第2話
それからたっぷり一時間ほど掛けて老夫婦がチェリータルトを完食し、お店を後にしたのが午後四時半過ぎ。食器を洗って、干していた洗濯物を取りこんで二人分の夕食を作りまた後片付け。やることが一段落したころには時計の針は七時を指していた。
「え、えへへ……」
すると、ランドセルを抱えた妹が私の正面の席におずおずといった感じで座る。
不自然な膨らみは相変わらず。犬か猫でも拾って来たのだろうか。その割には随分と大人しい。
それと、ランドセルの方から異臭が漂っているのが気になる。さっきまではチェリータルトの甘い香りでお店がいっぱいだったから気付かなかったけれど、今は何だか腐敗臭のような匂いが鼻をつく。どうやら、異臭の主はランドセルの中に在るらしい。
「何を拾ったの?」
少なくとも生き物じゃないだろう。私が中身を訊ねると、妹はほんの少し身を引いて、まるでランドセルを守るかのように両手で庇いながら上目遣いに言った。
「……怒らない?」
「私が怒ったこと、あったかしら?」
「前につまみ食いした時、すっごく怒られた」
それはお客様に出すためのショートケーキをまるごと一個食べた妹が悪い。いくら世間が広くても、ケーキ一個を“つまみ食い”で済ませるのはうちの妹だけな気がする。
「はいはい。怒らないから出しなさいな。何か分からないと、私もどうしていいか分からないもの」
「うん。じゃあ……はい!」
パチン、とロックを外し妹がランドセルの奥に手を伸ばして“それ”を取り出すと、ようやくランドセルが元の姿を取り戻す。
「……あら」
ドン、と重量感を感じさせる音を立てて現れたのは、高さ30センチ程度の西洋人形だった。くしゃくしゃの金髪、顔は黒くくすんでいて目元には小さなヒビが入っている。人形が纏っているのは黒地に白いフリルをふんだんにあしらった、所謂ゴスロリ服というものなのだけど、布地はボロボロに裂けていて、本来持つであろう優雅さや気品はまるで感じられない。その異臭から察する……までも無く、これが何処かに捨てられていた人形であるのは一目瞭然だった。
「ははぁ……これはまた凄いものを拾ってきたわね」
「えへへ!」
はて、何故妹はやや誇らしげに笑うのかしら。
「元の場所に戻してらっしゃい」
「えー!? な、何で? この子、すっごく可愛いじゃん!」
「だってどう見ても……ゴミでしょう?」
お世辞にも手入れが行き届いているとは思えない汚れた顔にボロボロの衣装。極めつけは鼻も曲がりそうなほどの悪臭。顔こそ端正だけれど、こんなものをお店に飾るわけにはいかない。……まさか。
「“おまじない”か何かを期待しているのかしら?」
「え!? ち、違うよ? そんなこと、全然、全然考えてないもん」
ちなみに、妹は嘘をつくとほっぺたがピクピクと小さく波打つという特徴がある。今まさに、私の目の前で頬のお肉が小刻み震えているのが見えた。
「あのねぇ……私の“おまじない”はそういう便利なものじゃないの。困った精霊にだけ使う、精霊だけのものなのよ」
「わ、わかってるけど……」
しゅん、と俯く妹を見て私はふうと小さく息をつく。ちょっと悪い気もするけど、ここは甘やかさず姉としてしっかりと断るべきところだ。それに、この人形は何処からどう見ても気味が悪い。私はもう一度、人形を正面からまじまじと観察してみて……おや? と、人形の頬に手を伸ばした。ざらり、と想像していた樹脂の感触とは違う別の触感。何だろう、素焼きしたばかりの陶器のような……
「あぁ、これ“ビスク・ドール”なのね」
「びすく……どーる?」
まぁ、妹が知らないのは無理もないか。
「“ビスク・ドール”っていうのは、十九世紀のヨーロッパで流行したお人形さんのことよ」
当時のヨーロッパの上流階級、貴族や令嬢たちの間で大流行したといわれる愛玩人形。かれこれ百年の時を経た現代でも愛好家たちの中では根強い人気のある代物で、高価なものは俄かには信じられないような金額で取引されているんだとか。
ビスク・ドールの『ビスク』とは、私達が食べているビスケットと語源を同じくする『Biscuit』という、フランス語で『二度焼き』という意味の言葉が由来しており、そのまま人形の独自の製造方法に直結している。
これは当時の人形のパーツの一部が『二度焼き』という言葉通り、素焼きの陶器製であったことに端を発している。当初は陶土を型にはめて作られていたが、その後の技術改良により量産可能な材質へと変遷していった。ちなみに、前者の陶器製のビスク・ドールを『プレスド・ビスク』、後者の量産タイプはその材質から『ポアード・ビスク』と区別されている。元々の目的は衣服の宣伝用にとミニチュアサイズの衣装を着せるために作られた『ファッションドール』というもので、子供向け玩具と広まったのは、おおよそ八十年前のことだ。
「でも、ビスク・ドールがゴスロリ服って、ちょっと変ね」
「何で? ごすろり、って、ヨーロッパのお洋服のことじゃないの?」
「うぅん、ちょっと違うわ」
ゴスロリ、正式名称ゴシックロリータ。
その名の通り“ゴシック”と“ロリータ”という二つのファッションが融合したものだけど、ヨーロッパが発祥の地かというと少し違う。大元であるゴシックファッションはイギリスで発症したものだが、ロリータファッションは日本で生まれたファッションスタイル。この二つのスタイルを組み合わせたものをゴシックロリータ、つまりゴスロリと称するのだ。有名なテレビドラマが発祥だったかしら。それにしても、ビスク・ドールにゴスロリ衣装とは何とも現代的な組み合わせだこと。
「お姉ちゃんって、ホント物知り!」
「これぐらいは常識だと思うけど……」
今一度ゴスロリ衣装のビスク・ドールを観察する。
ゴスロリ服のシックな色調が、薄汚れた人形によく似合っている。彼女にカッターナイフなんて持たせたら、あっという間に呪いの人形の出来上がり。……なぁんて。
「さて、明日もお客さんの予定あるしもう寝なきゃ」
「じゃあじゃあ、今日はこの子と一緒に寝ていい?」
カウンター越し、私は生意気な妹の額を指でぺちん、と弾いた。
「いったぁ……」
「そんな汚いお人形、ダメに決まってるでしょ。今日はもう遅いから、明日一緒に元の場所に戻しに行くわよ」
「えぇ~? やだよぉ、これ、私のお人形さんにするもん!」
「だぁめ。捨てられたものだからって、勝手に拾ったらネコババと同じよ?」
「ぶーっ」
頬を膨らませても駄目なものは駄目。
妹は私と人形と交互に視線を送ったが、やがて諦めたのか渋々といった様子で『……わかった』とだけ言って二階に上がって行ってしまった。
うぅん、ちょっとだけ強く言い過ぎちゃったかしら。
「……せっかくだから、ちょっとだけお手入れしておきますか」
多少の手入れぐらいなら私にだって出来る。せめて顔の汚れは綺麗にしてあげよう。仏頂面の……といっても人形なのだから当たり前だけど、私は人形に向かって語りかけるように呟いた。
「貴女も、ずいぶんと運の良いお人形さんね。うちの優しい妹に感謝しなさいよ?」
なんて、ただの人形に言葉が通じるわけ、ないか。
私は濡らした布巾でビスク・ドールの頬をそっと拭って簡単に汚れを取り除くと、カウンター裏の小さな戸棚にそっと仕舞った。
戸を閉める際、薄く紅の入った人形の唇が、一瞬小さく歪んだように見えたのは気のせいかしら。
実はこのお話、とあるカードゲームのカードを偶然見たのをきっかけに思いついたものなんです。
詳しい話は……あとがきの時にでも。
次話は明日のこの時間に。
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