ミーミル―水の約束―
人間にとって必要不可欠な【水】からみた人間と、【人間】の中のある意味愚直な少年との出会いは何を変えるのか、そんな気持ちで書いてみました。
水の世界。水で包まれた私の生きる世界。
静寂。此処は静かだ。光も差さなければ他に生きるモノもない。ただ静謐だけがある。
閉ざされた世界で一体どれだけの月日を数えただろう。
喪ったに等しい名前は『ミーミル』だったと思う。
誰に呼ばれることもなく、自分で呼ぶこともなく。時折こうして思い起こさなければたぶん時の中に消えていく名前だ。
水の精霊としてこの世界に座して私が見てきたもの。
本来であれば生命を生み出す水を殺戮の道具に使い、清流を穢す。
暴虐な行いを繰り返しながらいざ旱魃となれば人々は乞うのだ、慈雨を、恵みの水を、と。
私はそんな人間の身勝手さに嫌気が差してこの世界に逃げ込んだ。
水をどれ程疎んでも私は水に縛られている。
かつて水乞いのために捧げられた人間の少女。
それが私だからだ。その時の名前はもう覚えていない。
天上の者たちが私を哀れんで精霊として生きられるようにしてくれたけれど。
死して尚、人間のエゴに縛られるのならば。
いっそ跡形もなく消えてしまっていた方が幸せだったのかもしれない。
重い鎖は水の中では煩わしいだけ。
これは戒めだ。水から自分の意思で抜け出すことが出来ない象徴だ。
誰かが呼ばなければ私は水から抜け出すことが出来ず、外に焦がれながら人間の手を借りることを臨まない私は、結局何処へも行くことができずに此処で悠久の時を過ごすのだろう。今までそうだったように。
『――……』
何かの声がする。契約を求めるものの声だろうか。呼ばれなくなって久しい私は、まだ忘れられていなかったのか。
いっそ忘れてくれれば良いのに。
『……――……』
呼び声がする。私は耳を塞ぐ。
呼ばないで、呼ばないで。
人の言いなりになって人を傷つけるのも。
傷つけるために水を使ったことを忘れて恵みを乞われるのも、もう嫌。
意思に反して身体は浮上していく。
鎖が切れる。あぁ、契約が結ばれてしまった。
「貴女が、ミーミル?」
「……何故、呼んだの?」
呼ばれることなど望みはしなかった。
ただあの暗く水だけが存在する世界でいつか朽ちていくことができればそれでよかった。
たとえ精霊が不死に近いとしても死を思うことだけは自由だろうから。
「水の恩恵を忘れて殺戮の道具とし、水を穢し、そのくせ旱魃になれば水を乞う。たとえ精霊の役目が貴方達魔法使いに従うことでも、私は従ったりしない!」
私を呼び出した少年は少し困ったように頬をかいた。
「僕は、ただ……精霊に会ってみたかった。そして自己満足でも、謝りたかった」
「……謝る?」
「貴女の言うとおり僕たちは水を殺人のために使い、水を穢し、自分たちが乾けば手の平を返して慈悲を乞う。だから、そんな人たちに代わって謝りたかった」
「どうして貴方が代わりに誤るの。代わりの謝罪なんて意味がないわ」
「うん。だから自己満足。謝罪を受け入れてもらえなくても、ずっとずっと謝りたかった」
どうしてそこまで謝りたいと思ったんだろう。
私は契約者の前にしか姿を現すことが出来ない。
そして随分長い間私と契約しようとするものはいなかった。
水の加護を受けるならウンディーネと契約するほうが早いし確実だからだ。
ウンディーネたちは種族として生息しているから私のような個の存在と違って水を媒介にすれば何処ででも呼び出し、比較的簡単に使役することが出来る。
私を呼び出す場合は私がいる場所……つまり此処を探し出して契約の魔法を唱え、私が応じるか屈服させなくてはいけない。
目の前の気の弱そうな少年に屈服させられたのかと思うとなんだか腹が立った。
「何が望みなの?」
「なにも」
「……何を寝ぼけたことを言っているの。精霊と契約して何も望まないなんて変よ」
「僕の望みはもう果たしたよ。本当に……ただ謝りたかっただけなんだ。契約を破棄しても良いけど……もしかすると貴女を力ずくで利用しようとする人たちがこの先現れるかもしれない。僕は契約しても君の力を利用しないことを誓う。……契約を、受け入れてくれるかな?」
「貴方が破棄してくれない限り私は契約に縛られるのよ。そんなことも知らないの?」
「……ごめん、知らなかった」
「馬鹿じゃないの、貴方」
「ウィル、だよ。ウィル・ガーデニア」
「……ミーミルよ。知ってるみたいだけど」
「此処は綺麗だね、ミーミル」
言われて初めてずっと目にしていなかった外界に目を向ける。
生い茂った緑。木々の葉から差し込む木漏れ日。私がいたのであろう泉は澄んだ水をたたえ、光と風に揺らめいている。
――水の中では感じられなかった『生命』がそこには満ちていた。
「ミーミル?」
「どうして、謝りたかったの?」
「声が聞こえた気がして」
「声?」
「精霊のものなのか、精霊天使のものなのかは分からない。魔法を使うたびにエネルギーとして使われて消えていく、そういう存在の、声。嫌だ、嫌だってずっと言ってるんだ。
傷つけるのは嫌だ、死ぬのは怖い、誰か気付いてって」
「…………」
天使や悪魔、魔法使いや魔女が魔法を使うとき、対応する元素に属する最下級精霊は確かに魔法を発動させる代償として命を落とす。
彼らは死に際にたった一度だけ声なき声で叫ぶことを許された、普段は認識すらされない存在だ。そんな彼らの声が聞こえる?同じ精霊の私にだって聞こえないのに?
「彼らのような精霊とは契約を結ぶ方法が分からなくて。それに数がとても多いから一人に謝っても不平等な気がして。そんな時ミーミルの話を聞いたんだ」
「私の、話……?」
「かつて人身御供として水を乞うために捧げられ、後に精霊の仲間入りを果たした少女。貴女なら、きっと怒ってくれると思った。だから場所を探して、契約を勝手に結んだ」
「謝るために?」
「謝るために」
「……馬鹿じゃないの」
「うん。自己満足。でも君たち精霊にだって意思はある。だったら僕たち魔法を使う者は君たちの力を勝手に利用することを、もっと罪悪として考えなければいけないと思ったんだ」
聞いたことのない考え。
澄んだ緑の目は静かな光をたたえている。
「貴女に謝って、謝って、謝って。いつか許してもらえたら、貴女の意思で選んでほしいことがある」
……なんだ。結局綺麗事を言ってるだけでこの子も私を利用しに来たんだ。
「……僕と貴女じゃ、生きる時間も、価値観も、生活する場所も、何もかも違うけれど。友達になれたら……って思ったんだ」
「……とも、だち……?」
何を言っているの?この子。
私と友達?精霊と魔法使いが、主従じゃなくて友達?
たぶん私は間抜けな顔をしている。
ウィルと名乗った少年は困った顔をしている。
「……そんなに……変かな」
「変よ。物凄く変だわ」
「二度も言わなくても……」
「大事なことだから二度いったのよ。ウィル、貴方凄く変だわ。そうじゃなければとてつもない馬鹿だわ」
「ミーミルって結構容赦ないね……」
「だって私は……人間は、嫌いだもの」
「僕はウィルだよ。ただのウィル。人間とか、天使とか魔法使いとか、そういうのは横に置いて。僕自身を見て」
ボクジシンヲミテ。
それは私が人間だったころに願った思いと一緒。
水の精霊と親しい、人身御供として最適な少女としてではなく。
ワタシジシンヲミテ。
ずっとそう願って、でも叶わなかった。
「僕自身を見てよ、ミーミル。ウィル・ガーデニアっていう、十四年しか生きてない、ちっぽけで何も出来ない僕自身を」
悲痛なほどの、心からの願いだった。
精霊は人々が思っているよりずっと人の心に敏感だ。嘘には気付くし、悪しき者を嫌う。
この少年は、心から謝罪したいと願い、私と友達になりたいと願い、そのために自分を知ってほしいと願っている。
「どうしてそこまで必死になれるの?」
「何でだろう。自己満足、かな。貴女に赦されて、人間を嫌う貴女と友達ができたら。自分を好きになれる気がしたんだ」
「貴方は自分が嫌いなの?」
「無力で、ちっぽけで。間違ってると思うことを話しても耳を貸してもらえなくて。何も出来ない自分が……嫌いというか、歯がゆいのかな」
「……そう」
「ねぇ。また会いに来てもいい?」
「何のために?」
「言ったでしょ?謝って、謝って、謝って。いつか赦してもらえたら君の意思で友達になるかを選んで欲しい、って」
「本気だったの?」
「僕はいつでも本気だよ」
「変な子」
「あ……」
「…?何?」
「…うん。笑顔、初めて見たなって」
「……笑顔?誰の?」
「ミーミルの」
「…私の?…私、笑えないわ。笑い方を忘れたもの」
「でも、笑ってたよ。本当に微かで、どっちかって言うと苦笑だったけど」
「……本当?」
「うん」
「……じゃあ、私が笑い方を思い出せたら、友達になるわ」
「約束だよ」
「えぇ。父と子と精霊の御名に於いて誓うわ」
「じゃあ、また明日!」
ウィルはにこりと笑って身を翻す。
足に繋がれていた鎖は契約を結んだ証として消えていた。
「……綺麗……」
夕焼けを見るのはいつ以来だろう。
水面がオレンジ色の光を反射する。
風に木々がざわめく音がする。
水面に自分の顔を映してみた。
夕日のオレンジのお陰で少し赤みがかって見える髪は金色。目は深い水の色。
笑おうとしてもやっぱり笑い方は思い出せなくて、ただ水面に映る歪んだ顔が余計に歪んだだけだった。
それからウィルは本当に毎日私のもとを訪れるようになった。
水の中にいて彼に呼ばれて姿を現すこともあれば自由に外に出られることを利用して水辺に腰掛けて彼を待つ日もあった。
そんな時、ウィルは決まって驚いたように眼を見張って、それから嬉しそうに屈託なく笑った。自分でも意外なことに私はその表情の変化を見るのが好きだということに気がついた。
人間に愛想を尽かし、絶望していた私が人間の少年に会うことを楽しみにしている。
それは私にとってとても大きな変化だった。
ウィルは私に何も望まない。
誰かを傷つけさせない。
水を穢さない。
手の平を返したように命令しない。
水の恵みを必要以上に求めない。
私が住んでいる泉を眺めることはあっても侵しはしない。
飲み水は自分の手で汲んでくる。
「出来ることは自分でする」
それが彼の口癖だった。
その点も好ましいと思う。
ウィルは私にいろいろな話を聞かせてくれた。
おとぎ話や童話、ウィルの故郷に伝わる伝承。
ずっと人との関わりを絶っていた私にはそのどれもが耳新しかった。
二人が出会ったのは春だった。
夏が過ぎて、秋が来て、冬の凍てつく中、雪に埋もれながらもウィルは会いに来てくれた。
「ウィル、貴方、冬は来ないほうが良いんじゃない?風邪を引いてしまうわ」
「大丈夫だよ。それに約束を果たしてないから」
そんなやり取りを一冬の間に何度繰り返しただろう。
季節は移ろっていく。
出会ったころは同じくらいだった身長差はどんどん開いていった。
でも二人の関係は変わらなかった。
他愛のない話をして、ウィルは時々
冗談を言って私を笑わせようとした。
時々は成功しているらしいけれど私は笑い方を思い出せなくて、そのまま月日は流れた。
ウィルはもう少年ではなく青年になるほどの月日が流れていた。
「ウィルは結婚はしないの?」
「しないよ」
「どうして?」
「ミーミルに会いにこれなくなる」
「でも……」
「ミーミルが笑い方を思い出して、友達になれて……いつか僕以外の人間に会いたくなったら結婚も考えるけどね」
「そういう言い方はずるいわ」
「ごめん」
優しくて、少し気が弱いところは少年のころと変わらない。
声は低くなった。
背は高くなった。
顔つきは大人びた。
でも生きている時間から言えば少女のまま時を止めた私のほうがずっとずっと長い時間を生きているのだと自覚するたび何故か胸が痛む。
生きる時間が違うというのは、そういうこと。
ウィルはこれからどんどん成長して、成長がいずれ老いという言葉に変わって、そして生を終えて地に還る。
分かっていたはずのこと。
私は精霊で、ウィルは魔法を使えるけれどくくりは人間なのだから。
分かっていたはずだった。
でも全然分かっていなかった。
一緒に時を重ねられても一緒に年を取ることはできない。
いつかウィルは私をおいて遠くへいってしまう。
そしたら私はまた一人きりになってしまう。
違うのはウィルと会うまでは一人がいいと思っていたこと。
ウィルと会ってからは一人は嫌だと思うようになったこと。
ウィルがいなくなってしまったら私は永遠に一人だ。
ウィルは一人しかいなくて、代わりは何処にもいないから。
ウィルのような価値観を持っている人が少ないことは教えられるまでもなく身にしみて分かっている。
会いに行こうと探しに行くことはできない。
ウィルが死んで契約が解ければ私はまた泉に縛り付けられるから。
奇特な人間が会いに来てくれる確率はとても低いだろう。
会いにきてくれてもきっとウィルと比べてしまう。
比べてしまう位なら会わないほうがお互い幸せだ。
でも、でも、でも。
私はウィルを喪った絶対的な孤独に耐えられるのだろうか。
「ミーミル?」
ウィルは優しい。
「どうして、そばにいてくれるの?」
「ミーミルが好きだから、じゃ理由にならない?」
「…好き?」
「友達になりたいって思う。約束とか、本当はもういいんだ。こうして一緒にいられるなら。僕は本当にわがままだね」
「どうして?」
ウィルが目を伏せる。痛みをこらえるみたいに。
「だって僕はいつか君を置いていくから」
「――っ!」
ウィルが言葉にすると、それはとても重みを持って響いた。
精霊は人間に深入りをしない。
人間は精励に深入りをしない。
それは深入りしてしまえばいつか必ず訪れる別れが辛いだけだから。
一時的に契約し、望みを叶えた後は速やかに契約を破棄する。
その後彼らが感謝の念を抱くのか、それは分からない。
もしかしたら忘れてしまうのかもしれない。
その時は必死で、感謝をしても、時間は流れていくから。
日々に夢中になっているうちに感謝を忘れてしまうものなのかもしれない。
私とウィルの選んだ道が間違いだとは思わない。
思いたくない。
けれど互いの心に傷を残す生き方なのかもしれない。
答えが出ないまま、。無情にも月日は流れていく。
ウィルの髪には白いものが混じるようになった。
此処へくるのも辛そうだ。
顔にはしわが刻まれ、歩く速度はゆっくりと、ギクシャクしたものになった。
「ごめんね、ミーミル。そろそろ此処へはこられなくなるかもしれない」
「……うん」
「約束、守れなかったね」
「……守ったわよ。もう、私たち、友達…でしょう?」
「うん。でも笑い方を思い出させてあげることは出来なかった」
「ウィルとの思い出を一つずつ辿っていけば笑えるようになるわ、きっと」
「そうだと、いいな」
かつて少年だった老人はそう言って穏やかに笑った。
「ミーミル、頼みがあるんだ」
「なぁに?」
「君のつけている指輪と、僕のペンダント、交換してくれないかな?会えなくなっても君を身近に感じられるように」
「…いいわよ」
アクアマリンの嵌った指輪とブルートパーズのペンダントヘッドがついたペンダントを交換する。
お互いの指先が触れ合った。
精霊にとっては瞬き一つ。
人間にとっては長い時間の中で、互いの身体に触れたのはこれが初めてだった。
そしてたぶんこれが最後だろう。
「ありがとう」
「貴方の指には…小さいみたいね」
「そうだね。ミーミルの指、こんなに細かったんだ。ずっと一緒にいたのに知らなかったな」
しわだらけの顔を笑いじわで余計にくしゃくしゃにしてウィルが世界で一番価値のあるもののように私の指輪をじっと見つめる。
たぶん私も、同じ目つきでウィルのものだったペンダントを眺めている。
指輪の感触はまだ残っていて、首に下げたペンダントはまだ肌に馴染まない。
指輪の感触が消えて、ペンダントが馴染むようになった時、果たしてウィルは生きているだろうか。
「そのペンダント、ね。魔法がかかってるんだ」
「貴方が魔法を使うのは珍しいわね」
声なき悲鳴が聞こえるから、ウィルは魔法を使うときに散る命を悼んで滅多に魔法を使わないのに。
「うん。でもどうしてもかけたい魔法があって」
「どんな魔法?」
「いずれ分かるよ」
「…そう」
ウィルの目がどこか悲しそうだったから、私は追及するのを止めた。
「私が持っていて、いいの?」
「ミーミルに持っていてもらうために使った魔法だから、持っていて」
「分かったわ」
「もう一つ、嫌じゃなかったら贈り物」
「?」
「名前を。君に贈りたい」
「名前?」
「二人が会ったって証」
「…どんな名前?」
「リーゼロッテ」
「…今日から貴方の前では私はリーゼロッテ、ね?」
「うん。直には、僕ではもう会えないけれど」
「『僕では』?」
「リーゼロッテは生まれ変わりって信じてる?」
「分からない…私は転生せずに精霊になってしまったし」
「僕はね、生まれ変われたら良いなって思う。そしたらまたリーゼロッテに会いにくるよ」
「…期待せずに待ってるわ」
「うん。…じゃあ、そろそろ行かないと」
「…うん」
「さよならは言わないよ。きっとまた会えるから…」
「そうね。…またね、ウィル」
「うん。またね、リーゼロッテ」
契約が破棄されたのが分かった。
見送ることも出来ず水の中に引き戻される。
鎖が足首に足枷として繋がれている。
この鎖に繋がれるのも随分久しぶりな気がした。それだけ感覚が人間に近くなっていたのかもしれない。
前に繋がれていた時はただ人間が疎ましくて、指輪が指に嵌っていて、ペンダントがなくて、ウィルを知らなかった。
今は人間を疎ましいと思う代わりに人間と同じように年を重ねられないことが少しだけ哀しくて、指輪がなくて、馴染んでいないペンダントが首から下がっている。そしてウィルを知っている。
「思った以上に……遠くへきてしまっていたのね」
それは心の距離。時間に対する感じ方。
水の中、ペンダントトップが淡い光を放っていることに気付く。
此処には光なんて差さないのに…。
冷たい水の中そっと石に触れると仄かな温もりを感じた。
一度だけ触れたウィルの指先と同じ温もりだった。
もう会えないウィル。
優しかったウィル。
気が弱かったウィル。
十四歳から、老人になるまで毎日会いに来てくれた人。
私も彼を好きだったのだろう。
水にたゆたう髪を押さえる。
この髪が風になびく日はまたくるのだろうか。
それからの私はただ追憶に生きていた。
ペンダントトップの温もりと光は外の世界を思い出させてくれた。
外の世界で出会った、一人の魔法使いの事も。
私は笑えているだろうか。
ある日、ペンダントの温もりと光が消えた。
そして耳に流れ込んでくる彼の声。
『今までありがとう』
『君がいつか笑ってくれますように』
『君との思い出はかけがえのない宝物だよ』
『いつか生まれ変わって君に会いに行くからね』
『リーゼロッテが、大好きだよ』
「ウィルっ…!」
分かってしまった。
これは此処にこれなくなった彼がこの世界から旅立つ時、会えない代わりに託した声だと。
優しいウィル。
気弱なウィル。
ずるいウィル。
私も貴方が大好きだよ。
「あ……」
水と同化してすぐに分からなくなってしまう、熱い雫。
これは……涙?
「…笑い方の前に泣き方を思い出してしまったわよ…貴方のせいだわ」
溢れ出る、熱い涙はすぐに水に溶けてしまう。
でもこの喪失の痛みを忘れない。
貴方が残してくれた痛みなら、傷跡すら愛おしい。
ウィルがいなくても、季節は流れていく。
此処ではその流れを感じられないけれど、時間は確かに流れているのだろう。
「いつになったら会えるのかしら……」
何度この言葉を呟いただろう。
自分から会いにいけたらいいのに。
リン、とペンダントトップが鳴動した気がした。
契約を求める声。
でも力の波動が弱い。
私を屈服させることは出来ない。
水とは少し色合いの違う石の中に浮かび上がる少年の影。
必死に私を呼んでいる。
駄目よ。
貴方の力ではまだ私を呼べない。
でも。
懐かしいのは、どうして?
「…あぁ…」
何処となく、ウィルに似ているんだ。
『我、契約を承認す』
そっと念じると私は久しぶりに外の世界にいた。
「え……」
「私を呼ぶには力が足りないって、自分で分かっていたのでしょう?どうして呼んだの?」
「貴女に、会いたかったから」
差し出される、指輪。
かつて手放し、彼のもとへ渡った、私の。
「ずっとこの景色を探してたんだ。此処でなら夢で泣いている人…貴女に会えるって思ったから必死で呼んだ」
「その指輪…何処で…」
「生まれた時に握っていたんだって。これ、貴女のものでしょう?波動が同じだ」
「…友達に、あげたものよ」
「そうなんだ。ねぇ、名前は?」
「ミーミル…いいえ。リーゼロッテよ」
「僕と友達になってよ、リーゼロッテ」
長いときを経て。
彼は再び会いに来てくれた。
交わした約束が、色鮮やかに甦る。
「私を笑わせることが出来たらね」
でも、それは意味のない台詞。
だって今自分が笑っているって他の誰に言われるまでもなく、私が知ってるもの。
ご一読有り難うございました。
楽しんでいただけたなら何よりも嬉しい糧となります。