泣いちゃうから
俺は由利の尻にしかれている。別に彼女が凄く横暴ってわけでも我侭ってわけでもなく、どちらかと言えば男をたてるタイプだとは思っているが、彼女は一本芯が通っているのだ。
俺の言葉にいつだって真正面から向き合い、由利の中の正義に従ってぶれない答えを返してくれる。俺は彼女のそんな高潔なところに心底惚れていて、抗う気すら起きない。
まぁそんな俺達でも極たまに喧嘩する。些細な小競り合いが殆どで喧嘩と呼べるのかどうかも怪しいけど、今回はほんとのほんとに喧嘩だ。それも大喧嘩。
「何それ」
由利は指先が真っ白になるほど強く拳を握り締め、俺を睨みつける。
「私が祐介君以外に靡くなんて、本気でそんなこと思ってるの?」
「んなこと言ってねーだろ!俺はお前が心配なんだよ!」
「心配なら何してもいいの?私達、恋人同士だけどそれでもやっていいことと悪いことがあるよ」
「だから!俺は由利を守りたかっただけなんだって!
それってそんなにいけないことかよ」
「私を心配してくれるのは嬉しい。でもそうやって私を決めつけて勝手に先回りして行動してそしたら私の気持ちは?自由は?
彼女だからって、心配だからって、管理下に置いていいわけじゃない!」
「管理下に置いたことなんて一度もないだろ!俺はいつだって由利がしたいこと応援してたじゃねーか!
それに俺がこうしてほしいって言って、聞いてくれたことが一度でもあったのかよ。お前ってさ俺のために自分を曲げてくれたことないよな。所詮由利にとって俺はその程度の存在なんだろ」
言い過ぎたと反射的に後悔した。お互いに怒りを抑えきれなくて言わなくてもいいことまで相手にぶつけたけど、今のは流石に言い過ぎた。だって今まで憤怒の形相で俺を睨みつけていた由利の瞳から怒りが消え、見る見るうちにその瞳が涙でいっぱいになったから。
そんな、と小さく、けれど絶望を凝縮したような声で彼女が呟いた。それと同時に溜まっていた涙がぼたぼたっと流れ出てカーペットに丸いシミを作る。
「あ、ゆ、由利…?」
無言で涙を流す彼女にそっと手を伸ばせば勢い良く払われる。そんな態度を取られれば一瞬鎮火しかけた俺の怒りもまた再燃して、勝手にしろ!と怒鳴ってしまった。
愛用のソファに荒々しく座って見てもいないテレビに無理矢理視線を持っていく。横では未だ泣いている由利がのろのろと自分の荷物をまとめ始めた。
今日は大学に入学してから初めてのお泊まりデートだったのに。俺の家に大きなボストンバッグを持って来た由利はちょっと緊張していて、それが最高に可愛かったから思わず玄関で抱きしめた。これから幸せな時間が続くことを俺も由利も確信していた筈だ。それなのに由利は泣きながらボストンバッグの口を閉めてして、俺は仏頂面でつまらないバラエティの再放送を見ている。
俺の家を出る直前、由利がこちらを振り返った。うさぎみたいに真っ赤な目でじっと俺を見つめて、でも俺はそんな彼女に視線すら合わせてやらなくて、そしたら悲しげに目を伏せて今度こそ出ていった。
俺と由利は高3になってから付き合い出した。由利は真面目な優等生で、俺はちゃらい問題児。当然学力には大きな差があって、勿論志望校も全く違っていた。しかし俺は何とか由利と同じ大学に合格した。それというのもひとえに俺の猛勉強の賜物だ。
わざわざ私の志望校に合わせなくていいんだよ。と何度も由利には言われたが、まだ付き合って日の浅い彼女と遠恋なんてしたくなかったし、特に目標もなく何となく大学に進学する俺としてはより偏差値が高い学校に行くことは決して悪いことではない。親も先生も突然の俺の変わりように驚きはしたものの、みんな応援してくれたし。
そうやって何とか勝ち取った由利とのキャンパスライフ。由利とは学部が違ったからせめてサークルだけでも同じところに入りたかったんだが、そんな儚い夢はあっさりと可愛い彼女によって打ち砕かれた。
「え、サークル?私合気道部に入ろうと思ってるんだ」
彼女曰く同じ学部の先輩に誘われて練習を一度見に行ったところ、とても楽しそうだったそうだ。更に身につければ実生活でも役に立つかもしれないところが尚良いらしい。
俺としては一緒にイチャイチャしながら色んなサークルを見て回ったりしたかったんだが、何とか気を取り直して俺もそこに入ろうかなと言った。
「え?駄目だよ。祐介君、まだサークル見てないでしょ?
4年間のことなんだから、しっかり色々見てきちんと決めて?私は私のせいで祐介君に後悔してほしくないの」
大きな瞳でそんなこと言われちゃはいとしか言えない。由利が俺の事思って言ってくれてるってわかるから尚更だ。
でも、俺はやっぱり由利と一緒にいることが一番大事なんだよな。
だから由利の手前他のサークルもちょいちょい顔を出しつつ、合気道部に入ることを決めていた俺は大学でできた友人に何の気なしにそう話した。途端に微妙な表情を浮かべる友人に問いただせば、彼曰く合気道部はあまり良い噂を聞かないらしい。
真面目に練習をしているのは女の子が見学に来るときだけで、その実体はただの飲みサー。数年前には急性アルコール中毒を起こしかけた奴もいたとか。
「どうしてそんなに詳しいんだよ」
「俺の兄貴の友達が、そのアル中起こしかけた奴だから」
大変信憑性の高い情報を得て、これは何としてでも由利の入部を止めなくてはならないと俺は密かに決意した。
それが由利が泊まりに来る前日の話。
そして当日。可愛い彼女を出迎えてまったり過ごしていると由利の携帯が鳴り出した。ディスプレイを見れば『合気道 先輩』の文字。
ちょうどトイレに立って不在だった由利の代わりに出れば、第一声から軽そうな声。他のサークルに入ることになったからそちらには入れなくなったと簡潔に伝えて電話を切った。よし、これで由利を魔の手から守れた。
「何、してるの?」
ホクホクしていた俺を現実に引き戻したのは信じられらないものをみるような目つきでこっちを見てる由利だった。
「私の、携帯勝手に出たの?」
「あぁ、でも「合気道部、どうして勝手に断ったりしたの?」
「あそこは駄目なんだよ。由利には合わないサークルなんだ」
「合わない…?何それ」
「あそこは真面目なサークルじゃないから、由利みたいな子が入ったらあっという間に食われちまうんだって」
そして冒頭のやりとりに戻る。
俺も由利も喧嘩なんてしたことなかったからお互いに引き際が分かんなくて、結局由利は出ていってしまった。
思い返せば俺も色々悪かった。勝手に携帯出たし、勝手に入部を断ったし、思ってもいないことまで言い過ぎたし。
「…謝るか」
あんな風に泣いてる由利は初めて見た。それくらい俺の言葉と行動に傷ついたんだろう。
携帯と財布だけ持って立ち上がる。由利は家に帰っただろうか。時計を見ればちょうど16時を指していて、由利が出ていってから既に4時間が経過していた。あんなに悲壮感漂わせて途中で知らない男にでもナンパされてないだろうか。不安に駆られながら由利の携帯に電話をかけつつドアを開ける。
「…え?」
家の外、ドアの横には小さく丸まって座っている由利がいた。
余程寒かったのかココアを差し出せば大人しく口をつけた。春といっても外はまだ寒い。そんななか4時間も外にいれば冷えるのも当たり前だ。先ほど家に入れるときに触れた身体は随分と冷たかった。
「…悪かった」
出ていったものの俺が追っかけてくれるのを外でじっと待っていた彼女の気持ちを考えると胸が痛んだ。俺が出ていくまでの数時間、一体どんな気持ちであそこに座ってたんだろう。
「ごめんな。ほんとに今回は俺が悪かった」
由利の頭をそっと撫でれば、じっとマグカップを見つめていた真っ赤な瞳からまた大量に涙がこぼれ出した。
「えっ、ちょっ、由利!?」
ぎょっとして思わず手を離せば、逆に由利が胸に飛び込んできて慌てて受け止める。
「わたっ、私、こそ、ごめんなさい」
泣きじゃくりながら必死に謝る由利。いつもは冷静な彼女がまるで子供みたいに泣いている。
「由利…」
「おねが、お願い。嫌いに、ならないでぇ」
俺の首に腕を回して懇願する様子に、ただただ愛しさで胸がいっぱいになった。
人にも自分にも厳しい彼女は他人に弱みをみせずに生きてきたんだろう。勿論そうして形成された原田由利は何一つ偽りなどない彼女なんだろうが、この甘えたな子供っぽい彼女こそが弱い部分としていつしか姿を隠してしまった原田由利の本質なんだろう。
弱さを隠す余裕さえなく必死に俺を求める彼女が可愛くなかったら、一体この世の何を可愛いと言えばいいのか。そのくらい今俺にすがりついてる由利は可愛い。
「嫌いになんてならないよ。俺って由利にすげー惚れてんだから」
「ほん、と?」
変な泣きグセがついてしまったんだろう、ひくひくとしゃくりあげながらたどたどしく言葉を紡ぐ彼女の目尻にそっとキスを落とす。
「さっきは喧嘩したけど、どんなに喧嘩したって俺は由利のこと嫌いになれねーから。由利だって俺の事大好きだろ?」
「うん、好き。ゆう、すけ、君が好き」
そう言ってやっと由利は微笑んだ。
『さっきはみっともないとこ見せてしまってごめんなさい。
合気道部はあの後悪い噂を聞いて辞めるつもりでした。でも祐介君に勝手に決めつけられて、少し意固地になりました。ごめんなさい』
せっかく仲直りしたにも関わらず、由利は一定の距離をとって伝えたいことは全てメールで送ってくる。というのも泣きグセが止まらなくて、今口を開いたらまた号泣するからだそうだ。後優しくされても泣いちゃうから暫く近づいてほしくないらしい。
俺としては別にいいのにというのが正直な所だけど、泣きすぎて辛いと言われてしまえば従うしかない。
『ほんとはね、同じ大学入ってくれて凄く嬉しかったです。
それからサークルも同じとこ入りたいです。高校より一緒にいられる時間が減って寂しかったから』
新しく来たメッセージに顔が熱くなるのが自分でもわかる。こんなん速攻保護するしかない。由利を見れば彼女の頬も真っ赤だ。
「好きだよ」
どうしてもこれだけは言葉にして伝えたくてそう言えば、また彼女の瞳から涙がこぼれた。
『ところでいつまでこのままなんでしょうか?』
「………」
『俺としてはいい加減由利とイチャイチャしたいんだけど』
『あと5時間ぐらいは泣いちゃうから駄目』
「そんなに!?」