第六章 You guys are beast?
『人狼』が姿を変貌させるのは、満月の夜。知識として得ていたはずのその情報を、俺は油断から完全に見落としていた。
リシドの言っていた通り、満月の夜という状況は、『魔術』に関しても重要な役割を持っている。それは、満月の夜に『儀式』や『術式』といった『魔術』的な物事を行うと、飛躍的にその力が増大するという点だ。
俺達『魔術師』の間では常識となっている事実だが、なぜ力が増すのかという疑問は、『魔術』が生まれて何百年と経つ現在でも、未だに解明されていない。
一説には、月には魔の力を司る者が住んでいて、満月の夜にその者達が地上に降りてくるからだ、なんて言われている事もある。
とはいえ、『魔術師』である俺からしても、そんな話は荒唐無稽であると言わざるを得ない。別に否定している訳じゃないが、自分の眼で見てもいないものを信じる事なんて、誰だって簡単にはできないだろ?
とにかく、今宵はその満月の夜だ。
あのリシド・ベイワークという『魔術師』は、この日が来るまでに何らかの方法で、あの集落の人間に獣化の『魔術』を施したんだろう。
奴自身も今、あの集落に向かっているのは間違いない。急がないとリネ達が危険だ。
「あのリシドって男を止めるのはもちろんだけど、『魔術』を掛けられた集落の人達は? 元に戻してあげられるの?」
森の中を駆け抜けながら、俺の見解を聞いていたシャルミナは、そう言って不安げな顔をする。
俺は地面から露出している太い木の根を跳び越えてから、横合いの位置を保つシャルミナを一瞥した。それと同時に、不謹慎だと思いながらも安心してしまった。
彼女にとってあの集落に住む人間は、全くと言っていいほど接点のない、赤の他人だ。そんな人間の身を案じているという事は、彼女もごく普通の感情を持った、十代の女の子だという証明に他ならない。そう改めて確認できた気がして、俺は素直に嬉しかった。
自然と口許を緩ませていると、案の定訝しく思ったのか、シャルミナが少々不満そうに眉根を寄せる。
「……何よその顔。真面目な話の最中だってわかってる?」
「気にしなくていいぜ、ただの思い出し笑いだから」
俺は悪戯っぽく笑い返してから、若干納得がいかないような表情のシャルミナに、改めて見解を述べる。
「そんなに難しい話じゃないと思うぜ。シャルミナも見ただろ? リシドの野郎が握ってた水晶を。あれには多分、『魔術』によって『人狼』一族の魂が封じ込められてるはずだ。つまりあの水晶を破壊して、それを解放してやれば――」
「操られてる人達も元に戻る、って事?」
「あくまで推測だけどな。それでも、やってみる価値はあるはずだ」
リシドの扱う『魔術』の全てを、使用者でもない俺が解説し切れる訳なんてない。だがどう考えても、俺にはリシドが持っていたあの水晶が、奴自身の『魔術』の『核』として成り立っているような気がしてならない。集落に辿り着きさえすれば、その辺りの事もはっきりするだろう。
今は一刻も早く、あの集落に辿り着く事が先決だ。
「急ごう。これ以上、余計な犠牲を出さないためにも……!」
意気込む俺の言葉に、シャルミナは無言で頷いてくれた。
疾走し続ける俺達の頭上。夜空に浮かぶ満月から放たれる怪しげな光は、闇の巣窟と化した森の中を、静かに照らしている。
その光はまるで、俺達を誘う道標のようだった。
◆ ◆ ◆
ダンテの家を囲む集落の人間達。その様子に困惑しているリネ達の眼の前で、異変は突如として起きた。
最初に変貌し始めたのは、家のすぐ傍に佇んでいる、体格のいい男性だった。
突然、身体を小刻みに震えさせ始めたかと思うと、服から露出している部分の肌が、見る見る内に銀色の毛に覆われ、手の爪が猛禽類のように鋭く伸び、顔の骨格すら形を変え始めた。
細く縦長の頭部。肉に噛み付く事に特化した、長大な口。その内に並ぶ、鋭利な牙。琥珀色の瞳は人間の物とは違い、獲物を求める殺気に満ちている。
その姿は、超常的な力によって二足歩行を獲得した、野生の狼そのものだ。
「マジかよ……っ!」
窓辺からその変化を見つめていたジグランが、信じられないといった様子で呟いた。
その間にも、異変は止まらない。
今度は隣にいた細身の男性が。
その次は、すぐ後ろにいた髪の短い女性が。
ダンテの家を、リネ達を取り囲む集落の人間全員が、まるで連鎖反応でも起こすかのように、次々とその姿を変貌させていく。
やがて変化が止まり、低く唸り声を上げながら獰猛な目付きでこちらを睨む、人であって人でないもの。
群れを成し、獲物を見据える彼らの佇まいは、まさしく『人狼』と呼ぶべき姿だった。
「ああ……ッ! ああッ、なんて事だ! この村は……、化物の巣になってしまったのかッ!?」
窓の向こうの異様な光景に、ダンテは青ざめた顔で絶望的な声を張り上げる。
彼の悲痛な叫びに触発され、リネは身体が硬直してしまうほどの恐怖を感じた。
だが同時に、不思議と混乱していなかった彼女の頭に、一つの疑問が浮かぶ。それは、眼の前にいるダンテだ。
ディーンの推測によれば、この超常的な現象を引き起こしているのは、この森に潜むシャルミナ以外の『魔術師』なのではないか、という事だった。
もし本当に、ディーンの言う通りだとしたら。その『魔術師』の手によって、この集落の人間全員が、奇怪な『魔術』に支配されているのだとしたら。
なぜ彼には、未だに変化の兆候が見られないのだろうか。
(ダンテさんだけは、『魔術』を掛けられていないから……? でもだとしたら、一体どうして……)
「リネ、伏せろ!」
「!」
余所見をして考え込んでいたリネは、横合いにいたジグランに腕を引っ張られる形で、無理矢理床に押し倒された。
するとその直後。窓ガラスが砕け散る音と共に、『人狼』と化した村人が家の中に飛び込んできた。
『人狼』の鋭い眼光が、起き上がったリネとジグランに向けられる。
「ボサッとしない! 逃げるよ!」
ダンテを庇っていたレイミーの掛け声で、リネ達は一斉に玄関を目指し、家を飛び出した。
しかし抜け出した先には、当然ながら『人狼』達が待ち構えている。
リネは一瞬、自分の腰の辺りに提げている拳銃に、意識を向けた。だが、すぐさま首を左右に振って、浅はかな考えを頭から消し去ろうと努める。
(何考えてるのよ、あたし! いくら変貌したって言っても、この人達は……っ!)
例え今は化物でも、元が普通の人間である事には変わりない。そんな相手に、殺傷可能な凶器を差し向けるのは、本当に正しい事なのか。
意識を絡め取るような葛藤に、苛まれている最中だった。
「この……ッ!」
傍らのレイミーが苛立ったような声を上げ、腰に提げている折り畳み式の薙刀を掴もうとした瞬間。リネは反射的に、彼女の腕を取ってその動きを制止していた。
当然、レイミーは驚いた様子で抗議の声を上げる。
「なッ、何で止めるのよ!?」
「無闇に傷付けちゃダメ! この人達はただ操られてるだけで、自分の意志で動いてる訳じゃないんだよ!?」
「そんな悠長な事言ってられる状況じゃないわ! 戦わなきゃ、こっちが殺されんのよ!?」
「それでもダメ!! もし万が一相手を殺しちゃったら、あたしの力じゃ治せないんだよ!?」
「だからって――!」
レイミーが更なる反論を発しようとしたその時。一体の『人狼』が、リネ達を引き裂かんと飛び掛かってきた。
二人はほぼ同時に、しまったと思った事だろう。
しかしその鋭利な爪と牙が、悲劇を招き寄せる事はなかった。
「何しようとしてやがんだゴルァァァッ!!」
物凄い巻き舌と共に割って入ってきたジグランが、『人狼』の顔面に右拳を炸裂させたのだ。
身体を仰け反らせ、思い切り後方へ吹き飛ばされた『人狼』を尻目に、ジグランは軽く息を吐き、右腕をブラブラと解しながら前へと進み出た。
「お前らがあーだこーだ言い合ってる場合かよ。要するに、殺さないように気を付けりゃあ、何の問題もねぇんだろ? だったら話は簡単だ。こいつらとは、オレが拳で語り合ってやるぜ!」
言うが早いか、ジグランは両拳を構えると、向かってきた二体の『人狼』をいとも容易く殴り飛ばしてしまった。
続けて、彼はその場で何度か低く跳躍し、着地と同時に『人狼』の群れへ猛然と飛び込んでいく。
「オラオラオラオラーーーーッ!! 死にてぇ奴から掛かって来いやぁぁぁっ!!」
まるで軽業師の如く、様々な体勢から繰り出される打撃技によって、迫り来る『人狼』達が見る間に凪ぎ払われていく。
手加減という名の配慮を一切考えていないらしい、その鬼のような暴れっぷりに、リネは思わず苦笑する。
「……ねぇ、レイミー。ジグラン……さっきあたしが言った事、ちゃんとわかってくれてるんだよね?」
隣で軽く頭を抱えているレイミーに尋ねてみると、彼女は自身の相方を眺めつつ、短く息を吐いた。
「……まぁ、無闇に命を奪うような真似はしないさ。それは保証するよ。ただ見ての通り、あんたの『治癒』の力は、あとで間違いなく必要になる。治す相手が多いか少ないかは……、ジグランの脳ミソの出来に左右されそうだね」
相手への信頼から口にした台詞なのか、いまいち判断が難しい発言である。
とにかく、銃や刃物に頼るよりも、ジグランのような戦い方ならば、相手に致命傷を与える可能性は低くなる。あとで怪我人を治療して回る事を考えるとかなり苦労しそうだが、リネとしては、命のやり取りをするよりはずっと良い。
まだ気を抜く訳にはいかないが、ジグランとレイミーがいてくれるなら安心できる。
そう思い、ほんの少し息を吐き掛けた時だった。
「やれやれ。これはまた、随分な乱暴者がいたものだ」
「!」
ジグランの戦いに気を取られていたリネ達は、不意に頭上から降ってきた声に驚き、同時に振り返った。
見るとダンテの家の屋根の上に、黒いマントに身を包んだ怪しげな男が立っていた。漆黒に染まった瞳が、リネ達を蔑むかのように見つめている。
「この村の『人狼』どもを使って邪魔者を一掃するつもりだったんだが、どうやら余計な手間が掛かりそうだな」
「誰!?」
レイミーは警戒心を露わにして、瞬時に腰の薙刀を掴み、構える。
すると男は、口許をニヤリと歪ませ、軽い調子で口を開いた。
「俺様の名はリシド・ベイワーク。そこの化物どもを操っている張本人で、『魔術師』さ」
「! 『魔術師』だって……? このおかしな状況は、『魔術』によって引き起こされてるものなのかい?」
レイミーは表情を険しくして、屋根の上に立つリシドを見据えた。
すると拍子抜けと言わんばかりに、低い笑い声が返ってきた。
「おいおい。まさかとは思うが、そいつらの変化が超常現象だと本気で信じていたのか? 全く、無知というのは恐ろしいものだな。ありとあらゆる事象を引き起こし、現実を思いのままに歪める力。それが『魔術』と呼ばれる代物だ。あの『風守り』の小娘に執着している貴様ならその辺り、今更語る必要もないと思っていたんだが、買い被りだったか? レイミー・リゼルブ」
「!? あんた、何でアタシの名前を……」
いきなり名前を言い当てられ、レイミーはかなり困惑しているらしい。威圧のため取っていた構えが、やや緩くなっている。
「何、貴様らの事は随分前から知っているとも。レイミー・リゼルブに、ジグラン・グラニード。古代の遺跡を発見するためとはいえ、よくもまぁ飽きもせず、あんな小娘の相手を続けられるものだな。どうやら、よほど暇を持て余していると見える」
「まさか……見てたってのか、アタシ達の事を……?」
「ああ。貴様らを眼にする機会はいくらでもあったよ。俺様もある意味、あの小娘には世話になったからな」
「……? 何を言って……」
「あなたがシャルミナさんの陰に隠れて、この森で殺人を行なってたんでしょ?」
言葉に詰まるレイミーに代わって、リネはディーンから聞かされていた推論を口にした。するとレイミーだけでなく、リシドまでもが意外そうな表情を浮かべてみせた。
二つの視線を受け止めつつ、リネは続ける。
「そしてその罪を擦り付けるためには、シャルミナさんの傍にいるのが一番だった。そういう事だよね?」
「おっと。誰かと思えば、紅髪が連れてたお嬢ちゃんじゃないか。その推論は、あの野郎から聞いたって訳かい?」
尋ね返された瞬間、リネは言葉の端から不吉なものを感じ取り、僅かに眼をみはった。
「……! もしかして、ディーンに会ったの?」
「ああ、ついさっきな。奴にはしてやられたよ。忌々しい炎の『魔術』を喰らったおかげで、左腕が使い物にならなくなった」
そう言ってリシドは、左腕を庇うように軽く摩ってみせた。黒いマントの内に隠れているせいで見えないが、負傷しているのは間違いないらしい。
リネが預かり知らぬ所で、ディーンは騒動の元凶たる男と遭遇し、戦闘まで行っている。だというのに、彼は一向に姿を現す気配がない。
まさか……という嫌な予感が、脳裏を掠める。
「ディーンはどこ! 無事なの!?」
「さぁな。どこにいようと俺様の知った事では――」
その時、不意にリシドの視線が、リネとレイミーの間で縮こまり、震えているダンテに向けられた。
「何だ、よく見れば村長様までいらっしゃるじゃないか」
自身の存在を認知された瞬間、ダンテの両肩がビクリと大きく跳ねた。
どうやら今になって、ようやくダンテの存在に気付いたらしく、リシドは邪悪な笑みを浮かべてみせる。
「とっくに食い殺されたものだと思っていたが、なるほど。そこにいる連中に助けられていたって訳か。どうだい? 化物に成り果てた住民どもに囲まれる気分は」
「うう……っ、うあ……っ!」
怯え切っているダンテは、まともな言葉を発する事ができないらしい。弱々しく首を左右に振り、両手で頭を抱え込んでしまう。
そんな彼に追い討ちを掛けるかのように、リシドは心底愉快そうな口調で言う。
「どうやら貴様は、俺様の実験の一端に早くから触れちまってたみたいだからなぁ。余計な真似をした罰として、孤独と恐怖を存分に味わえる環境を与えてやったんだが、効果覿面だった様子だなぁ。陰鬱な絶望に満ちた、実に良い表情になったじゃないか」
震え続けるダンテを少しでも落ち着かせようと、リネは屈んで、彼の両肩にそっと手を置いた。
悪辣な『魔術師』への憤りから、自然と眉間に皺ができてしまう。先刻脳裏に浮かんだ、なぜダンテだけは『人狼』への変化の兆候が見られないのか、という疑問の答えが、最悪な形で明かされてしまったのだから。
顔を上げ、リネは侮蔑の眼差しでリシドを見据えた。
「あなた、最低だよ……! 『魔術師』としても、人としても!」
「フン。あの紅髪の連れだけあって、生意気な台詞を吐く小娘だ。まさかこの状況で、どちらが優位な立場か理解していないんじゃないだろうな?」
と、ニヤけていたリシドの顔が、一瞬で真剣なものに変わった。かと思うと、彼は何かを避けるように、即座にその場に屈んだ。
直後、リシドの身体の上を通過したのは、真横に振るわれた薙刀の刃だった。
攻撃者はレイミーだ。ついさっきまで、すぐ隣にいたはずの彼女が、いつの間にか屋根の上に到達している。
「ククク、怖い顔だな。折角の美人が――ッ、台無しだぞ?」
軽口の最中に振るわれた二擊目を、リシドは紙一重で躱して距離を取った。
対して、薙刀を構え直すレイミーの表情には、覇気には、明らかに憤りの色が見て取れる。
「ふざけるんじゃないよ。あんた一体、何のためにこんな馬鹿げた事をしてる?」
「馬鹿げたとは失敬な物言いじゃないか。これらは全て実験なんだよ。俺様の高尚なる『魔術』の成果を、存分に確かめるためのな」
「……実験? あんたまさか、そんな理由で関係ない人を巻き込んだって言う気!?」
リシドを明確な悪として再認識したのか、レイミーの眼差しに更なる敵意が宿る。
しかし、威圧的な視線を向けられて尚、相手を嘲笑するかのような余裕は、リシドから消え去らなかった。
「カハハ。答えがわかり切っている質問を投げ掛けて何が面白いんだ、貴様は。それともそうする事で、正義面した自分自身に陶酔でもしているのか? だとしたら傑作だなぁ、この偽善者が」
レイミーを見つめ、リシドはこれ以上無いというほど口角を吊り上げ、邪悪な笑みを作ってみせる。
それが完全に、彼女の癪に障ったらしい。
「黙れ下衆野郎っ!!」
怒号と共に屋根を力強く蹴りつけ、空中高く跳躍したレイミーは、落下の勢いを利用して、薙刀を上段から鋭く振り下ろした。
ガンッ、と。
重く鋭利な一撃は、しかしリシドの身体を捉えられなかった。交錯する瞬間、彼はまたしても距離を取り、別の民家の屋根の上へと逃れてしまったのだ。
重力に逆らうかのようなその身軽さたるや。戦況を見上げていたリネには、先刻のジグラン以上の運動能力だと感じられた。
悔しげに睨みを利かせるレイミーを煽るように、ゆらりと佇むリシドは、愉快げにニヤついてみせる。
「粋がるなよ素人が。少々戦い慣れた程度の力量で、この俺様を捉えられるとでも思ったか。生憎、あの『風守り』の小娘とは格が違うんだよ」
その時ふと、リネはある物を視界に捉えた。
対峙するリシドの右手にいつの間にか握られている、水晶と思しき物体。そこから怪しげな、黒い光が発生し始めたのだ。
「噛み殺せ、『黒狼』」
「ぐ……ッ、ああああああッ!」
リシドの口から不穏な文言を唱えられた瞬間、突然レイミーが苦しげな悲鳴を上げた。
驚いて視線を向けると、月明かりに照らされた彼女の身体の至るところに、黒い煙のようなものがまとわり付いている。
……いや、ただの煙ではない。あの形は紛れもなく――
(狼の、頭……!?)
異様な光景を目の当たりにし、リネは思わず息を呑む。虚空から突如として出現したのは、無数の狼の頭部であり、それらがレイミーの四肢に、鋭利な牙を突き立てているのだ。
「……っ!」
「! レイミー!!」
激痛を伴ったであろう束縛が数秒続くと、狼の頭部は霧散するように消え去った。途端、レイミーの身体がぐらりと揺らいだ。
恐らく、痛みによって足がもつれたのだろう。レイミーは屋根の上から転げ落ち、下にいたリネのすぐ傍まで倒れ込んできた。
慌てて彼女の身体を抱き起こすと、案の定、そこには痛々しい傷がいくつも刻まれていた。苦悶の表情を浮かべ、呼吸は荒くするその姿が、リネの表情を歪ませる。
「レイミー、待ってて! すぐに――」
治療するから、とは続けられなかった。
リネの思考を中断させるかのように、地面を滑る形でジグランが倒れ込んできたのだ。
『人狼』達が振るう爪によって引き裂かれたのだろう。彼の身体には、出血を伴う擦過傷がいくつも付いている。
「ジグラン! 大丈夫……!?」
「くっそ……! このオレが、高が狼なんぞに……!」
悔しそうな顔をするジグランの視線を追って、リネは即座に顔を上げた。
するとそこには、肉弾戦を繰り広げていた『人狼』達が、身体に無数の痣を作りながらも、未だに倒れる事なく迫ろうとしていた。
(そんな……。ジグランがあれだけ打撃してたのに、まだ立ち向かってくるなんて……!)
獣化の恩恵があるとはいえ、相手も元はただの人間だ。先ほどジグランが見せていた怒涛のような連打を思えば、何人か無力化できていてもおかしくないはずなのだが……。
リネは思わず息を呑んだ。身体が、まるで自分の物ではなくなったかのように凍り付いて、銃を持って戦うどころか、指の一本すらも動かせなくなる。
「さぁて。少々手間取ったようだが、ようやくこれで終幕だ」
頭上から降ってきた声を頼りに見上げると、先ほどまでレイミーが立っていた位置に、いつの間にかリシドが立っていた。
彼が右手に持つ水晶からは、尚も不気味な黒い光が放たれ続けている。
「今宵は月に一度の殺戮祭だ。――さぁ『人狼』ども。思う存分喰い散らかせ!」
まるで舞台の主演俳優のように、高みからこちらを見下ろし、酷薄な笑みを湛えるリシド。
視界がぼやけるような錯覚に陥った。
冷や汗で、額が湿っているのがわかった。
自らの死という事実がすぐ傍まで迫っているというのに、それを退ける力が無い事を、リネは痛感させられた。
怪我を治療する事はできても、死んでしまった人間を蘇らせられないのと同じだ。
彼女には、死に抗える力が、無い――
「悪ぃけど、そのお祭りとやらは中止にさせてもらうぜ」
それはまるで、漆黒の闇が支配する地下深くに、地上からの光が差し込むかのようだった。
聞き覚えのある声に鼓膜を刺激され、リネは思わず泣き出しそうになった。零れる間際の涙を必死に抑え、安らぎをくれる声が聞こえてきた方を仰ぎ見る。
夢や幻では決してない。そこにいたのは、炎のような紅い髪の少年。
「もうあんたの好きにはさせねぇ。決着をつけようじゃねぇか、リシド・ベイワーク!」
少女がずっと待ちわびていた、『炎を操る者』の姿だった。
◆ ◆ ◆
正直な所、あと少しでも集落に着くのが遅れていたら、リネ達は『人狼』の群れに食い殺されていたかも知れない。それが、眼下の状況を見て思った事だった。
この場所に辿り着くまでの間、俺はリネ達さえ無事ならそれでいいと、心の底から思っていた。リシドの実験だの獣化の『魔術』だの、そんな事はどうでもいいと。
ところが、だ。
いざ現場に到着し、傷付き倒れているレイミーとジグランの姿と、今にも泣き出しそうなリネの表情を見た瞬間、全身の熱が一気に上昇するような感覚を覚えた。
リシドに対して、先に制止の言葉を投げ掛けられたのは、ほとんど奇跡に近い。一歩間違えば、問答無用で炎を喰らわせていた自覚がある。
『テルノアリス』での一件以来、感情的になる機会が増えているのは明らかだ。ミレーナとの約束を破る事だけは御免だというのに、自制心が働き難くなり始めている。
……だけど、それは同時に、守りたいものが増えたという証でもあるのだろう。
照れ臭い上に何だか癪だから、口にするのは憚られるけれど。
ならば尚更、感情に身を任せてしまう訳にはいかない。
眼の前の男のような、ただの『人殺し』に成り下がる訳には、いかないんだ。
「随分早い到着じゃないか、ディーン・イアルフス。せめてあと少し遅ければ、目障りな連中を残らず処理できていたんだがなぁ」
俺の心中を察した様子もないリシドは、挑発するかのように嫌味な笑みを浮かべてみせる。
だが俺は、できるだけリシドの言葉を聞き流すように努めた。こいつを許すつもりはないが、まずは一旦、冷静さを取り戻さなくては。
「シャルミナのおかげさ。あいつがいてくれたおかげで、道中全く迷わなかったよ」
「それはそれは。……で、その案内役の小娘はどこにいる?」
「いるじゃねぇか、すぐそこに」
俺がリシドの背後、リネ達に迫ろうとする『人狼』の群れを指差した瞬間だった。
「『旋風』!」
突然、群れの中心から竜巻が発生し、リネ達を取り囲もうとしていた『人狼』達が、強風によって四方八方に吹き飛ばされた。
渦の中心となった位置には、牡丹色の髪を風になびかせる、シャルミナの姿がある。
「いつの間に……!」
肩越しに背後を振り返り、忌々しげな声を上げるリシド。
その一瞬の隙を、俺は見逃さなかった。
屋根の上を疾走して瞬時に距離を詰め、こちらの接近に気付いたリシドの顔面に、速度を乗せた右拳を叩き込んだ。
「おぐっ!!」
俺が放った一撃は、奴の身体を軽々と吹き飛ばし、屋根の上から殴り落とす形になった。
ドシャッ! という派手な音を立てて地面に倒れたリシドは、屍と化したかのように動かなくなる。
俺は鈍い痛みを感じた右手を軽く振ってから、襲われる寸前だったリネ達の許に、跳躍して下り立った。
「悪いな、リネ。遅くなっちまって」
「ううん。ディーンこそ、無事で良かったよ」
黒真珠のような瞳に薄く涙を溜め、本当に嬉しそうに微笑むリネ。
彼女から読み取れる真っ直ぐな親愛の感情が、少々照れ臭くなった俺は、やや視線を逸らしてしまう。
「……えーっと、怪我は無いよな?」
「あたしは平気。でも二人が……」
と、言い淀みながら、リネは傍らに蹲るレイミーとジグランを心配そうに見つめた。
確かに、二人とも怪我が酷い。リネの能力を使えば簡単に治る傷ではあるだろうが、だからと言ってそれで済む話でもない。
俺はその場に屈んで、目線を二人と同じ位置に合わせた。
「ごめんな、二人とも。俺がもう少し早く着いてれば、余計な怪我させずに済んだかも知れないのに……」
伏し目がちに言うと、苦悶の表情を浮かべていたレイミーが、弱々しく笑って俺の額を小突いてきた。
「あんたが気にする必要ないだろ。これはアタシらが油断してたから付いた傷だ。傷の程度を心配される事はあっても、謝られる通りはないさ」
「レイミー……」
「それでも気が済まないって言うなら……そうだな。アタシ達の代わりに、あのクソ野郎をブッ飛ばしてくれよ、『炎を操る者』」
「……!」
おい、ちょっと待て。何で『その名称』が、よりにもよってレイミーの口から出てくる? 彼女の前で、その不名誉な呼び名を話題にした覚えは一切ないんだが?
……なんて、わざとらしく疑問に思うまでもないよな。だってどう考えたって、犯人は一人しかいねぇんだもん。
「お前なぁ……。俺がいないからって、早速言い触らしてんじゃねぇよ」
浅く溜め息をつき、抗議の眼で隣の犯人を見た。すると彼女は、「何か悪い事言った?」なんて言いながら、僅かに首を傾げている。
全く、自分で考えた『通り名』を自分で他人に披露するなんて、彼女らしいと言うか何と言うか……。
妙な『通り名』を付けられて不満に思っているのは確かだが、少なくともこの時だけは、不思議と嫌な気分にはならなかった。むしろ、ちょっとした意気込みすら感じてしまっている。
俺はレイミー達に視線を戻し、軽く笑い掛けながら頷いた。
「わかった。あの野郎をブッ飛ばす役、交代させてもらうぜ」
決意を新たにしたところで、リネに目配せしてレイミー達を任せ、再度立ち上がった時だった。
「ディーン! リシドが!」
警戒しろと命じるかのように、鋭く響くシャルミナの声。俺はすぐさま向き直り、リシドの姿を視界に捉えた。
奴はいつの間にか立ち上がり、ゆらゆらと身体を揺らして不気味に佇んでいる。寒気を煽るような笑みを湛えるその顔には、俺の拳が命中したと思われる辺りに、紫色の痣ができている。
「クク……、カハハハ。どこまでも俺様の邪魔をしやがる野郎だなぁ。えぇ? 俺様の思い通りにならない人間ほど、ブッ殺してやりたくてたまらなくなる」
リシドの両眼から放たれる、憤怒を孕んだ禍々しい殺気。相手の存在に憤りを感じているのはお前だけではないと、その表情が物語っている。
俺は右手に炎を集束させ、『紅蓮の爆炎剣』を造り上げながら、気圧されそうになる心を奮い立たせた。
どれだけ濃密な殺意を向けられようと、怯んでいる訳にはいかない。ここで必ず奴を止めるんだ!
「退かねぇつもりなら容赦はしない。徹底的に叩きのめすぞ」
「ククク……。やってみやがれェェェェッ!!」
リシドが怒号を上げ、右手に握った水晶を高く掲げた時だった。シャルミナが竜巻で吹き飛ばした『人狼』達に、異変が起き始める。痙攣するかのように身体を激しく震わせたかと思うと、全身から蒸気のような黒い煙を噴出させたのだ。
肉体という入れ物から解放され、歓喜でもしているというのか。空中を右へ左へ忙しなく飛び回るそれらは、力の元凶であるリシドの許へと返っていく。後に残ったのは、獣に変貌する前の姿に戻り、意識を失って地面に伏す集落の人々だった。
これ以上何をするつもりなのか、と訝しむ俺を他所に、リシドはまたもや不気味にせせら笑う。
「集え、集えよ数多にも。纏え、纏えよ幾重にも。我が魂の法の下、今こそ顕せその姿」
紡がれる謎の言霊に呼応するかのように、黒い煙は渦を巻きながら一ヵ所に集まり始めた。それらは絡み合い、混ざり合い、重なり合って、徐々に一つの形を成していく。
やがて禍々しき集束が収まると、そこには全く新たな存在が出現していた。
闇に溶け込むかのような漆黒の毛並み。付け根の部分で二つに分かれた、大蛇のような長い尾。筋肉質な四本の足で大地に屹立するその存在は、頭部に備えた三つの紅い眼で、鋭く俺達を睨み付けてきた。
「黒い……、狼……!」
屈んだ状態のリネが慄くように呟くと、黒い狼は体長十メートルはあろうかという身体を軽く揺さ振った。そして、太く鋭利な牙が並ぶ巨大な口を開放し、天の満月を仰いだ瞬間――
「グオオオオオォォオオォオオオオオオォォォッッ!!」
爆音の如き咆哮を、炸裂させた。
「ッ!」
大気を震わせるほどの大音響を至近で浴びせられ、俺は思わず顔をしかめた。
『魔術』が絡む存在として、すでに見慣れてしまった『ゴーレム』とは成り立ちが全く違う。無数の獣の魂によって創り出されたこいつは、無機質な物体ではない。
闇を司る力によって生み出された、新たなる生命体だ。
「全く、『魔術』とはこの上なく面白い技術だ」
低く愉快げに笑いながら、死神の如き男の独演は続く。
自身が望む狂気と破滅を、招き寄せようとするかのように。
「人間を殺す。他者を殺す。許せぬ者を殺す。憎き者を殺す。邪魔な者を殺す。気に喰わぬ者を殺す。殺すという行為のためなら、こんな化物すらも創り出す事ができるのだから! 我々は! 『魔術師』は! 最高に愉快な存在だ! なぁ!? ディーン・イアルフスッ!!」
『魔術』とは、人を殺す事のみに特化した技術。ゆえに人を生かし、また活かす事はできない。
その言葉が、俺の頭の中で繰り返し再生された。