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フレイム・ウォーカー  作者: エスパー
紺碧の泉編
32/122

第五章 それぞれの戦い -complication-

 このまま逃げてしまっていいのだろうか?

 不思議とミレーナは、そんな思いを拭えずにいた。

 今の彼女には記憶がない。自分が『魔術師』として存在していた頃の記憶がない。自分がそんな存在だった事も信じられないのに、況して『魔術』を使って戦う姿なんて想像もできない。

 何の力も無い今の自分が街へ戻っても、できる事など何もないはずだ。

 にも拘らず、胸の内がざわめいて仕方がない。

 まるで何かが戻れと言っているかのようだ。あの紅い髪の少年が戦っているであろう、戦場へと。

 湖に架かる橋の中ほど辺りまで来た所で、ミレーナはついに自分の足を止めた。

 先導していたログハイムが、それに気付いて立ち止まる。こちらを振り返った彼の表情は、案の定訝しげだった。

「どうしたんだ、ミレーナ」

「……ログ。私、行かなくちゃいけない」

「行く……? 行くってまさか、ディーンくんの所へかい?」

 ミレーナが無言で頷くと、ログハイムは一瞬、辛そうに眉根を寄せた。

 彼の言わんとしている事が何となく想像できたミレーナは、反論される前にと思い、すぐさま口を開いた。

「言いたい事はわかってるつもりよ。確かに今の私には何の力もない。だけどそれでも、私はあそこに戻らなきゃいけない。……そんな気がするの」

 ミレーナがそう締め括ると、ログハイムは無言のまま難しい表情を浮かべた。

 自分の気持ちを言葉にする事はできたものの、ミレーナはログハイムの顔を、目を、真っ直ぐ見る事ができない。

 こんな根拠のない理由なんて、受け入れてもらえないに違いない。きっとこの我が儘は、彼の事を苦しめている。一ヵ月という短い期間であろうと、ずっと見守り続けてくれた彼の事を。

 と、そんな風に思った時だった。

「……さっきのリネさんも、今のキミと同じ気持ちだったのかな」

 そう言って、ログハイムが突然、硬かった表情を崩して微笑したため、ミレーナは呆気に取られてしまった。

 彼はどうして、こんなに優しげな微笑みを見せる事ができるのだろう? 失望や叱責の言葉一つ、吐き出そうとしないのだろう?

 ただただ疑問に思うミレーナを尻目に、ログハイムは優しい口調で続ける。

「何となくこうなるんじゃないかと思ったよ。記憶を失っているとはいえ、キミは元々偉大な力を持った『魔術師』だ。今みたいな状況だからこそ、ボクにはわからない、何らかの気配を感じ取っているのかも知れない」

 そこまで口にした所で、またも突然、ログハイムの表情が変わる。

 見る者を圧倒してしまいそうなほど、強く真剣な顔付き。しかしそれに反して、ミレーナの両肩に手を置く彼の動作は、まるで木漏れ日のように温かく穏やかなものだった。

「だけどね、ミレーナ。だからと言ってボクは、このままキミ一人が危険な場所へ向かう事を、何の躊躇いもなく良しとできるような人間じゃない。ボクはディーンくんに、キミを守るよう頼まれている。……いや、例え彼に頼まれていなかったとしても、ボクはキミを守りたいし、守るつもりだ」

「ログ……」

「だからどうしてもと言うのなら、ボクも一緒に行く」

「!」

 危険だという事は充分わかっているはずなのに。今ディーンの許へ行っても、何もできる事はないと知っているはずなのに。それでもログハイムは、強い意志の感じられる瞳でそう言ってくれた。 

(……ありがとう、ログ。あなたのその優しさに、今日まで私は幾度となく支えられて、守られ続けてきた)

 本当に、彼にはいくら感謝の言葉を述べても足りない。ログハイムがいなければ、自分はこうして存在する事ができなかったはずなのだから。

「ごめんね、あなたまで巻き込んだりして」

「そんな事、これっぽっちも思っていないさ。……さぁ、急ごう。ディーンくんの思いは裏切る事になるが、キミならきっと、彼に力を与えられるはずだ」

「……本当にありがとう、ログ」

 力強く頷き返してくれたログハイムと共に、ミレーナは踵を返して、黒煙が昇り続ける街へと舞い戻る。

 胸のざわめきが、僅かに和らいだ気がした。




 ◆  ◆  ◆




 俺は斬られた衝撃で、背中から地面に倒れ込んだ。

 胸の辺りから、全身を駆け巡る鋭い痛み。俺の脳裏に、『テルノアリス』でアーベントに斬られた時の映像が蘇る。

 あの時は完全に致命傷だったが、どうやら今回はそれを避けられたようだ。熱を帯びる激しい痛みがあるものの、身体が動かせないほどじゃない。まだ充分、立ち上がって戦う事はできる。

 俺はゆっくりと身体を起こし、大鎌を振り抜いた体勢で静止しているジェイガを睨み付けた。

「……どうやら躱すのだけは上手いらしいな。完全に捉えたと思ったが、浅かったか」

 不満そうに溜め息を漏らすジェイガは、片手で大鎌を一回転させ、構え直す。

 俺はジェイガから意識を外さないように注意しながら、再び右手に『紅蓮の爆炎剣フレイム・ロングソード』を造り出した。

 身体が焼けるように熱い。全身から、刺すような汗が噴き出している。胸の傷が致命傷じゃない事は確かだが、それでも戦闘が長引けば、その分だけこっちが不利になる。

 つまり今、俺が取るべき行動は、先手必勝だ!

 俺は身を低くすると同時に、一気に駆け出した。身構えていたジェイガが一瞬驚いた顔をするが、すぐさま不敵な笑みを浮かべ直す。

「ハッ! そう来なくっちゃなァ、紅髪(あかがみ)ィ!」

 愉快げに大きく叫ぶと、奴も勢い良く走り出した。このまま進めばものの数秒で、俺達は再び衝突する事になる。

 そこで頭に浮かんだ選択肢は二つ。上と下、どちらから攻めるか。

 だが俺は、ほとんど迷わずに選択する――上だ!

 接近するジェイガが再び大鎌を横薙ぎに振るおうとした瞬間、俺は前進に使っていた力を跳躍の力に変え、高く跳んだ。

 そしてそのまま、右手に握った炎剣を上段から振り下ろす。

「攻撃が単調過ぎるぜ、『深紅魔法』の使い手さんよォ!」

 叫びながら、ジェイガは当然のように大鎌を両手で水平に握り、空中からの一撃を受け止めた。

 当然、爆発も炎も吹き出さない。

 だが、俺はそれで止まらなかった。

 炎剣を軸にして空中で回転し、左手に新たな『紅蓮の爆炎剣フレイム・ロングソード』を生み出す。

「なっ!?」

 目を(みは)り驚くジェイガを尻目に、俺は左手の炎剣をがら空きになった奴の右肩の辺りに叩き込む。

 直後、命中した箇所から荒れ狂うような爆炎が噴き出した。

「ぐあああああぁぁっ!」

 よろめくジェイガと擦れ違う形で着地した俺は、再び胸の傷の痛みに襲われ、思わず倒れ込みそうになる。

 だが、そんな事が許される状況じゃなかった。

「クッソがぁぁああぁあああぁっ!!」

「!」

 振り返り様に迫ってきた大鎌の一撃を、俺は左右の炎剣で何とか受け止める事ができた。

 途轍もない力に押されて、踏ん張っていたはずの足が数十センチも後ろに下がる。

 再び鍔迫り合いのような格好になった所で正面を見ると、ジェイガの獰猛な瞳がすぐそこにあった。

「炎剣を二本使うとはやってくれるじゃねェか。えェ?」

「誰も一本しか使えないなんて言った覚えはねぇよ」

 怒りの籠った表情で告げるジェイガに、俺は平然と言い返した。

 それにしても、間近で見ると更に眼付きの鋭さが強調される奴だ。その辺の強盗とかなら、こいつが一睨みしただけで簡単に逃げ出すんじゃないか?

「オイ、紅髪(あかがみ)

 妙な所に思考が向いていた俺は、ジェイガの言葉で我に返った。

 って言うかこの野郎、さっきから人の事を髪の色でばっか呼びやがって。俺の名前、知ってるんじゃないのかよ?

「何だ青紫」

 子供みたいな発想で髪の色を言い返してみたが、ジェイガは無反応のまま続ける。

「とりあえずテメェにも聞いとく。ノイエの野郎がどこにいるか知ってるか?」

「さぁな、見当もつかねぇよ。随分昔に一回だけ会った事があるけど、今はどこでどうしてんのかすらわかんねぇ」

 俺の返答を信じたのかどうかはわからないが、ジェイガはそれ以上追及して来なかった。

 その代わりとばかりに、相対する俺を睨み付ける。

 冷や汗を掻きそうなほど、殺気の籠った目で。

「そうか。だったらもう、テメェなんぞに用はねェ。今度こそ消えてもらうぜ」

 何勝手に終わらせようとしてんだ、こいつ。そっちに会話の主導権を握らせた覚えはねぇぞ。

 俺はジェイガが何かを仕掛けてくる前にと思い、即座に言葉を投げ掛ける。

「こっちの質問にも答えろよ。お前さっき、『復讐のためだ』って言ったよな。あのノイエ・ガルバドアが、お前に一体何したってんだ?」

「さァなァ。例えどんな理由だろうと、テメェに教える義理はねェだろォが」

 俺の言葉を簡単にあしらい、ジェイガは眼差しをより鋭くする。

 その瞬間、鍔迫り合いの状態だった大鎌から、怪しい光が放たれ始めた。

「!」

「邪魔だ、クソ野郎」

 防御する暇も、況して回避する暇すらなかった。

 ジェイガの言葉が聞こえた直後、真っ黒な光が俺の視界を埋め尽くした。




 ◆  ◆  ◆




 それは、爆心地から程近い所まで辿り着いた時だった。

 今までよりもさらに大きな爆発と衝撃が、唐突に地面を走り抜け、リネは思わず転びそうになる。

 何とかその場で踏み留まり、顔を上げたリネは、驚きのあまり目を瞠った。

 前方の白い街並みから昇る新たな黒煙は、さっき見たものよりも一段と色味を濃くしている。断続的に続いていた今までの爆発より、もっと大きな破壊が、あの場所で引き起こされた証だろう。

 それがディーンによるものか、それとも戦っている相手によるものか。

 どちらにしても急がなければならない。ここに辿り着くまでの間、漠然とした不安が胸の内を駆け巡って、一向に治まらなかった。そしてそれは、今もずっと続いている。

 まだ細かいひび割れ程度で済んでいる石畳の道を、リネは自分に出せる限りの速度で駆け抜けていく。

 黒煙の昇り続ける爆心地へと向かって。

 彼女にとって大切な存在である、紅い髪の少年の手助けとなるために。

 通りを前進するほど、整備されていたはずの石畳の道は荒れ始め、半壊した商店や瓦礫が多くなってくる。所々起伏ができた地面に足を取られそうになりながらも、リネは風に乗って流れてくる黒煙を辿り、目の前に現れた十字路を右に曲がった。

 直後、リネは絶句して立ち止まってしまった。

 酷い、なんてものじゃない。そこから先だけ景色が変わっていた。まるで別世界に迷い込んだかのようだった。


 白い煉瓦(れんが)造りの民家や商店が立ち並んでいたはずの、街の中心から北側へ抜ける通りの一帯が、白い瓦礫の山と化している。


 文字通り、全く原形を留めていない。一体どんな力が働けば、これだけの規模の破壊が可能なのだろう? あの瓦礫の中に、逃げ遅れた人が生き埋めになっていたりはしないだろうか?

 目の前の凄惨な光景に、ただただ呆然としていたリネは、微かに吹き抜けた風に頬を撫でられてハッとする。

(ディーンは……、ディーンはどこ!?)

 ようやく思考が追い付いた所で、リネは瓦礫の山に向かって足早に歩み寄った。

 辺りに人影らしきものは見当たらない。

 誰もいない。

 どこにもいない。

 あるのはただ、破壊され尽くした白い瓦礫ばかりで――

「ディーン! どこ……? どこにいるの……ッ!?」

 気付くとリネは、半泣きの状態で必死に叫び声を上げていた。まるで、親と逸れた幼い子供が、不安や寂しさに襲われて泣きじゃくるかのように。

 泣いたってどうしようもない。とにかく彼を捜し出さなければ。

 零れそうになる涙を乱暴に拭い、リネは自分に言い聞かせながら、白い地獄の中をひたすら歩き回った。

 黒煙や砂埃に晒され過ぎたせいか、いつの間にか服の至る所が汚れ、随分みすぼらしい姿になってしまった。

 だがそれでも、リネは足を止めない。彼を……ディーンを見つけ出すまで、休む気になどなれる訳がない。

 と、その時だった。

 すぐ近くにあった、割と小さな瓦礫が不自然に崩れ落ちて、細かい粉塵を辺りに撒き散らした。その現象が、何となく自分を手招きしているように思えて、リネは視線を向けてみた。

 そして気付く。

 崩れた瓦礫のその向こう。倒れた街灯の柱らしき物に何かが――いや、『誰か』がもたれ掛かるようにして座り込んでいる。

 無彩色に囲まれた、有彩色。

 白の中の、紅。

 人目を惹く特徴的なその髪の色は、まるで灼熱の炎のようだ。

「ディーン!!」

 意図せず大声を出してしまったリネは、急いでディーンに近付いた。

 倒れた柱に瞑目してもたれ掛かっているディーンは、具合が悪そうに荒い呼吸を繰り返している。リネが屈んで容態を見ようとすると、やっとこちらの存在に気付いたのか、ディーンがゆっくりと瞳を開いた。

 途端、その顔に驚きの色が浮かぶ。

「リネ……! お前、何でここに……。避難したんじゃなかったのかよ?」

「何でって……」

 こんな状況に陥って尚、少年の口から漏れるのは、自分を邪険にするかのような言葉。さすがのリネもこの時ばかりは、苛立ちを覚えずにはいられなかった。

 あなたはまだ、そんな簡単な事もわからないのか、と。

「そんなの……ッ、ディーンが心配だからに決まってるじゃないっ!」

「……!」

 必死な思いで叫び返すリネを、ディーンはただただ驚いた様子で見つめている。

 彼の姿は、目も当てられないほど傷だらけだった。

 砂埃を防ぐための萌葱色のマントは、原形を留めないほどに裂けたり破けたりしていて、内側に着ている黒いシャツや胡桃色の革の長ズボンも、似たような状態になっている。

 ほぼ全身に切り傷や擦り傷があり、一番酷いのは胸の辺りにある大きく痛々しい傷だった。

 真横に付けられた傷口からは、ゆっくりと紅い血が流れ出ている。恐らくは、剣のような鋭い刃物で斬られたのだろう。

「とにかくジッとしてて。今すぐ治すから!」

 リネはすぐさま両手の革手袋を外して、『治療』を始めようとした。

 ところがディーンは、それを制止するかのようにリネの肩に手を置き、少々息を切らしながら口を開く。

「いや……、今は全身の傷を治してる場合じゃねぇんだ。とりあえず、胸の傷の止血だけしてくれ」

「止血だけって、それじゃあまた傷口が開いちゃうかも知れないよ?」

「構わねぇ。とにかく今は、時間がないんだ! ……そうだ。ミレーナはどこにいる?」

「えっ? 多分、ログハイムさんと一緒に街の外に避難してるはずだけど……」

 突然話題を逸らされて戸惑うリネを尻目に、ディーンは僅かに俯いて、何かを思案するように黙り込んでしまう。

 が、満足のいく答えを導き出せなかったのか、顔をしかめて首を横に振る。

「いや、ダメだ。街の外に逃げるだけじゃ、足りない。ミレーナがこの近くにいる以上、あいつは血眼になってでも見つけようとするはずだ」

「あいつ……?」

 一体誰の事を指しているのだろう? それにミレーナを狙っているとは、どういう事なのか?

 リネが疑問を口にするよりも早く、ディーンは肩を掴む手に、僅かに力を込めた。

「頼むリネ。今、ミレーナを守れるのは、俺しかいないんだ!」

「……わかった。少しの間ジッとしててね」

 未だに詳しい状況が理解できなかったが、とにかくリネは指示通り、応急処置程度の『治療』を始める。

(……ミレーナさんを守れるのは俺しかいない、か)

 力を使いながら、リネはその言葉に少しだけ、寂しさを覚えた。

 今、彼が必死になって守ろうとしているのは、自分じゃない。彼にとって何より大切な、師匠その人なのだ。

 その事実は、誰かにとってはとても素敵な事で。

 同時に、別の誰かにとっては、とても残酷な事だった。




 ◆  ◆  ◆




 先程見えた、一際大きい爆発は何だったのだろう?

 自分からディーンの所へ戻ると決めたミレーナだったが、正直なところ、不安な気持ちが抑えられずにいる。

 恐怖、と言った方がもいいかのも知れない。

 自分の知らない、得体の知れないものが目前に迫っているのだ。身が竦んでしまうのも仕方のない事だ。

(……いいえ。私はただ、『それ』を忘れてしまっているだけなんだ。私がミレーナ・イアルフスだった頃の、存在の証明となるものを……)

 あれは恐らく、『魔術』によって引き起こされている。未だにディーンが姿を見せないのは、破壊活動を行う『魔術師』に苦戦しているからだろう。

 急がなければならない。記憶もなく、戦う力もない今の自分に、何ができるかわからないけれど――


「ようやく見つけたぜ、ミレーナ・イアルフス」


 唐突に頭の上から声が聞こえて、ミレーナは思わず立ち止った。すると、少し後ろを走っていたログハイムが、ミレーナの隣で同じように立ち止まる。

 声の主は、見覚えのない少年だった。

 青紫の髪を生やした、蛇のように鋭い目付きの少年が、白い煉瓦造りの商店の屋根に、不敵な笑みを湛えて佇んでいる。

 少年は目が合った途端、商店の屋根から軽々と飛び降り、まるで行く手を阻むかのように、ミレーナ達の前に静かに着地した。

「……誰?」

 少年と五メートルほどの距離を取って対峙したミレーナは、無意識にそう問い掛けた。

 どうやら向こうは、こちらの事を知っているらしい。もしかしたら、記憶を失う前に会った事があるのだろうか?

「あん? 何だよ。ノイエの野郎から俺の事は聞いてねェのか。……まァ、別にテメェが俺の事を知らなくても構いやしねェけどな」

「ノイエ……?」

 少年は若干不服そうに話しながら、こちらへ歩み寄ってくる。

 そこでミレーナは初めて気が付いた。軽快な足音を響かせながら近付いてくる少年の右手に、死神を連想させるに相応しい、黒く大きな鎌が握られている。

 ミレーナは思わず、数歩後退った。素直に身の危険を感じたからだ。

 少年の瞳から放たれる剣呑な光に。

 その身から発せられる怪しげな気配に。

「何とぼけた顔してやがる。ノイエだよ、ノイエ・ガルバドア。まさか覚えてねェとでも言うつもりか? オイオイ、頼むぜ『英雄』さんよォ。こっちはようやくテメェを見つけられて興奮してんだ。くだらねェ冗談は止めてくれよなァ。それとも何か? あの紅髪(あかがみ)同様、師弟揃って俺をバカにしようって魂胆(こんたん)なのかよ。あァん?」

 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ少年の目は、ミレーナ以外何も捉えていないようだ。

 まるで獲物を見つめる狩人のような、鋭く殺伐とした瞳の色。

 早く逃げなければ、何をされるかわからない。そう思うのに、漠然とした恐怖で凍り付いた身体は、ミレーナの意思に反して全く動こうとしない。

「おい、キミ。どこの誰なのかは知らないが、一体何の事を言ってるんだ?」

 傍らから聞こえた冷静なその声で、ミレーナはようやく心的な拘束から解放された。

 見るといつの間にか、ログハイムが少年の行く手を阻むような形で、数歩前に立っている。

 そんな彼の行動を邪魔だと感じたのだろう。相対する少年の瞳に、声に、怒りの色が強く現れた。

「あァ? テメェこそどこの誰なんだよ。部外者に用はねェから黙ってろ」

「もしかして彼女の事を知ってるのかい? だったらすまないが、今彼女は――」

「黙ってろって言ってんだろォがァッ!」

 一瞬の出来事だった。

 少年が右手に握っていた大鎌を振るった瞬間、ゴツッという鈍い音がして、ログハイムの身体が右に薙ぎ払われた。

 数秒遅れて視線を向けると、ログハイムは気を失って地面に倒れていた。注視するまでもなく、彼の頭からは真っ赤な血が流れ出ていて、楕円形の眼鏡のフレームが(ひしゃ)げ、レンズに(ひび)が入っている。

「ログッ!」

 突然の出来事に動揺し、一瞬少年から意識を外したのが(わざわい)した。

 本当に、迂闊だった。咄嗟にログハイムの許へ歩み寄ろうとしたミレーナは、首根を少年に掴まれてしまった。

「か……ッ、はぁッ!」

 息苦しさに悶えながら薄目を開けると、少年は左腕一本で軽々とミレーナの身体を持ち上げている。しかも彼の瞳からは、明らかに殺意の色が見て取れた。

 このまま抵抗しなければ、遅かれ早かれ殺されてしまうのは明白だ。

「今度は俺を無視しようってか。随分舐めた真似してくれるなァ、ミレーナ・イアルフス。こっちはテメェに聞きたい事があるんだ。勝手に逃げようとしてんじゃねェよ」

「……ッ!」

 少年は自らの用事を済ませようと躍起になっているようだが、生憎こちらはそれどころではない。

 呼吸ができず、息苦しさは増すばかり。足をバタつかせても、両手で少年の左手を押さえ付けても、首を圧迫する力は一向に弱まる気配がない。

 さっきから心臓が、不快な脈動を続けている。このままでは、意識どころか生命の維持すら危うい。

 もうダメだ……と、そう思った時だった。


 肌身を焼き焦がしそうな強力な熱を持った何かが、ミレーナのすぐ横を通り過ぎたのだ。


 それとほぼ同時に、首を圧迫される息苦しさと、宙に浮いている感覚が失われる。

 受け身も取れないまま地面に尻餅をついたミレーナは、途端に激しく(せき)込んだ。失われていた酸素が肺に注入されて、徐々に呼吸が楽になっていく。

「ミレーナに何してやがる……!」

 すぐ傍にいる青紫の髪の少年とは違う声がして、ミレーナは声のした方を振り向いた。

 そこでようやく思い至る。さっき感じた強力な熱の正体。あれは恐らく炎だったのだ。

 視線の先にいるあの少年の髪と、同じ色をした熱い炎。

 深い深い、紅い色。

「消し炭にすんぞてめぇ!!」

 青紫の髪の少年を睨み付け、ディーンは憤怒の表情で、炎のように熱い叫び声を上げた。

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