第一章 陽射し無き空
見飽きるほどの長い間、俺の視界を埋め尽くしていた、背の高い草や幹の太い木々。それが徐々に拓けていき、俺達はようやく森林地帯を抜ける事ができた。
いやはや本当に、『ゴルムダル大森林』という名前は伊達ではなかったらしい。『とある一族』が守り続けた遺跡から、こうして森を抜けるまでに、結局丸二日も掛かってしまった。
自分がどれくらいの距離を歩いて来たのかなんて、計算も想像もしたくない。広大過ぎるにも限度があるっつーの。
ふと空を見上げてみれば、今の俺の心象風景を映したかのような曇天。全く、気分が重苦しくなるばかりである。
「まさか、こんなに時間が掛かるとは、思わなかったぜ……」
少々息を切らしながら、俺は森の出口――と言えるほど小奇麗じゃないが――から続く草原を歩き、前方の小高い丘を目指す。
ふと隣を見ると、同行者の少女も、やや疲れた表情で息を切らしていた。
「ホント……広かったよね、あの森。抜けられたのが、嘘みたい……」
一旦フゥッと息をつき、リネは腰に提げていた水筒を掴むと、片手で器用に蓋を開けて、ゴクゴクと水を飲み始める。
「ぷはっ。ハァ〜、生き返ったぁ〜♪ ディーンも水飲む?」
そう言ってリネは無邪気な顔で、今の今まで口を付けていた水筒を差し出してくる。俺が自分用の水筒を持っているにも拘らず、だ。
「何でわざわざお前の水筒の水を飲まなきゃいけねぇんだよ。ってか、別に喉渇いてねぇし」
「むぅ……」
俺が軽くあしらうと、リネは不満げに唇を尖らせて、渋々水筒を元の位置に戻した。相変わらず言動が子供っぽいし、何が目的なのかわかんない奴だな、こいつ……。
とりあえず隣の少女は放っておこうと思い、俺は歩きながら、背後の森林地帯を一瞥してみる。
たったそれだけで、あの森での出来事が走馬灯のように脳裏を過った。
『風守り』の一族の少女、シャルミナ。
気儘なトレジャーハンター、レイミーとジグラン。
集落の村長、ダンテ。
そして、あの森林地帯で不可解な事件を起こしていた『魔術師』、リシド。
全く『魔女伝説』やら『人狼』やらと、我ながら妙な事件に首を突っ込んでいたものだ。別に悪い事ばかりがあった訳じゃないが、そのせいで予定が狂ってしまっているのは事実だ。いい加減、自分の節操の無さを呪いたくなってくる。
内心でげんなりしている間も、足を止めなかった結果だろう。いつの間にか、俺とリネは草原の丘の頂上に到達していた。ここからなら、目的地の街並みが見えるはずなんだけど……。
視線を巡らせる事、僅か数秒。眼下に広がる景色を目の当たりにして、俺は思わず息を呑む。なぜなら穏やかな風が吹き抜ける丘から望む景色は、レイミーから聞いて想像していたものより、遥かに美しいものだったからだ。
「これは……」
「凄い……! 綺麗〜!」
この街の名も、まさにその姿そのものだと思った。
『紺碧の泉』。観光地としても有名な湖上都市。
少し崩れた円形に広がる湖の色は、曇天の空の下でも青々としていて、まさしく紺碧の名に相応しい色合いだ。碧い湖上に浮かぶ、白い煉瓦造りの街並みに向かって、湖の岸から十字に石橋が架けられている。橋一本の長さは三百メートルほどで、幅が大体二十メートルといった所だろうか。橋の上には、いくつもの出店らしき物が所狭しと設置されていて、まさしく観光地と呼ぶべき賑やかさだ。
今が晴天でさえあれば、その街並みはより美しく見えていた事だろう。
「……ミレーナさん、まだあそこにいるのかな?」
景色に気を取られていた俺は、隣に立っているリネが心配そうに呟いた事で我に返る。
天上を覆う灰色の分厚い雲は、いつ雨が降り始めてもおかしくないほど、重苦しさが増しているように思う。
俺は眼下の街に視線を戻しつつ、傍らのリネに告げる。
「まぁ、行って確かめてみればわかるさ。とにかく街に入ろう。雨が降り出す前に、宿の確保だってしておきたいしな」
「うん、そうだね」
リネは静かに頷くと、眼下に待ち受ける湖の畔に向かって歩き出した。
しばらくその場に佇んでいた俺は、少し下の方で手招きしているリネに倣って、丘をゆっくりと下り始める。
胸の内に、妙な緊張感を抱えながら。
◆ ◆ ◆
「うわぁー、凄いよディーン! 出店がいっぱいある!」
橋の入口に着くなり、心底楽しそうな声を上げるリネ。どうやらさっき俺が言った事を、早くも忘れてしまっているらしい。
一体どこにそんな元気が残っていたのか知らないが、リネは橋の上に立ち並ぶ出店の数々に心奪われているようで、さっきから忙しなく辺りを見回している。
「お前さ、俺がこの街に何しに来たのか知って――」
「あっ! あれ何だろ!?」
「って聞けよ人の話!」
何か興味を引く物品を見つけたらしく、彼女は前方にある一軒の出店に向かって一目散に駆けていく。
対して俺はいつも通り、腹の底から盛大な溜め息をついた。ホント、何であんな奴と旅する羽目になったんだろ?
今更な不満を心の中で封殺しつつ、出店の前ではしゃいでいるリネの背中を見つめて、俺はふと物思いに耽った。
一年前、師匠ミレーナ・イアルフスが突然消息を絶ち、その行方を追って大陸の各地を回っていた最中。俺は『とある事件』に関わった事から、彼女がこの『紺碧の泉』に向かったらしいという情報を手に入れた。
この一年、まともな手掛かりが掴めた事は一度も無かったからこそ、俺はその情報に飛び付き、こうして遠路遥々この街へと赴いたのだ。
だが俺は、ここに辿り着くまでに何だかんだで時間を費やしてしまっている。
これは一年間捜索を続けて感じた事だが、ミレーナは行方不明になってからというもの、長い期間一所に留まるという事をしなくなっているようだ。今の今まで彼女に関する情報が手に入らなかったのも、それが一番の原因だろう。
だからこそ、焦りを覚えずにはいられない。
ミレーナの姿が目撃されたのは、俺が浪費した時間も加えると、今から二ヵ月以上前。例えこの街に立ち寄ったのが事実でも、彼女が今も滞在している可能性は、極めて低いように思う。
繰り返すが、だからこそ俺は焦っている。それこそすぐにでも、彼女の情報集めを開始したいくらいに。
だが悲しいかな、目の前の少女は、そんな俺の心境を理解してくれているとは思えない。あのはしゃぎっぷりじゃ、どう考えても望み薄である。
ここぞとばかりに浮かんでくるリネへの不満をどうにか押し殺し、俺は出店に歩み寄りながら声を掛ける。
「さっきから何見てはしゃいでんだ?」
彼女が目を奪われているのは、店先に所狭しと飾られている女性物のアクセサリー達だった。
指輪、ブレスレット、イヤリング、ネックレス等々。付けられている値札から高級品ではない事は大体わかるが、そんな事リネにはお構いなしらしい。純真無垢な子供みたいに目をキラキラさせながら、今にも買い取る品物を選び出さんばかりの勢いで、視線をあちこちに投げている。
「あっ! ねぇねぇ、ディーン! あのペンダント綺麗だよ!」
お気に入りの品を見つけた様子の姫様は、俺の服の袖をグイグイ引っ張りながら、出店の中央に飾られている品を指差した。
星形に刳り貫いた銀細工の中央に、ルビーのような紅い宝石をくっつけ、それを銀色のチェーンでぶら下げただけの、割と質素な作りのペンダント。もちろん値段から察するに、紅い宝石は造り物のようだ。
少々興奮気味のリネは、ペンダントと俺を交互に見ながら、さぁあなたも感想を述べなさい、と言わんばかりの顔をしている。
が、正直俺はこういう物に全く興味が湧かないし、こういう時どのような反応を返せばいいのかもわからない。
なので、
「……そうだな」
と適当な相槌を打つに留めておいた。
するとリネは視線を俺へと固定し、
「綺麗だよね!」
と念を押すかのように繰り返した。もちろん純真無垢な目はそのままで、だ。
「……」
どうしてだろう? 乙女心など微塵も理解できないこの俺が、次に彼女から言われる事が簡単に予測できてしまうのは、本当にどうしてなのだろう?
まぁだからと言って、必ずしも俺が『それ』に従う必要はない訳だが、それでも不思議と拒む理由は思い浮かばなかった。
俺は財布から代金を取り出し、店主に品物を買い取りたい旨を伝え、代金と引き換えにペンダントを受け取った。そしてそれを、無理矢理握ったリネの右手に押し付ける。
「これで文句ねぇだろ?」
「やったぁ! ありがとう、ディーン!」
その場で嬉しそうにピョンピョン跳び跳ねた彼女に、いつぞやと同じく抱き付かれそうになったので、俺はそれをヒョイっと躱して歩き始める。
背後でリネが不満そうな声を上げるが気にしない。
「ったく、呑気なモンだよな。お前がどういうつもりなのかは知らねぇけど、こっちは遊びに来てんじゃねぇんだよ」
白い街並みに向かって伸びる石橋を先行しつつ、彼女が追い付いてきた事を確認した後で、俺はやや口調を強めてそう言った。
すると案の定、リネは少ししょんぼりした顔になる。
「それはあたしだってわかってるけど……」
「けど? けど何だよ?」
「あんまり根詰め過ぎるのも良くないなぁと思ったから、息抜きになればいいなと思って……」
「……!」
何だ、意外と考えて行動してたんだな、こいつ……ってオイ待て。じゃあ何か? 俺はその息抜きのためにアクセサリーを買わされたのかよ。気の遣い方間違ってねぇか?
釈然としない部分はあるが、それでも一応、彼女なりに俺の事を気に掛けてくれているのは確かなようだ。
何度目だったかもう覚えてないが、軽く溜め息をついた後、俺は肩越しにリネの方を振り返る。
「……そのペンダント、失くすなよ」
「……! うん!」
ぶっきら棒に言うと、リネは心底嬉しそうに笑って、早速ペンダントを自分の首に掛けた。余程気に入ったのか、右手で紅い宝石がくっついた星形の銀細工を触りながら、見蕩れるようにジーっと見つめている。
全く、傍から見てると面白いぐらいに表情がコロコロ変わる奴だな。
「置いてくぞー」
「あっ! 待ってよディーン!」
先に歩き出して意地悪く告げると、背後から少々慌てているらしいリネの元気な声が返ってくる。
彼女が今、どんな表情で、どんな様子で近付いて来ているのか。何となく想像できた俺は、思わず軽く笑ってしまった。
やれやれ。どうやら俺も、随分とリネに毒されてしまったらしい。
自分でも気付かない内に、彼女とのこういうやり取りを楽しむようになっているのだから。
◆ ◆ ◆
湖に架かる橋を渡り終え、俺達はいよいよ『紺碧の泉』の街並みへと足を踏み入れた。
白い煉瓦造りの建物が立ち並ぶ街の中は、商店や住宅があらゆる所に混在しているようだ。どうもその辺り、建物によって区分けしている『首都』の街並みとは違うらしい。行き交う人の数は『首都』ほどではないが、それでも有名な観光地と言うだけあって、なかなか多いように思う。
まるで貴族専用かと見紛うほど、隅々まで手入れの行き届いた石畳の道を歩きながら、俺は周囲を見回してみた。
辺り一面に立ち並ぶ商店の数々。その中にいくつか、宿らしき看板を出している建物がある。
「さて。宿を探すのが先か、聞き込みが先か……」
「あたしはどっちでもいいよ。って言うより、ディーンはすぐにでも聞き込みをしたいんでしょ?」
方針を決めかねている俺を見つめ、リネは悪戯っぽく笑いつつ、まるで心を見透かしているみたいな事を言う。
……確かにその通りではあるのだが、なぜだろう。ひねくれた俺の内心は、それをリネに指摘されるのが悔しいと感じてしまう。
さっきとは真逆の事を考えるなんて、我ながら勝手な奴だな、俺……。
「お前がそう言うなら聞き込みを先に始めるけど、ホントにいいのか?」
「全然いいに決まってるじゃん。頑張ってミレーナさんを捜そーっ!」
これ以上ないくらい明るく笑いながら、リネは元気良く右手を振り上げる。
さっきのペンダントの効果なのか、妙に機嫌いいなこいつ。まぁ、いつぞやみたいに変な邪魔が入るよりはマシか。
適当に考えながら、とりあえず近場の商店に足を向けてみる事にする。
軒先で果物を仕分けしている店主らしき男の許に歩み寄り、声を掛ける。すると四十代くらいの男の口から、「いらっしゃい!」という活気溢れる声が返ってきた。
「突然で悪いんだけど、この写真の女に見覚えないか?」
そう言って俺は例の如く、マントの内側から一枚の写真を取り出し、店主の方へと差し出す。もう十年くらい前に撮った、ミレーナとの思い出の写真だ。
店主は写真を受け取ると、まじまじとそれを見つめた。
「だいぶ前の写真だから、少し雰囲気が変わってるかも知れねぇんだけど……」
この台詞も、もう何度となく繰り返してきた定番となりつつある言葉だ。
俺はあと何度、この言葉を繰り返せばいいんだろう?
と、そんな思いが頭を過った時だった。
店主の口から、今までとは違う答えが返ってきたのは。
「おや? これ、ミレーナさんじゃないか」
「! ミレーナを知ってるのか!?」
呆気なく紡がれた言葉に、俺が思わず身を乗り出すと、店主は特に驚いた様子も見せず、軽い調子で続ける。
「知ってるも何も、よくここに品物を買いに来てくれる常連さんだよ。ログの奴と一緒に暮らしてるからな」
「……は?」
この店に来る常連? ログの奴と暮らしてる? この店主は一体何を言ってるんだ?
「……本当にこの写真の女に間違いないのか?」
そっくりな誰かさんと勘違いしているのではないかと思い、疑いの眼差しを向けてみる。が、店主の自信が揺らぐ様子はない。
「ああ、間違いない。ミレーナさんはウチの常連さんの中では、とびっきりの美人さんだからな。見間違える訳ないよ」
……どういう事だ? 仮にその常連客がミレーナ本人だったとして、何で彼女がこの街で暮らしてるんだよ? しかもログとか言う奴と一緒にって……一体どこの誰なんだよ、そいつ?
さっきから頭の上に疑問符が浮かびっぱなしだ。まさかとは思うがこの店主、俺が買い物しそうにねぇからってからかってんじゃねぇだろうな……。
「すみません。その、ログさんって言うのは?」
俺の顔が険しくなり始めている事に気付いたのか、リネが少々慌てた様子で会話に入ってきた。
一方、問われた店主は申し訳なさそうに苦笑する。
「あーっと、すまない。つい知ってる体で話しちまった。本名はログハイム・ベスカっつってな。随分前からこの街に住んでる歴史学者なんだがよー。いつの間にやらあんな美人と暮らし始めてて、そりゃ驚かされたもんさ」
「はぁ……。そのログハイムさんは、どの辺りに住んでるんですか?」
「ああ、あいつの家なら――」
と言い掛けた所で、店主は少し不審そうな顔付きになり、食い入るように俺達を見つめてきた。
「……ところでキミ達、ミレーナさんの知り合いなのかい? 見た所、旅人みたいだが」
うーん、やっぱ怪しまれるよな、そりゃ。結構ぺらぺら喋ってたから、すんなり教えてもらえるかと思ったんだが、さすがに甘かったか。
とはいえ、こうなる事も想定済みだ。こちとら伊達に一年、ミレーナを捜し回ってた訳じゃねぇからな。
「ああ、そうだよ。実は昔、ミレーナが『首都』に住んでた事があってさ。その頃に色々と世話になったんだけど、最近彼女がこの街に引っ越したって聞いたんだ。だから観光がてら、ちょっと顔を見に来たって訳」
次々とそれらしい台詞を並べ立てる俺に、店主だけでなく、隣にいるリネまで目を丸くする。
いやいや、お前まで意外そうな顔すんなよ、バレるだろうが。
「へぇーそうなのかい! 確かにミレーナさんは、どこか気品がある人だからな。『首都』暮らしだったってんなら、その辺が関係してるのかも知れねぇ。こりゃますますログの奴から馴れ初めを聞き出さなきゃならねぇなぁ」
あれこれ余計な事まで口にして、一人感慨深く頷く店主。簡単に信じてくれたのは有り難いが、だったらさっさと情報を寄越してほしい。
隣で同じ事を思っているらしいリネと一旦顔を見合わせ、俺はわざと躊躇いがちに告げる。
「それで、あのー……」
会話を促されている、と上手く伝わったらしく、店主はハッとした様子で口を開く。
「おっと、悪い悪い。ログの家の場所だったな。この通りを真っ直ぐ進んで、二本目の十字路を左に曲がった所だ。軒先に花壇が設置してあるから、すぐにわかると思うよ」
「そっか、教えてくれてありがとな。――ああ、そうだ。そこにある林檎五つくれ」
「はいよ! 毎度あり!」
ここまで教えさせて何も買わないのでは、さすがに印象が悪いと思い、適当に果物を指定して代金を払い、リネと共に商店から離れた。
「それにしてもビックリしたよー。ディーンってば、よくあんな出任せを思い付いたね。もしかして慣れてるの?」
とりあえず教えてもらった方向に歩く俺の横で、リネが感心半分、呆れ半分といった様子で言う。
俺は林檎の入った紙袋を荷物の中に仕舞い、さっきの商店を一瞥した。
「別に特技だと自負してる訳でもねぇけどな。この一年、似たような事繰り返してたから、自然と身に付いちまっただけだ」
「そっか……」
特に感慨もわかないまま返したつもりだったのだが、一瞬だけリネが気不味そうな表情を浮かべた。この程度の事、別に気にする必要もないだろうに。
「ところでさ。さっきの話、どういう事だと思う? 本当にディーンの捜してるミレーナさんなのかな……」
少しでも気分を変えようと思ったのか、リネは会話を進めて、不思議そうに首を傾げる。
確かに俺も、訳がわからないというのが本音だ。
なぜミレーナは、何も言わずに姿を消したのか。その理由さえわかっていないというのに、見知らぬ土地で見知らぬ誰かとのんびり暮らしているなんて、何かの冗談としか思えない。
尋ねた相手が悪かったのかも知れないと考えた俺達は、進行方向上にあるいくつかの商店で、聞き込みを繰り返した。
だが返ってくる答えは、どれも概ね最初に聞いたものと同じだった。
『ログと一緒に暮らしているミレーナさん』
それが、この街全体とは言わないまでも、少なくともこの近所における共通認識になっているらしい。
「……訳わかんねぇ」
結局、投げ遣りな結論しか導き出せなかった俺は、同じく訳がわからないと言いたげなリネを連れ立って歩き続けている内に、とうとう目的の家の近くまで辿り着いてしまった。
最初の商店の店主が言っていた通り、前方の少し離れた位置に、白い煉瓦で造られた二階建ての家が一軒建っていて、その軒先に、色鮮やかな花がいくつも植えられた小さな花壇がある。
通りの隅で立ち止まった俺とリネは、物陰からその家を観察してみた。
……うん、怪しい。今の俺達、メチャクチャ怪しい。
「あの家だよね、教えてもらったのって」
「ああ、多分な」
「それで、どうする? 人違いかも知れないけど、一応尋ねてみようか?」
「……そうだな。実際に確かめてみないと、何もわかんねぇままだし」
人違いならそれでもいい。このモヤモヤを払拭するには、行動あるのみだ。
コソコソと相談し合った俺達は、意を決して目的の家に向かって歩き出した。ふと背後に目をやると、リネが少し不安そうな顔で付いて来ている。
斯く言う俺も、妙な不安で胸が押し潰されそうだ。本人にしろ人違いにしろ、キチンと確かめないと、この不安は消えそうにない。
そう思いつつ、視線を前に戻した直後だった。
もう数メートル先にまで迫っていた家の扉が開き、誰かが出て来た。あまりにも突然の事だったため、俺は反射的に立ち止まってしまう。
だが玄関を潜ってきた人物を見た瞬間、俺は現実を疑いそうになった。
現れたのは、腰の辺りまでありそうな長い金色の髪を生やした、三十代前半の女性。曇天の下でも煌めくその髪を揺らしながら、花壇の方へと歩いて行く女性の手には、花に水を与えるための如雨露が握られている。
俺はその女性に見覚えがあった。
いや、それどころの話じゃない。一年間会っていなかったとはいえ、見間違いようがない。
俺の、師匠だ!
「ミレーナ!!」
気付けば俺は、大声で彼女の名を叫び、走り出していた。
数メートルほどの距離を一気に駆け抜け、少々驚いた様子の彼女の正面で立ち止まる。
ようやくだ。ようやくミレーナを見つける事ができたんだ!
正直な俺の心臓が、これ以上ないぐらいに悲鳴を上げている。湧き上がる高揚感を、上手く抑えられそうにない。
「元気だったかミレーナ? 俺、あんたの事ずっと捜してたんだ!」
興奮と喜びの余り、俺は通りに響き渡りそうなほどの大声を出してしまっていた。道行く人々は恐らく、怪訝な目で俺を見ているに違いない。
だが、周囲の反応なんて気にしていられない。
ミレーナが目の前にいる。その事実以外は、今の俺にとってはどうでもいい事だ。
様々な感情に胸の内を掻き乱されていた俺は、しかし彼女の顔を見た時、ふと疑問に思った。
「……? どうしたんだ、ミレーナ?」
何だか彼女の様子がおかしい。少々驚いた表情のまま、俺を見つめて固まっている。こんなミレーナの表情、一緒に暮らしていた十数年の内でも見た覚えがない。
「あの――」
困惑し掛かっていた俺は、彼女がようやく口を開いた事に内心で安堵した。
だがそれは、一秒にも満たない僅かな時間で、脆くも崩れ去る。
「あなた、どちら様ですか?」
「――えっ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
発せられた言葉が鼓膜を通過し、その意味を脳が理解するまでに、恐ろしいまでの時間が経過したような錯覚に陥る。
彼女は、ミレーナは今、何と言った?
「……お、おい。冗談やめろよ……」
心臓が、さっきとは違う意味で悲鳴を上げていた。胸の中心が、ズキズキと不快な痛みを発している。
そんなはずがないと。有り得ないと。そう叫んでいるみたいに。
「俺だよ……! あんたの息子で、弟子でもあるディーンだ! 戦争孤児だった俺を育ててくれたのは、他でもないあんただろ! 忘れちまったのかよッ!?」
「ちょ、ちょっと待ってディーン! 落ち着いて!」
あまりの事態に、思わず俺はミレーナに掴み掛かりそうになった。だが横合いから、リネが慌てた様子で止めに入ってくれたおかげで、何とか事なきを得た。
……一体何なんだ、この悪夢みたいな状況は。これは本当に、現実なのか?
「ミレーナ。随分騒がしいようだけど、何かあったのかい?」
お互いにどのくらい、膠着状態が続いた頃だろう。不意に開けっ放しだった玄関の扉の方から、男の声が聞こえてきた。
俺が視線を向けるのと、家の中から声の主が姿を現したのは、ほぼ同時だった。
短く整えられた黒髪に、楕円形の眼鏡を掛けた三十代後半の男。やや細身であり、背は俺よりも高い。その風貌からは、どこか理知的な雰囲気を醸し出している。
もしかしてこの男が――
「ログ。それが……」
俺の思考の答えを、ミレーナがそのまま口にした。
石像みたいに佇んでいたはずの彼女は、助けを求めるかのように男の方へと駆け寄り、すぐさま背後に回り込んだ。そして男の身体越しに、どこか戦々恐々とした様子でこっちを見つめてくる。
その表情から読み取れる感情は、不安。まるで見ず知らずの人間に突然声を掛けられた時みたいな、酷く戸惑った表情。決して冗談でやっているようには感じられない。
一体、何がどうなってる……?
「ちょっといいかな」
困惑し、硬直し掛かっていた俺を我に返らせたのは、そんな一言だった。
思わず声の主、ミレーナにログと呼ばれた男に視線を向けると、彼は俺の容姿、特に髪の方を見てこう続けた。
「間違っていたら申し訳ない。もしかしてキミの名前、ディーンと言うんじゃないのかな?」
「えっ……!? 何で俺の名前を……」
突然言い当てられて驚く俺を尻目に、男は眼鏡を軽く掛け直すと、一人納得したように頷いた。そして優しく微笑みながら、不安そうな表情のミレーナに言う。
「大丈夫だよ、ミレーナ。彼らはボクの知り合いだから」
優しく諭すかのように、彼女の肩を軽く叩きながら囁いた後、眼鏡の男は俺の方へと歩み寄ってきた。
少々身構える俺を他所に、男はすぐ傍まで近付いてきた途端、その表情を真剣なものへと変える。
「詳しい事は中で話すよ。ディーン・イアルフスくん」
「!」
紡がれた男の言葉で、警戒心が一気に強くなる。なぜこの男は、俺の素性を知っているんだろう?
その疑問が解消される前に、男は優しい笑顔を浮かべると、不安そうに佇んでいたミレーナを連れて、家の中へと入っていく。その間ミレーナは、眼鏡の男に対しては、警戒する素振りを全く見せていなかった。
正直、何が起こっているのかさっぱりわからない。しかし、ただ一つだけ、確かな事がある。
自分が今蚊帳の外にいる以上、詳細を掴むためには、俺自身が行動を起こすしかない。
それならば――
「……どうするの、ディーン」
「決まってんだろ。話を聞かなきゃ何も始まらねぇ」
不安そうに尋ねてきたリネに返答しつつ、開けっ放しだった玄関に向かって、俺はゆっくりと歩き出す。
その時、ほんの一瞬視界に映った空の色が、さっきよりも随分と、黒くなっているような気がした。
 




