第二六話
……結ちゃんはいないよね? もうすぐHRも始まるし、教室にいるはずだ。そうに違いない。そう思おう。
だいたい、新入生が二年の教室の前を歩いて居れば目立つはずだ。今のところそんな様子はない。
レン兄は朝のSHR前に職員会議があるため、職員室に戻ってしまい、誰もいない生徒指導室にいるのは流石に遠慮したかった私は周囲を警戒しながら教室へと向かった。
周囲を見回して歩く私の姿は事情の知らない人間から見れば怪しいだろう。
廊下ですれ違った生徒達に可哀そうな人を見るような優しい目をされたが、あいつらにはわからないだろう。
同性に純潔を狙われている乙女の気持ちなど、実際、私だって自分の身に危険が迫らなければ同じことをするだろうからね。
始業時間も近づいてきたせいか、廊下は生徒達で溢れかえっており、身を隠して進むに頃合いだろう。
しかし、結ちゃんに見つかった時に逃げ切れないと言うリスクもある。
周囲の気配を探るが目立った騒ぎはなさそうだ。
一気に駆け抜けてしまおう。
結ちゃんの禍々しい気配は感じられないため、私は胸をなで下ろすがまだ気を抜くわけにはいかない。
私自身、運動神経は悪くない。確かに結ちゃんの勢いは恐怖だけど、スタートダッシュで負けなければ逃げ切れるはず。
強行突破を決めると大きく深呼吸をして気合を入れる。
良し、行こう……見つかった? 不味い。乙女のピンチだ。
……どうして、こういう時にヒーローはいないんだろう?
ここで颯爽と私を守ってくれる男の子がいたら、確実に惚れるのに。
教室までの人の流れを確認してルートを決定する。
そして、駆けだそうとした時、私の肩を叩く手があり、その手はがっちりと私の肩をつかんだ。
その瞬間に一気に血の気が引いて行く。
口の中の水分は一気になくなり、妙にのどが渇き、わずかな水分を確保しようと口の中の唾を飲み込んだ。
ゴクリと言う音とともに心臓が大きく脈打つ。
逃げるしかない。
この手を振りほどき、一気に駆け抜けよう。
「深月お姉さま、おはよう」
あれ? ……菫の声、よ、良かった。助かった。
全力で逃げようと覚悟した時、背後から菫の声が聞こえる。
それと同時に私は一気に緊張の糸が緩み、膝から崩れ落ちそうになる。
「何やっているのよ?」
「……心臓に悪いから、止めて。だいたい、その呼び方は何なの? ボクには弟はいるけど妹などいない」
私の身体は菫に支えられており、彼女は私を見てため息を吐く。
その顔は文句を言いたげだが、文句を言いたいのは私の方だ。
力が入らない足で廊下を踏みしめると菫の胸ぐらをつかむ。
お姉さまなんて、冗談じゃない。
私は弟二人で充分だ。
仮にお姉さまと言われるなら、あの二人の彼女以外には考えられない。
「私もあんたみたいな。姉はいないよ。呼び方は一昨日、咲耶からメールが来たからね。あんたと咲耶の従妹の事は聞いているよ」
「そうだった……お願いだから、その呼び方は止めて、心臓に悪いから」
私の様子に苦笑いを浮かべる菫。
彼女の言葉で憎き咲耶の顔を思い出し、舌打ちをする。
この恐怖を考えるとあれくらいでは物足りないな。また、奢らせてやる。
「あ、咲耶から従妹の子もフェリチータでバイトする事になったらしいよ」
……あの野郎、しっかりと手を打ってやがるか。
これではフェリチータに近づけないじゃないか、忌々しい。
せっかく、奢らせようと思ったのに。咲耶の奢りで全メニューを制覇しようと企んでいるのに、結ちゃんがいるとうかうかとフェリチータに顔を出す事も出来ない。
私が再度、咲耶に痛みを伴って貰おうと考えていたのだがすでに咲耶は防御策を講じており、咲耶が私を嘲笑っている顔を思い浮かべて舌打ちをする。
「舌打ちしない。それより、教室行くよ。遅刻したくないでしょ」
「そうだね……この怒りは葵の巨乳にぶつけよう。この傷を癒すのは母性の象徴でしか癒せない」
「あんた、そんな事を言っているとまた、久島先生にしばかれるよ。後、咲耶の従妹……」
「結ちゃんだよ」
「結ちゃんが葵を襲っているあんたを見たら、完全にそっち側だと思われて飛びかかってくるよ。それでも良いの?」
生徒達はSHR前に教室に入って行き、廊下には生徒がいなくなっている。
菫と一緒に教室にまで歩くなか、私は癒しを葵の巨乳に求めるが菫の冷静な声で我に返った。
……そうだ。葵の巨乳は揉みたいが、レン兄のお説教は怖い。
それに結ちゃんにその姿を見られたら私は完全に終わる。
何度も言うが私はドノーマルだ。
百合っ気などあってたまるものか。
「とりあえず、その結ちゃんって言う娘と明斗は同じクラスなんでしょ。学校内なら安全でしょ」
「そう思いたいけど、明斗だって、一日中、女の子を見張っているわけにはいかないでしょ。それじゃ、ストーカーと変わらないでしょ」
「……大丈夫よ。あんた達は似た姉弟だから」
明斗とは言え、結ちゃんを止め切るのは難しいだろう。
セクハラだなんだと言う騒ぎになってはいけない。
結ちゃんは男の子に偏見があるみたいだから、何かあると明斗が停学処分になりかねない。
いくら、レン兄が状況を理解してくれようとも性犯罪はダメだ
困った。手詰まりだ。
流石に明斗の平和を脅かせる事は避けたい……
ん? 今、菫がおかしな事を言った気がする。
「菫、今、なんて言ったの?」
「別に気にしなくて良いよ。それより、早く行くよ」
聞き逃した言葉を確認しようとするが、菫はため息を吐いており、呆れ顔だ。
なんか、納得がいかないぞ……葵のほどではないが菫も私よりは確実にある。
これで一先ず、我慢しておくか?
呆れ顔の菫の顔から視線を落として、彼女の胸を確認する。
自分の胸が狙われているとは思ってもいない菫は私の前を歩き出し、私は彼女の背後に回ると両手を彼女の胸に伸ばす。
殺気!?
「弓永さん、葉山さん、俺より遅く教室に入ると遅刻になりますよ」
その時、私の背後に冷たい気配を感じる。
硬直した私の背後からレン兄の淡々とした声が聞こえ、私と菫は慌てて教室の中に入り、席に着く。
「みなさん、席に着いてください。HRを始めますよ」
……やっぱり、レン兄の気配は読めないね。