第七章 報いを受ける者
闇夜に浮かぶその姿は、まさしく化物と呼ぶに相応しい。
ミレーナを捜して各地を旅をしてきた俺は、行く先々で様々な経験を積んだ。言葉では語り尽くせないような、激しい戦いの場面に遭遇し、それなりの場数を踏んできたという自負もある。
そんな俺でさえ、この状況は異質なものだと言わざるを得ない。
人知を超えた、巨大な黒い狼の化物。あんな出鱈目な存在に遭遇する機会なんて、一度たりともなかったんだから。
「……いくら『魔術』が人を殺す事に特化した技術だからって、こんなモンまで創り出せるなんて反則だろ」
低く唸り声を上げる狼の化物を見つめ、俺は誰にともなく呟いた。
微かに身体が震えている。恐怖心が全くない訳じゃないが、この震えは恐れから来ているものじゃない気がした。
多分俺は、心のどこかで歓喜しているんだ。
自分にとって未知なる存在が、眼の前に現れた事を。
「さぁ、始めるとしよう! 貴様らが俺様を殺し、平穏を取り戻すか! それとも俺様が、貴様らの屍を前に大笑いするか! 二つに一つの大勝負だッ!!」
覇気を漲らせるリシドは高らかに叫び、右手の水晶を掲げた。するとそれに呼応するかのように、ドス黒い光が強さを増していく。
「喰い散らかせ、『混合黒狼』!」
主に命じられた黒い狼は、再び大気を震わせるほどの雄叫びを上げ、巨体を低くし身構えた。
「リネ! レイミー達を連れて下がってろ!」
突進の前兆だと感じ取った俺は、彼女の返事を待たずに走り出した。
まず何よりも先に、相手の狙いを俺に絞らせ、リネ達が後退する時間を稼ぐ必要がある。ならばこちらから、先制攻撃を仕掛けるしかない。
『紅蓮の爆炎剣』を携え、直進する俺に対抗するかのように、黒い狼も地面を蹴り付け、駆け抜けてくる。
と同時に、上下に開かれる巨大な口。生物らしい血の通った口腔内には、鋭利な牙が肉を噛み千切らんと待ち構えている。
俺は左手で十字の炎、『烈火の十字爆撃』を生み出し、そこに狙いを定めて解き放った。
「グオオオオオオオオオオッ!!」
紅い炸裂によって口腔内を傷付けた結果、黒い狼は動きを鈍らせた。口から灰色の煙を吐き出しながら、苦しむように足掻いている。
その隙に、俺は距離を取っているリシドの方を一瞥した。
奴の右手にあるあの水晶。あれさえ破壊すれば、奴の『魔術』は均衡を崩し、戦う力を奪い取ってしまえるはずだ。
早期決着を狙うとどうしても気が急いてしまうが、今は黒い狼の方を倒すのが先決――
「ディーン! 危ない!」
「!」
僅かな間の余所見が、完全に命取りになっていた。少女の悲痛な声に導かれ、視線を戻した時には、体勢を立て直した黒い狼が目前まで迫っていた。
鋭く太い爪を備えた前足が、俺の身体を引き裂こうと振り下ろされる。
凶刃の如く放たれた一撃によって肉が抉られ、紅い血潮が辺りに飛び散る――事はなかった。
突然巻き起こった一陣の風によって、俺の身体があらぬ方向へと吹き飛ばされたからだ。
「どわあああぁぁっ!?」
数秒間、無重力を体験させられた俺は、吹き飛ばされた先で盛大に地面を転がった。
激しく回っていた視界がようやくが停止した所で、俺はどうにか起き上がって、牡丹色の髪の少女に恨めしい視線を送った。
「シャルミナさん! 助けるつもりならもう少し優しくしてくれませんかねぇ!?」
「死に掛けてたんだから文句言わないの!」
「それはそうだけどゴメンの一言すらねぇのかよ!?」
手荒な恩人と応酬を繰り広げている間にも、黒い狼は鋭い咆哮を浴びせてくる。まるで、回避された事に憤慨しているかのようだ。
黒く巨大な塊が、再び俺を噛み千切ろうと突っ込んでくる。
一旦距離を取るべきか逡巡し掛けたが、まるで逃げるなと鼓舞するかのように、鋭い風斬り音が俺の鼓膜を刺激した。
途端、黒い狼の首筋辺りが切り裂かれ、紅黒い鮮血が噴き出した。恐らくは、シャルミナが鎌鼬を放った結果だろう。
「グオオオォオオォォォオオオオォオッ!?」
湯水の如く溢れ出る血潮が、苦しげに悶える動作に合わせて飛び散り、地面に生々しい斑点模様を作っていく。
何だか、ただ悪戯に生物をいたぶっているだけのような気がして、思わず顔をしかめてしまうが、怯む訳にはいかない。追撃を加えるなら今だ!
俺は炎剣を手に、揺らいでいる巨体へ向かって突貫する。
するとこちらの接近に気付き、黒い狼は苛立ったかのように右前足を横薙ぎに振るってきた。
瞬間、俺は疾走の勢いを跳躍の力へ変換し、迫り来る暴力を紙一重で回避した。
「おらぁっ!」
空中で身を捻り、刻まれたばかりの傷目掛けて、炎剣の刀身を叩き込む。その直後、黒い狼の首筋辺りから炎が噴き出し、激しい爆発を起こした。
「グガアアアアァァァッ!!」
三度苦しげな咆哮を上げる黒い狼の背後に降り立ち、肩越しに振り返った瞬間。またもや風斬り音が駆け抜け、黒い狼の巨体から血飛沫が上がった。
連続して加えられた追撃に、さすがの巨体も耐え切れなくなったのだろう。四つの黒い脚が大きく揺らぎ、砂塵と轟音を舞い上げて地面に沈んだ。
ふと視界の端、右手を前方にかざしたまま静止しているシャルミナの姿を捉え、改めて思う。彼女が『斬風』と呼ぶ鎌鼬は、やはりその切れ味が凄まじい。まるで本当に刃が通過しているのではないかと錯覚しそうなほど、風を操っているだけとは思えない威力だ。
よし、俺も呆けてはいられない。止めの一撃を加えるなら、今が絶好の機会だ。草木がなく、充分に開けているこの場所なら、大技を使っても問題はないだろう。
即決した俺は『紅蓮の爆炎剣』を消滅させ、生み出した新たな炎を、頭上高くに集束させる。
「『深紅の流星』!」
標的を定めて叫んだ瞬間、炎の塊が弾け飛び、無数の火球と化す。その全ては天駆ける流星群の如く、傷付いた黒い狼の身体に次々と降り注いだ。
「グギャアアアアァァァッ!!」
紅い連鎖爆発によって、身体から灰色の煙を上げる黒い狼。俺は地に伏すそれから視線を移し、満月を背に佇んでいるリシドを見つめた。
「さてと。これで邪魔者はいなくなったぜ、リシドさんよ。いい加減、観念したらどうだ?」
この距離からだと、その表情は読み取り難く不穏さが残る。だが恐らくこれ以上、奴に抵抗する手段はないはずだ。
あとは奴が持つ水晶を破壊すれば、それで全てが――
「ククク……、カハハハハハハッ!」
「!?」
終わる、と気を抜き掛けた時だった。リシドが左手で顔を覆い、唐突に笑い始めたのだ。
自暴自棄になった破滅的な笑い、ではない。その姿から感じ取れるのは余裕であり、愉悦であり、自負。この状況ですら覆す事は可能だと、露わになった凶悪な表情が告げている。
「甘いなぁ、甘過ぎるぜぇ、ディーン・イアルフス。まだ何も終わっちゃいねぇぞォッ!!」
訝しく、そして不審に思った直後、俺はようやく気付く。
奴の右手に握られている水晶からは、未だに黒い光が消えていない。しかも放たれる光の強さが次第に増している。
瞬間、背筋を何かが這うような気色悪さに襲われ、身体ごと振り返った俺は、思わず眼を見開いた。
「グオオオオオオオォォォォッ!!」
生命の息吹を惜しげもなく感じさせる、鋭く盛大な咆哮。視線の先には、四足歩行の黒い化物が覇気を漲らせながら佇んでいる。
俺は悔しさから来る苛立ちで、ギリッと奥歯を噛み締めた。その理由はただ一つ。さっき与えたはずの傷が、完全に癒えてしまっているからだ。
「辟易したかぁ? 確かに貴様らの『魔術』は強力な代物だが、詰めが甘いと言わざるを得んな。元が魂であるが故に、そいつには実体があって実体がない。その程度の損傷を与えたくらいで勝ち誇っているようでは、地獄を見る羽目になるぞ!」
月明かりの薄闇の中に、リシドの愉快そうな顔が浮かぶ。
くそっ、厄介なものを呼び出しやがって……! 早く何とかしないと、気を失ってる集落の人達にまで危害が――
と、考え掛けたその時、俺はある事に気付いた。
ついさっきリネと一緒に距離を取ったはずのジグランがダンテと共に、気絶した集落の人達を、一人ずつ担いで安全圏まで運んでいるのだ。
しかし、また妙な組み合わせだ。彼とダンテだけという事は、レイミーはまだどこかでリネの治療を受けている最中なのだろうか?
「考え事とは余裕だなぁ、ディーン・イアルフス!」
「!!」
僅かに気を逸らしていた俺は、『混合黒狼』の俊敏な動きに気付くのが一瞬遅れた。
黒い狼は既に目前まで迫り、鋭く太い爪を備えた右前足を、今にも振り下ろそうとしている。
しまった……! そう思った瞬間だった。
「『旋風』!」
突然、俺と黒い狼の間に割って入ったシャルミナが、両手を胸の前方にかざし、暴風の壁を発生させたのだ。
黒い狼の攻撃は、吹き荒れる暴風によって動きを遮られた――かに見えた。しかし、それはほんの一瞬だった。
受け流し切れなかった爪撃は、暴風の壁を突き破り、俺を庇うように立つシャルミナの身体を、容赦なく引き裂いてしまった。
鮮血が、俺の視界を紅く染める。
攻撃の余波で後ろに飛ばされた彼女を受け止めた俺は、共に地面を転がされた。
数メートルほど後退させられ、俺は鈍い痛みに襲われた。しかし気力でそれを振り払い、シャルミナの身体に視線を落とす。
「シャルミナ! 大丈――」
その途端、息が干上がり、言葉が紡げなくなる。
凶刃の如き一撃によって、彼女の胸部は左肩から斜めに肉が抉られ、夥しい量の血が流れ出ていた。
苦痛に歪むシャルミナの表情が、どれほどの深手なのかを物語っている。
「……ッ! リネ!」
俺はシャルミナの身体を抱え上げ、離れた位置でレイミー達の傷を治療しているリネを呼び寄せようとした。
だが当然のように、俺の行く手を阻もうとする『混合黒狼』が、即座に突進を仕掛けてくる。
「邪魔すんじゃねぇッ!!」
吐き捨てるように叫びつつ、俺は十字の炎を出現させ、牽制のために射出する。
十字の炎は狼の巨大な額に命中し、僅かにだが相手を怯ませる事に成功した。
「グギャアアアアァァァッ!!」
黒い狼が痛みに悶えている隙に、俺はシャルミナを抱えて、一旦その場から走り去った。
すると、こちらの戦況を見守っていたらしいジグランが、険しい表情で近付いてきた。
「そいつを預かるぜ、紅髪! リネの所まで、オレが代わりに運んでやる!」
俺からほとんど奪い取るような勢いで、ジグランは血塗れのシャルミナを抱え上げ、元来た道を引き返していく。
なんか、正直意外だ。彼があそこまで必死になるなんて……。やっぱり自分達が追い掛けてた人間だから、ある意味特別な思い入れがあるんだろうか。
「全く揃いも揃って、無駄な事に必死になる連中ばかりだな」
聞き捨てならない台詞が聞こえ、俺はしかめながら振り返った。
『混合黒狼』の足許に立つリシドは、嘲笑うような顔でこっちを見つめている。
「あの小娘の怪我は、応急処置でどうにかなるような傷じゃない。例え処置したとしても、あの世に逝くのがほんの少し遅くなるだけだ」
……なるほど。どうやら奴は勝ち誇っているようだが、もし本当にそう思っているなら、それは大きな間違いだ。
なぜならシャルミナには、リネが付いてくれている。
こういう時こそ頼りなる、俺の仲間が!
「余裕かましてられんのも今の内だ。何でもてめぇの思い通りになんかならねぇ。それを嫌ってほどわからせてやるよ」
「……ほう? 大した言い草だな」
尚も嘲笑い続けるリシドを相手にせず、俺は黒い狼と奴の手にある水晶を交互に見つめた。
シャルミナの『斬風』、そして俺の『深紅の流星』を受けても、何事もなかったかのように復活する黒い狼。あの再生能力を破るためには、生半可な力じゃダメだって事はよくわかった。
と同時に、確実に破壊すべき対象である、『魔術』の『核』たるあの水晶。傍から見た限りでは、特別強固に作られた代物、という印象はない。俺の『深紅魔法』なら、『紅蓮の爆炎剣』で事足りるだろう。
何を優先して、どう動くべきか。
脳内で高速に順序立てた俺は、両腕を水平に構え、両掌に紅い炎を灯した。そしてその炎を胸の前で合わせ、静かに言い放つ。
「『紅蓮の縛鎖』」
俺の言霊に呼応し、足下から発生する激しい炎の波涛。それが徐々に形を成しながら、『混合黒狼』の許へ向かっていく。
「何……っ!?」
声を詰まらせ、警戒するように距離を取るリシド。
その間にも、炎の波涛は次々と紅い鎖に姿を変えていき、暴れ回ろうとする『混合黒狼』の全身に撒き付き、その動きを封じ込めた。
雁字搦めになった使い魔を見上げ、リシドは拍子抜けだと言わんばかりに、鼻で笑ってみせる。
「何をするかと思えば、ただ動きを封じただけとはな。威勢が良いのは口だけという訳か?」
「心配しなくても見てりゃあわかるさ。『深紅魔法』は、てめぇ如きが馬鹿にできるような、柔な『魔術』じゃねぇってな!」
叫ぶと共に、俺は足下から伸びている炎の鎖に、右手に出現させた『紅蓮の爆炎剣』の刀身を叩き付けた。
その瞬間、炎の鎖が紅い光を放ちながら、『混合黒狼』の身体をさらに強く締め上げていく。
「グ、ガァ、アアアァァッ!」
「なっ……!? 貴様何を――」
「燃え上がれ、『紅蓮の縛鎖』」
その言葉が、発動の合図だった。
『混合黒狼』を締め付けていた炎の鎖は、接触部分から激しい炎の奔流を生み出し、その身体を燃やし尽くしていく。
どれだけ再生力が高かろうが関係ない。『紅蓮の縛鎖』は、『紅蓮の爆炎剣』との接触によって紅蓮の炎を生み出し、撒き付いた対象物が焼失するまで燃やし続ける、という能力を持っている。
つまり、俺が『魔術』を解かない限り、破壊と再生は繰り返され続ける。
そして終わりがない以上、『混合黒狼』は封じ込めたも同然という事になる。
「クッ……ソがぁぁぁぁっ! 舐めるなよ、ディーン・イアルフス! こんなもので俺様の『魔術』を破ったつもりか!?」
「イチイチうるせぇんだよ、リシド・ベイワーク」
力強く、かつ軽快な足取りで、リシドとの距離を詰める。
そうしていて、ふと気付いた。勝利を確信した影響だろうか。俺は自然と、笑みを浮かべてしまっている。
怒りに駆られ、烈火の如く咆えるリシドに向かって、足取りはやがて疾走へと変化した。
紅く煌めく炎剣を携え、奴の右手に狙いを定める。
悪意の象徴たる魔の水晶を、破壊するために!
「! 止め――」
「容赦はしねぇって言ったはずだ!!」
逃げ出そうとするリシドの右手目掛けて、掲げた『紅蓮の爆炎剣』を一気呵成に振り下ろす。
炸裂する爆炎が辺りを照らし出すのと同時に、何かが砕け散る音が聞こえた。
◆ ◆ ◆
建物の陰に身を潜め、すでに十分は経っただろうか。
先に治療を終えたジグランとダンテの手によって、次々と運ばれてくる村人達を介抱しつつ、リネは身体の内側にじわりと広がる倦怠感を誤魔化そうと、深く息を吐いた。
『治癒』の力を継続的に行使した事で、だいぶ疲労が蓄積されている。平時であれば、すぐにでもベッドで眠り込んでしまいたいくらいに。
「大丈夫かい? あんた、だいぶ無理してるんじゃないの?」
先程までの治療相手だったレイミーが、心配そうに尋ねてくる。しかし、リネは毅然として首を横に振った。
「平気だよ。それに、今治療を止める訳にはいかないからね」
額に汗を掻きながら、それでもリネは微笑み返す。そして眼の前で横たわる少女に、改めて意識を集中させた。
ダンテと共に動き回っていたジグランが、血相を変えて舞い戻ってきたのが、数分前の事。彼に抱えられていたのは、深手を負ったシャルミナ・ファルメだった。
彼女が受けた傷は、弱音を吐いていられないほど酷いものだ。かなり消費してしまった残りの力でどこまでやれるかわからないが、最善を尽くすしかない。
治療に専念しながらも、リネの視線は意識のないシャルミナの顔に、自然と吸い寄せられていく。
どこか大人びた雰囲気があるように感じていたが、こうして穏やかに瞳を閉じている姿は、まだ少し幼さが残っていて、リネやディーンと同じか、少し上くらいの年頃に思える。
艶めいた牡丹色の前髪が、微かに吹き抜ける夜風でさらさらと揺れていて――
「……綺麗な人だな」
気付くとリネは、無意識にそう呟いていた。
やや感傷的な雰囲気を出してしまったせいか、隣のレイミーも、シャルミナを労るかのように静かに口を開く。
「実際大したもんだよね。この歳で、しかもたった一人で、アタシらみたいな輩の相手をずっと続けてたんだから」
少々自虐も入っているような言い回しに、リネは思わず苦笑する。
確かにシャルミナ・ファルメという少女は、歳不相応に気丈な娘のようだ。リネはまだきちんと会話していないが、これまでに見た彼女の立ち振る舞いは、常に気高く毅然としていた。
それは『魔術師』であるが故か。はたまた彼女自身の生い立ち故か。
(ちゃんと話した事ないはずなのに、何でだろう……。この人は悪い『魔術師』じゃないって、そう思っちゃうんだよなぁ)
シャルミナの寝顔を見つめながら、自身の感情を不思議に思うリネ。
この少女は歴とした『魔術師』であり、最初に遭遇した時には攻撃を加えてきた相手だ。本来なら、不満や憤りをぶつけて然るべきだろう。
にも拘わらず、彼女に対しては、今まで『魔術師』という存在に抱いてきたような暗い感情は生まれない。むしろ親近感のようなものが湧いている。
こんな違いが生まれる理由は、実際に言葉を交わせばわかるかも知れない。
そう考えながら、リネは『治癒』の力の行使を止めた。周囲を明るく照らしていた光が消え、月明かりの闇が戻ってくる。
その瞬間、気を抜いた事を咎めるかのように、リネは身体から血の気が引くような感覚に襲われた。
「ちょっ……! 大丈夫?」
思わず揺らいだ身体を、レイミーが慌てた様子で支えてくれた。
彼女を心配させまいと、リネは苦し紛れに微笑を浮かべてみせる。
「ごめん……。ちょっと、力を使い過ぎちゃったから……」
「謝る事ないよ、あんたはよくやってるさ。――ところで、シャルミナの容態は?」
地面に横たわるシャルミナを、不安そうに見つめるレイミー。彼女に倣って、リネも視線を下げつつ答える。
「とりあえず、応急処置は終わったって感じかな。出血は治まったから、動かさなければ平気だよ」
「そう。だったら一旦、身体を休ませな。今あんたまで倒れちまったら、元も子もないだろ」
「……うん。ありがと」
労うレイミーに礼を告げると、彼女はリネの身体を、すぐ傍にある家屋の壁にゆっくりと預けた。
「アタシはジグランとダンテさんの様子を見てくる。あんたはしばらくここで休んでな。いいね?」
リネの返事を待たずにレイミーは立ち上がり、足早にその場を後にする。
遠ざかっていく彼女の背中を見つめながら、リネはふと虚空を見上げた。
(ディーンは、大丈夫……なのかな……)
不安に思う気持ちとは裏腹に、誤魔化していたはずの疲労感が、徐々に睡魔へと変わり始めた。
次第に重くなっていく瞼。意識を奪おうとする厄介者を追い払うため、リネは頭を振って抵抗を試みる。
しかし、健気な格闘を続けられたのは、ほんの数分だった。
しつこくまとわり付くそれに抗う事は叶わず、リネの意識は、闇の中へと引き摺り込まれた。
眼を開くと、先程まで感じていた身体の痛みと熱が、嘘のように引いていた。
不思議に思って胸元を確かめると、受けたはずの傷が塞がっている。まだ微かな痛みと、全身の倦怠感は残っているが、それでも動けないほどではない。
緩慢な動きながらも起き上がり、ふと隣を見て少々驚く。見覚えのある黒い髪の少女が、家屋の壁に背中を預け、穏やかな寝息を立てて眠っていたからだ。
(……確かディーンと一緒にいた娘、だよね)
なぜこんなところで眠っているのかわからないが、とりあえず起こさないように気を付けながら、静かに立ち上がる。
その途端、堪える暇もなく身体が揺らぎ、思わず近くの家屋の壁に寄り掛かってしまった。
眩暈の原因は、恐らく出血によって起きた貧血だろう。なぜか塞がっているとはいえ、胸の傷も完治しているとは言い難い。
しかし、だからといって休んでなどいられない。あの紅い髪の少年にだけ、戦わせる訳にはいかないのだ。
(あの男は、私の存在を利用して悪事を働いてた。なら、責任の一端は私にもある。だから……っ!)
決着を付けなければならない。他の誰でもなく、自分自身の手で。
壁に手を付きつつ、シャルミナは歩き出す。
未だ戦い続けているであろう、少年の許へ辿り着くために。
(……! いけない、いつの間にか寝ちゃってた……)
ふとした拍子に意識を取り戻し、リネはぶんぶんと頭を振った。
力の行使による疲労がここまで溜まるのは、恐らく初めての事だ。それだけ、力を使う事に抵抗がなくなったという証なのだろうが、今はそれを呑気に喜んでいる場合ではない。
再び意識を奪おうとする眠気を払うべく、リネはごしごしと両眼を擦る。それほど時間は経っていないはずだが、意識が飛んでいたのは事実だ。
現に眼を擦るのを止めて注視した景色に、決して看過できない変化が起きていた。
「……あれ? シャルミナさん?」
声に出した彼女の名前が、夜風に吹かれて虚しく消える。
そこに横たわっているべきはずの少女の姿は、どこにも見当たらなかった。
◆ ◆ ◆
「『魔術』の『核』は砕けた。もう諦めろ、リシド。てめぇの負けだ」
愕然とした様子で砕けた水晶を見つめるリシドに、俺は警告するつもりで言った。
これで終わりだ。この森で起こった、不可解な『魔女伝説』騒動の全てが。
「……おい、聞いてんのかよ?」
「……」
悪あがきのつもりか、リシドは一向に動こうとしない。
問い掛けても答える気配のない事に痺れを切らせ、俺は詰め寄ろうと足を踏み出した。
だが、どうやら俺の考えは誤っていたらしい。もう少し早く気付くべきだった。
地面に膝を付いているリシドに、不気味なほどの異変が起きている事を。
「が……ッ、アア……、がごァ……ッ!」
突然、リシドの身体中から、獣の魂であるあの黒い煙が飛び散るかのように吹き出し、周囲を漆黒に染め上げた。
「なっ!?」
警戒心を解き掛けていた俺は、一瞬奴の『魔術』の罠に嵌ったのかと冷や汗を掻いた。
だが違う。これは罠なんかじゃない。
これは、この現象は!
「『魔術』が暴走し始めてる……!」
俺達『魔術師』は自分の操る『魔術』を熟知し、理解し、構成する事で『魔術』そのものを制御している。だが何らかの要因が引き鉄となってその均衡が崩れると、『魔術』は容易く暴走を起こす。
考え得るきっかけは色々ある。感情の起伏、体力や精神力の低下。もしくは、『魔術』を構成している『核』となる物が壊れた場合だ。
だが奴が本当に優れた『魔術師』であるなら、『核』その物を破壊され、『魔術』が暴走したとしても、自力で抑え込めるはずだ。いかに均衡を崩す要因が無数にあるとはいえ、『魔術師』とはそんな簡単に崩壊を起こす存在じゃない。
可能性があるとすれば、奴の『魔術』そのものに原因がある。
「獣の魂を抽出して操るなんて『魔術』が、そんなに簡単にいくはずない。要は掌握し切れてなかったって事だ。人だろうと獣だろうと、魂ってものは簡単に操れる代物じゃねぇんだよ」
苦しみ悶えているリシドに、俺の言葉は届いているだろうか?
俺は心の隅に若干の哀れみを覚えながらも、それでも思う。この結末は必然だ。リシド自身の、行動が招いた結果だ。単なる自業自得でしかない、と。
『紅蓮の爆炎剣』を静かに構える俺の前で、リシドの身体が変貌していく。
文字通り、化物へと。
「ぐがああああああぁぁぁっ!!」
絶叫の後、徐々に晴れゆく黒い煙の中に佇むリシドの身体には、この集落の人間に起きていたものと同じ現象が表れていた。
服から露出している部分の肌は、銀を思わせる毛に覆われ、手の爪が猛禽類のように鋭く伸び、狼の頭部を備えた姿。
まさしく、『人狼』の顕現だった。
「ディ……、イア、フス……」
辛うじて言葉を発したリシドは、著しく言語機能が低下していた。恐らく俺の名前を呼んだのだろうが、舌足らずな言葉故に上手く聞き取れない。
「……今のあんたはどっちなんだ? 人間か、それとも化物か?」
この状況で、俺は一体どうするべきなんだろう……。
『魔術』で人を殺さない。これはミレーナとの約束だ。俺自身それを守りたいし、これからもそれを貫くつもりでいた。
だけど今、眼の前にいる存在に対して、俺は決断を下せずにいる。
『人間』として『倒す』べきか。
『化物』として『殺す』べきか。
『従魂魔法』というものを一番理解していた、リシド自身がこうなってしまった以上、俺には元に戻す方法なんてわからない。思い付く事もできない。
「ごあああああああぁぁぁっ!!」
「!」
迷いや躊躇いは、人の動きを著しく鈍らせる。
昔ミレーナに言われた通り、無防備となっていた俺は、手痛い一撃をリシドから喰らった。
左側頭部に叩き込まれた掌底によって、俺の身体は地面の上を低空飛行する格好で、五メートルほど吹き飛ばされた。最早腕力が、人間のそれとは比べ物にならなくなっている。
成す術無く地面に伏した俺は、すぐさま立ち上がった。
だが、視界がグラリと揺れる。頭の左側に痛みを感じて手を添えると、ヌルリとした感触があった。
左掌を見ると案の定、流れ出た鮮血によって真っ赤に染まっている。恐らく掌底を受けた際、あの鋭い爪で浅く引っ掛かれたんだろう。
「くそ……っ! 迷ってる暇は無いってか!」
痛みを堪えて、頭を軽く振った時だった。数メートル頭上に、漠然と何かの気配を感じた。
見上げるよりも飛び退く事を選んだ俺は、前方に向かって身体を投げ出す。
その瞬間。上空から落下してきたリシドが、両腕を振り下ろして地面を砕き、辺りに爆発のような轟音が響き渡った。
俺が身体を起こすと、土煙の中から、獲物に飛び掛かる猛獣のような速さで、リシドが一直線に突っ込んできた。
「くそッ!」
悪態をつきながら、俺は振るわれたリシドの右腕を屈んで回避し、身体が交差する瞬間を狙って、胴体に炎剣を叩き込んだ。
『紅蓮の爆炎剣』の能力によって、リシドの身体から爆発と共に激しい炎が噴き出す。
「ごがぁぁああぁああああぁっ!?」
悶えるリシドの背に立った俺は、続け様にと虚空に十字型の炎を作り出した。
が、俺の動きはそこで止まる。完全に戦闘体勢に移行していた感覚が、一気に引き戻された。
この状況に及んで尚、俺は決断できずにいた。
『倒す』べきか、『殺す』べきか。
虚空に静止していた十字型の炎が、俺の意志に呼応するみたいに消え去る。それと同時に、俺は強く唇を噛んだ。
これじゃあまるで、呪いみたいじゃねぇか……。ちくしょう……っ! どうすりゃいいんだよ!?
「ぎ……っ、があああぁぁッ!」
「!?」
痛みに悶えていたリシドは、絶叫と共に、突然森の方向へ向かって走り出した。それは間違いなく、俺の隙を狙って起こした行動だった。
今度こそ本当に、迷っている暇はない。あの状態のリシドを放っておけば、また新たな被害者が出てしまう。奴が正真正銘の化物になっているなら、尚更の事だ。
一瞬でも隙を作ってしまった自分に苛立ちを覚えつつ、リシドの後を追おうと走り出そうとした時だった。
「ディーン、待って!」
背後から呼び止められ振り返ると、酷く慌てた表情のリネと、怪我の手当てをされたらしいレイミーとジグランが、こっちに駆けてくる所だった。
逸る気持ちを抑えつつ、近付いてきたリネに尋ねる。
「何だよ、こんな時に? 悪いけどゆっくりしてる時間は――」
「シャルミナさんがいなくなっちゃったの!」
「あぁっ!?」
静けさを取り戻した集落の中に、俺の叫び声が響き渡った。
引き留められた内容が内容だけに、リシドを追うという気概がやや薄れてしまう。
「いなくなったって、あいつ大怪我してんだぞ。治療はもう終わったのか?」
「それが……、あたしの『治癒』の力が弱まり始めてたから、完治してる訳じゃないの。だから今動いたりしたら、傷口が開いちゃうかも知れなくて……」
「ッ! くそっ! シャルミナの奴、この忙しい時に輪を掛けやがって……!」
シャルミナの行方も心配だが、今はもたもたしている暇はない。こうしている間にも、リシドはどんどん村から離れて――いや、待てよ?
一瞬、脳裏を掠めた思考が、見る見る内に懸念へと変化していく。一度引っ掛かってしまえば、あとは病魔の如く、瞬く間に胸中を埋め尽くしていく。
現状で考え得る、最悪の可能性。
「まさかあいつ、森に入っていくリシドを見て、一人で追っていったのか……?」
推論を口にした瞬間、眼の前の三人の表情が一気に凍り付いた。
今まで何事を成すにも、一人で対処しなければならなかった彼女の生い立ちを鑑みれば、充分有り得る話だろう。しかも追い掛ける相手は、自分に因縁のある敵だ。
リシドの下らない実験は、私の手で終わらせる。
……なんて、気張った顔で口にする姿が容易に想像できる。
ならば尚の事、追跡すべきはリシド・ベイワークだ。
「とにかくリシドを追う。標的が同じなら、途中で合流できる可能性は高い。リネ、一緒に付いて来てくれ。あいつの怪我が完治してないなら、すぐに手当てが必要だからな」
「待てよ紅髪! オレらも行くぜ! 奴を追うなら戦力が必要だろ!」
両拳を打ち付けつつ、一歩前へ進み出るジグラン。リネが傷を癒したおかげか、その瞳に再び闘志を漲らせている。
確かに彼の言う通り、戦力が多いに越した事はない。しかし、だ。
「いや、二人はここに残ってくれ」
「ああっ!? 何でだよ!?」
同行の申し出を却下する俺に対し、ジグランは心外だとばかりに食らい付いてくる。
だろうとは思ったが、やはりキチンと説明しないと引き下がってくれそうにないな……。
「リネが怪我を治したって言っても、まだ本調子じゃない事は見ればわかる。二人とも、今日だけで二回も怪我してるんだ。体力だって相当落ちてるはずだぜ?」
「ぬっ……うぅ……」
「それに、ダンテさんや集落の人達をあのままにはしておけないだろ。リシドはいなくなったけど、別の厄介事が起きないとは言い切れないんだからさ」
「……だってさ、ジグラン。ディーンの意見は正論だし、これ以上引き留めたらあの『魔術師』を追えなくなる。ここは折れるしかないんじゃない?」
どうにかジグランを説得しようとする俺に助け船を出したのは、意外にも彼の隣にいるレイミーだった。
まさかの相方から止めを刺され、ジグランは不満そうに眉根を寄せる。が、それも数秒の事だった。
「~~~~~~っ、わーかったわかった! 俺の負けだよちくしょう! 事後処理でも何でも任されてやろうじゃねぇか!」
不貞腐れたように愚痴を溢したジグランは、踵を返してダンテさん達の所へ駆け出していく。
そんな彼の背中を苦笑しながら見送ったあと、レイミーは視線を俺達へと戻した。
「あとは頼んだよ、二人とも。……必ず生きて帰ってきな」
心配そうに付け足すレイミーに頷き返し、俺はリネを連れ立って走り出す。
月明かりの下、俺の視界に再び草木が生い茂った。