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フレイム・ウォーカー  作者: エスパー
魔女の森編
22/122

第六章 You guys are beast?

人狼(ウェアウルフ)』が姿を変貌させるのは、満月の夜。知識として得ていたはずのその情報を、俺は油断から完全に見落としていた。

 リシドの言っていた通り、満月の夜という状況は、『魔術』に関しても重要な役割を持っている。それは、満月の夜に『儀式』や『術式』といった『魔術』的な物事を行うと、飛躍的にその力が増大するという点だ。

 俺達『魔術師』の間では常識となっている事実だが、なぜ力が増すのかという疑問は、『魔術』が生まれて何百年と経つ現在でも、未だに解明されていない。

 一説には、月には魔の力を司る者が住んでいて、満月の夜にその者達が地上に降りてくるからだ、なんて言われている事もある。

 とはいえ、『魔術師』である俺からしても、そんな話は荒唐無稽であると言わざるを得ない。別に否定している訳じゃないが、自分の眼で見てもいないものを信じる事なんて、誰だって簡単にはできないだろ?

 とにかく、今宵はその満月の夜だ。

 あのリシド・ベイワークという『魔術師』は、この日が来るまでに何らかの方法で、あの集落の人間に獣化の『魔術』を施したんだろう。

 奴自身も今、あの集落に向かっているのは間違いない。急がないとリネ達が危険だ。

「あのリシドって男を止めるのはもちろんだけど、『魔術』を掛けられた集落の人達は? 元に戻してあげられるの?」

 森の中を駆け抜けながら、俺の見解を聞いていたシャルミナは、そう言って不安げな顔をする。

 俺は地面から露出している太い木の根を跳び越えてから、横合いの位置を保つシャルミナを一瞥した。それと同時に、不謹慎だと思いながらも安心してしまった。

 彼女にとってあの集落に住む人間は、全くと言っていいほど接点のない、赤の他人だ。そんな人間の身を案じているという事は、彼女もごく普通の感情を持った、十代の女の子だという証明に他ならない。そう改めて確認できた気がして、俺は素直に嬉しかった。

 自然と口許を緩ませていると、案の定訝しく思ったのか、シャルミナが少々不満そうに眉根を寄せる。

「……何よその顔。真面目な話の最中だってわかってる?」

「気にしなくていいぜ、ただの思い出し笑いだから」

 俺は悪戯っぽく笑い返してから、若干納得がいかないような表情のシャルミナに、改めて見解を述べる。

「そんなに難しい話じゃないと思うぜ。シャルミナも見ただろ? リシドの野郎が握ってた水晶を。あれには多分、『魔術』によって『人狼(ウェアウルフ)』一族の魂が封じ込められてるはずだ。つまりあの水晶を破壊して、それを解放してやれば――」

「操られてる人達も元に戻る、って事?」

「あくまで推測だけどな。それでも、やってみる価値はあるはずだ」

 リシドの扱う『魔術』の全てを、使用者でもない俺が解説し切れる訳なんてない。だがどう考えても、俺にはリシドが持っていたあの水晶が、奴自身の『魔術』の『核』として成り立っているような気がしてならない。集落に辿り着きさえすれば、その辺りの事もはっきりするだろう。

 今は一刻も早く、あの集落に辿り着く事が先決だ。

「急ごう。これ以上、余計な犠牲を出さないためにも……!」

 意気込む俺の言葉に、シャルミナは無言で頷いてくれた。

 疾走し続ける俺達の頭上。夜空に浮かぶ満月から放たれる怪しげな光は、闇の巣窟と化した森の中を、静かに照らしている。

 その光はまるで、俺達を誘う(みち)(しるべ)のようだった。




 ◆  ◆  ◆




 ダンテの家を囲む集落の人間達。その様子に困惑しているリネ達の眼の前で、異変は突如として起きた。

 最初に変貌し始めたのは、家のすぐ傍に佇んでいる、体格のいい男性だった。

 突然、身体を小刻みに震えさせ始めたかと思うと、服から露出している部分の肌が、見る見る内に銀色の毛に覆われ、手の爪が猛禽類(もうきんるい)のように鋭く伸び、顔の骨格すら形を変え始めた。

 細く縦長の頭部。肉に噛み付く事に特化した、長大な口。その内に並ぶ、鋭利な牙。琥珀色の瞳は人間の物とは違い、獲物を求める殺気に満ちている。

 その姿は、超常的な力によって二足歩行を獲得した、野生の狼そのものだ。

「マジかよ……っ!」

 窓辺からその変化を見つめていたジグランが、信じられないといった様子で呟いた。

 その間にも、異変は止まらない。

 今度は隣にいた細身の男性が。

 その次は、すぐ後ろにいた髪の短い女性が。

 ダンテの家を、リネ達を取り囲む集落の人間全員が、まるで連鎖反応でも起こすかのように、次々とその姿を変貌させていく。

 やがて変化が止まり、低く唸り声を上げながら獰猛な目付きでこちらを睨む、人であって人でないもの。

 群れを成し、獲物を見据える彼らの佇まいは、まさしく『人狼』と呼ぶべき姿だった。

「ああ……ッ! ああッ、なんて事だ! この村は……、化物の巣になってしまったのかッ!?」

 窓の向こうの異様な光景に、ダンテは青ざめた顔で絶望的な声を張り上げる。

 彼の悲痛な叫びに触発され、リネは身体が硬直してしまうほどの恐怖を感じた。

 だが同時に、不思議と混乱していなかった彼女の頭に、一つの疑問が浮かぶ。それは、眼の前にいるダンテだ。

 ディーンの推測によれば、この超常的な現象を引き起こしているのは、この森に潜むシャルミナ以外の『魔術師』なのではないか、という事だった。

 もし本当に、ディーンの言う通りだとしたら。その『魔術師』の手によって、この集落の人間全員が、奇怪な『魔術』に支配されているのだとしたら。

 なぜ彼には、未だに変化の兆候が見られないのだろうか。

(ダンテさんだけは、『魔術』を掛けられていないから……? でもだとしたら、一体どうして……)

「リネ、伏せろ!」

「!」

 余所見をして考え込んでいたリネは、横合いにいたジグランに腕を引っ張られる形で、無理矢理床に押し倒された。

 するとその直後。窓ガラスが砕け散る音と共に、『人狼』と化した村人が家の中に飛び込んできた。

『人狼』の鋭い眼光が、起き上がったリネとジグランに向けられる。

「ボサッとしない! 逃げるよ!」

 ダンテを庇っていたレイミーの掛け声で、リネ達は一斉に玄関を目指し、家を飛び出した。

 しかし抜け出した先には、当然ながら『人狼』達が待ち構えている。

 リネは一瞬、自分の腰の辺りに提げている拳銃に、意識を向けた。だが、すぐさま首を左右に振って、浅はかな考えを頭から消し去ろうと努める。

(何考えてるのよ、あたし! いくら変貌したって言っても、この人達は……っ!)

 例え今は化物でも、元が普通の人間である事には変わりない。そんな相手に、殺傷可能な凶器を差し向けるのは、本当に正しい事なのか。

 意識を絡め取るような葛藤に、苛まれている最中だった。

「この……ッ!」

 傍らのレイミーが苛立ったような声を上げ、腰に提げている折り畳み式の薙刀を掴もうとした瞬間。リネは反射的に、彼女の腕を取ってその動きを制止していた。

 当然、レイミーは驚いた様子で抗議の声を上げる。

「なッ、何で止めるのよ!?」

「無闇に傷付けちゃダメ! この人達はただ操られてるだけで、自分の意志で動いてる訳じゃないんだよ!?」

「そんな悠長な事言ってられる状況じゃないわ! 戦わなきゃ、こっちが殺されんのよ!?」

「それでもダメ!! もし万が一相手を殺しちゃったら、あたしの力じゃ治せないんだよ!?」

「だからって――!」

 レイミーが更なる反論を発しようとしたその時。一体の『人狼』が、リネ達を引き裂かんと飛び掛かってきた。

 二人はほぼ同時に、しまったと思った事だろう。

 しかしその鋭利な爪と牙が、悲劇を招き寄せる事はなかった。

「何しようとしてやがんだゴルァァァッ!!」

 物凄い巻き舌と共に割って入ってきたジグランが、『人狼』の顔面に右拳を炸裂させたのだ。

 身体を仰け反らせ、思い切り後方へ吹き飛ばされた『人狼』を尻目に、ジグランは軽く息を吐き、右腕をブラブラと解しながら前へと進み出た。

「お前らがあーだこーだ言い合ってる場合かよ。要するに、殺さないように気を付けりゃあ、何の問題もねぇんだろ? だったら話は簡単だ。こいつらとは、オレが拳で語り合ってやるぜ!」

 言うが早いか、ジグランは両拳を構えると、向かってきた二体の『人狼』をいとも容易く殴り飛ばしてしまった。

 続けて、彼はその場で何度か低く跳躍し、着地と同時に『人狼』の群れへ猛然と飛び込んでいく。

「オラオラオラオラーーーーッ!! 死にてぇ奴から掛かって来いやぁぁぁっ!!」

 まるで軽業師の如く、様々な体勢から繰り出される打撃技によって、迫り来る『人狼』達が見る間に凪ぎ払われていく。

 手加減という名の配慮を一切考えていないらしい、その鬼のような暴れっぷりに、リネは思わず苦笑する。

「……ねぇ、レイミー。ジグラン……さっきあたしが言った事、ちゃんとわかってくれてるんだよね?」

 隣で軽く頭を抱えているレイミーに尋ねてみると、彼女は自身の相方を眺めつつ、短く息を吐いた。

「……まぁ、無闇に命を奪うような真似はしないさ。それは保証するよ。ただ見ての通り、あんたの『治癒』の力は、あとで間違いなく必要になる。治す相手が多いか少ないかは……、ジグラン(あいつ)の脳ミソの出来に左右されそうだね」

 相手への信頼から口にした台詞なのか、いまいち判断が難しい発言である。

 とにかく、銃や刃物に頼るよりも、ジグランのような戦い方ならば、相手に致命傷を与える可能性は低くなる。あとで怪我人を治療して回る事を考えるとかなり苦労しそうだが、リネとしては、命のやり取りをするよりはずっと良い。

 まだ気を抜く訳にはいかないが、ジグランとレイミーがいてくれるなら安心できる。

 そう思い、ほんの少し息を吐き掛けた時だった。

「やれやれ。これはまた、随分な乱暴者がいたものだ」

「!」

 ジグランの戦いに気を取られていたリネ達は、不意に頭上から降ってきた声に驚き、同時に振り返った。

 見るとダンテの家の屋根の上に、黒いマントに身を包んだ怪しげな男が立っていた。漆黒に染まった瞳が、リネ達を蔑むかのように見つめている。

「この村の『人狼』どもを使って邪魔者を一掃するつもりだったんだが、どうやら余計な手間が掛かりそうだな」

「誰!?」

 レイミーは警戒心を露わにして、瞬時に腰の薙刀を掴み、構える。

 すると男は、口許をニヤリと歪ませ、軽い調子で口を開いた。

「俺様の名はリシド・ベイワーク。そこの化物どもを操っている張本人で、『魔術師』さ」

「! 『魔術師』だって……? このおかしな状況は、『魔術』によって引き起こされてるものなのかい?」

 レイミーは表情を険しくして、屋根の上に立つリシドを見据えた。

 すると拍子抜けと言わんばかりに、低い笑い声が返ってきた。

「おいおい。まさかとは思うが、そいつらの変化が超常現象だと本気で信じていたのか? 全く、無知というのは恐ろしいものだな。ありとあらゆる事象を引き起こし、現実を思いのままに歪める力。それが『魔術』と呼ばれる代物だ。あの『風守り』の小娘に執着している貴様ならその辺り、今更語る必要もないと思っていたんだが、買い被りだったか? レイミー・リゼルブ」

「!? あんた、何でアタシの名前を……」

 いきなり名前を言い当てられ、レイミーはかなり困惑しているらしい。威圧のため取っていた構えが、やや緩くなっている。

「何、貴様らの事は随分前から知っているとも。レイミー・リゼルブに、ジグラン・グラニード。古代の遺跡を発見するためとはいえ、よくもまぁ飽きもせず、あんな小娘の相手を続けられるものだな。どうやら、よほど暇を持て余していると見える」

「まさか……見てたってのか、アタシ達の事を……?」

「ああ。貴様らを眼にする機会はいくらでもあったよ。俺様もある意味、あの小娘には世話になったからな」

「……? 何を言って……」

「あなたがシャルミナさんの陰に隠れて、この森で殺人を行なってたんでしょ?」

 言葉に詰まるレイミーに代わって、リネはディーンから聞かされていた推論を口にした。するとレイミーだけでなく、リシドまでもが意外そうな表情を浮かべてみせた。

 二つの視線を受け止めつつ、リネは続ける。

「そしてその罪を擦り付けるためには、シャルミナさんの傍にいるのが一番だった。そういう事だよね?」

「おっと。誰かと思えば、紅髪(あかがみ)が連れてたお嬢ちゃんじゃないか。その推論は、あの野郎から聞いたって訳かい?」

 尋ね返された瞬間、リネは言葉の端から不吉なものを感じ取り、僅かに眼をみはった。

「……! もしかして、ディーンに会ったの?」

「ああ、ついさっきな。奴にはしてやられたよ。忌々しい炎の『魔術』を喰らったおかげで、左腕が使い物にならなくなった」

 そう言ってリシドは、左腕を庇うように軽く摩ってみせた。黒いマントの内に隠れているせいで見えないが、負傷しているのは間違いないらしい。

 リネが預かり知らぬ所で、ディーンは騒動の元凶たる男と遭遇し、戦闘まで行っている。だというのに、彼は一向に姿を現す気配がない。

 まさか……という嫌な予感が、脳裏を掠める。

「ディーンはどこ! 無事なの!?」

「さぁな。どこにいようと俺様の知った事では――」

 その時、不意にリシドの視線が、リネとレイミーの間で縮こまり、震えているダンテに向けられた。

「何だ、よく見れば村長様までいらっしゃるじゃないか」

 自身の存在を認知された瞬間、ダンテの両肩がビクリと大きく跳ねた。

 どうやら今になって、ようやくダンテの存在に気付いたらしく、リシドは邪悪な笑みを浮かべてみせる。

「とっくに食い殺されたものだと思っていたが、なるほど。そこにいる連中に助けられていたって訳か。どうだい? 化物に成り果てた住民どもに囲まれる気分は」

「うう……っ、うあ……っ!」

 怯え切っているダンテは、まともな言葉を発する事ができないらしい。弱々しく首を左右に振り、両手で頭を抱え込んでしまう。

 そんな彼に追い討ちを掛けるかのように、リシドは心底愉快そうな口調で言う。

「どうやら貴様は、俺様の実験の一端に早くから触れちまってたみたいだからなぁ。余計な真似をした罰として、孤独と恐怖を存分に味わえる環境を与えてやったんだが、効果覿面だった様子だなぁ。陰鬱な絶望に満ちた、実に良い表情になったじゃないか」

 震え続けるダンテを少しでも落ち着かせようと、リネは屈んで、彼の両肩にそっと手を置いた。

 悪辣な『魔術師』への憤りから、自然と眉間に皺ができてしまう。先刻脳裏に浮かんだ、なぜダンテだけは『人狼』への変化の兆候が見られないのか、という疑問の答えが、最悪な形で明かされてしまったのだから。

 顔を上げ、リネは侮蔑の眼差しでリシドを見据えた。

「あなた、最低だよ……! 『魔術師』としても、人としても!」

「フン。あの紅髪(あかがみ)の連れだけあって、生意気な台詞を吐く小娘だ。まさかこの状況で、どちらが優位な立場か理解していないんじゃないだろうな?」

 と、ニヤけていたリシドの顔が、一瞬で真剣なものに変わった。かと思うと、彼は何かを避けるように、即座にその場に屈んだ。

 直後、リシドの身体の上を通過したのは、真横に振るわれた薙刀の刃だった。

 攻撃者はレイミーだ。ついさっきまで、すぐ隣にいたはずの彼女が、いつの間にか屋根の上に到達している。

「ククク、怖い顔だな。折角の美人が――ッ、台無しだぞ?」

 軽口の最中に振るわれた二擊目を、リシドは紙一重で躱して距離を取った。

 対して、薙刀を構え直すレイミーの表情には、覇気には、明らかに憤りの色が見て取れる。

「ふざけるんじゃないよ。あんた一体、何のためにこんな馬鹿げた事をしてる?」

「馬鹿げたとは失敬な物言いじゃないか。これらは全て実験なんだよ。俺様の高尚なる『魔術』の成果を、存分に確かめるためのな」

「……実験? あんたまさか、そんな理由で関係ない人を巻き込んだって言う気!?」

 リシドを明確な悪として再認識したのか、レイミーの眼差しに更なる敵意が宿る。

 しかし、威圧的な視線を向けられて尚、相手を嘲笑するかのような余裕は、リシドから消え去らなかった。

「カハハ。答えがわかり切っている質問を投げ掛けて何が面白いんだ、貴様は。それともそうする事で、正義面した自分自身に陶酔でもしているのか? だとしたら傑作だなぁ、この偽善者が」

 レイミーを見つめ、リシドはこれ以上無いというほど口角を吊り上げ、邪悪な笑みを作ってみせる。

 それが完全に、彼女の癪に障ったらしい。

「黙れ下衆野郎っ!!」

 怒号と共に屋根を力強く蹴りつけ、空中高く跳躍したレイミーは、落下の勢いを利用して、薙刀を上段から鋭く振り下ろした。

 ガンッ、と。

 重く鋭利な一撃は、しかしリシドの身体を捉えられなかった。交錯する瞬間、彼はまたしても距離を取り、別の民家の屋根の上へと逃れてしまったのだ。

 重力に逆らうかのようなその身軽さたるや。戦況を見上げていたリネには、先刻のジグラン以上の運動能力だと感じられた。

 悔しげに睨みを利かせるレイミーを煽るように、ゆらりと佇むリシドは、愉快げにニヤついてみせる。

「粋がるなよ素人が。少々戦い慣れた程度の力量で、この俺様を捉えられるとでも思ったか。生憎、あの『風守り』の小娘とは格が違うんだよ」

 その時ふと、リネはある物を視界に捉えた。

 対峙するリシドの右手にいつの間にか握られている、水晶と思しき物体。そこから怪しげな、黒い光が発生し始めたのだ。

「噛み殺せ、『黒狼(ファング)』」

「ぐ……ッ、ああああああッ!」

 リシドの口から不穏な文言を唱えられた瞬間、突然レイミーが苦しげな悲鳴を上げた。

 驚いて視線を向けると、月明かりに照らされた彼女の身体の至るところに、黒い煙のようなものがまとわり付いている。

 ……いや、ただの煙ではない。あの形は紛れもなく――

(狼の、頭……!?)

 異様な光景を目の当たりにし、リネは思わず息を呑む。虚空から突如として出現したのは、無数の狼の頭部であり、それらがレイミーの四肢に、鋭利な牙を突き立てているのだ。

「……っ!」

「! レイミー!!」

 激痛を伴ったであろう束縛が数秒続くと、狼の頭部は霧散するように消え去った。途端、レイミーの身体がぐらりと揺らいだ。

 恐らく、痛みによって足がもつれたのだろう。レイミーは屋根の上から転げ落ち、下にいたリネのすぐ傍まで倒れ込んできた。

 慌てて彼女の身体を抱き起こすと、案の定、そこには痛々しい傷がいくつも刻まれていた。苦悶の表情を浮かべ、呼吸は荒くするその姿が、リネの表情を歪ませる。

「レイミー、待ってて! すぐに――」

 治療するから、とは続けられなかった。

 リネの思考を中断させるかのように、地面を滑る形でジグランが倒れ込んできたのだ。

『人狼』達が振るう爪によって引き裂かれたのだろう。彼の身体には、出血を伴う擦過傷がいくつも付いている。

「ジグラン! 大丈夫……!?」

「くっそ……! このオレが、高が狼なんぞに……!」

 悔しそうな顔をするジグランの視線を追って、リネは即座に顔を上げた。

 するとそこには、肉弾戦を繰り広げていた『人狼』達が、身体に無数の痣を作りながらも、未だに倒れる事なく迫ろうとしていた。

(そんな……。ジグランがあれだけ打撃してたのに、まだ立ち向かってくるなんて……!)

 獣化の恩恵があるとはいえ、相手も元はただの人間だ。先ほどジグランが見せていた怒涛のような連打を思えば、何人か無力化できていてもおかしくないはずなのだが……。

 リネは思わず息を呑んだ。身体が、まるで自分の物ではなくなったかのように凍り付いて、銃を持って戦うどころか、指の一本すらも動かせなくなる。

「さぁて。少々手間取ったようだが、ようやくこれで終幕だ」

 頭上から降ってきた声を頼りに見上げると、先ほどまでレイミーが立っていた位置に、いつの間にかリシドが立っていた。

 彼が右手に持つ水晶からは、尚も不気味な黒い光が放たれ続けている。

「今宵は月に一度の殺戮祭(カーニバル)だ。――さぁ『人狼』ども。思う存分喰い散らかせ!」

 まるで舞台の主演俳優のように、高みからこちらを見下ろし、酷薄な笑みを湛えるリシド。

 視界がぼやけるような錯覚に陥った。

 冷や汗で、額が湿っているのがわかった。

 自らの死という事実がすぐ傍まで迫っているというのに、それを退ける力が無い事を、リネは痛感させられた。

 怪我を治療する事はできても、死んでしまった人間を蘇らせられないのと同じだ。

 彼女には、死に抗える力が、無い――


「悪ぃけど、そのお祭りとやらは中止にさせてもらうぜ」


 それはまるで、漆黒の闇が支配する地下深くに、地上からの光が差し込むかのようだった。

 聞き覚えのある声に鼓膜を刺激され、リネは思わず泣き出しそうになった。零れる間際の涙を必死に抑え、安らぎをくれる声が聞こえてきた方を仰ぎ見る。

 夢や幻では決してない。そこにいたのは、炎のような紅い髪の少年。

「もうあんたの好きにはさせねぇ。決着をつけようじゃねぇか、リシド・ベイワーク!」

 少女がずっと待ちわびていた、『炎を操る者(フレイム・ウォーカー)』の姿だった。




 ◆  ◆  ◆




 正直な所、あと少しでも集落に着くのが遅れていたら、リネ達は『人狼』の群れに食い殺されていたかも知れない。それが、眼下の状況を見て思った事だった。

 この場所に辿り着くまでの間、俺はリネ達さえ無事ならそれでいいと、心の底から思っていた。リシドの実験だの獣化の『魔術』だの、そんな事はどうでもいいと。

 ところが、だ。

 いざ現場に到着し、傷付き倒れているレイミーとジグランの姿と、今にも泣き出しそうなリネの表情を見た瞬間、全身の熱が一気に上昇するような感覚を覚えた。

 リシドに対して、先に制止の言葉を投げ掛けられたのは、ほとんど奇跡に近い。一歩間違えば、問答無用で炎を喰らわせていた自覚がある。

『テルノアリス』での一件以来、感情的になる機会が増えているのは明らかだ。ミレーナとの約束を破る事だけは御免だというのに、自制心が働き難くなり始めている。

 ……だけど、それは同時に、守りたいものが増えたという証でもあるのだろう。

 照れ臭い上に何だか癪だから、口にするのは憚られるけれど。

 ならば尚更、感情に身を任せてしまう訳にはいかない。

 眼の前の男のような、ただの『人殺し』に成り下がる訳には、いかないんだ。

「随分早い到着じゃないか、ディーン・イアルフス。せめてあと少し遅ければ、目障りな連中を残らず処理できていたんだがなぁ」

 俺の心中を察した様子もないリシドは、挑発するかのように嫌味な笑みを浮かべてみせる。

 だが俺は、できるだけリシドの言葉を聞き流すように努めた。こいつを許すつもりはないが、まずは一旦、冷静さを取り戻さなくては。

「シャルミナのおかげさ。あいつがいてくれたおかげで、道中全く迷わなかったよ」

「それはそれは。……で、その案内役の小娘はどこにいる?」

「いるじゃねぇか、すぐそこに」

 俺がリシドの背後、リネ達に迫ろうとする『人狼』の群れを指差した瞬間だった。

「『旋風(サークル・ウィンド)』!」

 突然、群れの中心から竜巻が発生し、リネ達を取り囲もうとしていた『人狼』達が、強風によって四方八方に吹き飛ばされた。

 渦の中心となった位置には、牡丹色の髪を風になびかせる、シャルミナの姿がある。

「いつの間に……!」

 肩越しに背後を振り返り、忌々しげな声を上げるリシド。

 その一瞬の隙を、俺は見逃さなかった。

 屋根の上を疾走して瞬時に距離を詰め、こちらの接近に気付いたリシドの顔面に、速度を乗せた右拳を叩き込んだ。

「おぐっ!!」

 俺が放った一撃は、奴の身体を軽々と吹き飛ばし、屋根の上から殴り落とす形になった。

 ドシャッ! という派手な音を立てて地面に倒れたリシドは、屍と化したかのように動かなくなる。

 俺は鈍い痛みを感じた右手を軽く振ってから、襲われる寸前だったリネ達の許に、跳躍して下り立った。

「悪いな、リネ。遅くなっちまって」

「ううん。ディーンこそ、無事で良かったよ」

 黒真珠のような瞳に薄く涙を溜め、本当に嬉しそうに微笑むリネ。

 彼女から読み取れる真っ直ぐな親愛の感情が、少々照れ臭くなった俺は、やや視線を逸らしてしまう。

「……えーっと、怪我は無いよな?」

「あたしは平気。でも二人が……」

 と、言い淀みながら、リネは傍らに蹲るレイミーとジグランを心配そうに見つめた。

 確かに、二人とも怪我が酷い。リネの能力を使えば簡単に治る傷ではあるだろうが、だからと言ってそれで済む話でもない。

 俺はその場に屈んで、目線を二人と同じ位置に合わせた。

「ごめんな、二人とも。俺がもう少し早く着いてれば、余計な怪我させずに済んだかも知れないのに……」

 伏し目がちに言うと、苦悶の表情を浮かべていたレイミーが、弱々しく笑って俺の額を小突いてきた。

「あんたが気にする必要ないだろ。これはアタシらが油断してたから付いた傷だ。傷の程度を心配される事はあっても、謝られる通りはないさ」

「レイミー……」

「それでも気が済まないって言うなら……そうだな。アタシ達の代わりに、あのクソ野郎をブッ飛ばしてくれよ、『炎を操る者(フレイム・ウォーカー)』」

「……!」

 おい、ちょっと待て。何で『その名称』が、よりにもよってレイミーの口から出てくる? 彼女の前で、その不名誉な呼び名を話題にした覚えは一切ないんだが?

 ……なんて、わざとらしく疑問に思うまでもないよな。だってどう考えたって、犯人は一人しかいねぇんだもん。

「お前なぁ……。俺がいないからって、早速言い触らしてんじゃねぇよ」

 浅く溜め息をつき、抗議の眼で隣の犯人(リネ)を見た。すると彼女は、「何か悪い事言った?」なんて言いながら、僅かに首を傾げている。

 全く、自分で考えた『通り名』を自分で他人に披露するなんて、彼女らしいと言うか何と言うか……。

 妙な『通り名』を付けられて不満に思っているのは確かだが、少なくともこの時だけは、不思議と嫌な気分にはならなかった。むしろ、ちょっとした意気込みすら感じてしまっている。

 俺はレイミー達に視線を戻し、軽く笑い掛けながら頷いた。

「わかった。あの野郎をブッ飛ばす役、交代させてもらうぜ」

 決意を新たにしたところで、リネに目配せしてレイミー達を任せ、再度立ち上がった時だった。

「ディーン! リシドが!」

 警戒しろと命じるかのように、鋭く響くシャルミナの声。俺はすぐさま向き直り、リシドの姿を視界に捉えた。

 奴はいつの間にか立ち上がり、ゆらゆらと身体を揺らして不気味に佇んでいる。寒気を煽るような笑みを湛えるその顔には、俺の拳が命中したと思われる辺りに、紫色の痣ができている。

「クク……、カハハハ。どこまでも俺様の邪魔をしやがる野郎だなぁ。えぇ? 俺様の思い通りにならない人間ほど、ブッ殺してやりたくてたまらなくなる」

 リシドの両眼から放たれる、憤怒を孕んだ禍々しい殺気。相手の存在に憤りを感じているのはお前だけではないと、その表情が物語っている。

 俺は右手に炎を集束させ、『紅蓮の爆炎剣フレイム・ロングソード』を造り上げながら、気圧されそうになる心を奮い立たせた。

 どれだけ濃密な殺意を向けられようと、怯んでいる訳にはいかない。ここで必ず奴を止めるんだ!

「退かねぇつもりなら容赦はしない。徹底的に叩きのめすぞ」

「ククク……。やってみやがれェェェェッ!!」

 リシドが怒号を上げ、右手に握った水晶を高く掲げた時だった。シャルミナが竜巻で吹き飛ばした『人狼』達に、異変が起き始める。痙攣(けいれん)するかのように身体を激しく震わせたかと思うと、全身から蒸気のような黒い煙を噴出させたのだ。

 肉体という入れ物から解放され、歓喜でもしているというのか。空中を右へ左へ忙しなく飛び回るそれらは、力の元凶であるリシドの許へと返っていく。後に残ったのは、獣に変貌する前の姿に戻り、意識を失って地面に伏す集落の人々だった。

 これ以上何をするつもりなのか、と訝しむ俺を他所に、リシドはまたもや不気味にせせら笑う。

「集え、集えよ数多にも。纏え、纏えよ幾重にも。我が魂の法の下、今こそ顕せその姿」

 紡がれる謎の言霊に呼応するかのように、黒い煙は渦を巻きながら一ヵ所に集まり始めた。それらは絡み合い、混ざり合い、重なり合って、徐々に一つの形を成していく。

 やがて禍々しき集束が収まると、そこには全く新たな存在が出現していた。

 闇に溶け込むかのような漆黒の毛並み。付け根の部分で二つに分かれた、大蛇のような長い尾。筋肉質な四本の足で大地に屹立するその存在は、頭部に備えた三つの紅い眼で、鋭く俺達を睨み付けてきた。

「黒い……、狼……!」

 屈んだ状態のリネが慄くように呟くと、黒い狼は体長十メートルはあろうかという身体を軽く揺さ振った。そして、太く鋭利な牙が並ぶ巨大な口を開放し、天の満月を仰いだ瞬間――

「グオオオオオォォオオォオオオオオオォォォッッ!!」

 爆音の如き咆哮を、炸裂させた。

「ッ!」

 大気を震わせるほどの大音響を至近で浴びせられ、俺は思わず顔をしかめた。

『魔術』が絡む存在として、すでに見慣れてしまった『ゴーレム』とは成り立ちが全く違う。無数の獣の魂によって創り出されたこいつは、無機質な物体ではない。


 闇を司る力によって生み出された、新たなる生命体だ。


「全く、『魔術』とはこの上なく面白い技術だ」

 低く愉快げに笑いながら、死神の如き男の独演は続く。

 自身が望む狂気と破滅を、招き寄せようとするかのように。

「人間を殺す。他者を殺す。許せぬ者を殺す。憎き者を殺す。邪魔な者を殺す。気に喰わぬ者を殺す。殺すという行為のためなら、こんな化物すらも創り出す事ができるのだから! 我々は! 『魔術師』は! 最高に愉快な存在だ! なぁ!? ディーン・イアルフスッ!!」

『魔術』とは、人を殺す事のみに特化した技術。ゆえに人を生かし、また活かす事はできない。

 その言葉が、俺の頭の中で繰り返し再生された。

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