第八章 命と魂
呼吸をする度に、胸の辺りが軋むような痛みを発する。額に浮かんだ汗は、無数の雫となって流れ落ちていく。
リシドが森に逃げ込む姿を目撃し、追跡を始めてすでに五分は経過しただろうか。シャルミナ自身の体力が低下し、思うように速度が出せないせいか、一向に追い付く気配がない。
(それでも追わなきゃ……。あいつを止めるのは、私の役目なんだから……っ!)
森の構造を熟知している分、月の光が満ちている今宵なら、道に迷う理由はない。
ただ、一つだけ問題がある。それは、『呪い』の影響がどの辺りから発生するか、だ。
遺跡から一定の距離を取ろうとする、という行為が引き金となるのは重々承知しているが、その距離がどの程度からなのかは、実はシャルミナにも把握し切れていない。
何せ『呪い』の影響が及ぶ距離は、四方八方に均一に広がっている訳ではないらしく、極端に短いところもあれば、その逆の場所もあるのだ。
リシドを追うのに夢中になって、うっかり境界を越えてしまえば、取り返しのつかない事になる。ついさっき深手を負ったばかりの身体なら尚更だ。
できるだけ慎重に事を運ぼう。そう自分に言い聞かせていた時だった。
十数メートル前方に、ようやく蠢く影を見つけ、シャルミナは即座に意識を切り替えた。
「止まりなさい! リシド・ベイワーク!」
できるだけ強く、威圧的な声を出し、相手を牽制しようと試みる。すると意外にも、リシドはすぐに反応を示し、その場に立ち止まった。
シャルミナは徐々に走る速度を緩め、ゆっくりと距離を詰めていく。
「そこから一歩でも動いたら、容赦無く切り刻むわよ」
「――くっ」
微かな息遣いが聞こえて、シャルミナは立ち止まった。その途端、リシドの肩が小刻みに震え始める。
追跡者に迫られ怯えているから――ではないと、シャルミナは即座に気付いた。
あれは恐怖から来る震えではない。愉悦によって生じる笑いを、堪えようとしているのだ。
「くはハハハハは……くはハハっ! ぎャハははハはははははッ!!」
ついに我慢し切れなくなったのか、粘り付くような悪意に満ちた高笑いを上げるリシド。月明かりに照らされながら、彼がゆっくりと振り返った瞬間、シャルミナは自身の眼を疑った。
異形の化物が、そこに佇んでいたからだ。
身体の左半身だけが『獣化』した、実に中途半端な変化。腕や足、顔の部分も、左側だけが銀色の毛に覆われ、狼そのものとなっている。
僅かにだが、『人狼』とはまた違う存在。
リシド・ベイワークという人間が、忌むべき変革を遂げた瞬間だった。
「容赦無ク切リ刻む、ねェ。イいぜぇ、やッテみロヨ……! 貴様如キにヤレるもンならなァっ!!」
言葉と共に一瞬で距離を詰めてきたリシドは、『獣化』した左腕を振り上げた。
攻撃の軌道を予測し、シャルミナは回避を選択する。直後、空振りとなった攻撃が鋭く地面を割った。
後方へ跳び退ったシャルミナは、地面を滑走する格好で勢いを殺し、身体を停止させる。
(何なのよ、あの姿は……!? 本当にただの化物になってるじゃない!)
自分が意識を失った後、どのような経緯の末、リシドがここまで逃亡する事を選んだのかはわからない。恐らくはディーンが追い詰めた結果なのだろうが、シャルミナはこの状況を、決して優位だとは考えられなかった。
なぜなら、自発的にしろ偶発的にしろ、中途半端に行使されたリシドの『獣化』が、却ってその異常性を強調しているからだ。
狂気を、殺気を、多分に孕んだリシドの表情は、容赦なく恐怖心を煽ってくる。
どこかで何かが狂った結果、シャルミナは今、正真正銘の化物と対峙する事になってしまったのだ。
「オいおい、どォしたぁ? 俺様ヲ追い詰メタヨウな口振りだっタ割には、随分と消極的な動きだナ。サッきみたいニ使ッテみろヨ、お得意ノ鎌鼬ヲよぉ」
挑発の言霊を吐き出しながら、かつて人間だった化物は、肉薄してきては左腕による強打を放ってくる。
その度に、シャルミナが紙一重で躱す事で、周囲の木々や地面に次々と破壊の痕跡が生み出されていく。
「随分と息ガ上がってるナァ。ソんなザマじゃあ、俺様を殺す事ナンテできやシねぇぜェ!?」
休む間もなく繰り出される、リシドからの猛攻。最早回避に専念するしかないシャルミナは、ずるずると後退させられてしまう。
そうして何十度目かの攻撃を躱した、直後。突如訪れた微かな立ち眩みが、シャルミナの動きを鈍らせた。
それを待っていたかのように放たれる、大振りの一撃。横薙ぎに振るわれた左腕を躱し切れず、シャルミナは強力な打撃を受けてしまった。
「かは……っ!」
軽々と吹き飛ばされ、背中から巨木に激突した事で、肺から息が無理矢理吐き出された。
血を失くし過ぎた身体に、その衝撃は重く響いてしまったらしい。
痛みを堪える暇もなくシャルミナの意識は途切れ、果てのない闇へと落ちていった。
◆ ◆ ◆
『倒す』べきか、『殺す』べきか。
リシドの後を追う今になって、俺は冷静さを取り戻し、少し考えを改め始めていた。
そもそも、二択に絞らなければならない理由は何なのか? 絶対に二択じゃないとダメなのか?
別に今回の一件は、誰に指示された訳でもない。俺が勝手に関わって、勝手に行動した上で起きている事態だ。だから最後まで選択権は俺にある。どれだけ自由にやっても、誰にも文句は言えないはずだ。
だから俺は、三つ目の選択肢を選ぶ。
『倒す』でもなく『殺す』でもなく、リシドを『止める』という選択肢を。
ヘ理屈だと言われるかも知れない。単なる理想論に過ぎないと、笑われるかも知れない。
だけど、それがどうしたってんだ。
理屈だろうが理想だろうが、誰にも文句は言わせない。俺は俺のやりたいようにやる。思えば俺は、ミレーナとの約束を果たすと決めた時から、ずっとそうしてきたんだから。
それに目下のところ、止めるべき相手はもう一人いる。
いなくなったシャルミナと、逃げ出したリシド。両者に付随している問題は、どちらも人の命が掛かってるって事だ。
シャルミナの場合は、彼女自身の命。
応急処置しかしていない身体で動き回れば、また傷口が開く恐れがある。あの重傷でそんな事になれば、出血死は免れないだろう。
そしてリシドの場合は、他者の命。
暴走した『魔術』によって『化物』になったリシドは、いつ人を襲っても可笑しくない状態のはずだ。そんな奴を放っておけば、余計な死人が出るのは眼に見えてる。
どちらも命が掛かってる以上、この問題は早急に解決しなければならない。
「――ねぇ、ディーン。今更なんだけど……」
「何だよ」
森の中を駆け抜けながら、心の整理をつけていた俺に、横合いからリネがこう問い掛けてきた。
「リシドが逃げた方向って、ホントにこっちで合ってるの?」
本当に今更、改めて問われた俺は、思わずその場に立ち止まってしまう。
リシドの後を追って森に入った時点で、既にその姿はどこにも見当たらなかった。ここまでただ漠然と前に突き進んできただけの俺にとって、彼女の指摘は尤もだった。
もしも後を追うどころか、全く検討違いの方向に進んでしまっていたら、最早リシドに追い付く事は不可能に近い。雲一つない夜空に浮かぶ満月のおかげで、多少の光源は確保できているものの、それでも昼間に比べれば、どうしても暗さは強調されてしまう。
この状況下の森の中で、手掛かりなく誰かを捜すというのは、無理難題を押し付けられてるようなものなんじゃないだろうか?
「……もしかして、当てずっぽう?」
「う、うるせぇな! 仕方ねぇだろ、予測でしか動きようがなかったんだから! 大体お前、何でホントに今更そんな重要な事指摘してくんだよ! 嫌がらせか!?」
「そ、そんなに怒らなくてもいいじゃん! ちょっと気になったから聞いただけなのに!」
「それが余計なんだっつってんだろ! あーもう、付いてこいとか言わなきゃ良かったー!」
「酷っ! あたし泣くよ!? 泣いちゃうよ!?」
ここぞとばかりに泣き真似を始めるリネに苛々しながら、ふと視線を外した時だった。森を支配する薄闇の中に一点、弱々しいながらも青い光を放つ何かが、少々離れた位置にある事に気付いた。
「あれ、どこ行くのディーン!?」
無言で駆け出す俺に置いていかれまいと、リネは慌てた様子で後を追い掛けてくる。
彼女を連れ立って小さな光源の許まで辿り着いた俺は、屈んで『それ』を拾い上げた。
青い光を放つ物の正体は、リシドが持っていた水晶の欠片だった。
「何か見つけたの?」
欠片を手に立ち上がる俺の肩越しに、リネが不思議そうに覗き込んでくる。
集落での戦いで、木っ端微塵に砕いたはずの水晶。その欠片がここに落ちてるって事は……!
俺は反射的に欠片を放り捨て、『紅蓮の爆炎剣』を出現させた。その余りの勢いに驚いたらしく、リネが小さく悲鳴を上げる。
臨戦態勢を整えつつ、周囲に気を張り巡らせ警戒する。炎剣の紅い光が、暗闇に包まれた森の中を明るく照らし出した。
「ねぇ、どうかし――」
「黙ってろ。それと、俺から離れるんじゃねぇぞ」
事態を把握できていなさそうなリネの言葉を、問答無用で封殺する。
今気を抜く訳にはいかない。この薄闇のどこかに、リシドが潜んでいる可能性があるのだから。
……それにしても妙だな。俺達がリシドに追い付いたのなら、どこかでシャルミナと合流できていないとおかしい。彼女が手負いの状態で、体力も低下しているなら尚更だ。それともシャルミナがリシドを追跡しているという推測は、最初から的外れだったってのか?
いや、そんなはずはない。あの状況で、シャルミナが意味もなく姿を消すとは思えない。それに、いくら闇夜に支配された森とはいえ、その構造を俺達より熟知しているであろう彼女が、道に迷うとは考え難い。現についさっき彼女は、遺跡から集落までの長い道のりを、迷う事無く導いてくれたのだから。
なら、どうしてシャルミナは姿を現さない? あいつは今、どこに――
と、ほんの少し構えを緩めてしまった時だった。
突然、横合いの草むらから飛び出してきた何かが、俺に突進を仕掛けてきた。
不意を突かれ、炎剣を構え直す暇もなかった俺は、もろに一撃を喰らい、短い草の生えた地面に倒れ込んでしまう。
「くっそ――がッ!?」
すぐさま上半身を起こし掛けた俺の胸の中心に、激しく重い一撃が叩き込まれた。
胸の圧迫と共に地面へ押し付けられた俺は、息苦しさに抗いながら襲撃者を睨み付けた。
「リ……ッ、シド……!」
俺を容赦なく踏み付けているリシドの姿は、集落で戦っていた時と比べると、若干変化していた。
いや……この場合は、『変化し切れていない』と言った方が正しいかも知れない。
リシドの姿は、身体の左半身だけが中途半端に『獣化』していた。服から露出している腕や足はもちろん、顔の部分も左側だけが銀色の毛に覆われ、左眼は月の光によって怪しげに輝いている。
まるで右と左、縦半分に割った人間と狼の身体を、無理矢理繋げたような状態だ。
「よぉ。待ってたゼぇ、デぃーン・いアルフすゥゥゥゥ。道ニデモ迷ってタのかぁ?」
不気味に、気色悪い笑みを浮かべ、リシドは心底愉快げに告げる。
その光景を、傍らの少女が黙って見ている訳がなかった。
「ディーンを放して!」
珍しく強い口調で叫んだリネは、腰のホルスターから銃を抜き、構えようとした。
しかし――
「邪魔ダ小娘ェっ!!」
横槍を入れようとする存在に激昂したリシドが、『獣化』した左腕を容赦無く振り払った。
横薙ぎの一撃を受け、殴り飛ばされたリネは、巨木に激突してしまう。
「あうっ……!」
「リネッ!!」
無理矢理吐き出される、痛々しげな息遣い。
ぶつかった衝撃による痛みで、身体が麻痺しているのだろう。地面に伏すリネは苦しそうに表情を歪めるばかりで、俺の呼び掛けに答えようとしない。
低俗極まりない暴力を止められなかった事に激しい怒りを覚え、俺はリシドを睨み付ける。
「て、めぇ……ッ!」
「カハはハハ、安心しロ。小娘に手ヲ出すのは後にシテやる。まずは、俺様をコンナ姿にシやがッた貴様二礼ヲ返さなクッちゃならねぇダロォ。エエ?」
異形と化した口から怨嗟のような台詞を吐き、リシドは殺意に満ちた眼で俺を蔑んでくる。
俺は自分の胸を圧迫してくるリシドの足を掴んで、苦し紛れに睨み返した。
「何がっ、礼だ……。そんなもん、自業、自得だろ……! 人の命や、獣の魂を弄んだ、結果じゃねぇか……っ。自分の責任を……人に、押し付けてんじゃねぇよ!」
途切れ途切れに反論する俺に対して、リシドはニタァっと笑い返してきた。
背筋に悪寒が走るほどの、不気味な笑み。人間であって、人間じゃない表情。禍々しくおぞましいその様子は、化物と呼ぶに相応しい。
「弄ブ、ねェ。確カニその通りダ。俺様は命ト魂を、玩具とシてしか見てイナかッた。その俺様が、今度ハそいつラに玩具にサレルとはナぁァァ。何トも滑稽ナ話だ!!」
突然感情を高ぶらせたリシドは、俺の左脇腹に強烈な蹴りを叩き込んできた。
「がはぁ……ッ!?」
あまりの衝撃で身体が一瞬地面から離れ、数メートルほど蹴飛ばされる格好になった。
激痛によって集中力が途切れ、右手の『紅蓮の爆炎剣』が消滅する。
「ダかラヨォォォ、滑稽ナ俺様ハ、この身体を使ッテ貴様をブッ殺しテヤロうって決メタんだよぉォ。そノためにコウシて、追い掛けてクるのヲ待っててやッタンダ。有り難く思エェぇぇッ!!」
痛みに悶えている俺に肉薄してきたリシドは、再び強烈な一撃を叩き込んできた。避けるどころか、防御する暇もなかった俺は、またもや蹴り飛ばされてしまう。
一撃一撃が途轍もなく重い。あと数発でもまともに喰らってしまえば、全身の骨を砕かれてしまいそうだ。
だが、逃げる訳にはいかない。こんな変貌を遂げてしまったリシドを、野放しになんてしておけない。
攻めろ! 攻撃こそ、何にも勝る最大の防御だ!
「うおおおおおおおぉぉぉぉっ!!」
自分を奮い立たせる叫びを上げながら、俺は猛然とリシドに突っ込んだ。
奴は『獣化』した左腕を力強く振るうが、俺は最小限の動きでそれを躱し、懐に飛び込むと同時に、右拳を異形の顔面へと叩き込んだ。
「ごハッ!」
後ろに仰け反るリシドの胴体を狙って、接近の勢いを殺さず、今度は飛び蹴りを喰らわせる。
リシドが二、三度地面を転がる間に、俺は再び右手に『紅蓮の爆炎剣』を出現させ、更なる追撃のためにすぐさま追い縋った。
「おらああああああぁぁぁっ!」
右上段から放った一撃を、だがリシドは、地面を這うようにして飛び退き、回避してみせた。
俺は前のめりになって体勢を崩し掛けるが、その勢いを利用して右脚を前方へ踏み出し、地面を蹴り付ける力に変え、高く跳躍する。
「逃がすか!」
距離を取っていたリシドの顔面に狙いを定め、俺は上空から落下しながら炎剣の一撃を放つ。
だが、リシドも黙って待ってはいなかった。あろう事か炎剣の刀身を、獣と化したその左腕で鷲掴みにしたのだ。
「なっ!?」
驚く俺を尻目に、『紅蓮の爆炎剣』が自身の能力を発動して、炎と爆発を発生させる。
ところが、リシドはそれでも手を離さなかった。
不気味で陰惨な笑みを一瞬見せ、右拳で俺の腹の中心を殴り付けてきた。
「がはぁっ!」
とんでもない腕力によって吹き飛ばされた俺は、背後にあった巨木に背中から衝突した。
肺から息が無理矢理吐き出され、一瞬呼吸できなくなる。
「カはははハはハハハははハッ!!」
硬直し掛かる俺を尻目に、リシドは妙な笑い声を上げながら、鋭い飛び蹴りを放ってきた。
俺は根性で身体を無理矢理動かし、不格好に地面を転がった。
その直後。ズドンという、固い物同士がぶつかるような音が響き渡った。
まさかと思い眼をやると、さっきまで背後にあった巨木の幹に、リシドの左足が深々と突き刺さっていた。回避を選んでいなかったら、俺の頭部は文字通り木っ端微塵になっていたはずだ。
俺は荒くなった息を整えながら、何とか立ち上がる。
するとリシドは、巨木から足を乱暴に引き剥がし、冷徹な悪意に満ちた表情を浮かべてみせた。
「かハハは。楽しい、楽シイなァ、おい。こんな化物ノ姿にナッてシマッたガ、今俺様は猛烈に享楽してイル。楽しクて仕方ナイ!」
言葉通り狂ったように叫びながら、リシドは左腕を一直線に突き出してきた。
俺は前進しながら、身を少し屈める形でそれを回避する。
交差する瞬間、奴の爪が左肩を掠め、傷口から少量の血が飛び散った。
だが俺は気に留めず、炎剣を横一線に振り抜く。
直後、再びリシドの身体から、舞い踊るかのような炎と爆発が噴き出した。
「グがアアああアアァァッ!!」
絶叫し、苦しみ悶えるリシドは、だが尚も硬直しない。交差した直後の俺に向けて、乱暴に左腕を叩き込んできた。
横薙ぎに振るわれた一撃によって、俺は殴り飛ばされ、再び木に衝突した。全身を鈍い痛みが駆け抜け、僅かに意識が途切れ掛かる。
「こッ、の……馬鹿力が……ッ!」
苛立ち紛れに吐き捨ててみたが、どうも身体の方が言う事を聞かない。続け様に攻撃を受け過ぎたせいか、自然と息が上がっている。
「かはハっ! もウ終わりか、デぃーン・いあルフス! ソんなザマじゃあ、大事なモンを取リ零シちまうゾォオォ!?」
「!」
その不穏な言葉と、身体を反転させようとする動作で、俺は瞬時に悟った。
あの野郎、動けなくなったリネを狙うつもりだ!
「させるかぁーーーーーッ!!」
腹の底から怒号のように飛び出した言葉に呼応して、俺の足許から炎の鎖が生み出され、前方へと伸びていく。そして、まさに今駆け出そうとしていたリシドの胴体に多方向から巻き付き、その動きを封じ込めた。
しかし、それでも尚、突き進もうとするリシドは、忌々しげに俺を睨み付けてくる。
「大シタ騎士道精神だなァ。弱キヲ守り、強きを挫くッテカァ? サすがは『英雄』ノお弟子様ダ。甘ッちョろい理想を掲ゲるのが相当オ好きミタイだな」
「ああ?」
明らかな挑発に苛立ちを含んで返すと、リシドは腕力に物を言わせて、無理矢理炎の鎖を引き千切ってみせた。
砕け散った紅い拘束具が、霧散するように消え去る。
「『人殺シ』やら『殺戮兵器』やラ、ソンな言葉デ侮蔑スラサレる俺様や貴様のような『魔術師』ガ、人ヲ守るだト? 大言壮語モ大概ニシやがレ偽善者が。『魔術』ニ守護なんて生温イ概念ハ存在しねぇ。殺戮が、簒奪が、破壊ガ、『魔術』の本質ダ! 今コウして殺し合ってる俺様達ガ、それを何ヨり証明しテンだよォッ!!」
「うるせぇんだよ三下が。てめぇ如きに四の五の言われる筋合いはねぇ。俺は自分の誓いを、自分の信じた道を行く。ただそれだけだ!」
「はっ、下ラねぇ! ダッタらその道のりハ、俺様ガ閉ざしてやルよォッ!」
相対する俺を本当につまらなそうに見つめ、高らかに憤怒の声を上げるリシド。
やっぱり、こいつも今までの奴らと同じだ。『魔術』を、『魔術師』という存在を、枠に嵌めて決め付けようとする。抗う事は悪で、従う事は善だと言う。
だったら尚更、立ち止まる訳にはいかない。ミレーナとの約束を果たす、その時まで。
……とはいえ、正直かなり不利な状況だと言わざるを得ない。そもそもの身体能力に差があり過ぎる上、『魔術』による応戦にも平気で反撃してくるなんて、まさしく化物染みた所業だ。
歯噛みしつつ、俺は右手に握る『紅蓮の爆炎剣』に視線を落とし、思考を巡らせる。
今のリシドを黙らせるには、もっと威力のある一撃を与えないとダメだ。ならばこそ、是が非でも大技を放つ必要が出てくる。
だが今、俺の周りには多くの草木がある。こんな場所で『深紅の流星』でも放とうものなら、周りに及ぼす被害は甚大なものとなってしまうだろう。
しかし、このままだと戦闘不能に陥るのは、間違いなくこっちが先だ。
どうする……。何か良い打開策は――
「『斬風』!」
「!!」
思考を中断せざるを得なくなるほど、背後から強く響いた声。そして振り返る暇もないほど速く、俺のすぐ横を走り抜けていった、途轍もなく鋭い風。
辛うじてそれらを脳が認識した、直後――
何の比喩でもなく、リシドの左腕が千切れた。
「グぎァァがぁああぁァアァァァッ!?」
今までに聞いた事も無いほどの、激痛に苛まれている人間の悲鳴が響き渡った。
獣と化した左腕を根元から斬り飛ばされたリシドは、盛大な血飛沫を伴って地面に倒れ、狂ったように転げ回っている。
すると次の瞬間、斬り飛ばされた勢いで宙を舞っていた奴の左腕が、ドンッという音を立てて地面に落下した。
今のが鎌鼬なら、攻撃者は言うまでもない。
地面に伏したまま悲鳴を上げ続けるリシドとは、正反対の位置。背後を振り返った俺から五メートルほど離れた所に、牡丹色の髪の少女が佇んでいた。
遅れて現れた理由はわからない。だが彼女はすでに、満身創痍と表現すべき状態だった。
その証拠に、俺が言葉を紡ごうとするより早く、彼女の身体は力無く崩れ、乱雑に地面へと倒れ込んでしまう。
「シャルミナさん!」
身体の麻痺が解けたのか、真っ先に駆け寄ったリネに続いて、俺も傍らに近付いた時だった。
唐突に、彼女の身体から真っ赤な液体が噴き出したのは。
「なっ!?」
何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
一瞬、リネが『治癒』の力で塞いだ傷が開いたのかとも思ったが、違う。彼女の血は胸元からではなく、右脚の膝辺りから流れ出ている。
しかも、それだけでは終わらなかった。
俺とリネが呆然としている間に、シャルミナの身体の至る所から、次々と鮮血が噴き出していく。
まるで、鋭利な刃物で斬り付けられていくみたいに――
「まさか……、『これ』がシャルミナの言ってた……!」
初めて眼にする容赦のない現象は、彼女が『風守り』の遺跡から一定の距離を取ろうとすると起こる。つまり今シャルミナは、超えてはいけない境界線を超えてしまっているって事だ!
とにかく、彼女を早く『印術』の影響を受けない場所――例えば、さっきの集落まで運ばなければならない。
直感的に判断し、急いで彼女を抱き上げようとした、その時。
「クッ、ソがぁぁああアアァァッ!!」
片腕を失ったリシドは、怒り狂ったような雄叫びを上げ、踵を返して森のさらに奥へと駆け抜けていく。
あんの野郎……っ! あんな状態でまだ動けるってのか!
強靭とも言えるしぶとさに心の中で悪態をつきつつ、俺はシャルミナを挟み込む形で、リネの正面に膝をついた。
シャルミナの身体は血塗れで、今も身体のあちこちから血が流れ出し続けている。
「ねぇディーン、一体何がどうなってるの!? どうしてシャルミナさん、こんな状態に……!」
「シャルミナに掛けられた『呪い』のせい……って言ってもわかんねぇか。とにかく、今は詳しく説明してる時間はねぇ。多分、集落に戻りさえすれば、この症状は治まるはずなんだ。だから――」
シャルミナを抱えて集落に戻ってくれ。
そう口にしようとして、俺はすぐさま気が付いた。今まさに頼み事をしようとしている少女その人も、重度ではないにしろ、怪我を負ったばかりだという事に。
原因は十中八九、リシドからの一撃を受けてしまったせいだろう。リネ自身、俺に気付かれまいと気丈に振る舞っているつもりのようだが、見ていればわかる。微かに息が荒い上、多少動きがぎこちない。恐らくは肩か背中の辺りに、打撲傷を負っているはずだ。
レイミー達を連れて来なかった事が、完全に裏目に出てしまった。怪我人に怪我人の搬送をさせるなんて、さすがに酷な真似が過ぎる。かと言って、今またリシドを追うのを躊躇えば、今度こそ居場所を特定できなくなるかも知れない。
またもや板挟みの選択を迫られ、迷いを振り払えなかった俺は、顔をしかめてやや俯いてしまう。
その瞬間だった。
「ディーンはリシドを追って。あたしなら、大丈夫だからさ」
「……!」
気負いのない、優しい口調で告げられた言葉が、俺の顔を上げさせる。
正面を向いて眼が合うなり、リネは朗らかに微笑んでみせた。
「心配しなくても平気だよ。シャルミナさんは、あたしが必ず助けるから!」
彼女らしい、明るく人懐っこい笑顔。その健気さが、今は何よりも頼もしく感じられた。
本音を言えば、俺はリネにも無理はさせたくない。だがこういう時、一度言い出したら頑として譲らないのが彼女の性分だ。
なら俺も、信じてやるしかない。彼女なら、必ずやり遂げてくれると。
「わかった。シャルミナの事は任せたぞ、リネ!」
「うん!」
元々明るかった表情を、さらに明るく嬉しそうにして、リネは力強く頷いてくれた。
俺は自然と笑い返してから、素早く立ち上がると同時に、薄暗い森の奥へ向かって走り始めた。
全てを託した以上、俺はリシドを追う事に集中しよう。
今度こそ絶対に、あの野郎を止めるんだ!
◆ ◆ ◆
俺は『紅蓮の爆炎剣』を握ったまま、薄暗い闇が支配する森の中を、ひたすら走り抜けていく。
シャルミナと合流する前までとは違って、足取りに迷いは無い。なぜなら、リシドの行方が『とある形』で地面に残っている事に、走り始めてすぐに気付いたからだ。
森の奥に向かって点々と伸びる紅いそれは、リシド自身の血痕。腕を斬り飛ばされるという、凄惨な一撃によって生じた大量の出血が、奴の足取りを追うための目印になっている。あんな状態では、そう長く動き回る事はできないだろう。いや、むしろ命の危機に頻してすらいるはずだ。
どうあれ、この戦いも終わりが近い。今度こそ、本当に。
点々と続く血の足跡。それを追い続けていた俺は、ふとある事に気が付いた。
「ん……? この先ってもしかして……」
ほんの何時間か前に訪れた場所。シャルミナが案内してくれた、神秘的だと素直に感じられた場所。
『風守り』の一族が何百年もの間守り続けてきた、遺跡がある場所だった。
視界が拓けた先で、俺は速度を徐々に緩めて立ち止まった。
紅梅色や菫色の鮮やかな花々が咲き乱れている庭園や、敷地内に乱立している不可思議な形のモニュメント群は、銀色を思わせる月明かりに照らされて、優雅で可憐な表情を覗かせている。
満月の明かりに映える、様変わりした景色を眺める事で、俺はもう一度実感する事ができた。
この景色は失くしちゃいけない。例え誰の手であろうと壊していいようなものじゃない、と。
それに、解放してやらなきゃならない。この森に、遺跡に、身も心も縛り付けられたままの、シャルミナを。
決意を新たにした俺は視線を巡らせ、遺跡の泉の畔に膝をつく人物を見つめた。
「……もう戦う力は残ってねぇだろ。今ならまだ、てめぇの傷を治してやれるかも知れねぇ。大人しく投降しろ、リシド」
膝を付いていたリシドは、首だけを巡らせて俺の方を見た。
出血の影響だろう。顔の青ざめ方が尋常じゃない。急いでリネと合流して、治療を始めねぇと……!
「聞いてんのかよ! てめぇ、まさかこのまま死ぬつもりじゃ――」
「生きテなんニナる?」
「……何?」
言葉の真意が見えず困惑する俺に、リシドは淡々と言葉を紡ぐ。
「コんな姿で生キ続けてナンになる。貴様の言ウ通リ、コレハ俺様の自業自得で起きた結果なんダロウ。その俺様ガ……、こんな化物ニなった俺様ガ、こレ以上生き続ケテ何の意味があるんだと聞イテるんだ」
リシドは全てを放り出したような表情で、俺から視線を外した。
もう完全に、全てを諦めてしまっている。それが尋ねるまでもなく、言葉にするまでもなくわかってしまった。
だけど俺は、そんな結末じゃ納得できない。いや、俺だけじゃない。そんなくだらない結末で終わってしまう事を望んでいる人間なんて、俺の仲間にはいないはずだ。
こいつには償うべき罪が、受けなくてはならない罰があるんだから。
「甘ったれた事言ってんじゃねぇよ。てめぇはもう罪を背負ってる。それを捨てようとするなんてのは俺が許さねぇ。例えどんな理由があろうと、背負ったものを自分の手で捨てるのは、愚かな行為なんだ」
昔、ミレーナは事ある毎に言っていた。
『倒王戦争』経験者として。かつてその手で他者の命を奪い、罪を背負った者として。
業とは、自らが背負い続けなければならないものだと。
「同情なんかしない。さっきも言った通り、てめぇがそうなったのは自業自得だ。てめぇもそれがわかってんなら、自分の業は自分で最後まで背負え。あんたは仮にも、『魔術師』なんだろ?」
「……」
リシドは俯いたまま答えない。石像のように固まって動こうとしない。
さすがに意識が持たなかったのかと思い、俺はその肩を掴もうと一歩前へ踏み出した。
しかし――
「がは……ッ、あぐ……、がぁ……ッ!」
「!?」
突然、リシドの身体が激しく痙攣し始め、その異変は起こった。
腕を失った左半身に残っていた銀色の体毛が、見る見る内に消え去り、元の人間の姿に変わっていく。やがて現象が収まったかと思うと、今度は全身から黒い煙が噴き出し始めた。
ここまでの戦いから、眼の前で起きている現象の理由は、大体予想できる。恐らく『魔術』によって縛り付けられていた狼達の魂が、リシドの身体から離れて行ってるんだ。
「くそっ! まだ暴走が続いてんのかよ……!」
僅かに後退る俺の前で、解放された大量の黒い煙は、空中に集束して一つの塊になっていく。
その中途で、何かが地面に倒れるような音がした。見ると、今まで苦しんでいたはずのリシドが、眼を見開いたまま横たわっている。
声を掛けようとして、だが俺は、すぐに無駄だと悟った。
その顔に、生気が感じられない。呼吸をしている様子がない。指の一本すら、動く気配がない。
この瞬間、リシド・ベイワークという『魔術師』は、愚かな死を迎えた。
何一つ、自らの罪を償う事なく。
「……くそ。こんな結末……ッ、納得できるかよ……!」
苦々しい思いに駆られ、歯噛みして俯き掛けた時だった。まるで俺を戦わせようとするかのように、空中に静止していた黒い煙の塊が、徐々に形を成し始めた。
顕現したのは、集落で見た『混合黒狼』と似た姿ではあるが、精々三メートル程度の大きさの黒い狼。しかも実体化が不完全なのか、身体のあちこちが陽炎のように揺らめいている。
体勢を低く取り、獰猛な唸り声を上げ、敵愾心を向けてくるその姿に、俺は雄々しさよりも、虚しさや儚さを感じてしまった。
「そうか……。『お前達』も、解放してやらなきゃならなかったんだよな」
一旦瞑目した俺は、瞼を開くと同時に『紅蓮の爆炎剣』を握り直し、相手を迎え撃つための構えを取る。
こちらの戦意が最後の刺激となったのか、黒い狼は鋭い雄叫びを上げ、脇目も振らずに飛び掛かってきた。
「……ごめんな」
気休めにしかならない言葉を呟き、どうにもならない憤りを抱えたまま、俺は炎剣を振るう。
直後。爆炎が辺りを一瞬、明るく照らした。