風に身を竦め、玄関を見やると、あろうことか、我が家の玄関扉が無くなっているではないか。
「ちょ! ちょっと橋本さん! 何もここまでやらなくてもいいじゃないですか? どうするんですか? まだ冬なのに寒いじゃないですか! ……まさか此れの修繕費っておれに催促されるんですか? それは困りますよ!」
時刻はまた正午。
逆光に隠れる玄関口は視界が不明瞭ではあるが、刻一刻と黒い影が近づいてきている。おそらく、あれが鬼。橋本さんだと思い、声をかけるも反応が無い。
おいおい、まさかこんなに怒っているなんて聴いたないぞ?
なんだよ、昨晩橋本家では離婚話でも出たのかよ。
「あの、橋本さん……?」
返事さえしない橋本さん。恐る恐る読んでみても、
ぐるる……。
低く唸るのみ。その重低音はさながら獣。獲物を見つけた狩人のような殺気を纏って近づいて来る。
「うぇっ……! うぅ……ど、どうしましょう歩さん! 橋本さんがこんなに怖い人なんて! 人間界の大家さんは皆こんな感じなんですか? おいら怖いですよ! 心なしかこの部屋のZASHIKI THE WAVEが薄まっている気がします!」
もはや泣きだしてしまった座敷襖子が背後からしがみついて来る。
背中に女性特有の柔らかな感触を感じるが、毎度違わず、今はそんなことはどうでもいい。
……まずい、これは本気でまずい。
今迄家賃を滞納してしまったことは幾度かあったが、それでも橋本さんはフライパンで脅迫してくる程度だった。
前日にご主人と夫婦喧嘩をしていた時はまさに借金取り然とし、雛鳥を食らう熊の如く攻撃的な日もあったが、それでも此処まで乱暴狼藉を働いたことは一度もない。
「は、橋本さん、家賃は、払いますから……一先ず、落ち着きましょう。……あ、でもすいません、修繕費は払えません」
激情している人に対して高圧的に接することは不適切である。火に油を注ぐ結果になってしまうとは良く聴く。おれは冷静に努めて申しでたが、それでも橋本さんは止まってくれない。
ずごずごと乱雑に畳敷きを踏みしめて「ぐるる……」と腹の底から喉を鳴らし、いよいよおれたちの前に姿を現した。
「「……」」
そしておれは、橋本さんの姿を見て、想わす絶句した。
逆光から正体を現したその影。
其処にいたのは、頭を牛、胴体を鬼とする、まさに化け物であった。
いや鬼の体など、おれは厳密には見たことはないのだけれど、赤黒い身体に浮き出る太く、濃い、紐のような血管と、隆々と膨れる筋肉は異形の一言。
上背2メートルには及ぶその体躯は紛れもなく〈鬼〉のそれだった。
「……は、はしもと、さん……」
……おいおい、何時の間に、橋本さんは本物の鬼になっちまったんだ。ついこの間見た時は、まだいつも通りの鬼の気配を漂わせる人間だったのに。これではただの鬼だ。……これはおれのせいなのか? おれが家賃を払わないから橋本さんは鬼になってしまったのか?
訳の分からぬ後悔と自責の念に苦悩をしている間にも、橋本さんはずごずごと此方に歩み寄って来る。
よく見ると、おれの大腿と同等の太さがある右腕には、その瞳と同じようにどす黒い棍棒が握られていた。
此れはいかん。一先ずこれはいかん。
「は、橋本さん、落ち着いてください」
「いつまで勘違いしてんですか?! おいらその方のことを見たことないですけど、これ絶対に橋本さんじゃないですよね?! と言うか此れが橋本さんに見えるって、歩さんは橋本さんのことを一体何だとおもっているんですか?!」
「な、なに?」
橋本さんじゃない、だと……?
改めて鬼を見る。
そう、鬼だ。つまり、橋本さんだ。
…………………………………………………………………………………………………………いや違う。おれの知る橋本さんは、仮にも鬼のような人間だ。だが、今目の前にいるのは橋本さんじゃない。――――鬼だ。
「……ふぅ」
実に不思議なもので、眼前の存在が、大家でないと分かると途端に緊張が緩む。
―――が、その瞬間。
目前まで来ていた橋本さ……いや、鬼は不意に右腕を大きく振りかぶると、目にも留まらぬ速さで巨大なこん棒を振り下ろした。
ぶわんと顔に空気圧がかかり、束の間五感が鈍る。だが猛烈な破壊音を立てて崩れたアパートの地面と、それに突き刺さる黒い突起物を見て、己の生命の危機を再認する。
「「……え」」
まじか。まじなのか。
生まれてこの方22年。おれを生んですぐ母が死に。小学生の頃に父が死に。それ以降、魑魅魍魎の如き祖父母に育てられてきた。だが、ここまで己の死を身近に感じることはなかった。
先とは比較にならないほど心臓が警告する。
ドクドクと爆ぜるように胸が高鳴り、妙な汗が額を伝る。
「「……」」
おれも座敷襖子も声すら出せず。
改めて眼前の巨体に目を付けると、その分厚い胸板の一部がわずかに光っていることに気が付いた。どうやら何かの文字になっているらしい。赤黒い体表に似合わず小さく、されど克明に刻まれたその文字群。
「あ!」
先に気が付いたのは座敷だった。
「あ、あの、あれ! おいら見たことがあります! あの、鬼の胸の奴、〈SDD〉って書いてある奴! あれが、シンデンヅクリの紋章です! ――――だから、この橋本さ……じゃなくて、この鬼が現れてからZASHIKI THE WAVEが減少している気がしたんですよぉ!」
おれを背後から締め上げながらの大声。
少し耳に手厳しいが、なるほどようやくこの化け物の正体がわかった。
言われてみると、確かに輝く文字は〈SDD〉に輝いている。……って、SDDの奴らはどれだけ自分たちのことが好きなんだよ。わざわざこんな分かりやすい箇所に襲撃の証拠を残すとは。……いや、それとも任務を完璧に遂行する自信があるのか。
差し当たっての任務は、この一室のZASHIKI THE WAVEを喰うことにあるのだろう。
如何なる手段を使うのかは分からないが、此れ以上暴れられ、部屋を破壊されでもしたら、もう一匹の鬼(橋本さん)が覚醒することになる。
それは困る。…………本気で困る。
そんなことを考えていると、
―――VooooOOOO!!―――
鬼が吠えた。その声は、もはや音の塊となって全身を刺激する。
……やばい。死ぬ。
切実に。ただ切実に、そう思った。
走馬灯なんて流れない。最後に愛しき誰かを思う様な事もなく、況してやそんな誰かに言葉を残すなんてありえなかった。
ただ淡々と「死ぬ」と思った。極あっさりと、生きることを諦めた。いっそのこと、もう死んでもいいかもしれないと、そうも思った。
―――が、その時不意に、おれの腹部に回った座敷襖子の腕の力がぎゅっと強くなった
自分の震えだと思っていたそれは、どうやら彼女のものであったらしい。
……なんだ。色々言いながらも怖かったのか。不安だったのか。
ついさっきまでの自分の態度が、どうしようもなく不甲斐なくなる。
何をやってたんだよおれは……。最初から、それこそ急に押入れから出て来た時から、こいつはずっと助けをもとめていたじゃないか。
背中には、じんわり彼女の涙の感触が伝わって来る。小刻みに、細く震える彼女の腕。
それをじっと見ていると、ふと、昔、父がおれに言った言葉を思い出した。