第三章 森の中の集落
「なるほどね。それでその連れと逸れちまったって訳か」
少し前を歩く胡桃色の髪の青年ジグランは、ようやく納得したような声を上げた。
この森の構造に詳しいと言うジグランに連れられ、リネは道すがら、彼に詳しい経緯を説明した。
その際、特にこちらから質問した訳でもないのに、ジグランは自身の事を色々教えてくれた。
彼は歴史的価値のある古代遺跡などを探す、トレジャーハンターという仕事をしており、この森には例の『魔女伝説』に関わる事を調べるために来たそうだ。
そして、どうやら彼にはリネ同様、調査中に逸れてしまった仲間がいるらしい。その人物を探していた所でリネと遭遇してしまい、彼女の事を競争相手の『同業者』と勘違いして、先ほどのような荒々しい態度を取っていたのだとか。
誤解が解けて良かったと安堵する反面、随分手間が掛かったなぁと辟易するリネ。
彼は元々、疑い深い性格なのだろう。リネが事情を説明している間、「それは本当か?」と念を押すように尋ねてきては、何度も会話を中断させたのだ。彼が納得するまでに一体どの位の時間が掛かったのかなど、あまり考えたくはない。
リネのそんな心中を知るはずもないジグランは、明朗快活に言う。
「こんな森で一人っきりになって、心細かっただろ? だけどもう心配いらねぇぞ。この森に詳しいオレがいりゃあ、てめぇの連れもきっとすぐに見つけられるからよ」
「……自分だって仲間と逸れてるくせに」
「あん? 何か言ったか?」
「ううん、何も言ってません」
極小の声で呟いたつもりだったのだが、ジグランは物凄い速さで振り向いてきた。全く、とんでもない地獄耳である。
ジグランの態度には色々と不満が残るものの、とりあえずリネは彼の後に付いていく事にした。今は他に頼る術がないし、黙って彼に付いていった方が、何となく賢い選択のような気がしたからだ。
森の奥へと進みつつ、リネは何気なく口を開く。
「ジグラン……さんは、さっき言ってた『風守り』の一族に会った事があるんですか?」
敬語を使うかどうかを判断しかねながら尋ねると、ジグランはもう一度こちらを振り返り、ニカッと笑ってみせる。
「敬語を使う必要はねぇよ。そんな喋り方されると、逆に肩が凝っちまう」
「はぁ……」
「そんで何だ? 『風守り』の一族に会った事あるかって? そりゃあるとも。あの女とはこの森に入る度に何度も遭遇してる。毎回すぐに逃げられてはいるけどな」
「……そういえば『風守り』の一族って、女性だけが『魔術師』になる役目を担ってるんだっけ?」
早速敬語を外して話すと、ジグランは気にするどころか、逆に嬉しそうな顔で話し掛けてくる。
「おうよ。どうもこの森に残ってる『風守り』の一族は、あの女一人らしくてな。オレともう一人の連れは、あの女をとっ捕まえて、遺跡の正確な位置を聞き出そうとしてるって訳だ」
「一人って……。じゃあ、その女の人以外は……」
「ああ。理由はわからねぇが、いなくなっちまってるみてぇだ。ここに何度も足を運んでるオレ達でさえ、他の一族の人間を見た事がねぇからな。森から出て行ったのか、或いは……」
「……」
口にするのが憚られたのか、ジグランは言葉を濁した。
彼が何を言い掛けたのか、リネにはすぐにわかった。
一族唯一の生き残り。経緯は違えど、その境遇がリネには嫌というほど理解できる。なぜなら彼女自身も、『妖魔』という一族の末裔だからだ。
リネが一人になったのは、戦争中に一族を抹殺されたからだが、その『風守り』の少女は、どうして一人になったのだろう?
これほど広い森の中に、ずっと一人で住んでいる。それは一体どんな気分なのだろう?
個人的な興味が、胸の内から湧き上がる。似たような境遇の身として、単純に話をしてみたいと思う。
(……! もしかして、さっき襲ってきたのって、その『風守り』の一族の人だった……?)
あれこれ考えている内に、ふとそんな推測を思い付くリネ。
確証はないが可能性は高い。現にディーンに手を引かれて逃げ回っていた時、不可視の力で攻撃されたような気がする。
あれが『魔術』によるものだったとするなら、相手は自ずと限られてくるだろう。
(今頃ディーン、その人と戦ってるのかな……。いきなり攻撃されて不満そうにしてたし、問答無用でやり返してる、なんて事になってなければいいんだけど……)
血の気の多い彼だからこそ、容易にその場面を想像できる。
とはいえ、彼が相手の命を奪ったりする事は絶対にない。『テルノアリス』での一件を経たからこそ、そう断言できる自分がいる。彼の信念を体感してきた自分だからこそ、迷いなく信じられる。
「……早く会いたいなぁ」
心の中で思っていただけのはずが、リネはいつの間にか、気持ちを言葉に変換してしまっていた。
するとまたもやジグランが、途轍もない地獄耳っぷりを発揮し、リネの方に視線を向ける。
「会いたい? 一体誰にだ?」
「あっ……ううん、何でもない! ただの独り言だから、気にしないで」
若干照れ臭かったリネは、顔をやや紅くしながら首を左右に振った。
無論、それで誤魔化せるはずもなく、ジグランは益々疑わしげな顔付きになる。
「……お前まさか、まだ何か隠してる事があるんじゃねぇだろうな」
「な、何もないよ! 今更隠し事なんてする訳ないじゃない。ジグランの道案内、凄く助かってるんだから」
「……まぁとにかく、今はお互いの連れを捜さねぇといけねぇ。余計な話は後回しだ。そこで提案なんだがよ」
どこかまだ納得していない様子のまま、ジグランは徐に、ズボンのポケットから小さく折り畳まれた紙を取り出した。
彼の両手で広げられたそれは、どうやらこの森の大まかな地図らしい。紙面とリネの顔を交互に見ながら、ジグランは思案げな表情でこう言った。
「活動の拠点にするっつー事で、この森にある集落へ行ってみねぇか? もしかしたらお前の連れも、先にそこへ辿り着いてるかも知れねぇぞ」
◆ ◆ ◆
眼の前の悲惨な光景に、思わず身が竦み、硬直してしまいそうだった。
恐怖や不安、気持ち悪さといった色々な感情が渦巻く中、それでも俺は一番最初にこう思った。
リネがいなくてよかった、と。
あいつは凄惨な過去を経験した影響から、人間の血や人の死というものに対して、過剰な反応を見せる事がある。
俺でさえ立ち眩みを覚えるような現場なのに、あいつがいたらどうなってしまっていたかわからない。
そんな事を考えながら、俺は眼の前の惨状に改めて意識を集中させる。
地面にいくつも転がっている、腐った死体の肉片。すぐにでもこの場を立ち去りたいという思いと格闘しながら、俺はその内の一つに歩み寄り、屈んでそれを注視した。
グチャグチャになった肉の断面には、小さく蠢き回る虫が数多く集り、元の形を失い掛けている。鼻が曲がりそうな異臭のせいか、胃がキリキリと締め付けられ、同時に吐き気も襲ってくる。
「……検死とかできるの?」
同じく酷く気分が悪そうな顔をして、レイミーは俺に尋ねてきた。
「ある程度の知識は持ってるよ。とはいえ、ここまで酷い状態のヤツを見るのは初めてだけどな」
どれぐらい前だったか定かじゃないが、俺はミレーナとの修行の最中、たまたま立ち寄ったとある遺跡で、『ゴーレム』に襲われて死んだらしい、無残にも潰された人間の遺体を見つけた事があった。
もちろんその時は、思いっ切り吐き気に負けてしまったが、そういう経緯から、俺はミレーナに検死のやり方を少しだけ学んでいる。
遠い過去の記憶を辿りながら、辺りに散らばる肉片を一つ一つ観察していく。何度も気が狂いそうになったが、何とか必要な情報は手に入れる事ができた。
俺はどうにか立ち上がって、気分が悪そうなレイミーと共に一旦その場を離れた。
「腐敗が進んでるせいで確実な事は言えねぇけど、恐らく死後一ヵ月ぐらい経過してる。それにあの血の量。襲われたのは一人じゃない。多分、数人いるはずだ」
「数人って……。まさか、この森で行方不明になった人?」
「そこまではわからねぇ。服の切れ端みたいなのはほとんどなかったし、身元がわかるような物も落ちてなかったよ。肉片の方は、これでもかってぐらい転がってたけどな」
俺がそう言うと、レイミーは殊更嫌そうな顔になった。多分あの惨状を思い出して、また気分が悪くなったんだろう。
そんな表情のまま、レイミーはある推論を口にする。
「……まさかあれをやったのって、シャルミナとか言うあの『風守り』の女じゃないでしょうね? あいつが使う『風』の『魔術』なら、人間を細切れにするのなんて簡単なんじゃない?」
「確かに俺も、一瞬レイミーと同じ事を考えたさ。だけど、何か妙な感じがするんだ」
「妙な感じ?」
否定されたのが不満だったのか、やや眼を細めるレイミーに、俺は自分の感じた意見を述べる。
「あいつが使ってた『風』の『魔術』にしては、切断面が汚過ぎる。あの死体は『斬り裂かれた』って言うより、獣の牙か爪みたいな物で、無理矢理『引き千切られた』って感じなんだ」
「じゃあ何? あの死体は、全部獣の仕業だって言うの? だけど腐敗が進んでたんだろ? ならそのせいで、切断面が腐って変形したとも考えられるじゃないか。大体、『風守り』の一族が旅人を殺したって言う話を出したのは、他でもないディーン自身じゃんよ」
「それは……」
確かにそうだ。俺自身、その話の方を信じていたから、『シャルミナは相手を殺す気がない』という、レイミーの見解に疑問を持ったんだ。
だけど何かが腑に落ちない。すでに何度も思った事だが、仮に犯人がシャルミナだった場合、『魔術師』である彼女が『魔術』を使わず、あんな獣みたいなやり方で人を殺すとは考え難い。
だがそれなら、この森の中で他に誰が、あんな悲惨かつ凄惨な事をし得ると言うのか。
何か、パズルのピースが一つ欠けているような気がした。
「……とにかく今は、レイミーの言ってたこの森にある集落に行こう。そこに行けばある程度人が住んでるだろうし、そこの人達に頼んで、遺体の埋葬を手伝ってもらおうぜ」
「それはいいけど、あの集落には『ギルド』も軍の詰所もないよ? これが事件にしろ事故にしろ、報告できる役所なんて存在しないんだ」
「だからって、現場をあのままにしとく訳にもいかないだろ? 見つけちまったのは他でもない俺達なんだ。黙って見過ごす事なんてできねぇよ」
「……まぁ、そうだね」
レイミーは躊躇いがちに言って、俺達がさっきまでいた方向を見つめた。
すると彼女は、視界の端に何かを見つけたのか、前方を指差して言う。
「どうやら運が回ってきたみたいだ。このまま真っ直ぐ行けば、すぐ集落に着けそうだよ」
俺はレイミーが指差す方向を訝しく見つめる。
するとその方向の遠方に、民家の煙突から漏れている感じの柔らかい白煙が、ゆっくりと上がっているのが見えた。
◆ ◆ ◆
しばらく歩くと、鬱葱と生い茂っていた草木の風景が徐々に拓けていき、木造の民家が立ち並ぶ小さな村が姿を現した。
あまり人が住んでいないのか、昼間だと言うのに人気はほとんどない。やはりこんな森の中だと、活気が出なくなるのも当然なんだろうか?
「何かあんまり賑やかって感じの村じゃないな。ずっと前からこんな感じなのか?」
村に入ってすぐの場所で、俺は隣のレイミーに尋ねた。彼女は軽く首を捻り、顎に手を添えて、思い出そうとするかのような仕草を見せる。
「う~ん、まぁ前からさほど賑やかって感じの村ではなかったかなぁ。でも……」
「でも?」
「何か変な感じなのよ。前に来た時はもう少し、人気も活気もあったような気がしてね……。気のせいかな?」
腑に落ちないと言いたげな顔をしながらも、レイミーは村のとある民家に向けて歩き始めた。
とりあえず村長に挨拶に行こうと言うレイミーの提案で、俺は大人しくそれに付き合う事にした。
道すがら、レイミーの隣を歩く俺は、もう一度村の中を観察してみる。
民家はさほど多くない。村の中心に作られた道の両側に、五、六軒ずつ建てられたそれは、どれも木造二階建て。村全体の面積も、森に囲まれているせいかあまり広くはない。民家の中に人の気配は感じるが、外に出ている人間は少ないようだ。
歩いている最中、二、三人の村人と擦れ違ったが、余所者の俺達を見ても特に驚きもせず、また挨拶を交わす事もなく通り過ぎていった。
以前レイミーが訪れた時の状態を俺が知る術はないが、やはり活気があるとは言えない感じだ。暗い、と言った方が正しいかも知れない。
「着いたよ。ここが村長の家だ」
そう言いつつ立ち止まったレイミーは、一件の民家を軽く見上げた。俺も彼女の動作に倣い、眼の前の建物を見上げてみる。
他の民家と同じ木造二階建ての造りだが、やはり村長の家と言うだけあって、周りの物と比べると若干大きい。家のすぐ横にある小さな庭園は手入れが行き届いていて、鮮やかな色合いの花が多く植えられている。
それらを眺めている俺を尻目に、レイミーは古めかしい造りの玄関の前に立つと、数回ドアをノックした。コンコンという、木製の物を叩いた時の音が響く。
「すみません。以前にも伺ったレイミー・リゼルブと言う者ですが。村長さん、いらっしゃいますか?」
丁寧な口調でレイミーが声を掛けると、微かに屋内から人の足音のようなものが聞こえてきた。すると、少し遅れて玄関の鍵が外れる音がして、外開きのドアが静かに開く。
そうして姿を現したのは、五十代半ばと見える小豆色の髪を生やした男性だった。やや白髪が混じった髪は綺麗に整えられていて、常に清潔感を保っている様子が窺える。
「お久しぶりです、村長さん。お元気でしたか?」
「おお、これはこれは。こちらこそお久しぶりです、レイミーさん。ええ、まぁ何とか元気にやってますよ。そちらもお変わりないようで。――おや? 今日はお連れの方が違うんですねぇ」
レイミーと話していた村長は、彼女の少し後ろに立っていた俺に気付いて不思議そうな顔をした。
初対面という緊張感から、気の利いた台詞を紡げずあたふたしている俺の代わりに、レイミーは苦笑しながら答えを返す。
「まぁ、色々と事情がありまして……。そうだ、紹介しておきますね。彼の名前はディーン。行方不明になったお師匠さんを捜して、旅をしているそうなんです」
「初めまして、ディーンです。よろしく」
にこやかな笑顔のレイミーに軽く肩を叩かれ、俺は一礼しつつ、定番と言える台詞で挨拶した。
すると村長の方も、これまた定番と言えそうな畏まった様子で、その顔に優しい微笑みを湛えつつ一礼する。
「これはこれは、どうも初めまして。私はこの村の村長をしております、ダンテと言う者です。さぁさぁ、こんな所で立ち話も何ですから、どうぞお入りください。温かい紅茶でもお入れしますよ」
そう言って手招きするダンテに促され、軽く会釈するレイミーの後に続いて、俺は家の中に足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
招き入れられたのは、玄関からすぐの所にある応接室のような部屋だった。入口に仕切りとなる扉はなく、部屋の中央には木製の丸テーブルを囲むようにして一人用のソファーが四つ置かれていて、足許の床には、高価な絵画を思わせる、細かい刺繍の入った絨毯が敷かれている。
窓から差し込む柔らかな陽の光を浴びながら、俺はソファーの一つに腰を下ろした。ふと視線を巡らせると、部屋の壁に飾られている銀色の額縁が眼に留まった。中に収められているのは、どうやらどこかの雪山を写した風景写真らしい。
と、それに見蕩れていた俺の耳に、横合いから優しげな声が届く。
「その写真は私の友人が撮影した物でしてね。確かこの大陸の北にあるどこかの山だったんですが、どこだったか忘れてしまったんですよ。全く、歳は取りたくないものですね」
ティーセット一式を持って現れたダンテは苦笑しながら、ソファーに座る俺とレイミーの前に、湯気の立つ紅茶が入った白いカップを置いた。そして自身も空いている席に座り、ニコリとした微笑みを俺達に向けてくる。
「ところで、今回はどういったご用件でしょう?」
「ああ、実はですね――」
ダンテに尋ねられたレイミーは、ここに来るまでに起きた事の経緯を、掻い摘んで説明し始めた。
彼女自身が同行者と逸れてしまった事。その途中で出会った俺も同じ状況である事。
そして、眼を覆いたくなるような凄惨な物を発見した事。
その間およそ五分ほど。俺は何度か紅茶を口に運びつつ、二人の会話を黙って聞いていた。
「――そうですか。この近くでそんな事が……」
レイミーが事情を話し終えると、ダンテはそう言って顔を曇らせた。恐らく彼も、辛そうに顔をしかめるレイミーを見て、どんな状況だったのかを察したのだろう。
尤もあんな凄惨な現場、直に見た者じゃないと、そのおぞましさを理解する事なんてできないだろうけど。
「ええ。ですから彼と相談して、この村の方に埋葬を手伝ってもらおうと思いまして。もちろん無理にとは言いません。アタシの眼から見ても、酷い有様でしたから……」
「……なるほど、事情はわかりました。そういう事でしたら、こちらとしても協力は惜しみません。私から村の若い者に説明して、手伝いに行かせるとしましょう。もちろん私も同行させてもらいますよ」
「ありがとうございます、村長さん」
レイミーはそう言って、申し訳なさそうに深く頭を下げた。
少々呆けていた俺は、彼女から数秒遅れる形で慌てて頭を下げる。何だか大人の対応ができていない自分を、我ながら情けなく思ってしまう。
内心で己の不甲斐無さに肩を落としていると、不意にダンテがこんな提案を持ち掛けてきた。
「ところでお二人とも。お連れの方を捜しに行かれるのでしたら、今日はこの村でお休みになられてはどうでしょう? この村に宿はありませんが、幸い使われていない小屋ならいくつかありますので」
「そんな、気を遣わないでください。前にも来たって言うレイミーはともかく、余所者の俺なんかがいたら、集落の人達に迷惑が掛かると思うんで……」
「心配には及びません。困っている旅人を無下に追い出そうなどと、誰がそのような真似できましょうか。それにこんな森の中で野宿などしようものなら、それこそ獣の餌食になりかねない。気遣う必要がないのはお互い様ですよ。もしかしたらお連れの方々も、その内ここを見つけて訪れるやも知れませんからね」
遠回しに断ろうとしている俺を、ダンテは矢継ぎ早に捲し立てる事で封殺しようとしているらしい。親切心は素直に有り難いと思うけど、ここまで頑なに勧められると正直やり辛いんだよなぁ……。
ニコリと微笑んでいるダンテには、どうやら引き下がるつもりがないようだ。隣にいるレイミーはと言えば、最初から泊めてもらうつもりだったのか、何も言わずに俺の顔を見つめている。
「あ……、じゃあ、お言葉に甘えて泊まらせてもらいます」
結局、先に折れたのは俺の方だった。
さっきから本当に、自分の対応が情けない感じがする。もっとミレーナに、戦闘技術以外の事も教わっておけばよかったかも知れないな。
なんて、そんな事を思った時だった。
「すんませ~ん。村長さんいらっしゃいますか~?」
妙に間延びした若い男の声が、さっき潜ったばかりの玄関の方から聞こえてきた。
するとその途端。今まさに紅茶の入ったカップを口に運ぼうとしていたレイミーの動きが、まるで石像にでもなってしまったかのようにピタリと止まる。
「あれ? この声……」
「ん、どうしたんだ?」
俺の問い掛けには答えず、レイミーはテーブルにカップを戻すと、無言でサッと立ち上がった。そして応対のため玄関に向かおうとしていたダンテを強引に追い抜かすと、まるで自分がこの家の家主だと言わんばかりに、素早い動作で玄関のドアを開けた。
「あ、村長さ――」
「どこ行ってたのよあんたはーーーーーーーッ!!」
問答無用。即断即決。
玄関先に立っていた胡桃色の髪の男が言葉を紡ぎ切る前に、レイミーが放った華麗な上段蹴りが、吸い込まれるかのように男の顔面に炸裂した。
「ほぶッ!!」
一体何事かと玄関に駆け付けた俺とダンテを尻目に、妙な奇声を発して後ろに倒れ込んだ男を見下ろして、レイミーは鬼のような形相で怒鳴る。
「毎度毎度何であんたは気付くといなくなってんのよ!? あんたはあれか!? 自分から迷子になろうとしてる大バカ野郎なのか!?」
「ふぇ……、ふぇいみー……!」
多分レイミーと言いたかったのであろう、格闘家のような格好の男は、上半身を起こして鼻の辺りを押さえている。
一方の俺とダンテは、眼の前で突然起きた傷害事件に、ただ呆然とするしかない。もしかしてこの男が、レイミーが逸れたと言っていた連れなんだろうか?
と、内心で首を傾げていた時だった。
「あーーっ! ディーン!」
「!」
聞き覚えのある声がして玄関の端に眼をやると、俺が逸れてしまったはずの黒髪の少女が、当たり前のようにそこに立っていた。
かなり驚いた様子でこっちを見ているリネは、しかし眼の前で起きた傷害事件を、全く気に留めていないらしい。
「よかったぁ~! こんなに早く合流できるとは思ってなかったよ~! ……でも、何で村長さんの家にいるの?」
「……さぁ、何でだろうな」
って言うか凄いなお前。この一連の出来事は完璧無視かよ?
妙な形での合流ではあったが、俺はリネが無事だった事に心底安堵した。
もちろんそんな事、顔にも言葉にも一切出さなかったが。
◆ ◆ ◆
リネと共に現れた青年の名はジグラン・グラニードと言い、古くからの付き合いであるレイミーと一緒に、伝説級の代物を探して大陸各地を回っているそうだ。しかも今まで数多くの歴史的発見を成し遂げている事から、貴族様方に度々賞されていて、二人共その筋では結構名の知れた有名人らしい。
……のだが、俺もリネもそっち方面の知識はさっぱりだったので、自分達の事を自慢げに話す二人に対して、微妙な反応を返す事しかできなかった。
「でもホントよかったよねぇ。こうやってすぐに合流できたし、泊めてもらえる所も見つかったし。偶然だったとはいえ、引き合わせてくれたジグランとレイミーに感謝しなくちゃ」
「……お前はこの状況を見て何とも思わねぇのかよ?」
「えっ? 何が?」
「……」
すっとぼけた顔をして首を傾げるリネを見て、俺は盛大に溜め息をついた。どうやら本当に、事の重大さが理解できていないらしい。
俺達は今、ダンテに宛がわれた村の一角にある小屋の中にいる。木造一階建ての、一部屋しかない小屋。玄関開けたらすぐリビング、みたいな感じの間取りだ。
そんな場所に、年頃の男女二人が寝泊まりする羽目になったというこの状況。
こういう場合、普通女の方が異議を申し立てて騒ぎになるはずなんだが、どういう訳か眼の前の少女は、意に介した様子が全くない。今も一つしかないベッドの上に座って、なぜか楽しそうに身体を揺らしている。
「……レイミーと小屋変わってもらおうかな」
「えーっ! 何で?」
ボソッと呟いたつもりだったのだが、リネは不満そうな顔をして頬をプクッと膨らませる。ダメだ、やっぱこいつ全然わかってねぇ……。
とりあえずリネの事は放っておこうと思い、俺は小屋の窓から、少し離れた位置にある別の小屋に視線を向けた。
あの小屋に宛がわれたレイミーとジグランは、ある作業を行なうため、現在村を出払っている。
ある作業とはつまり、俺とレイミーが発見した死体の後片付けだ。
本当は発見者である俺がその作業を手伝うつもりでいたのだが、まだ俺とまともに会話していないはずのジグランがレイミーから経緯を聞き出し、「オレが代わりに行ってやる」と言って、代役を申し出たのだ。
そして、ダンテと数人の村人を加えた集団は、レイミーの案内で、あの死体があった場所まで行く事になった。
斯くして、何だかよくわからない内に除け者にされた俺は、こうしてリネと共に小屋の中にいるという訳だ。
「……ディーンが見つけたその死体って、一体どこの誰なんだろうね?」
ぼんやりと考え込んでいた俺は、少し沈んだリネの声で我に返った。振り向くと、彼女は不安そうな顔で床を見つめている。
「さぁな。どこの誰にしろ、あんな状態になってるなんてただ事じゃない。多分この森の『魔女伝説』とやらが、それに関わってるんだと思うけどな」
「……でも本当に、ディーンが会ったっていう『風守り』の女の子が犯人なのかな?」
リネが口にした言葉からは、疑問というより、むしろ違っていてほしいという願いのようなものが感じられる。どうやら彼女は、俺とはまた違った観点から『風守り』の少女、シャルミナの事を気にしているようだ。
「どういう意味だ?」
「だって信じられないんだもん。いくら遺跡を守るために人を遠ざけたかったからって、旅人を襲って殺すなんて……」
「……」
確かに、シャルミナと何度も顔を合わせているというレイミーは言っていた。あの女は、殺気は凄いが本気で相手を殺そうとしていない、と。
考えてみれば、初めてシャルミナに遭遇した時、彼女は一度たりとも俺自身に攻撃を仕掛ける事はなかった。その気になれば、手傷の一つでも負わせられたにも拘らず、だ。あの行為自体が威嚇だったとするならば、レイミーの見解にも説明がつく。
だがそれなら、集落へ来る途中で発見したあの死体は、誰の仕業によるものなのか?
『ファレスタウン』で聞いた噂と、俺が実際に会ったシャルミナ。一体どちらが本当の彼女なんだろう?
窓辺に背を預けて考え込んでいた俺は、その時ふと、視界の端に気になる物を見つけた。
四角い間取りの室内。俺が立っている窓辺から、丁度対角線上の位置に置かれている、背の低い木製の本棚。そこに収められている十数冊の中の一冊。紅い背表紙に、金色の文字で書かれているある言葉が、俺の視線を釘付けにする。
「『ウェアウルフ』……?」
俺は窓辺から離れ、本棚に近寄ってその紅い本を取り出した。分厚い辞書のような本の表紙には、背表紙と同じ金色の文字で『werewolf』と書かれている。
「『人狼』、って意味だよな?」
本には著者の名前らしきものが書かれていない。とりあえず俺は本を開き、目次を飛ばして一頁目を声に出して読んでみた。
「『人狼』とは、その名の通り狼に変身する能力を持った人間の事である。『魔術戦争』の時代からこの大陸に存在した、人獣の一族であると言われているが、実際にその姿を見た者はいない。一説には、普通の人間が『魔術』によって後天的に狼への変身能力を得たのが、『人狼』の起源であるとも言われている――って、何なんだこの本?」
俺は一旦、文面から眼を離した。『人狼』……なんてものがこの世界に、と言うかこの大陸に存在してるってのか? それこそ、この森の『魔女伝説』ぐらいに胡散臭い話だ。
「ディーン、何読んでるの?」
頁をペラペラと捲りながら顔をしかめていると、横合いからリネが本を覗き込んできた。黒真珠のような彼女の双眸が、記述されている文字の羅列を追っていく。
そういえば……と、俺は改めてリネの顔を見た。
彼女もこの大陸に存在していた、『ある一族』の生き残りで、『特殊な力』を持っている人間だ。そう言った意味では、もしかしたら彼女の方が、こういう話に詳しいかも知れない。
俺は試しにと思って、とある頁の挿絵を興味深げに見つめているリネに問うてみた。
「なぁ、リネ。『人狼』って言う名前に心当たりねぇか?」
「『人狼』? さぁ……そんな名前、今初めて聞いたよ」
「そっか……」
やはり彼女でも知らないか、と肩を落としそうになった時だった。不意にリネが、何かを思い出したような顔付きになる。
「……あ、でも待って。確かあたしが住んでた『ブラウズナー渓谷』の周辺地域で、獣に変身する能力を持った一族がいたって噂なら、聞いた事あったかも。狼かどうかまではわかんないけど」
「! ホントか!?」
「う、うん……。でもあたしが聞いたのは単なる噂だから、本当かどうかなんてわかんないよ?」
「それでいいんだよ。狼だろうが何だろうが、要はそういう噂になるような一族がいたって事が重要なんだから」
「? どういう事?」
訝しげな顔をするリネを尻目に、俺はもう一度紅い本に視線を落とした。
もしかしたら、と思う。
俺が森で見つけたあの腐敗した死体は、まるで獣の爪や牙のような鋭利なもので引き裂かれた状態だった。これがもし、その『人狼』の仕業だったとしたら……。
頭の中でずっと引っ掛かっていた疑問が、少しずつ解消されていく。
この広大な森を舞台とした、『魔女伝説』が絡む不可解な事件。その真実の一端が、俺にはようやく掴めた気がする。
「間違いない。この森には『魔女』の他に、別の何かが潜んでるんだ!」
俺は素早く頁を捲り、紅い本から必要としている情報をいくつか引き出した。そして本を元の場所へと戻しつつ、すぐ隣で訝しげな表情をしているリネに声を掛ける。
「リネ」
「は、はい!」
呼び掛けたのが突然過ぎたからか、リネは驚いたように声を張り上げ、かなり畏まった感じで返事をした。
「お前に頼みたい事があるんだ」
「えっ?」
俺の言葉を聞いた途端、リネは少々戸惑ったような表情になった。
別にそこまで驚かなくてもいいだろと思ったが、よくよく考えてみて合点がいった。
……ああ、そうか。そういえば、俺の方から彼女に何かを頼むのは、二人で旅をするようになってから、これが初めての事だったかも知れない。だからこそ、リネからすれば当然の反応なんだろう。
そんな彼女の様子を、僅かにだが微笑ましく思ってしまった俺は、無意識に笑みを溢してしまう。
と、その時。
突然、巨大な何かが崩れ落ちるかのような轟音が響き渡り、小屋の中にいる俺達の耳にまで聞こえてきた。
「きゃっ……! 何、今の音?」
身を竦ませて硬直するリネを尻目に、俺は音源を確かめるため、すぐさま小屋の外へと飛び出した。
辺りの風景に眼を凝らすと、東の方角にあたる森の一角から、高々と土煙が舞い上がっているのが見えた。
まさか、という嫌な予感が脳裏を過る。
「ねぇ、ディーン。あっちの方角って確か……」
いつの間にか横合いに立っていたリネが、不安そうな面持ちで言葉を濁す。
彼女が何を言いたいのかは、簡単にわかった。俺も、全く同じ事を考えていたからだ。
「ああ。間違いなく、レイミー達が向かった方角だ!」
叫ぶと同時に、俺は一目散に駆け出していた。
急がなきゃいけない。多分あそこには『彼女』がいる。
『風守り』の一族の少女、シャルミナ・ファルメが!